幼児編
跡部は私の予想通り、絶対に行くと言って怒り出した。それが分かっていて返事をした結果だ、当然だ。私にも、こうなってしまって、自分がどうしてそんな事を口走ってしまったのか分からない。
こちらも言い出してしまった手前、頭を捻って、電話して聞いてみる事を提案するが、怒っている子供相手には通用しない。
「帰りに直行だぞ」
彼はそう宣言する事で気が治まったのか、さあままごとだ、と準備をし出す。彼の傍にいたむーちゃんは、跡部の切り替えの速さに付いていけて無い様だ。その様子からして、二人で話して決めた事では無いらしい。私の家に行くという事を考え出したのは跡部だけのようで、それはつまり、跡部の怒りが治まらない限り、先ほどの宣言は打ち消されないという事だ。
むーちゃんが跡部に意見するところを見た事はない。それがあれば少しは跡部の意志も揺らいだかもしれないが、見込めなかった。そもそも、三歳にも満たない子にそれを求めるのは無謀だ。
私の家に来るという事に関しては、全く文句は無い。幼稚舎以外では彼らと会って遊ぶ事もなかったが、それが今から変わったからって、不都合は無い。しかしそれは、私の家の事情であって、彼の家の事情はそうでない筈だ。
そして私は、彼の生活をある程度把握してしまっている。すると、彼は、寄り道もせず帰宅し、昼寝でもなんでもして、勉強する時間に備えなきゃいけないのでは、と思案してしまうのだ。休息の大切さは、私が身をもって知っているし、私の体が他人より極端だとしても、そうした習慣を破る事は、結局彼を困らせるしかない。
鈴は私を迎えに来る。鈴の行動に問題は無いだろう。未来を見通せる彼に賭ける事にした。
「こんにちは」
鈴が来ると、私より先に跡部が声を掛ける。
「こんにちは、えーと」
「僕は、いつもりんにおせわになっている跡部景吾です」
「跡部君か、そうかそうか。随分丁寧な挨拶だな、よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
淡白な受け答えで無い鈴を目の当たりにして、私は不覚にも驚いていた。しかし、鈴からすれば父親を演じている姿なのだろう。
「凛、帰るぞ」
「あの」
跡部は私の声を遮って言った。
「今日、りんと遊ぶ約束をしていたのですが」
これは、あの教室遊びから昼食の間までに、考えていた言葉なのだろうか。
「そうなのか?」
嘘を見抜ける筈の鈴は、自然な受け答えで私の顔を見た。私を抱き上げた。いきなりの事でビックリしたが、これで鈴と話せる。
「約束はしてないけど、家に呼ぶ事にするよ」
「御意」
鈴は私を抱えたまま、身を低くして跡部の目線と近くした。
「跡部君、家の準備が出来ていないが、それでも来るかな?」
「はい、かまいません」
「そうか」
鈴は立ち上がると言う。
「では行こう」
幼稚舎を出る途中、むーちゃんも引き連れて外に出た。すると、跡部が口を開く。
「僕の車が止まっています。少しはなしをしてくるので、まっていて下さい」
そういって、跡部は私たちから離れて行った。その先には確かに、黒光りの車がある。
「凛、遊ぼうと考えてはいないだろう」
「まあね」
「どうして欲しい」
「鈴には、わかるんじゃない?」
「間違った事はしたくない。言って欲しい」
「そう」
そうして鈴に言った言葉は、私の善意からだったのか。跡部の怒りを引き出してしまった、大人気ない私には分からない。
跡部が戻ってきた。
「うんてんしゅが送ると言ってくれています。ぜひのってください」
「歩いて行ける距離なんだがな」
「かまいませんよ」
私たちは跡部の勧めによって車に乗り込む。中は私が見慣れていたような車の座席ではなく、運転席とは別に、車内の側面から後部まで、コの字型に座席が敷き詰められていて、座面は皮だ。私にとって皮の座面といえば、昔の家のソファを思い出す。しかしそれは、長年使い込んで、皮が剥がれてボロボロになり、捨てられてしまったものだ。
鈴は場所を運転手に伝えると、私たちから少し離れて座った。子供達への配慮だろう。この時、跡部は自分の意見が通ったからか、上機嫌だった。昼の怒りはどこへやら、私ともよく口を利いた。
着くと、跡部は何やら感動している。
「これが君の家かい?大きいね!」
私の勘が間違っていなければ、その意見は外れている。
「マンションだからね。私の家は最上階の一室だよ」
「マンション?いっしつ?」
跡部は分からない様子だった。勘が外れていなかったのが悔やまれる。多分、彼にとっての家は、一つの建物につき一人の主がいる事に違いない。この頃の跡部だ、知識はあったとしても世間を知っていなさそうだ。彼はお金持ちの家の坊ちゃんなのだ。
彼の態度から理解していない事がわかっていても、ここで説明し出すのは急で、百聞は一見にしかずとも言うので、何事も無くエントランスホールに入って行く。意外だったが、跡部の使用人は一人も付いて来なかった。跡部が来るなと言ったのかもしれないが、雇い主の子供を心配しないのだろうか。子供の言う事でも聞くようにしているのか。跡部は好き勝手に出来るようだ。
エレベーターに乗り込むと、鈴は三十の数字を押し、閉の字を押す。ドアが閉まり、エレベーターが動き出す。
「家にもエレベーターはあるけど、ここは何階建てなんだい」
「三十階建てだよ」
「へえ!すごいな、僕のうちは二階建てなんだ」
やはり、勘違いしているらしい。三十階建ての最上階の一室と、二階建ての屋敷一つとでは、比べ物にもならないだろうに。
エレベーターから降りると、跡部は走り出した。
「ここの部屋、入ってみてもいいかい?」
そう言って指差す部屋は、私と何ら関係無い部屋だ。
「悪いが、そこは私の家じゃないんでね」
鈴は簡潔にそう答えた。跡部は首を捻って、こちらまで戻って来る。
こちらも言い出してしまった手前、頭を捻って、電話して聞いてみる事を提案するが、怒っている子供相手には通用しない。
「帰りに直行だぞ」
彼はそう宣言する事で気が治まったのか、さあままごとだ、と準備をし出す。彼の傍にいたむーちゃんは、跡部の切り替えの速さに付いていけて無い様だ。その様子からして、二人で話して決めた事では無いらしい。私の家に行くという事を考え出したのは跡部だけのようで、それはつまり、跡部の怒りが治まらない限り、先ほどの宣言は打ち消されないという事だ。
むーちゃんが跡部に意見するところを見た事はない。それがあれば少しは跡部の意志も揺らいだかもしれないが、見込めなかった。そもそも、三歳にも満たない子にそれを求めるのは無謀だ。
私の家に来るという事に関しては、全く文句は無い。幼稚舎以外では彼らと会って遊ぶ事もなかったが、それが今から変わったからって、不都合は無い。しかしそれは、私の家の事情であって、彼の家の事情はそうでない筈だ。
そして私は、彼の生活をある程度把握してしまっている。すると、彼は、寄り道もせず帰宅し、昼寝でもなんでもして、勉強する時間に備えなきゃいけないのでは、と思案してしまうのだ。休息の大切さは、私が身をもって知っているし、私の体が他人より極端だとしても、そうした習慣を破る事は、結局彼を困らせるしかない。
鈴は私を迎えに来る。鈴の行動に問題は無いだろう。未来を見通せる彼に賭ける事にした。
「こんにちは」
鈴が来ると、私より先に跡部が声を掛ける。
「こんにちは、えーと」
「僕は、いつもりんにおせわになっている跡部景吾です」
「跡部君か、そうかそうか。随分丁寧な挨拶だな、よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
淡白な受け答えで無い鈴を目の当たりにして、私は不覚にも驚いていた。しかし、鈴からすれば父親を演じている姿なのだろう。
「凛、帰るぞ」
「あの」
跡部は私の声を遮って言った。
「今日、りんと遊ぶ約束をしていたのですが」
これは、あの教室遊びから昼食の間までに、考えていた言葉なのだろうか。
「そうなのか?」
嘘を見抜ける筈の鈴は、自然な受け答えで私の顔を見た。私を抱き上げた。いきなりの事でビックリしたが、これで鈴と話せる。
「約束はしてないけど、家に呼ぶ事にするよ」
「御意」
鈴は私を抱えたまま、身を低くして跡部の目線と近くした。
「跡部君、家の準備が出来ていないが、それでも来るかな?」
「はい、かまいません」
「そうか」
鈴は立ち上がると言う。
「では行こう」
幼稚舎を出る途中、むーちゃんも引き連れて外に出た。すると、跡部が口を開く。
「僕の車が止まっています。少しはなしをしてくるので、まっていて下さい」
そういって、跡部は私たちから離れて行った。その先には確かに、黒光りの車がある。
「凛、遊ぼうと考えてはいないだろう」
「まあね」
「どうして欲しい」
「鈴には、わかるんじゃない?」
「間違った事はしたくない。言って欲しい」
「そう」
そうして鈴に言った言葉は、私の善意からだったのか。跡部の怒りを引き出してしまった、大人気ない私には分からない。
跡部が戻ってきた。
「うんてんしゅが送ると言ってくれています。ぜひのってください」
「歩いて行ける距離なんだがな」
「かまいませんよ」
私たちは跡部の勧めによって車に乗り込む。中は私が見慣れていたような車の座席ではなく、運転席とは別に、車内の側面から後部まで、コの字型に座席が敷き詰められていて、座面は皮だ。私にとって皮の座面といえば、昔の家のソファを思い出す。しかしそれは、長年使い込んで、皮が剥がれてボロボロになり、捨てられてしまったものだ。
鈴は場所を運転手に伝えると、私たちから少し離れて座った。子供達への配慮だろう。この時、跡部は自分の意見が通ったからか、上機嫌だった。昼の怒りはどこへやら、私ともよく口を利いた。
着くと、跡部は何やら感動している。
「これが君の家かい?大きいね!」
私の勘が間違っていなければ、その意見は外れている。
「マンションだからね。私の家は最上階の一室だよ」
「マンション?いっしつ?」
跡部は分からない様子だった。勘が外れていなかったのが悔やまれる。多分、彼にとっての家は、一つの建物につき一人の主がいる事に違いない。この頃の跡部だ、知識はあったとしても世間を知っていなさそうだ。彼はお金持ちの家の坊ちゃんなのだ。
彼の態度から理解していない事がわかっていても、ここで説明し出すのは急で、百聞は一見にしかずとも言うので、何事も無くエントランスホールに入って行く。意外だったが、跡部の使用人は一人も付いて来なかった。跡部が来るなと言ったのかもしれないが、雇い主の子供を心配しないのだろうか。子供の言う事でも聞くようにしているのか。跡部は好き勝手に出来るようだ。
エレベーターに乗り込むと、鈴は三十の数字を押し、閉の字を押す。ドアが閉まり、エレベーターが動き出す。
「家にもエレベーターはあるけど、ここは何階建てなんだい」
「三十階建てだよ」
「へえ!すごいな、僕のうちは二階建てなんだ」
やはり、勘違いしているらしい。三十階建ての最上階の一室と、二階建ての屋敷一つとでは、比べ物にもならないだろうに。
エレベーターから降りると、跡部は走り出した。
「ここの部屋、入ってみてもいいかい?」
そう言って指差す部屋は、私と何ら関係無い部屋だ。
「悪いが、そこは私の家じゃないんでね」
鈴は簡潔にそう答えた。跡部は首を捻って、こちらまで戻って来る。