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「停学!?」
「……というかよくそれで済んだな、って感じ」
夏休み明け。――と言っても補習はあった。建前上は希望者のみ、だがほとんどの生徒は参加しており、夏休みなど事実上一週間あったかどうか。沙紀の姿は最初の数回くらいしか見かけなかった。その夏休み明け、やっと会えると登校してみればそれ、である。入学して半年も経たないうちに生徒指導室常連となった幼馴染は戻ってくるや否や、「あいつ停学だってさ」という爆弾をぶち落とした。
「いやお前の呼び出しはいつもだろうけど、あいつ何かしたのか?」
「俺だって別に何もしてねえから。なんか……ピアス開けたって」
「……は?」
「それで塞ぐなら反省文書いて終わり、って言われたのにまさかの『校則にピアスをつけるなとは書いてあっても穴を開けるなとは書いてないです』ときた。ハゲ村ブチ切れ、退学にしてやる!って飛び出してって、学年主任から教頭からぞろぞろ引き連れてきて、結局二日間の停学だってさ」
ハゲ村と呼ばれる生徒指導の教師は非常にウケが悪かった。生来のものである地毛でも呼び出して「そんな色じゃ染めても分からないしなあ」などとネチネチといびることに定評があり、女子のスカート丈にも殊の外煩かった。最初のうちは「足ばっか見てんじゃねえよクソキモいなハゲ」と罵っていた女子もネチネチと繰り返される嫌味に堪え兼ねて泣き出す子もいたとか。
思わず壁にずるずるともたれる。教室よりは廊下の方が涼しいけれど人が出てきてだんだん蒸し暑くなってきた。そのせいか、それとも沙紀のアレな行動のせいか少し頭痛がしてきた。
「……いや、なんて言うのかなあ、その」
「あいつ、バカなのか天才なのか分かんねえ」
幼馴染がそう言ったとき、廊下の奥がざわめいた。そちらの方を見ると人波の間を今しがた停学処分を食らったという張本人が歩いてきていた。慌てて駆け寄る友人たちに向かって沙紀はにこにこと笑いながら言い放った。
「ハゲ村のマジ切れ、ほんと面白いね。変な悪あがきで残してるのかなあ、怒鳴るたびにてっぺんの毛がふわっふわ揺れてさ、もう笑いそうだった」
「いや、停学ってほんと!?あたしもピアス見つかったけど……」
「ほんと。一人だけ夏休み延長、ラッキー」
「いや笑い事じゃないから……停学って」
「最初は退学だったんだけど、やっぱ停学で、って。一文字の違いだし、そんな大したことじゃないって」
「大したことだよ。停学って」
「第一号だよね、この学年の」
気の抜ける会話、そして沙紀はやたら満足そうに笑っていた。そのせいか最初は泣き出しそうだった彼女の友人もクスクスと笑い出している。その髪は柔らかな栗色をしている。
「……あれさ、ハゲ村に泣かされたって子だよな。髪の色がどうとかで」
「……何回か一緒に呼び出し食ってたから見たことある。あいつ、あれで結構正義感とか強いんだな」
教師がやってきて教室に戻れと追い立てた。何となくぴりぴりした空気を察して人波に紛れて教室へと戻る。まあそりゃあそうだろう、学年きっての秀才がまさかの反抗で停学ときては。
(――そういやあいつの家、普段は親いないのか)
何となく様子を見に行こうと思ったのは別に下心でも何でもなく、ただ少しゆっくり話をしてみたかった。ただそれだけ。
下校時刻になったがどうやら沙紀はまだ会議室で説教タイムらしい。知り合いの知り合いがボクシングジムを経営していて体験させてもらえるんだ、とゼロは早々に学校を飛び出していき、俺は図書室で時間を潰していた。本を読むためでも勉強するためでもなく、単に図書室の窓際の席からは会議室が見えたからだ。まだやっているらしい。
「……あの子、バカだよね」
図書委員の女子が不意に話しかけてきた。顔をよく見れば彼女とよく一緒にいる友人の一人、柔らかな栗色の髪をしている。
「よく分かんねえよ。……悪い奴じゃないけど」
「そうだよね。うん。なんかさ、休み前に『校則の穴見つけた!』ってめっちゃ笑って言ってたんだ。穴ってなんだよって思ったらこれ」
「校則の穴、なあ……」
確かにピアスをはじめとする装飾類を学校につけてくるのは禁止だが、穴をあけるなとは書いていない。だからといってやる奴がいるか。いたのである。
「ていうか、もしかしたらハゲ村これでトバされるかもって聞いた」
「え?」
「なんかさ、ブチ切れて教頭の前でビンタしたらしいんだよね。でもほら、最近そういうの厳しいし、女の子の顔ってなったらさらにアレじゃん?」
教師勢揃いの時点で帰されたという幼馴染からは停学らしい、というところまでしか聞いていなかった。そういえば少し頬が赤かったような。
「……なんかちょっとスッとはしたけどさ、心配だなーって」
「……だな」
会議室の中に動きがあった。光の加減でシルエットだけがぼんやり見える出入り口から小柄な影が出て行く。今から行けばちょうど玄関で鉢合わせになるだろうか。――途中でふと「休み明けくらい洗い立てのを持っときなさい」と母親に持たされたハンカチの存在を思い出した。玄関の横の水道で濡らして軽く絞る。
そうして待っているとすぐに沙紀はやってきた。少し驚いた顔をしている。確かにその頬は片方だけ少し赤い。
「……殴られたって聞いたから」
「大丈夫だよ、ちょっとぺちっとやられただけ」
「ちょっと赤いし。冷やしとけよ」
少し目を見開いてから、沙紀はへらりと笑ってハンカチを受け取った。カバンを代わりに持ってやり、玄関を出て歩き出す。
「……送ってくよ。家、どっち?」
「別に平気。それに私自転車だし。ヒロくん確か電車でしょ?」
「……俺、警察に見つかりにくい道知ってるから」
「えー、いいの?未来のお巡りさんがそんなことして」
「停学食らった奴に言われてもな」
そう言うと沙紀はクスクスと笑って頷いた。駐輪場で鍵を受け取り、サドルを自分の高さに合わせる。沙紀と自分のカバンをカゴに放り込んで、彼女の自転車を押して歩き出す。女子らしいオレンジに塗装されたそれを押すのはなんだかちょっと照れくさい。
「停学二日から自宅謹慎二日に昇格した」
「昇格なの、それ」
「なんかそっちは調査書に乗らないんだってさ。ほら、進学率とかあるじゃん。……それでしょ」
教師の目があるかもしれないところからニケツをする度胸は流石になく、二人並んで通学路を歩き出す。二本先の通りにある公園には夏になると現れるかき氷の屋台があった。サイズは小さいが一個五十円と破格の値段で、下校時刻にはいつも高校生で賑わっていた。ピークタイムは過ぎ、いつまでも外にいるのは暑いのだろう、今は屋台の前には誰もいなかった。そこで沙紀が好きだというイチゴ味を一つ買って練乳をたっぷりトッピングしてもらい、彼女に渡した。
「ヒロくん食べないの?」
「いや、俺頭キンキンするタイプ」
「じゃあなんで」
「まあほら、なんかちょっと俺もスッとしたから。ハゲ村にゼロがすげえ絡まれててさ、なんか」
なんでそんなことをしたのかよく分からなかった。ただかき氷の店を見たときになんとなく沙紀の好きな味を聞いていて、なんとなく買っていた。多くもない小遣いには限りがあるのに、なんとなく。
「それ色んな人に言われたよ。でも別にそういうんじゃなくてさ、なんか穴を見つけたから突いてみたくなって」
「ピアスは禁止だけどホール禁止なんて書いてない、か」
「事実じゃん?それでハゲ村が言葉に詰まって言ったのが『生意気!』でビンタ。それしか言えないのかよ、ってなるよね」
沙紀は公園のベンチに腰掛け、自分の渡したハンカチとかき氷の小さな容器を一緒に持って、ストローを切った小さなスプーンでしゃくしゃくと食べている。動機はなんとなく、だったけど、でも沙紀のその姿を見ているのはなんとなく気分が良かった。
「……というかごめんね」
「いきなりなんだよ」
「示しつかないから風紀委員はやめろって。まあそれは面倒だったしいいんだけど、ヒロくんには迷惑だよね。当番また変わるみたいだし」
「……いや、それは仕方ねえよ。気にしてないし、むしろスッとしたって」
――とはいえなんとなく残念なのには変わりない。別に特別可愛いわけじゃないし胸が大きいわけでもない。男子の間のあれそれで沙紀の名前があがることはまずない。ただ沙紀との放課後の会話がなくなるのはなんとなく残念だった。
かき氷を食べ終わり、ゴミを捨てに行く背中を眺めていた。肩を少し過ぎるくらいの黒髪はたまに直りきらなかったのか気づかなかったのか、ちょっぴり寝癖がついていることがある。今日は時間があったのか寝癖がつかなかったのかさらさらと夏の日差しに輝いている。
「お待たせ。なんかごめんね、ご馳走になって待たせちゃって」
「いや、俺が好きでやってることだし、気にすんな」
学校からも程よく距離もあり、近くに交番もなければ巡回ルートからも外れている。そこから彼女を自転車の後ろに乗せてペダルを漕いだ。そこを右、左、という指示に従って漕ぐと、やがて住宅街のある家にたどり着いた。佐々木と書かれた表札、この家だろう。
「……ありがと。上がってってよ、喉乾いたでしょ?」
沙紀の親は不在だった。だからといって別にそこに色めいたものはなかった。氷の入った麦茶を飲みほしてから少し遅めの昼食に冷やし中華を食べて、冷凍庫にあったと言って沙紀が持ってきた二つに分けるタイプのスティックアイスを一緒に食べた。ただそれだけ。
「……昔お兄ちゃんが高校生くらいのときにさ、こうやってよく一緒に食べたんだよね。それで絶対揉めるの。どっちが大きいって」
「俺もよくゼロとそれで喧嘩したな。ここのちょろっと出てる部分はどうとかって。それで溶ける」
「そうそう。最後なんてジュースでさ。……なんか久しぶりに誰かと食べたな。最近はこれ独り占めだったから」
そうして日暮れ前に沙紀の家を後にした。そこで「駅の方向わかんなくなったから送ってって」とかなんとか言えたのなら、いや口にする発想があったのなら、もしかすると沙紀と自分の関係は、感情は何か変わっていたのかもしれない。だがそんなことはなく、何も変わらず、恋と呼ぶには淡く、友情と呼ぶには柔い関係はゆるゆると卒業まで続いた。時々会って話はするけど、お互い連絡先も知らないまま。ゼロと沙紀は相変わらずテスト順位でトップ争いを繰り広げていた。争いと呼ぶには片方に少々どころでなく覇気がなかったけれど。
俺はといえば二年の春先にそこそこ可愛い女の子に告白されて付き合い出し、秋の修学旅行後に別れた。卒業アルバムを見るとなんとも微妙な気持ちになるのはそのためだ。三年になってからも後輩に告白されたけど、勉強でそれどころでなかったので丁重にお断りした。顔は普通だったけど大変胸が豊かな子でそこだけはなんとなく心残りではあった。
沙紀の方は他校に彼氏ができたとかできないとか、そんな話もちらっと聞いた。一度街で見知らぬ同世代の男と仲良く歩いているのを見かけたから、たぶんあれがそうだったのだろう。バイクの免許の許可を得るのにまたあれこれやらかしたとか、「内申に響くぞ、って言われてあいつ何言ったと思う?『入試で満点取るので大丈夫です』だぜ?」という話をゼロ経由で聞くことがあったくらい。
例えるならそう、孵化する前の卵のよう。そのまま終わった。卒業式の前の日に彼女がある有名大学に受かった、という話を本人から聞いた。情報科だかなんだかで、入学間もないあの頃、コンピュータクラブがあったらなあ、なんて笑っていたのを思い出したりもして。
ああそうだ、一度だけ沙紀と会ったことがあった。あれは警察学校に通っていた頃、休日で仲の良かった連中と街に繰り出したとき、隣で信号待ちをしていた女性にふと視線が止まった。あの頃真っ黒だった髪は暗い茶色に染められていて、イチゴシロップで色づいていた唇には艶めくグロスが乗っていた。それでもその面差しは変わりない。声をかけるとしばらく首を傾げていたが、やがて目を見開いて言った。
「……あ、もしかしてヒロくん?高校のとき、風紀委員で一緒だった」
「そう。覚えててくれたんだ」
「こっちこそだよ。でもよく分かったね。これでも結構変わったって言われるのに」
「変わった……?じゃあもう『ルールの穴見つけた!』って喧嘩売ったりしてない感じか?」
「……あー、それ忘れて。頼むから忘れて。マジで黒歴史。なんならあのときのピアスホールつけるの忘れてて塞がってるわ」
「自宅謹慎と引き換えのピアスホールだったのにな」
「懐かしいね。まあ結局その後で別件で停学食らったんだけどさ」
確かに変わったとは思う。少し顔立ちはほっそりとしてメイクを施した顔はあの頃とは印象がやや異なる。だが笑い方は、あのへらりとした力の抜けた笑顔はあまり変わらない。大人びた顔立ちとメイクの奥から、あの頃の沙紀がひょいと顔を出すように。
「なんか用事でもあるのか?お洒落してるみたいだし」
「これから友達とご飯。ヒロくんはどうしたの?」
「俺は外出許可出たから、まあ息抜きかな」
「……あ、そっか。警察志望だったもんね」
「そう。ほんとキッツいわ」
「だろうね。あ、それじゃあえっと……あの金髪の……」
「ゼロ……じゃなくて降谷?」
「そう。降谷くんも?あの人もだったよね、確か」
「あいつもだよ。まああいつは不動の首席だけどな」
「さすがだねえ。文武両道!って感じ」
そこで連絡先を聞いていたら、引き留めていたら何か変わったのかもしれない。あり得たかもしれない未来。――だがそこまでその感情に色はなかった。そこで誘えない程度の彩度で、けれどもしそうであったら、なんて発想が浮かぶほどのものではあって。
「え、ヒロくん?」
まさかの場所で再会した沙紀は幼馴染の協力者になっていた。部屋の中の資料を覗き見ればついこの間彼に頼んだ情報がボロボロと出てくる。……探り屋を名乗るからにはハッカーの協力者を抱えておくのは正しい判断だろう。
「……久しぶり」
そこに微かに色めくときめきもあの夏の日のような煌めきもなく、それらは全て過去のもので。ノスタルジーとでも呼ぶような懐かしさと、それからちょっとした安堵感と。古いアルバムを捲ったら案外鮮やかに残っていた写真を見つけたような。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「……また来るよ。今度は土産の一つも持ってくる」
とはいえそれは一体いつになることか。万一を考えてもバーボンとスコッチの距離感は保たなくてはならない。そう頻繁に来れる訳でもない、が。
「イチゴ、だっけ」
「……どうした?」
「いや、何でもない。ちょっとな」
なんとなくあの夏のように笑う彼女が見たい、そう思ったのも本当のこと。
「……というかよくそれで済んだな、って感じ」
夏休み明け。――と言っても補習はあった。建前上は希望者のみ、だがほとんどの生徒は参加しており、夏休みなど事実上一週間あったかどうか。沙紀の姿は最初の数回くらいしか見かけなかった。その夏休み明け、やっと会えると登校してみればそれ、である。入学して半年も経たないうちに生徒指導室常連となった幼馴染は戻ってくるや否や、「あいつ停学だってさ」という爆弾をぶち落とした。
「いやお前の呼び出しはいつもだろうけど、あいつ何かしたのか?」
「俺だって別に何もしてねえから。なんか……ピアス開けたって」
「……は?」
「それで塞ぐなら反省文書いて終わり、って言われたのにまさかの『校則にピアスをつけるなとは書いてあっても穴を開けるなとは書いてないです』ときた。ハゲ村ブチ切れ、退学にしてやる!って飛び出してって、学年主任から教頭からぞろぞろ引き連れてきて、結局二日間の停学だってさ」
ハゲ村と呼ばれる生徒指導の教師は非常にウケが悪かった。生来のものである地毛でも呼び出して「そんな色じゃ染めても分からないしなあ」などとネチネチといびることに定評があり、女子のスカート丈にも殊の外煩かった。最初のうちは「足ばっか見てんじゃねえよクソキモいなハゲ」と罵っていた女子もネチネチと繰り返される嫌味に堪え兼ねて泣き出す子もいたとか。
思わず壁にずるずるともたれる。教室よりは廊下の方が涼しいけれど人が出てきてだんだん蒸し暑くなってきた。そのせいか、それとも沙紀のアレな行動のせいか少し頭痛がしてきた。
「……いや、なんて言うのかなあ、その」
「あいつ、バカなのか天才なのか分かんねえ」
幼馴染がそう言ったとき、廊下の奥がざわめいた。そちらの方を見ると人波の間を今しがた停学処分を食らったという張本人が歩いてきていた。慌てて駆け寄る友人たちに向かって沙紀はにこにこと笑いながら言い放った。
「ハゲ村のマジ切れ、ほんと面白いね。変な悪あがきで残してるのかなあ、怒鳴るたびにてっぺんの毛がふわっふわ揺れてさ、もう笑いそうだった」
「いや、停学ってほんと!?あたしもピアス見つかったけど……」
「ほんと。一人だけ夏休み延長、ラッキー」
「いや笑い事じゃないから……停学って」
「最初は退学だったんだけど、やっぱ停学で、って。一文字の違いだし、そんな大したことじゃないって」
「大したことだよ。停学って」
「第一号だよね、この学年の」
気の抜ける会話、そして沙紀はやたら満足そうに笑っていた。そのせいか最初は泣き出しそうだった彼女の友人もクスクスと笑い出している。その髪は柔らかな栗色をしている。
「……あれさ、ハゲ村に泣かされたって子だよな。髪の色がどうとかで」
「……何回か一緒に呼び出し食ってたから見たことある。あいつ、あれで結構正義感とか強いんだな」
教師がやってきて教室に戻れと追い立てた。何となくぴりぴりした空気を察して人波に紛れて教室へと戻る。まあそりゃあそうだろう、学年きっての秀才がまさかの反抗で停学ときては。
(――そういやあいつの家、普段は親いないのか)
何となく様子を見に行こうと思ったのは別に下心でも何でもなく、ただ少しゆっくり話をしてみたかった。ただそれだけ。
下校時刻になったがどうやら沙紀はまだ会議室で説教タイムらしい。知り合いの知り合いがボクシングジムを経営していて体験させてもらえるんだ、とゼロは早々に学校を飛び出していき、俺は図書室で時間を潰していた。本を読むためでも勉強するためでもなく、単に図書室の窓際の席からは会議室が見えたからだ。まだやっているらしい。
「……あの子、バカだよね」
図書委員の女子が不意に話しかけてきた。顔をよく見れば彼女とよく一緒にいる友人の一人、柔らかな栗色の髪をしている。
「よく分かんねえよ。……悪い奴じゃないけど」
「そうだよね。うん。なんかさ、休み前に『校則の穴見つけた!』ってめっちゃ笑って言ってたんだ。穴ってなんだよって思ったらこれ」
「校則の穴、なあ……」
確かにピアスをはじめとする装飾類を学校につけてくるのは禁止だが、穴をあけるなとは書いていない。だからといってやる奴がいるか。いたのである。
「ていうか、もしかしたらハゲ村これでトバされるかもって聞いた」
「え?」
「なんかさ、ブチ切れて教頭の前でビンタしたらしいんだよね。でもほら、最近そういうの厳しいし、女の子の顔ってなったらさらにアレじゃん?」
教師勢揃いの時点で帰されたという幼馴染からは停学らしい、というところまでしか聞いていなかった。そういえば少し頬が赤かったような。
「……なんかちょっとスッとはしたけどさ、心配だなーって」
「……だな」
会議室の中に動きがあった。光の加減でシルエットだけがぼんやり見える出入り口から小柄な影が出て行く。今から行けばちょうど玄関で鉢合わせになるだろうか。――途中でふと「休み明けくらい洗い立てのを持っときなさい」と母親に持たされたハンカチの存在を思い出した。玄関の横の水道で濡らして軽く絞る。
そうして待っているとすぐに沙紀はやってきた。少し驚いた顔をしている。確かにその頬は片方だけ少し赤い。
「……殴られたって聞いたから」
「大丈夫だよ、ちょっとぺちっとやられただけ」
「ちょっと赤いし。冷やしとけよ」
少し目を見開いてから、沙紀はへらりと笑ってハンカチを受け取った。カバンを代わりに持ってやり、玄関を出て歩き出す。
「……送ってくよ。家、どっち?」
「別に平気。それに私自転車だし。ヒロくん確か電車でしょ?」
「……俺、警察に見つかりにくい道知ってるから」
「えー、いいの?未来のお巡りさんがそんなことして」
「停学食らった奴に言われてもな」
そう言うと沙紀はクスクスと笑って頷いた。駐輪場で鍵を受け取り、サドルを自分の高さに合わせる。沙紀と自分のカバンをカゴに放り込んで、彼女の自転車を押して歩き出す。女子らしいオレンジに塗装されたそれを押すのはなんだかちょっと照れくさい。
「停学二日から自宅謹慎二日に昇格した」
「昇格なの、それ」
「なんかそっちは調査書に乗らないんだってさ。ほら、進学率とかあるじゃん。……それでしょ」
教師の目があるかもしれないところからニケツをする度胸は流石になく、二人並んで通学路を歩き出す。二本先の通りにある公園には夏になると現れるかき氷の屋台があった。サイズは小さいが一個五十円と破格の値段で、下校時刻にはいつも高校生で賑わっていた。ピークタイムは過ぎ、いつまでも外にいるのは暑いのだろう、今は屋台の前には誰もいなかった。そこで沙紀が好きだというイチゴ味を一つ買って練乳をたっぷりトッピングしてもらい、彼女に渡した。
「ヒロくん食べないの?」
「いや、俺頭キンキンするタイプ」
「じゃあなんで」
「まあほら、なんかちょっと俺もスッとしたから。ハゲ村にゼロがすげえ絡まれててさ、なんか」
なんでそんなことをしたのかよく分からなかった。ただかき氷の店を見たときになんとなく沙紀の好きな味を聞いていて、なんとなく買っていた。多くもない小遣いには限りがあるのに、なんとなく。
「それ色んな人に言われたよ。でも別にそういうんじゃなくてさ、なんか穴を見つけたから突いてみたくなって」
「ピアスは禁止だけどホール禁止なんて書いてない、か」
「事実じゃん?それでハゲ村が言葉に詰まって言ったのが『生意気!』でビンタ。それしか言えないのかよ、ってなるよね」
沙紀は公園のベンチに腰掛け、自分の渡したハンカチとかき氷の小さな容器を一緒に持って、ストローを切った小さなスプーンでしゃくしゃくと食べている。動機はなんとなく、だったけど、でも沙紀のその姿を見ているのはなんとなく気分が良かった。
「……というかごめんね」
「いきなりなんだよ」
「示しつかないから風紀委員はやめろって。まあそれは面倒だったしいいんだけど、ヒロくんには迷惑だよね。当番また変わるみたいだし」
「……いや、それは仕方ねえよ。気にしてないし、むしろスッとしたって」
――とはいえなんとなく残念なのには変わりない。別に特別可愛いわけじゃないし胸が大きいわけでもない。男子の間のあれそれで沙紀の名前があがることはまずない。ただ沙紀との放課後の会話がなくなるのはなんとなく残念だった。
かき氷を食べ終わり、ゴミを捨てに行く背中を眺めていた。肩を少し過ぎるくらいの黒髪はたまに直りきらなかったのか気づかなかったのか、ちょっぴり寝癖がついていることがある。今日は時間があったのか寝癖がつかなかったのかさらさらと夏の日差しに輝いている。
「お待たせ。なんかごめんね、ご馳走になって待たせちゃって」
「いや、俺が好きでやってることだし、気にすんな」
学校からも程よく距離もあり、近くに交番もなければ巡回ルートからも外れている。そこから彼女を自転車の後ろに乗せてペダルを漕いだ。そこを右、左、という指示に従って漕ぐと、やがて住宅街のある家にたどり着いた。佐々木と書かれた表札、この家だろう。
「……ありがと。上がってってよ、喉乾いたでしょ?」
沙紀の親は不在だった。だからといって別にそこに色めいたものはなかった。氷の入った麦茶を飲みほしてから少し遅めの昼食に冷やし中華を食べて、冷凍庫にあったと言って沙紀が持ってきた二つに分けるタイプのスティックアイスを一緒に食べた。ただそれだけ。
「……昔お兄ちゃんが高校生くらいのときにさ、こうやってよく一緒に食べたんだよね。それで絶対揉めるの。どっちが大きいって」
「俺もよくゼロとそれで喧嘩したな。ここのちょろっと出てる部分はどうとかって。それで溶ける」
「そうそう。最後なんてジュースでさ。……なんか久しぶりに誰かと食べたな。最近はこれ独り占めだったから」
そうして日暮れ前に沙紀の家を後にした。そこで「駅の方向わかんなくなったから送ってって」とかなんとか言えたのなら、いや口にする発想があったのなら、もしかすると沙紀と自分の関係は、感情は何か変わっていたのかもしれない。だがそんなことはなく、何も変わらず、恋と呼ぶには淡く、友情と呼ぶには柔い関係はゆるゆると卒業まで続いた。時々会って話はするけど、お互い連絡先も知らないまま。ゼロと沙紀は相変わらずテスト順位でトップ争いを繰り広げていた。争いと呼ぶには片方に少々どころでなく覇気がなかったけれど。
俺はといえば二年の春先にそこそこ可愛い女の子に告白されて付き合い出し、秋の修学旅行後に別れた。卒業アルバムを見るとなんとも微妙な気持ちになるのはそのためだ。三年になってからも後輩に告白されたけど、勉強でそれどころでなかったので丁重にお断りした。顔は普通だったけど大変胸が豊かな子でそこだけはなんとなく心残りではあった。
沙紀の方は他校に彼氏ができたとかできないとか、そんな話もちらっと聞いた。一度街で見知らぬ同世代の男と仲良く歩いているのを見かけたから、たぶんあれがそうだったのだろう。バイクの免許の許可を得るのにまたあれこれやらかしたとか、「内申に響くぞ、って言われてあいつ何言ったと思う?『入試で満点取るので大丈夫です』だぜ?」という話をゼロ経由で聞くことがあったくらい。
例えるならそう、孵化する前の卵のよう。そのまま終わった。卒業式の前の日に彼女がある有名大学に受かった、という話を本人から聞いた。情報科だかなんだかで、入学間もないあの頃、コンピュータクラブがあったらなあ、なんて笑っていたのを思い出したりもして。
ああそうだ、一度だけ沙紀と会ったことがあった。あれは警察学校に通っていた頃、休日で仲の良かった連中と街に繰り出したとき、隣で信号待ちをしていた女性にふと視線が止まった。あの頃真っ黒だった髪は暗い茶色に染められていて、イチゴシロップで色づいていた唇には艶めくグロスが乗っていた。それでもその面差しは変わりない。声をかけるとしばらく首を傾げていたが、やがて目を見開いて言った。
「……あ、もしかしてヒロくん?高校のとき、風紀委員で一緒だった」
「そう。覚えててくれたんだ」
「こっちこそだよ。でもよく分かったね。これでも結構変わったって言われるのに」
「変わった……?じゃあもう『ルールの穴見つけた!』って喧嘩売ったりしてない感じか?」
「……あー、それ忘れて。頼むから忘れて。マジで黒歴史。なんならあのときのピアスホールつけるの忘れてて塞がってるわ」
「自宅謹慎と引き換えのピアスホールだったのにな」
「懐かしいね。まあ結局その後で別件で停学食らったんだけどさ」
確かに変わったとは思う。少し顔立ちはほっそりとしてメイクを施した顔はあの頃とは印象がやや異なる。だが笑い方は、あのへらりとした力の抜けた笑顔はあまり変わらない。大人びた顔立ちとメイクの奥から、あの頃の沙紀がひょいと顔を出すように。
「なんか用事でもあるのか?お洒落してるみたいだし」
「これから友達とご飯。ヒロくんはどうしたの?」
「俺は外出許可出たから、まあ息抜きかな」
「……あ、そっか。警察志望だったもんね」
「そう。ほんとキッツいわ」
「だろうね。あ、それじゃあえっと……あの金髪の……」
「ゼロ……じゃなくて降谷?」
「そう。降谷くんも?あの人もだったよね、確か」
「あいつもだよ。まああいつは不動の首席だけどな」
「さすがだねえ。文武両道!って感じ」
そこで連絡先を聞いていたら、引き留めていたら何か変わったのかもしれない。あり得たかもしれない未来。――だがそこまでその感情に色はなかった。そこで誘えない程度の彩度で、けれどもしそうであったら、なんて発想が浮かぶほどのものではあって。
「え、ヒロくん?」
まさかの場所で再会した沙紀は幼馴染の協力者になっていた。部屋の中の資料を覗き見ればついこの間彼に頼んだ情報がボロボロと出てくる。……探り屋を名乗るからにはハッカーの協力者を抱えておくのは正しい判断だろう。
「……久しぶり」
そこに微かに色めくときめきもあの夏の日のような煌めきもなく、それらは全て過去のもので。ノスタルジーとでも呼ぶような懐かしさと、それからちょっとした安堵感と。古いアルバムを捲ったら案外鮮やかに残っていた写真を見つけたような。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「……また来るよ。今度は土産の一つも持ってくる」
とはいえそれは一体いつになることか。万一を考えてもバーボンとスコッチの距離感は保たなくてはならない。そう頻繁に来れる訳でもない、が。
「イチゴ、だっけ」
「……どうした?」
「いや、何でもない。ちょっとな」
なんとなくあの夏のように笑う彼女が見たい、そう思ったのも本当のこと。
