このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

幼児編

 跡部景吾の登場で、とうとう腹を括った私だが、彼が自分の事を「ぼく」と呼んでいる事が不可解だった。夢小説を巡りに巡った私は、幼稚園児の跡部と幼稚園教諭の主人公の話さえ読んだ事があったので、その通りの振る舞いを予測していたのだ。その話では、中学時代の彼と変わらずに「おれさま」と言っていたのだけど。彼がお坊ちゃまな事を思えば、「ぼく」の方が当たり前なのかもしれない。筋通った事なのかもしれない。
「今日も元気に遊びましょう」
 先生がそう呼びかけると、皆一斉に動き出した。ほとんどは木の芽こと準年少組からの上がりなので、やるべき事がわかっているようだ。真っ先に教室から出て行く者や、先生に本を読んで欲しいと頼む者、机で折り紙をし出す者、クレヨンで紙に絵を書き始める者など様々だ。私はともかくとして、見渡せば、私の仲間らしい子を見つける。頭をきょろきょろさせているから、一目瞭然だ。私が心配する必要も無く、それぞれ一生懸命周りの動きに付いて行こうとしていた。そんな状況に愚痴れる幼児は、私ぐらいなのだろうか。ふと跡部を見やれば、自分で用意してきたのか、文庫本を開いていた。幼児らしくなくて、私は安心する。
 私は教室から出ると、木の芽の教室へ向かった。跡部がいるという事は、樺地も当然いる。跡部が私のイメージ通りだったのだから、樺地もまた、そうに違いない。見ればすぐに分かるだろう。一つ一つ教室を覗いていく。しかし、どのクラスを覗いても、私の視力をもってしたって、樺地らしき人物は居ない。
 思い立った私は、絵本コーナーへ向かった。樺地は自分から外へ遊びにいくようなほど活発な子じゃないと思うし、教室にいないなら、ここぐらいじゃないだろうか。それとも、すれ違いになって、跡部の所へいったのか。
 僅かな希望を持って絵本コーナーに着く。その一角だけは絨毯が敷き詰められていているので、上履きを脱いで上がらなければならない。教室にも小さな本棚はあったが、それとは比べ物にならなくて、子供の背丈でも楽々届く高さの、低い棚が絨毯を囲うように置いてあり、その全てのスペースに絵本が詰め込まれている。私は所々空いた棚の隙間から中に入る。絨毯の真ん中には何の生涯も無く、子供達が座ったり寝転がったりして、自由に絵本を読んでいる。私が、他の子より一回り大きい背中を見つけたのはすぐだった。
 見つけられた嬉しさと、跡部がいない安堵に包まれながら、勇気を出して声を掛ける。
「こんにちは」
 彼は顔を上げる。小さく円らな瞳がこちらを見つめた。じっとこちらが見つめ返すと、彼がぺこりと頭を下げる。首元から覗く黄緑色のリボンを見て、私は確信した。さっきまで覗いていた木の芽の教室の子も黄緑色のリボンをしていたのだ。それに、胸元の名札には「むねひろ」と書かれている。
「私、天笠凛。お名前は?」
「……かばじむねひろです」
「樺地崇弘?」
 こくん。近くに来て座ってみれば、彼が私より少し大きい事が分かる。
「崇弘君か。ね、むーちゃんって読んでいい?」
 別に、元からこの子をそう呼んでいた訳ではなく、今この子と向き合ってみて、ちゃん付けで呼びたくなった。本気で言ってはいないが、彼は頷く。素直すぎて可愛い。
「絵本読んでいるの」
 こくん。どんな絵本なのかと手元を見れば、三匹の山羊とガラガラドンだった。私も小さい頃に読んでもらった事がある。
「すごいねえ、もう読めるんだ」
 そう言うと、彼はふるふると首を振った。
「絵を見てるだけ?」
 こくん。流石に、三歳児で字が読めるほど、ここは異世界ではないらしい。
「私読んであげるか」
 彼はじっとこちらを見る。
「読む?」
 こくん。こうして、私は彼の隣へ座る権利を得た。
 ここは他の場所に比べれば静かだけれど、先生の読み聞かせる声や、子供達の遊ぶ声が聞こえるほど賑やかだったので、傍に先生が来やしないかと気にする程度にして、私は読み始めた。いくら平仮名ばかりの本といったって、すらすらと読める幼児はそうそういない筈だ。絵本を一人で読むにしたって、小学生低学年ぐらいじゃないだろうか。私は関係無いけど。
 この絵本が楽しかったのを覚えていたけれど、今こうして読み返してみると、絵が結構グロテスクだった。ガラガラドンという名前の三匹の山羊と、トロルという化け物の駆け引きを楽しむ絵本なのだが、最後に、化け物は山羊の角で目玉を刺され、体をばらばらにされて、倒されるのだ。
「もしもあぶらがぬけてなければ、まだふとっているはずですよ。そこで、チョキン、パチン、ストン。はなしはおしまい」
 面白い話の終わり方だな、と思いながら、そう読み終えた。絵本を閉じると、彼の手元に戻す。
「次何読みたい?」
 言うと、彼はこちらに再び絵本を手渡す。
「これ、どこにあった?」
 もしかして覚えていないのかな。少し面倒に思ったが、むーちゃんのためなら仕方ない。
「……もういっかい」
「え?」
「……もういっかい、おねがいします」
 可愛すぎて抱きつくところだった。
 彼のためにもう一度読み、もう一度読み、また読んだ。かなりこの話が気に入ったらしい。こちら側も、読んでいて楽しい絵本ではあったので、苦にはならなかった。しかし読んでいる途中で、先生方の呼びかけが聞こえ出す。自由遊びの時間が終わったようだ。パンフレットに書かれていたのを思い出せば、次は教室遊び。授業モドキの時間だ。
「これ、元の場所に戻せる?」
 彼はちゃんと覚えていたらしく、渡せば仕舞いに行った。一度こちらに戻ってくる。偉いにも程がある。
「ありがとう、偉いね」
 私は自分に正直になって、彼の頭を撫でた。彼は嫌がろうとしなかった。撫でてみると、少し頭が汗ばんでいて、もしかして緊張させていたのかと思う。それでも傍にいさせてくれたのが嬉しくて、気が済むまで撫でていた。
「じゃあまたね」
 先生の呼びかけが本格的になってきたので、彼と別れ、教室に戻る。教室に入るとすぐ、先生に急かされ、運動着を持つようにと言われた。次は「たいいく」なのだ。先生は親切に私の名前の書いた棚まで案内してくれたので、そこから、鈴に用意してもらっていた、運動着の入った袋を引っ張り出す。周りはだいたい準備が出来ていて、先生に並べさせられていた。私もそちらへ向かう。
 全員並び終わると、体育館へ向かう。体育館の広さは、教室四つ、五つ分ぐらいだろうか。床を見れば、天井の照明を鏡のように映し出している。たいいくはクラス合同のようで、子供達がたくさん集まってくる。それでもクラス毎に分かれて、その場で着替えるように言われた。先生が言う事なので、素直に聞いておく。ふと周りを見渡せば、先生に着替えを手伝ってもらっている子が沢山いた。私は、たくさんの園児を賄えるほどの先生の人数に感心しながら、彼女達の苦労を少なくするためにも、一人で着替える。
 全員着替え終わると、私たちは先生の指示で上履きを脱ぎ、靴下を脱いで裸足になる。そして、体育館の端に整列させられた。先生の合図と共に、前の列から、向こう端まで走るよう言われる。先生が「よーいどん」というと、前の列の子達が全速力で走り出す。私もそれに習った。
 端まで全員走ると、もう一度走らされ、一往復する。次の動きに移った。
「はーい、では先生達に捕まらないよう、逃げてください」
 そう言って、先生方がゆっくり動き出すと、楽しそうな悲鳴があちこちから聞こえ出す。たいいくとは名前が立派だが、その内容は遊びだ。大方、運動遊びといったところか。途中先生に抱きしめられたが、子供達が入り乱れる中、私も私なりに逃げてみせた。
 終わって、着替えて、教室に戻ると、そこにはすでに給食が用意されていた。初等部校舎調理場で作られてます、パンフレットより。席に着くよう言われたので、適当に空いた席を探し、座る。席は特に決まってないようなので、何も注意されない。よく見てみれば、箸は箸置きに置かれていて、その丁重さに驚かされた。
 給食をおいしく頂き、持ってきていた歯ブラシで歯磨きをし終わると、午後の自由遊びの時間だ。私はすぐにむーちゃんを探しに行く。どこの組か聞いていればよかった、と後悔しながら、教室を覗くけれど、あの、皆より一回り大きな背中は無い。さては、と絵本コーナーに向かってみるが、そこにもいなかった。他にあても無いので、幼稚舎内をぐるっと回ってみる事にする。
 改めて歩き回ってみると、幼稚舎は広かった。注意を払って見ても、なかなかその姿が見えない。窓から外を覗いてみても、走り回る子達の中に、彼はいない。とうとう歩きに歩いて一周すると、果たして、彼はいた。
 絵本コーナーで、跡部と絵本を読んでいた。
 遠目でそれを眺める。彼らは、仲良く二人でいるのが作中での設定だったし、これからきっと、入っていく隙は無いだろう。今日の朝、跡部が樺地の元へ行かなかったのは、何故だったのか見当つかないけれど、あれは稀な出来事だったのだという事が分かった。朝のチャンスを見逃さなかった事だけが救いか。
私は諦めてすごすごと教室に戻った。お絵かきグループにいれてもらって、一緒に絵を描く事にした。久しぶりに他の人の絵が見られたし、他の子の見よう見まねで描くのは楽しかったので、すぐに気は紛れた。
時間を忘れて描いていると、先生方の呼びかけが始まる。御片付けを急かされ、みんなでクレヨンを元の箱に戻し、仕舞う場所を知っていた子が進んで戻しに行ってくれた。落書きした紙は先生が丸めて持って行った。持って帰りたいという子は、自分でカバンへ入れに行っている。皆が忙しなく動いて、片付けが終わると、鞄を持って席に着くように言われた。
帰りの会。プリントを一枚だけ配られる。鞄の中に入れるよう言われた。
「今日も一日がんばりました。皆さん、さようならー」
 挨拶もし終わると、先ほどから廊下で待たされていた母親たちが教室に入ってくる。皆、親に帽子を被らされたり、鞄を背負わせられて、帰っていく。
 眺めていれば、鈴が私のところへ来た。
「帰るぞ」
 そう言って、尋ねる事無く私の手を握る。
「うん」
 鈴がそういった事をするのは、初めてなのではないだろうか。これまでずっと、彼は私の言うことを聞いてばかりで、彼が私に何かしようにも、事前の報告を忘れた事は無い。彼はちゃんと父親を演じているだけ、そう思っても、何だかくすぐったい気持ちになった。
「どうだった」
「楽しかった」
 大きな声でそう言うと、鈴は笑った。
 
4/10ページ