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幼児編

 私たちの家である3001号室の前に着くと、鈴はポケットから鍵を取り出して、ドアを開けた。そんなさり気ない動作だが、私には久しぶりで、目新しい。私はこの時まで、彼がノブに手を掛けて開かなかった扉を見た事がなかったし、彼が鍵を持っていた事すら知らなかった。
 そんな事を知る由も無い跡部は、疑いも無く家に入ると、むーちゃんを引き連れて靴のまま上がろうとした。
「ちょと待ってくれ」
 すでに跡部は両足を付き、むーちゃんは片足をかけていた。どちらも玄関マットの上だ。
「靴を脱いであがってくれ」
 鈴がそう言うと、二人はちゃんと靴を脱ぎ始める。私もいつも通り、脱いで上がる。マットは、一般の家庭では洗えば済むものだし、鈴の念力をもってすれば一瞬の内に綺麗になる。
 廊下を真っ直ぐ歩いて行き、リビングに向かった。ソファに座っていてくれ、と鈴は言い、私たちは三人仲良く腰掛ける事にする。待っていると、鈴はコップにオレンジジュースを入れて持ってきて、私たちの前のテーブルに一つ一つ置いた。
「召し上がれ」
「ありがとうございます、いただきます」
 皆でコップを持って、ストローに口付ける。跡部は少し飲むと置き、むーちゃんは半分飲んで置いた。私は丁度喉が渇いていたので、全て飲み干す。
 いつ話を切り出す気なのかと思っていると、鈴は私たちの右手横の、一人がけのソファに腰を掛けた。
「跡部君」
「はい」
「ちょっと、遊ぶ前にお話してもいいかな」
「はい、かまいません」
 とうとうか。私はふと、ジュースを飲み干してしまった事を後悔する。
「跡部君と、隣の、樺地君の事は、いつも凜から聞いているよ。凛と仲良くしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
「で、今日の事なんだが」
 鈴がそう切り出し、私は一人はらはらしている。
「君は、今日ここに来る事を、家の人にちゃんと言っていたのかな」
「はい」
「それはいつ?」
「先ほど、うんてんしゅに」
 ここで、鈴は腕を組み、考える素振りをする。
「私には帰りだったね」
「はあ」
「凛には約束してくれていたのかもしれないけど、私は帰り、迎えに行くまで知らなかったよ」
「そうですか」
 当たり前だ。跡部は今日決めたのだ。
「君は、私が家の準備が出来てないと言った時、かまわないと言ったね」
「はい」
「でも私は、今日君たちが来てくれる事を知っていたら、準備をしたかったよ」
「はあ」
「それに、今日はたまたま、家を空ける用事が無かったからいいが、君は、今日私の都合が悪かったらどうしていたつもりなんだい?」
 跡部は間を置いて言う。
「りんには鍵を持たせていないんですか」
「持たせているが」
 それは初耳だ。持たされた覚えは無い。
「なら、あなたがいなくても遊びに来ていると思います」
 鈴は黙った。それを良い事に、跡部は話し出す。
「僕も、出来ればあなたと話したかったんです。僕はりんと食事に行きたいと思っているのですが、りんは給食費を払っているからと、さそいにのってくれません。食事代はこちらで持ちますから、給食費を払わないで、ぼくと食事させてくれませんか」
 失言だった。先ほどの受け答えだけでも十分な失言なのに、跡部は続けて失言した。
「それは出来ないな」
「何故ですか?りんにも聞かないんですか?」
「凛には話をつけてある。君の言った通り、うちはうちで、給食費を払ってるんだ。君に文句を言われる筋合いは無いよ」
「食事代はこちらで持ちます」
「そう言った事は、家の人に話しているのかな」
「僕にもあるていどおこづかいがあるので、はんいをこえなければ何も言われません」
 そうだったのか。
「君の家ではそうなのか。なら、君の家に関しては問題が無いんだな」
「そうです」
「ならば君は、私の家については、考えてくれているのかい」
 跡部はきょとんとする。
「はあ」
「私は物書きをしていてね、私は大抵、家にいるんだ」
「では、大丈夫じゃないですか」
「私が家にいる、という点ではね。私は家で、自分の机で仕事出来る、物書きだ。ほとんどの仕事を家でしている。君は、自分がその邪魔になるかもしれない事を、考えていてくれたかな」
 跡部は黙った。
「次に二つ目となるが、君の家に問題は無いと言ったね」
「はい」
 先ほどまでと比べ、弱弱しく跡部は返事をする。
「それは、本当にそうかな」
 横目で見ると、跡部はその表情を強張らせていた。
「君の家には使用人がいるらしいね」
「はい」
「今回、君がここに来る事になって、仕事の予定が変わってしまった人も、多いんじゃないかな」
 鈴は、跡部の返事を待った。跡部はしばらく考えると答える。
「そうかもしれません」
 その受け答えに、鈴は微笑む。
「君が乗せてくれた車は元々、君の家に向かうためだったろうね。家では君を迎える準備をしてくれていたかもしれないが、それも、どう変わったかな」
 鈴は続けて話す。
「三つ目、これで最後になるんだが、私はね、何も君や凜に意地悪するために、給食費を払っているわけじゃない。君の家の事を考えて、それが最も良い事だと思うからそうしている」
「どういうことですか」
 鈴はあくまで、口元を緩ませながら言う。
「君は、自分のお小遣いだから、範囲を超えなければ良いと言った。しかし、そのお金は、元は、君の親が稼いで手に入れたお金だ。君の家のために、親が頑張って働いて得たお金だと思う。そんなお金を私の娘の食事代に当てるなんて、申し訳が立たない」
「僕の親は、そんなことに文句を言いません」
「そう言ってくれてありがたいが、これは、私のプライドだ。君の家からお金を貰う義理も無い、というね。私は私が稼いだお金で、娘を育てる」
 そこまで話すと、鈴は息を吐いた。
「長く話して済まなかったね。凛の部屋に案内する。帰るときは言ってくれ、電話を貸す」
 鈴は私の望んだ通りに演じきり、跡部を諭した。
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