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高校時代からの恋人に別れを告げたのは潜入捜査を命じられた三日後のことだった。好きな人が出来た、浮気をしている、別れてほしい。そう言うと泣き出しそうな顔で嫌がったが、お前にはもう興味はない、別れてくれ、そう言葉を重ねるとどうにかこうにか承知した。いや、承知させた。
自分の写った写真を全て削除させ、そして連絡先も消させた。降谷零という男の痕跡は一切残してはいけない。沙紀の涙を見るたびに心が揺らいだが、けれど仕方がなかった。沙紀の身の安全を考えればこの方法しか。
「……もう連絡してくるなよ。外であっても声は掛けるな」
――本当に最低な男だと思う。最低な男としてそのまま忘れてほしい。そしていつか幸せになってくれればそれでいい。そんなことを心から願うほどに、沙紀という存在は愛しかったから。
「――幸せにな」
「……ばいばい、降谷くん」
沙紀との別れの日は雨が降っていた。返さなくていいから、そう言って渡された傘を結局受け取ってしまった。ごく普通のありきたりな黒い傘で、けれど捨てることができないまま本来の家に放置している。写真も思い出になるようなものもすべて処分した今、沙紀のよすがはただそれだけだった。ありきたりな男が持ってもおかしくない傘。それっきり。
それから数年が経った。予定通り組織に潜り込み、表向きは私立探偵・安室透として組織では探り屋・バーボンとして活動していた。自然とハッカーや情報屋の話題にも詳しくなる。そんな情報屋の一人と会っていたときのことだった。
「アイリーン?」
「ああ。聞いたことないか?」
「そんな名前の腕の良いハッカーがいるとは耳にしたことはありますが……直接コンタクトを取ったことはありませんね」
アイリーン、イレーヌ、エリー。そう呼ばれるハッカーが最近この界隈では有名になってきている。非常に高いハッキング能力を持ち、それでいて侵入の痕跡は完璧に消す。よってその正体は情報屋やハッカーたちにとっても謎のままだそうだ。ホームズを出し抜いた女性、アイリーン・アドラーに重なるのか、『例の女』などと呼ばれることもあるとか。
「そのレディがどうかしました?」
「いや、黒のバーボンになら直接コンタクトを取ってもいいとかメッセージを寄越したんだ。例の女はいつも一方的にこっちのコンピュータにメッセージを送りつけて、案件が終わったら一切の連絡を断つんだ。だから向こうの気が向かないと何一つ仕事は頼めなくてな……」
「……ああ、つまり、僕を介してなら定期的に仕事を受けても良い、と」
「そういうことらしい。どうする?これが明日の午後八時から夜の十二時までつながる連絡先なんだが……いくらで買う?」
――詐欺の可能性もあった。良い話で金だけ巻き上げようとする、そんな情報屋崩れもこの界隈には多い。だがこの男は長年この界隈で生きてきた男。そして新人とはいえ黒ずくめの組織を敵に回すことの意味もよく分かっている。
「……毎度」
にやあっと笑った男からメモを受け取る。そこにはあるURLが記されていた。指定された時間に念の為に使い捨てられるノートパソコンでそこにアクセスすると、どうやらチャットルームのようだった。――さて、どのように飼うか。そう思って最初の挨拶を打ち込む。だがそれに返事はなく、代わりに表示されたのは短い疑問文だった。
『あなたの傘は何色?』
――どういう意味だろう、組織のカラーのことだろうか。と、画面の右下に砂時計が表示された。これが落ち切るまでに答えろ、というわけか。軽く舌打ちをし、もはや仕方あるまいとひとつの単語を打ち込む。BLACK、と。もうこれしか思いつかなかった。……当たっていてくれ。そう思った瞬間。
「……なっ……」
『彼女』からの返信はなかった。代わりに現在バーボンが追っていた対象の情報がずらりと並んでいる。そして最後に。
『次の連絡は一週間後の同じ時間に。Irene Adler』
慌ててそのファイルをダウンロードする。使い捨てのノートパソコンなのでウイルスや悪意のあるプログラムは気にしなくともなんとかなる。開いて改めて確認すると、その情報は確かにバーボンが今欲しいものばかりだった。改めて自身で裏を取りに行っても『彼女』の寄越した情報の正しさは歴然としていた。
「合格したってことなのか……?」
『彼女』が何者かは知らない。そのうえなぜバーボンが追っている情報を知っているのかすらわからない。しかも他の情報屋には多額の報酬を要求するらしいが、バーボンには一円たりとも要求したことはなかった。バーボンがそのアドレスにアクセスすると情報が流され、次の日時が表示される、それで終わり。ただより高いものはないとは言ったもので、非常に不気味だった。
だが一つ言えることがあった。『彼女』は非常に優秀なハッカーであり、情報屋である。探り屋がこれを使わない手はない。少々不気味であろうと使いこなしてやる。そしていつかはその正体を暴いてやる。
そう決意してからさらに数年が経った。紆余曲折の末、現在安室透はとある喫茶店で働いている。同僚は年若い女性で、夕方の主要客は女子高生。話題が恋愛相談方面に傾いたのも致し方あるまい。安室透はにこにこと穏やかな笑みを浮かべながらそれを聞いていた。
「ていうかさあ、元彼に別の女の子と目の前でイチャつかれたら殺意湧かない?見せつけてんの?」
「湧く、それは湧く。というかわざとでしょ、それ」
「そうなんだよねえ。だからガン無視。反応したら負け」
「でも腹立つんでしょ?」
「そーなんだよ。あ、ねえ、あむぴもそう思わない?」
あむぴ。誰が呼び出したのかはさておき、いつの間にかこの店における愛称となっていた。マスターが笑いを押し殺しながら「あむぴ君、これ今月の給料ね」と渡してきたときは少々微妙な気持にもなったが、違和感なく潜入できている自分の技術あってのことだと思うことにしよう。それはさておき、元恋人の幸せについてときたか。最近の高校生は中々ハードな恋愛模様のようである。
「……まあ僕は結構これでもいい年の大人だからね。幸せになってくれているならそれがいいと思っているよ」
「マジあむぴメンタルまでイケメンだわ……」
「えー、でもそうやって『きみには幸せになってほしいんだ……』とかって言って振ってそう。それ言われたら頷くしかないし」
「そ、そんなことはないよ。それじゃ僕が悪い男みたいじゃないか」
実際は悪い男なのだけれど――。そんなことを内心考えつつ、彼女たちにコーヒーを差し出したそのときだった。
「……あの、探偵さんがいらっしゃる喫茶店ってこちらですか?」
「毛利先生のことですか?先生の事務所でしたら、横の階段を登って――」
そう言いかけたとき、ふと時が止まる。マスクをつけて帽子を被り、あの頃とは少々印象が変わってはいるけれど。それは間違いなく高校時代から付き合い続け、そして降谷零の存在と共に消した彼女。――まさか、こんな形で再会するとは。
「いえ、眠りの小五郎さんへの依頼ではないんです。……安室透さん、でしたよね?私立探偵の」
「ええ……。どなたかからのご紹介でしたか?」
平然と受け答えしつつも脳内は混乱の嵐だった。なぜ沙紀がその名を知っている。なぜ沙紀はここに自分がいると確信して訪れたのか。……どうして。けれどマスクを外しカウンター席に腰掛けた沙紀は悠然と微笑む。
「そんなところです。……あ、コーヒー頂けますか?ホットで」
「……かしこまりました」
ベルモットの変装を一瞬考えた。だがベルモットは沙紀を知らない。沙紀の写った写真はすべて処分し、彼女の元にあった自分の写真もすべて処分した。一緒に写真に納まっているのなんてせいぜい高校の卒業アルバムくらいで、もし仮にそれがばれているのならとっくにNOCとして処分されている。……可能性は非常に低いだろう。
「こちらホットコーヒーです。……ミルクはいかがいたしますか?」
「……"ブラック"で」
ブラック。その発音が妙に浮いて聞こえたのは気のせいだろうか。
自分の写った写真を全て削除させ、そして連絡先も消させた。降谷零という男の痕跡は一切残してはいけない。沙紀の涙を見るたびに心が揺らいだが、けれど仕方がなかった。沙紀の身の安全を考えればこの方法しか。
「……もう連絡してくるなよ。外であっても声は掛けるな」
――本当に最低な男だと思う。最低な男としてそのまま忘れてほしい。そしていつか幸せになってくれればそれでいい。そんなことを心から願うほどに、沙紀という存在は愛しかったから。
「――幸せにな」
「……ばいばい、降谷くん」
沙紀との別れの日は雨が降っていた。返さなくていいから、そう言って渡された傘を結局受け取ってしまった。ごく普通のありきたりな黒い傘で、けれど捨てることができないまま本来の家に放置している。写真も思い出になるようなものもすべて処分した今、沙紀のよすがはただそれだけだった。ありきたりな男が持ってもおかしくない傘。それっきり。
それから数年が経った。予定通り組織に潜り込み、表向きは私立探偵・安室透として組織では探り屋・バーボンとして活動していた。自然とハッカーや情報屋の話題にも詳しくなる。そんな情報屋の一人と会っていたときのことだった。
「アイリーン?」
「ああ。聞いたことないか?」
「そんな名前の腕の良いハッカーがいるとは耳にしたことはありますが……直接コンタクトを取ったことはありませんね」
アイリーン、イレーヌ、エリー。そう呼ばれるハッカーが最近この界隈では有名になってきている。非常に高いハッキング能力を持ち、それでいて侵入の痕跡は完璧に消す。よってその正体は情報屋やハッカーたちにとっても謎のままだそうだ。ホームズを出し抜いた女性、アイリーン・アドラーに重なるのか、『例の女』などと呼ばれることもあるとか。
「そのレディがどうかしました?」
「いや、黒のバーボンになら直接コンタクトを取ってもいいとかメッセージを寄越したんだ。例の女はいつも一方的にこっちのコンピュータにメッセージを送りつけて、案件が終わったら一切の連絡を断つんだ。だから向こうの気が向かないと何一つ仕事は頼めなくてな……」
「……ああ、つまり、僕を介してなら定期的に仕事を受けても良い、と」
「そういうことらしい。どうする?これが明日の午後八時から夜の十二時までつながる連絡先なんだが……いくらで買う?」
――詐欺の可能性もあった。良い話で金だけ巻き上げようとする、そんな情報屋崩れもこの界隈には多い。だがこの男は長年この界隈で生きてきた男。そして新人とはいえ黒ずくめの組織を敵に回すことの意味もよく分かっている。
「……毎度」
にやあっと笑った男からメモを受け取る。そこにはあるURLが記されていた。指定された時間に念の為に使い捨てられるノートパソコンでそこにアクセスすると、どうやらチャットルームのようだった。――さて、どのように飼うか。そう思って最初の挨拶を打ち込む。だがそれに返事はなく、代わりに表示されたのは短い疑問文だった。
『あなたの傘は何色?』
――どういう意味だろう、組織のカラーのことだろうか。と、画面の右下に砂時計が表示された。これが落ち切るまでに答えろ、というわけか。軽く舌打ちをし、もはや仕方あるまいとひとつの単語を打ち込む。BLACK、と。もうこれしか思いつかなかった。……当たっていてくれ。そう思った瞬間。
「……なっ……」
『彼女』からの返信はなかった。代わりに現在バーボンが追っていた対象の情報がずらりと並んでいる。そして最後に。
『次の連絡は一週間後の同じ時間に。Irene Adler』
慌ててそのファイルをダウンロードする。使い捨てのノートパソコンなのでウイルスや悪意のあるプログラムは気にしなくともなんとかなる。開いて改めて確認すると、その情報は確かにバーボンが今欲しいものばかりだった。改めて自身で裏を取りに行っても『彼女』の寄越した情報の正しさは歴然としていた。
「合格したってことなのか……?」
『彼女』が何者かは知らない。そのうえなぜバーボンが追っている情報を知っているのかすらわからない。しかも他の情報屋には多額の報酬を要求するらしいが、バーボンには一円たりとも要求したことはなかった。バーボンがそのアドレスにアクセスすると情報が流され、次の日時が表示される、それで終わり。ただより高いものはないとは言ったもので、非常に不気味だった。
だが一つ言えることがあった。『彼女』は非常に優秀なハッカーであり、情報屋である。探り屋がこれを使わない手はない。少々不気味であろうと使いこなしてやる。そしていつかはその正体を暴いてやる。
そう決意してからさらに数年が経った。紆余曲折の末、現在安室透はとある喫茶店で働いている。同僚は年若い女性で、夕方の主要客は女子高生。話題が恋愛相談方面に傾いたのも致し方あるまい。安室透はにこにこと穏やかな笑みを浮かべながらそれを聞いていた。
「ていうかさあ、元彼に別の女の子と目の前でイチャつかれたら殺意湧かない?見せつけてんの?」
「湧く、それは湧く。というかわざとでしょ、それ」
「そうなんだよねえ。だからガン無視。反応したら負け」
「でも腹立つんでしょ?」
「そーなんだよ。あ、ねえ、あむぴもそう思わない?」
あむぴ。誰が呼び出したのかはさておき、いつの間にかこの店における愛称となっていた。マスターが笑いを押し殺しながら「あむぴ君、これ今月の給料ね」と渡してきたときは少々微妙な気持にもなったが、違和感なく潜入できている自分の技術あってのことだと思うことにしよう。それはさておき、元恋人の幸せについてときたか。最近の高校生は中々ハードな恋愛模様のようである。
「……まあ僕は結構これでもいい年の大人だからね。幸せになってくれているならそれがいいと思っているよ」
「マジあむぴメンタルまでイケメンだわ……」
「えー、でもそうやって『きみには幸せになってほしいんだ……』とかって言って振ってそう。それ言われたら頷くしかないし」
「そ、そんなことはないよ。それじゃ僕が悪い男みたいじゃないか」
実際は悪い男なのだけれど――。そんなことを内心考えつつ、彼女たちにコーヒーを差し出したそのときだった。
「……あの、探偵さんがいらっしゃる喫茶店ってこちらですか?」
「毛利先生のことですか?先生の事務所でしたら、横の階段を登って――」
そう言いかけたとき、ふと時が止まる。マスクをつけて帽子を被り、あの頃とは少々印象が変わってはいるけれど。それは間違いなく高校時代から付き合い続け、そして降谷零の存在と共に消した彼女。――まさか、こんな形で再会するとは。
「いえ、眠りの小五郎さんへの依頼ではないんです。……安室透さん、でしたよね?私立探偵の」
「ええ……。どなたかからのご紹介でしたか?」
平然と受け答えしつつも脳内は混乱の嵐だった。なぜ沙紀がその名を知っている。なぜ沙紀はここに自分がいると確信して訪れたのか。……どうして。けれどマスクを外しカウンター席に腰掛けた沙紀は悠然と微笑む。
「そんなところです。……あ、コーヒー頂けますか?ホットで」
「……かしこまりました」
ベルモットの変装を一瞬考えた。だがベルモットは沙紀を知らない。沙紀の写った写真はすべて処分し、彼女の元にあった自分の写真もすべて処分した。一緒に写真に納まっているのなんてせいぜい高校の卒業アルバムくらいで、もし仮にそれがばれているのならとっくにNOCとして処分されている。……可能性は非常に低いだろう。
「こちらホットコーヒーです。……ミルクはいかがいたしますか?」
「……"ブラック"で」
ブラック。その発音が妙に浮いて聞こえたのは気のせいだろうか。
