幼児編
次の日の歯科検診は何事も無く終わり、来週にあった身体測定も、鈴はちゃんと来てくれて問題なく終わった。目ぼしい事といえば、跡部は親ではなく使用人が来ていた事だろうか。
あれから幼稚舎では、一週間のお絵かきもそこそこに、自由時間は跡部たちと遊ぶようになった。彼らが今まで何をして遊んでいるのかと思ったら、全てごっこ遊びだった。おままごと、レストランごっこはまだいいとして、執事ごっこや社長ごっこまであった。
執事ごっこでは、朝に跡部を起こす事から始まり、身支度を手伝ってもらいながら整える真似をして、朝食に向かう真似をする。今日は何処どこの何々の何々風のサンドウィッチです、とむーちゃんが述べて、跡部は食べる真似をし始める。今日の幼稚舎では何の予定があるのか、また、幼稚舎以外では何の予定があるかを聞くと、幼稚舎では変わった事は無い、二時頃に迎えが来ます、それから家に戻り四時まで樺地様と遊び、六時半まではお勉強、七時からはお母様との夕食です、とむーちゃんが答えるのだ。そして、跡部は食べ終えて口を拭く真似をし終わると、車に乗りに行く素振りをして、むーちゃんと一緒に乗り込む振りをする。そしてまた降りる振りをして、いってらっしゃいませ、とむーちゃんが頭を下げ、跡部は少し歩いて戻ってくる。むーちゃんはすかさずお迎えに上がりましたといい、再び一緒に乗り込む振りをする。そして車から出るとそこから帰宅した事になり、跡部が予定の変更が無いかを尋ね、変更が無いという旨をむーちゃんが答える。それが、執事ごっこでの一日の終わりだ。
社長ごっこでは、今日の予定は、と秘書役のむーちゃんに話すことから始まり、午後の一時に会議があります。とむーちゃんが答える。こちらは執事ごっこよりは曖昧で、資料は、と跡部が言い出したり、紙に何かを書き込む真似をしたり、これを何とかの業務に渡しておけとむーちゃんに命令したり、とちぐはぐだ。会議、と言っていたのは言うだけで、そこまで演じて見せたりはしない。
何でごっこ遊びだけだったのかといえば、本当に彼らは二人きりで遊んでいたのだと思う。それに、私の前で一度やって見せたこれらのごっこ遊びは、彼らにとって当たり前のようだった。そして、今までこれらを熟してきたのかと思うと、私はますますむーちゃんに尊敬の念を抱いた。
で、私がそこに加わるのだが、女という事で、女の役を全て任される形になった。といっても、執事ごっこの時、私は大抵メイド役になるのだが、やっている事はむーちゃんと特に変わらない。社長ごっこの時、私は時々むーちゃんの代わりに、社員として呼ばれるぐらいだ。私が加わることで彼らの遊びに影響した事といえば、レストランごっこをあまりしなくなり、取引先の話が頻繁に加わるようになったり、たまに夕食の時間を演じるようになったり、ままごとが多くなった事だろうか。
「御社からとりよせている布のことだが、その糸はどこからとりよせていたかな」
「はい、私どもの作る布は中国にある私の会社から取り寄せているものでありまして、糸もまたそこで製造しています」
「そうか、ところで、その中国の会社ではいふくもあつかっているのかな」
「はい、衣服もあつかっております。日本向けにはタオルや靴下、パジャマなど、日用品が多いです」
「そうか、御社のせいぞうする布は安いのにひんしつはよい、これからはいふくもとりよせたいのだが、ひきうけてくれるか」
「そうですか、ありがとうございます。そのようにして下さい」
「では契約しよう」
といった具合に、話は結構無茶苦茶だ。こういった場合、私は取引先で、むーちゃんは秘書になる。話す言葉は全てアドリブだが、取引先の話の場合、文句を言われた事は無い。文句が多いのは家の中の話、執事ごっこやままごとの時だ。
「おかえりなさい」
「ちがうぞ!お母さまはそこでぼくの名前もよぶんだ」
「……おかえりなさい、跡、じゃなくて、け、景吾?」
「そこはさん付けだぞ」
「おかえりなさいけいごさん」
「ただいま。久しぶりに会えてうれしいです」
「話していてもなんだから……」
「そこは『私も』だぞ」
「私も、会えて嬉しいわ。話していてもなんだから、食べましょう」
「はいお母さま」
最初は「お母さま」の言葉遣いから指導された。この間、むーちゃんは執事役だ。
ままごとでは、
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
そこで最初は頬にキスをされそうになったが、私がしつこく断りを入れたので、無くなった。
「景吾、元気でがんばってるか」
「はい」
と子供役のむーちゃんが答える。大抵その返事は「はい」だ。
「さて、久しぶりに家族で食事だ」
と跡部が言えば、皆で用意していた椅子に座る。
「りん」
「え?」
「ここでは『何日ぶりかしら』だぞ」
「ああ、ごめん。……何日ぶりかしら、三人で食事なんて」
「すまないな」
「いえ、お仕事お忙しいのはわかっています……」
「その後は『こうしてたまに夕食をご一緒出来るだけでも十分です』だぞ」
「お仕事お忙しいのは分かっています。こうしてたまに夕食をご一緒出来るだけでも十分です」
「そう言ってくれるか」
「ええ」
と、夫婦の会話が中心になっていて、たまにむーちゃんが答えるぐらいだ。これらのごっこ遊びは筋が決まっていて、会話は少し変わっても、殆ど同じ事の繰り返しだった。
こうしたごっこ遊びを通して、跡部の事が分かってきた。家が立派な屋敷で、使用人が沢山いる事、家庭教師がいる事、仕事で父親とはあまり会えない事、母親も家を留守にしがちである事。私がままごとで「何日ぶり」や「久しぶり」といった言葉を抜かすたび、跡部には叱られた。初めの頃はそんな跡部を憂いでいたが、当の本人はまったく気にしていない様で、そもそも気にしていたら細かく私やむーちゃんに演技指導をしないだろう。それでも、私に母親役を演じさせる辺り、やはり寂しいのだろうか。
そうして知った全ては意外ではなかった。
「そういえば跡部って、幼稚舎を出たらイギリスに行くんだっけ」
と鈴に尋ねた事がある。
「ああ」
「むーちゃんも?」
「ああ」
「あの二人って、家族での繋がりでもあるの?」
「ああ」
「なんで?」
「跡部の家の祖父と樺地の家の祖父は二人で会社を起業し、ひょんな事から樺地の家の祖父は体に軽い障害を持ち、跡部の家の祖父は最終的に自分の家の使用人として雇った。彼らの息子同士は小さい頃から面識があり、仲も良かった。二人は跡部が社長を務める会社へ共に入り、跡部の息子はその優秀さにより異例の速さで出世をしたが、樺地の息子は順調に出世をしていった。今では上司と部下の間柄だが、彼らは他の部下より比較的共に行動する事が多い。」
話は長いが大まかな内容で、気になる事は多々あったが、私の知りたい事は全て言ってくれた。
「つまり、二代に亘る家族ぐるみのお付き合いで、跡部とむーちゃんも二代目と同じようになった訳ね」
「ああ」
そしてこのまま行けば、三代に亘る関わりになる事は必須だろう。これらもまた、細かい諸事情はともかくとして、意外ではない。
一緒に遊ぶようになってから、跡部は教室遊びの時にも私に話しかけるようになった。
「君ってあたまがいいのかい?わるいのかい?」
と、とある一日、跡部はいつもと変わらず素直だ。
「良くも悪くも無いと思いたいけど」
「なんだそれ」
私たちの手元には、完成されたあいうえお表が二枚ある。先生は教室の前で、ホワイトボードに「か」の字を書き始めていた。「こくご」や「さんすう」の時間は、頭を使わないただの書き写しの時間と言って、差し支え無い。学習する事は小学一年程度で、数分あれば出来る。それは英才教育を受けている跡部も同じだったが、他の子は決してそうでは無い。
「ぼくは、りんはあたまいいと思うぞ」
「ありがとう」
「そっけないぞ」
相手が相手、とても素直な奴なので、気兼ねない返事が多くなった。
「それにしても、りん、今日もぼくのさそいをことわる気かい」
「うん」
「いっしょにごはんを食べたいっていうだけなのに、君はいがいと頑固だな」
跡部は口を尖らせて言う。
跡部は私の思っていた通り、昼食は外で取っているらしい。予想するところ、高級レストランなのだろう。ここ最近、それにむーちゃんは毎回付き合わされていて、跡部と遊ぶようになってから私も誘われるようになった。
「何回も言ってるけど、うちはうちで給食代払って通ってるから、給食食べなかったら損なの」
これは一種の嘘だが、建前上そうなっているので、私にはその通り行動する必要がある。
「そんなことどうでもいいじゃないか」
「それも聞き飽きた」
「はらわなければいいじゃないか」
「もう払っちゃてるし」
「前の月だって、そう言ってたじゃないか」
「言ってたね。きっと来月も払うよ」
彼此一ヶ月程、彼に食事を誘われている。このしつこさは、そのぐらい私を慕ってくれているという事だろう。それは確かにとても嬉しくて、光栄な事だ。
「何で払うんだい」
「お父さんが払ってくれてるんだよ」
彼の誘いを断る事というのは、私が鈴をそう呼ぶようなもの。私は跡部に、私という人間を提示しているに過ぎない。
もしここで私が跡部の誘いを受け入れてしまえば、その先、私は怠惰からそれを断る事をしなくなるだろう。そして私が彼と「お友達」でいる間、ずっと彼の家に私の昼食代を払わせるのかもしれない。それは私ではなかった。だからといって、彼の家に奢らせずに済むとなっても、跡部の通うような店に足を運ぶようでは、もはや私では無い。そもそも、本来あった私の立場からすれば、いくら交友のためとはいえ、必要以上の出費なんてもってのほかなのだ。
跡部はそれきり黙ってしまった。私を放っておいて、一人考え始めたようだ。こうなってはむーちゃんが話しかけても答えない。それから私は教室遊び中、紙の裏に落書きをして、提出する際には消しゴムで消しておいた。教室遊びが終わると、跡部は身支度を整えて、挨拶を交わす程度に教室を出て行った。
食事からむーちゃんと帰ってくると、考えはもう付いたのか、笑みを浮かべてこう言った。
「りん、今日あそびに行ってもいいかい?」
食事の誘いは何回もあった。しかし、そういった頼みは今まで一度も無かったので、私は気の抜けた返事をする。
「どうなんだい」
「うーんと、親に聞いてみないと分かんないよ」
私に問題が無ければ、鈴にも無い。それでも私には、そう言うのが妥当だった。
「そうかい。君って、親に決めてもらわないといけないんだな」
素直な彼は、私に対していつでも好意的に笑ってくれていたが、今回ばかりは、その表情が苦々しい。彼が、食事の誘いの延長線上にそう言っている事が、私には分かった。
「そうだよ。親に決めてもらわなきゃ駄目だよ」
私が私であるために、私は彼の怒りを買った。
あれから幼稚舎では、一週間のお絵かきもそこそこに、自由時間は跡部たちと遊ぶようになった。彼らが今まで何をして遊んでいるのかと思ったら、全てごっこ遊びだった。おままごと、レストランごっこはまだいいとして、執事ごっこや社長ごっこまであった。
執事ごっこでは、朝に跡部を起こす事から始まり、身支度を手伝ってもらいながら整える真似をして、朝食に向かう真似をする。今日は何処どこの何々の何々風のサンドウィッチです、とむーちゃんが述べて、跡部は食べる真似をし始める。今日の幼稚舎では何の予定があるのか、また、幼稚舎以外では何の予定があるかを聞くと、幼稚舎では変わった事は無い、二時頃に迎えが来ます、それから家に戻り四時まで樺地様と遊び、六時半まではお勉強、七時からはお母様との夕食です、とむーちゃんが答えるのだ。そして、跡部は食べ終えて口を拭く真似をし終わると、車に乗りに行く素振りをして、むーちゃんと一緒に乗り込む振りをする。そしてまた降りる振りをして、いってらっしゃいませ、とむーちゃんが頭を下げ、跡部は少し歩いて戻ってくる。むーちゃんはすかさずお迎えに上がりましたといい、再び一緒に乗り込む振りをする。そして車から出るとそこから帰宅した事になり、跡部が予定の変更が無いかを尋ね、変更が無いという旨をむーちゃんが答える。それが、執事ごっこでの一日の終わりだ。
社長ごっこでは、今日の予定は、と秘書役のむーちゃんに話すことから始まり、午後の一時に会議があります。とむーちゃんが答える。こちらは執事ごっこよりは曖昧で、資料は、と跡部が言い出したり、紙に何かを書き込む真似をしたり、これを何とかの業務に渡しておけとむーちゃんに命令したり、とちぐはぐだ。会議、と言っていたのは言うだけで、そこまで演じて見せたりはしない。
何でごっこ遊びだけだったのかといえば、本当に彼らは二人きりで遊んでいたのだと思う。それに、私の前で一度やって見せたこれらのごっこ遊びは、彼らにとって当たり前のようだった。そして、今までこれらを熟してきたのかと思うと、私はますますむーちゃんに尊敬の念を抱いた。
で、私がそこに加わるのだが、女という事で、女の役を全て任される形になった。といっても、執事ごっこの時、私は大抵メイド役になるのだが、やっている事はむーちゃんと特に変わらない。社長ごっこの時、私は時々むーちゃんの代わりに、社員として呼ばれるぐらいだ。私が加わることで彼らの遊びに影響した事といえば、レストランごっこをあまりしなくなり、取引先の話が頻繁に加わるようになったり、たまに夕食の時間を演じるようになったり、ままごとが多くなった事だろうか。
「御社からとりよせている布のことだが、その糸はどこからとりよせていたかな」
「はい、私どもの作る布は中国にある私の会社から取り寄せているものでありまして、糸もまたそこで製造しています」
「そうか、ところで、その中国の会社ではいふくもあつかっているのかな」
「はい、衣服もあつかっております。日本向けにはタオルや靴下、パジャマなど、日用品が多いです」
「そうか、御社のせいぞうする布は安いのにひんしつはよい、これからはいふくもとりよせたいのだが、ひきうけてくれるか」
「そうですか、ありがとうございます。そのようにして下さい」
「では契約しよう」
といった具合に、話は結構無茶苦茶だ。こういった場合、私は取引先で、むーちゃんは秘書になる。話す言葉は全てアドリブだが、取引先の話の場合、文句を言われた事は無い。文句が多いのは家の中の話、執事ごっこやままごとの時だ。
「おかえりなさい」
「ちがうぞ!お母さまはそこでぼくの名前もよぶんだ」
「……おかえりなさい、跡、じゃなくて、け、景吾?」
「そこはさん付けだぞ」
「おかえりなさいけいごさん」
「ただいま。久しぶりに会えてうれしいです」
「話していてもなんだから……」
「そこは『私も』だぞ」
「私も、会えて嬉しいわ。話していてもなんだから、食べましょう」
「はいお母さま」
最初は「お母さま」の言葉遣いから指導された。この間、むーちゃんは執事役だ。
ままごとでは、
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
そこで最初は頬にキスをされそうになったが、私がしつこく断りを入れたので、無くなった。
「景吾、元気でがんばってるか」
「はい」
と子供役のむーちゃんが答える。大抵その返事は「はい」だ。
「さて、久しぶりに家族で食事だ」
と跡部が言えば、皆で用意していた椅子に座る。
「りん」
「え?」
「ここでは『何日ぶりかしら』だぞ」
「ああ、ごめん。……何日ぶりかしら、三人で食事なんて」
「すまないな」
「いえ、お仕事お忙しいのはわかっています……」
「その後は『こうしてたまに夕食をご一緒出来るだけでも十分です』だぞ」
「お仕事お忙しいのは分かっています。こうしてたまに夕食をご一緒出来るだけでも十分です」
「そう言ってくれるか」
「ええ」
と、夫婦の会話が中心になっていて、たまにむーちゃんが答えるぐらいだ。これらのごっこ遊びは筋が決まっていて、会話は少し変わっても、殆ど同じ事の繰り返しだった。
こうしたごっこ遊びを通して、跡部の事が分かってきた。家が立派な屋敷で、使用人が沢山いる事、家庭教師がいる事、仕事で父親とはあまり会えない事、母親も家を留守にしがちである事。私がままごとで「何日ぶり」や「久しぶり」といった言葉を抜かすたび、跡部には叱られた。初めの頃はそんな跡部を憂いでいたが、当の本人はまったく気にしていない様で、そもそも気にしていたら細かく私やむーちゃんに演技指導をしないだろう。それでも、私に母親役を演じさせる辺り、やはり寂しいのだろうか。
そうして知った全ては意外ではなかった。
「そういえば跡部って、幼稚舎を出たらイギリスに行くんだっけ」
と鈴に尋ねた事がある。
「ああ」
「むーちゃんも?」
「ああ」
「あの二人って、家族での繋がりでもあるの?」
「ああ」
「なんで?」
「跡部の家の祖父と樺地の家の祖父は二人で会社を起業し、ひょんな事から樺地の家の祖父は体に軽い障害を持ち、跡部の家の祖父は最終的に自分の家の使用人として雇った。彼らの息子同士は小さい頃から面識があり、仲も良かった。二人は跡部が社長を務める会社へ共に入り、跡部の息子はその優秀さにより異例の速さで出世をしたが、樺地の息子は順調に出世をしていった。今では上司と部下の間柄だが、彼らは他の部下より比較的共に行動する事が多い。」
話は長いが大まかな内容で、気になる事は多々あったが、私の知りたい事は全て言ってくれた。
「つまり、二代に亘る家族ぐるみのお付き合いで、跡部とむーちゃんも二代目と同じようになった訳ね」
「ああ」
そしてこのまま行けば、三代に亘る関わりになる事は必須だろう。これらもまた、細かい諸事情はともかくとして、意外ではない。
一緒に遊ぶようになってから、跡部は教室遊びの時にも私に話しかけるようになった。
「君ってあたまがいいのかい?わるいのかい?」
と、とある一日、跡部はいつもと変わらず素直だ。
「良くも悪くも無いと思いたいけど」
「なんだそれ」
私たちの手元には、完成されたあいうえお表が二枚ある。先生は教室の前で、ホワイトボードに「か」の字を書き始めていた。「こくご」や「さんすう」の時間は、頭を使わないただの書き写しの時間と言って、差し支え無い。学習する事は小学一年程度で、数分あれば出来る。それは英才教育を受けている跡部も同じだったが、他の子は決してそうでは無い。
「ぼくは、りんはあたまいいと思うぞ」
「ありがとう」
「そっけないぞ」
相手が相手、とても素直な奴なので、気兼ねない返事が多くなった。
「それにしても、りん、今日もぼくのさそいをことわる気かい」
「うん」
「いっしょにごはんを食べたいっていうだけなのに、君はいがいと頑固だな」
跡部は口を尖らせて言う。
跡部は私の思っていた通り、昼食は外で取っているらしい。予想するところ、高級レストランなのだろう。ここ最近、それにむーちゃんは毎回付き合わされていて、跡部と遊ぶようになってから私も誘われるようになった。
「何回も言ってるけど、うちはうちで給食代払って通ってるから、給食食べなかったら損なの」
これは一種の嘘だが、建前上そうなっているので、私にはその通り行動する必要がある。
「そんなことどうでもいいじゃないか」
「それも聞き飽きた」
「はらわなければいいじゃないか」
「もう払っちゃてるし」
「前の月だって、そう言ってたじゃないか」
「言ってたね。きっと来月も払うよ」
彼此一ヶ月程、彼に食事を誘われている。このしつこさは、そのぐらい私を慕ってくれているという事だろう。それは確かにとても嬉しくて、光栄な事だ。
「何で払うんだい」
「お父さんが払ってくれてるんだよ」
彼の誘いを断る事というのは、私が鈴をそう呼ぶようなもの。私は跡部に、私という人間を提示しているに過ぎない。
もしここで私が跡部の誘いを受け入れてしまえば、その先、私は怠惰からそれを断る事をしなくなるだろう。そして私が彼と「お友達」でいる間、ずっと彼の家に私の昼食代を払わせるのかもしれない。それは私ではなかった。だからといって、彼の家に奢らせずに済むとなっても、跡部の通うような店に足を運ぶようでは、もはや私では無い。そもそも、本来あった私の立場からすれば、いくら交友のためとはいえ、必要以上の出費なんてもってのほかなのだ。
跡部はそれきり黙ってしまった。私を放っておいて、一人考え始めたようだ。こうなってはむーちゃんが話しかけても答えない。それから私は教室遊び中、紙の裏に落書きをして、提出する際には消しゴムで消しておいた。教室遊びが終わると、跡部は身支度を整えて、挨拶を交わす程度に教室を出て行った。
食事からむーちゃんと帰ってくると、考えはもう付いたのか、笑みを浮かべてこう言った。
「りん、今日あそびに行ってもいいかい?」
食事の誘いは何回もあった。しかし、そういった頼みは今まで一度も無かったので、私は気の抜けた返事をする。
「どうなんだい」
「うーんと、親に聞いてみないと分かんないよ」
私に問題が無ければ、鈴にも無い。それでも私には、そう言うのが妥当だった。
「そうかい。君って、親に決めてもらわないといけないんだな」
素直な彼は、私に対していつでも好意的に笑ってくれていたが、今回ばかりは、その表情が苦々しい。彼が、食事の誘いの延長線上にそう言っている事が、私には分かった。
「そうだよ。親に決めてもらわなきゃ駄目だよ」
私が私であるために、私は彼の怒りを買った。