「遊び半分のハッキングの代償は大きかった」
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あれから私は降谷くんのセーフハウスのひとつに住まわされることになった。支給されたのは即日配送のネットスーパーに通販サイトのアプリが入ったタブレット、それからデバイス各種。こちらは捜査に必要なら言えば取り寄せてくれるらしい。ついでにマンションの隣にはコンビニがある。――これはひきこもり育成ゲームだろうか。いや軟禁だ。
玄関には目立たないようにだけど監視カメラが仕込まれていた。ネット環境を調べていたら妙なのが引っ掛かってハックしてみたら新居の玄関。ついでに音声もとられている。まあそもそもがセーフハウスだし侵入者対策だろう。ざっと調べたけれど他には発信機らしき電波は見当たらなかった。それからは出かける時にはカメラに向かって「コンビニ行ってきまーす」「対象の下見行ってきまーす」と呟くようにした。降谷くんにはふざけてるのかと怒られた。こちらとしては協力しているつもりなのに心外である。
降谷くんはたまにこの家にやってくる。三日連続で来たこともあれば二週間近く放置されたこともある。放置中はどうやらアイリーン・アドラーの担当だったらしい公安刑事さんやその上司さんがデータの受け渡しや様子見で来てくれる。どちらも降谷くんの部下らしい。私がふらふらしてハッキングなんてやって遊んでいる間に彼は立派に出世していたというわけだ。
「なんかやっぱ降谷くんはすごいよね」
「いきなりなんだ。褒めても何も出ないぞ」
「えー、明日の朝ご飯に出汁巻き卵くらいついてもいいと思う。……いやなんか私っていい年して自分探しじゃないけどさあ、変に上に噛みついて変にふらふらしてこんなんなのに、降谷くんはガンガン出世してさあ。すごいよね」
***
そう言って沙紀はつと息をついた。たまに彼女はそんなことを――どこか卑屈な発言をする。降谷はその感情こそが、おそらく沙紀自身すら意識していないだろうその部分が彼女をアイリーン・アドラーへと仕立て上げたのだろう、と推測していた。
「……運もある。お前だって十分すごいさ。ほぼ独学でそこまで技術極められるやつもそうはいないだろう」
「そうかなあ。まあ技術も明日には時代遅れになるからねえ。日々勉強だよ」
「それができる人間なんてそうはいない。……お前は頭は良いのに使い道が分かってないだけだ。だから引きこんだ」
「……使い方教えてやる、って?」
「どんなに鋭い刃でも向ける先を間違えれば悪、正しければ善になるってわけ」
「うわ超上から目線だね。傲慢。……まあ降谷くんはそうやって自信満々の方がらしいね」
そう言って少し笑う。そう、沙紀は自身の能力の使いどころを、稀に見る優れた刃を渡されながら使い道を知らないままでいる。ならば自分が、公安警察がその使い道を示してやれば良い。この国のために、そして沙紀自身のためにも。降谷はちらりとキッチンの方へと目を向けた。この家に連れてきた当初は冷凍食品とコンビニ弁当という食生活だったが、即日配送で生鮮食品が届くネットスーパーを利用するよう辛抱強く言い聞かせ、近頃は簡単なものとはいえ自炊の割合も上がってきているらしい。降谷が立ち寄った際に簡単なものを作ってやれる程度には食材も家に揃っている。その自炊がたとえ鍋から直で食べるものだとしても立派な進歩である。
「――それで?出汁巻き卵だったか?」
「ほんとにいいの?いやほんと降谷くん料理も上手いから完璧だよね。最高だわー」
そう言って沙紀はにこにこと笑った。その笑顔からは誰も沙紀が凄腕のハッカーとは、妙な孤独感を抱えた人間だとは誰も思いはしないのだろう。
「……それでこの人物なんだがなんでもいい、情報とれないか?スマホでもハッキングできればありがたいんだが」
「うーん、個人だと企業と違って狙い定めるのが時間かかるんだよねえ。一週間くらい見てくれる?」
「スマートフォンの契約者情報ならあるが」
「……公安こわ。というかそれならサイバー対策室辺りに頼めば?やっぱそういう特定系は堂々と開示要求できる警察が強いよ?」
「……今は言えない。が、警察よりお前に任せる方が適任と判断した」
これは降谷零の仕事ではない。組織の探り屋、バーボンへの命令だ。沙紀には自身が潜入捜査に当たっているため万が一外で会ったとしても声はかけないよう、初対面として振る舞うように伝えてあるが、組織のことは何一つ教えていない。教えないままこうして何度か探り屋の仕事を手伝わせている。その方が沙紀にとっても安全である。それが公安警察としての自分の判断だった。沙紀は少し首を傾げたが、すぐに頷いた。
「了解。今は詳しく聞かないよ。……でも情報もう少しほしいかな。行動経路とかよく行く場所とか。この人に関係する情報、あるだけ全部ちょうだい」
「……ターゲットに直接近づくのか?」
「スマホなら近くのWiFiとか自宅のとか経由して乗っ取るのが早いんだよね、やっぱ。安定だしバレない」
「……まあそれはそうだろうが、できるだけお前は近づくな。技術は信頼してるが訓練も受けたことのない素人が近づくのは危険だ」
「……あー、もしかしなくても危ない人か。じゃあ降谷くんでも誰でもいいけど適当なスマホ持って近づいてよ。タイミング教えてくれればそれ遠隔操作して上手くやるから」
そう言うと沙紀はパソコンの横のカゴに無造作に放り込まれたスマートフォンをひとつ取り出し、ケーブルをつないであれこれといじりだした。その間に降谷はどうしようかと少し考え、そしてふと思いついた。ターゲットに張り付いているという組織の同胞――にして公安刑事、幼馴染に連絡を入れる。ターゲットの行動範囲、分かる限り教えてくれ、と。
「ああ、知り合いのハッカーに探らせてるんだが情報がほしいらしい。……ああそうだ、スコッチ、お前ちょっと今から来れるか?」
『ああ、これからライと交代だから構わないけど、どうかしたか?』
電話で詳しい話をするのは気が引けた。万が一盗聴されていたら事だ。ターゲットのことで見てもらいたい資料がある、直接足を運んでくれと伝え電話を切った。
***
愛車のガラスをコツコツと叩く音がした。顔を上げるとギターケースを背負った若い男が身をかがめて立っていた。助手席に乗せ、盗聴器発信機その他がついていないことを無言のままに確認し、そしてお互い頬をつねる。潜入の時に決めた合言葉を確認し、ようやく一息ついた。
「どこぞの魔女の変装でなくて安心したよ、スコッチ」
「そっちもな、バーボン。……で?見てもらいたいものって?」
「まあ、とりあえずうちに来てくれ」
「いいけど……。というか探り屋ともなるとハッカーの一人二人は抱えてるんだな。どこの紹介だ?」
「少しばかり伝手があってな。偶然手に入れられそうだったから引っ張ってきた」
「……大丈夫なのか?そいつ」
あらゆる意味を含んだ問いに降谷は軽く肩を竦め、車を走らせ来た道を戻る。あのセーフハウスに置く車は人目を避けるため目立たないごく普通の国産車である。一番の愛車に比べれば少々ハンドリングや感触に不満はあるが、こうして普通に法定速度内で舗装された道を安全に走る分には十分だ。本来この日本において車というのはそれだけ満たしていれば十分なのだが、潜入捜査官ともなるとそれ以上のスペックを求めたくなるときもある。
「万が一のためにお前にも顔つなぎしておこうと思ってな」
「なるほどね。つまりは本職絡みか」
「留置所とどっちがいいか本人に選ばせた。あのアイリーン・アドラーだよ」
「え、あれ捕まえたのか。公安でもずいぶん手を焼かされていたとか聞いたけど。どんなやつ?やっぱ美人?」
「……まあ会えば分かるさ」
そして人目を避けつつ部屋に向かい、かのアイリーン・アドラーを名乗るハッカーその人を目にした幼馴染は目を見開いた。それは沙紀の方も同様で。
「え、ヒロくん?え、すごい久しぶりだね!ヒロくんも警察官なの?降谷くんと?」
――そういえば沙紀は幼馴染と親しかったっけ。押し付けられた委員会か何かが一緒で、それなりに仲良くしていたのではなかっただろうか。それが彼女の存在を認識した最初のきっかけだったと思う。
「まあな。というかお前がまさかハッカーやってるとはな」
「それはこう、色々ありまして……でも私もびっくりだよ。いきなり同級生に家に上がり込まれて自白とられるとか」
「なんだよゼロ、証拠あがってなかったのか?」
「……そこはこいつの技術が上だったんだよ。もしやと思って目星つけて調べさせたらアイリーン・アドラー以前の似た手口の不正アクセス事件に妙にこいつが関係者として名前がちらほら上がっていてな」
「お巡りさん助けてって思ったけどこの人がお巡りさんだった」
お得意の違法作業か、と幼馴染は笑った。お茶でも持ってくるね、と沙紀はぱたぱたとキッチンへと向かい、リビングには二人が取り残された。つと幼馴染の表情が変わる。スコッチでも、同級生に向ける穏やかな笑みでもないそれ。公安警察としての顔に。
「……組織にはなんて言ってるんだ?」
「そこそこ使えるハッカーを雇った、組織のことは教えず、ヤミ金の債権回収業者を名乗って探らせている、とだけ」
「まあそこが現実的なラインだろうな。隠し過ぎれば疑われるし、うっかり同級生がばれれば連鎖的にこっちの身まで危うくなるしな。……実際のところはどこまで話してる?あいつに」
「組織のことは何も。潜入捜査をしているから外であっても声はかけるな、極力外出は抑えろとだけ。このマンションではあいつはある会社の社長令嬢で、海外出張で体調を崩して療養中ということになっているからあれが組織に疑われることもそうないだろう。……ただ」
「こっちか。お前にもしものことがあれば俺が、ってことだよな?」
「ああ。定期的に風見やその部下に様子を見に来させてはいるが保険は多いに越したことはない」
「何があろうと巻き込んだ協力者だけは守る、違法作業のツケは自分で払う」
「それが公安、だからな。ないとは思うがもしもの時は頼む」
「ああ。任せておけよ。ないだろうけど」
そうは言っても互いに潜入捜査官の身の上。いつNOCと知られて銃口が向けられるかは分からない。そうはならないよう日々全力を尽くしてはいるが、そのときのための備えは常に持っておくべきだ。協力者の安全確保もその一環である。
それから沙紀も交えて三人で思い出話に花を咲かせた。アルコールもなし、ティーパックの紅茶とジュースとコンビニ菓子で、まるで十代のあの頃のように。後になって思えばあれほど幸せな時もなかっただろう。その時間を終わらせたのはスコッチに入った一本の着信だった。その相手を見て僅かに表情を引き締め、そしていつもの笑顔で言った。
「また来るよ。今度は土産の一つも持ってくる」
そう言った幼馴染が再びこの部屋に来ることはなかった。それから半年後、彼はあの男に胸を拳銃で撃ち抜かれこの世を去った。そのことを降谷は沙紀に伝えなかった。あいつは任務の都合で海外に出ている、しばらくは帰れないそうだ、そう伝えた。
「……そっか。日本戻ってきたらまた会いたいかな。なんかちょっと懐かしいし」
そう無邪気に言った沙紀の顔を降谷は見ることができなかった。
***
気づけばそれから一年以上経っていた。幼馴染を殺した男もまたNOCであり組織から姿を消した。幹部の中でも特別な立ち位置にいる魔女の弱みも握り、探り屋バーボンの地位はある程度確立されていた。無論その陰には『the woman』の活躍がある。
近頃の沙紀は少し無口だ。――幼馴染のことを万一にも知られたくない降谷があまり話さないことが一つ。それからおそらくは近頃の捜査対象に何か勘付いているのかもしれない。
「ここのセーフハウスだが今年いっぱいで引き払うつもりだ。お前の荷物だがすぐに使わないものから少しずつ運び出せるように準備をしておけ」
「……了解。まあ最悪パソコン関係だけ持ち出せればいいかなあ。これだけ引きこもってると服とかもうなんでもいいし」
昼のニュース番組では梅雨明けを報じていた。男性アナウンサーがジャケットを脱ぎ涼しげなシャツで熱中症の危険性について原稿を読み上げている。絶賛ひきこもり中(事実上の軟禁ではあるが)の沙紀は梅雨入りも気づかなかった、と呟きながら降谷の渡した書類にぱらぱらと目を通していた。
「……それで、できるだけ急ぎで頼みたい仕事がある。この製薬会社の研究データをとってほしい」
「ここ?ああ、この前ちょっとした腕試しで潜ったんだけど……」
「腕試しってお前なあ……」
「いや、ほらカンを鈍らせないためにもね?痕跡残してないし。まあそのときこっちから見れるとこに研究データっぽいのなかったんだよね。イントラネットにすら繋いでなくて、たぶん完全オフラインにしてると思う。そもそものセキュリティ固かったしここまでやるの珍しいなーって思ったから覚えてる」
「そうなると直接侵入するしかないか……」
「あ、それなら防犯システムやっちゃう?調べられたらやったことはバレるけど夜間にカメラ誤魔化して防犯システム全カットすれば余裕で入れるよ」
「ID偽造の線はどうだ?」
「登録自体はできるけど記録残っちゃうし……たぶん生体認証あるんだけど証拠も残るんじゃない?」
「確かにな。……防犯システムの乗っ取りの線で行くか。何時間までやれる?」
「カメラ映像誤魔化さないとだから日の出までだから最大でも五時間ってとこかなあ。……ねえ、それとは別にいいこと考えたんだけど、どう?」
沙紀は一つの条件と引き換えにそれを口にした。ただ防犯システムを乗っ取るよりもそちらの方がおそらく成功率が高い。降谷は少し考え、そして頷いた。沙紀は俯きがちに言った。
「それじゃ……任せておいて。何とかするよ」
その一週間後、久しぶりにアイリーン・アドラーが新聞の一面を騒がせた。謎めいた愉快犯は『素敵なメインシステムで少し遊ばせてもらいました、ありがとう』とメッセージを残し、ニュースキャスターやコメンテーターはああでもないこうでもないと議論を繰り広げた。その当人はそんなテレビ番組を見ながらチョコレートを口にしている。頭脳労働には甘いもの、なのだそうだ。
「アイリーン・アドラーって基本愉快犯でしょ。だからあっちも愉快犯がメインシステム引っ掻き回したとは思っても、その隙にまさか直で研究データ抜かれたとは思わない」
「バーチャルの世界のハッカーがまさか物理的に仕掛けて来るとも思われないだろうしな。確かにこっちの証拠は一切ない」
「でしょー。……それで約束、守ってくれるんだよね?」
沙紀が出した条件は一つ。「ひとつだけ質問をするから嘘をつかず答えて」と。
「ああ。それで、何が聞きたい?」
おそらくはこの仕事の発注元のことだろう。沙紀もこれが公安警察からのものではないことは薄々気が付いているようであったし。組織のことも少しなら話しても大丈夫だろう。当然、彼のことは伏せた上で。
沙紀は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐに目を見て言った。
「――スコッチって、ヒロくんのことだよね?」
ひゅ、と喉が鳴った。何かを言おうとして、けれど言葉にならず、降谷は目を伏せた。どうして。なぜ沙紀がその名前を知っている。
「ちょっと気になったことあって探ってたら見つけたの。公安のスパイ、スコッチを処分したって報告のメール。荒かったけど……あの写真、どう見てもヒロくんだった」
今までにハッキングを頼まれた人物と団体、そしてそこに関わるとある組織。それを辿るうちに組織の構成員の誰かの携帯に繋がったらしい。そこにはスコッチと呼ばれる一人の男の死、そして自分の提供してきた情報を報告するバーボンという探り屋の存在。
「……降谷くんが答えてくれないなら私は今から警察に行く。もちろん降谷くんのことも公安のことも伏せて、私が遊び半分でハッキングしてたアイリーン・アドラーです、って。証拠だって私のパソコンには残ってる。今までのこと犯罪なのは事実だから別のやり方で罪を償うよ」
――ふと高校時代を思い出した。あれは一年の夏休み明け、頭の固い嫌味な生徒指導の教師にそれは地毛か染めているのではないかと恒例の呼び出しを受けたとき、同じ部屋に沙紀も呼び出されていた。おっとりとした風の彼女が何故、と思ったが、夏休みのうちにピアスホールを開けていたらしい。校則違反だ、反省文の提出とこれから休日もピアスはつけずに穴は塞げ、それで見逃してやると言う教師に向かって沙紀は笑顔で言ってのけたのだった。
『校則にはピアスなどのアクセサリーは禁止、となってますけど、ピアスホール自体の禁止はどこにも載ってません。だからこうやって外してきましたし、休日にアクセサリーを身に着けることを禁止する校則だってありませんよ?』
ものの見事に校則の穴をついたわけだが――その動機は「なんか面白そうだしやれると思ったから」というふざけたものだった。それから十年弱が経っても「面白そう、やれそう、やった」というふざけた理由でセキュリティーホールをついてハッキングを行っている。だが。本当のところは別の理由もあったことは知っていた。入学して早々その生徒指導の教師に彼女の友人が生来の髪色をしつこく注意され、ついには保健室登校をするようになっていた。意趣返しだったのだろう、彼女なりの。ハッキングとて最初の一回は義憤から。そんな人だった。そんな人だからこそ違法作業を敢行し協力者として引きこんだ。
降谷は震える息を吐きだした。きっとこの反応で沙紀には答えが分かっているのだろう。それでも答えなくてはいけなかった。伝えるのならば己の口で、はっきりと。それが降谷零が沙紀にしてやれる、最低限の誠実な振る舞いというやつだった。――それが公安警察として間違っていたとしても。
「……そうだ。スコッチは組織でのあいつのコードネームだった」
「ライって人に拳銃で胸を打ち抜かれて死んだ、そうだよね?」
「……ああ」
「嘘ついてたんだね。ヒロくんは海外にいる、って」
「巻き込みたくはなかった。……散々協力させておいて、だがな」
「知らない方がいいことってると思ったんでしょ。降谷くんの潜入先のこと言わなかったのは別に怒ってないけど、でもヒロくんのことは正直腹立ってるよ」
沙紀は一度息を吸い込んで言った。
「ヒロくんのこと、誰がちゃんと知ってるの」
身元の知れない潜入捜査官として組織に消された彼の死亡届が出されることはない。戸籍上彼は行方不明だ。親族の誰かが失踪届でも出せばそれから七年後に戸籍上彼は死亡したことになる。彼という人間の死を知っているのは公安部でも限られた人間だけ。
「……スコッチは……あいつは優秀な捜査官だった。公安のスパイとは知られたが情報はそれ以上漏らさなかった。本名も家族も友人も、同僚のことも何一つ漏らさずに死んだ。潜入の時点で公安側の名簿からあいつの名前は消され、組織が死体を処理したから書類上あいつは行方不明だ」
「そっか。……公安の人以外誰も知らないんだね」
「……ああ」
もうすぐ夏が来る。また来る、そう言った彼がこの部屋を訪れることはもう二度とないが、季節は確実に回る。沙紀はふいと頬杖をついて、降谷くん、と呟いた。
「お盆にあれ作ろうよ、胡瓜の馬と茄子の牛。さすがに迎え火は炊けないけどさ、家族も知らないんじゃ帰る場所ないじゃん、ヒロくん」
精霊馬。盆にあの世から戻ってくるという死者を乗せる馬。目立つ弔いができない代わりにささやかながらも彼を迎えよう、と沙紀は言った。
「……また来るって言ってたしね。ちゃんとお迎えしようよ」
「……そうだな」
昼の情報番組はある殺人事件を解決に導いたと言う高校生探偵のニュースを流していた。ハッカーも平成のホームズたる彼に捕まえてもらえばいい、などと無責任なことを言うコメンテーターの言葉を聞き流しながら沙紀はチョコレートの包み紙をぽんと放った。どこでも買えるチープなコンビニのもので、たしか三人で馬鹿な話で盛り上がったあの夜にもあったもの。あのときはあんなにも煌めいて見えたそれはおかしなくらいにくすんで見えた。
テレビの中のアナウンサーが言う。今年の夏も、熱くなるそうだった。
玄関には目立たないようにだけど監視カメラが仕込まれていた。ネット環境を調べていたら妙なのが引っ掛かってハックしてみたら新居の玄関。ついでに音声もとられている。まあそもそもがセーフハウスだし侵入者対策だろう。ざっと調べたけれど他には発信機らしき電波は見当たらなかった。それからは出かける時にはカメラに向かって「コンビニ行ってきまーす」「対象の下見行ってきまーす」と呟くようにした。降谷くんにはふざけてるのかと怒られた。こちらとしては協力しているつもりなのに心外である。
降谷くんはたまにこの家にやってくる。三日連続で来たこともあれば二週間近く放置されたこともある。放置中はどうやらアイリーン・アドラーの担当だったらしい公安刑事さんやその上司さんがデータの受け渡しや様子見で来てくれる。どちらも降谷くんの部下らしい。私がふらふらしてハッキングなんてやって遊んでいる間に彼は立派に出世していたというわけだ。
「なんかやっぱ降谷くんはすごいよね」
「いきなりなんだ。褒めても何も出ないぞ」
「えー、明日の朝ご飯に出汁巻き卵くらいついてもいいと思う。……いやなんか私っていい年して自分探しじゃないけどさあ、変に上に噛みついて変にふらふらしてこんなんなのに、降谷くんはガンガン出世してさあ。すごいよね」
***
そう言って沙紀はつと息をついた。たまに彼女はそんなことを――どこか卑屈な発言をする。降谷はその感情こそが、おそらく沙紀自身すら意識していないだろうその部分が彼女をアイリーン・アドラーへと仕立て上げたのだろう、と推測していた。
「……運もある。お前だって十分すごいさ。ほぼ独学でそこまで技術極められるやつもそうはいないだろう」
「そうかなあ。まあ技術も明日には時代遅れになるからねえ。日々勉強だよ」
「それができる人間なんてそうはいない。……お前は頭は良いのに使い道が分かってないだけだ。だから引きこんだ」
「……使い方教えてやる、って?」
「どんなに鋭い刃でも向ける先を間違えれば悪、正しければ善になるってわけ」
「うわ超上から目線だね。傲慢。……まあ降谷くんはそうやって自信満々の方がらしいね」
そう言って少し笑う。そう、沙紀は自身の能力の使いどころを、稀に見る優れた刃を渡されながら使い道を知らないままでいる。ならば自分が、公安警察がその使い道を示してやれば良い。この国のために、そして沙紀自身のためにも。降谷はちらりとキッチンの方へと目を向けた。この家に連れてきた当初は冷凍食品とコンビニ弁当という食生活だったが、即日配送で生鮮食品が届くネットスーパーを利用するよう辛抱強く言い聞かせ、近頃は簡単なものとはいえ自炊の割合も上がってきているらしい。降谷が立ち寄った際に簡単なものを作ってやれる程度には食材も家に揃っている。その自炊がたとえ鍋から直で食べるものだとしても立派な進歩である。
「――それで?出汁巻き卵だったか?」
「ほんとにいいの?いやほんと降谷くん料理も上手いから完璧だよね。最高だわー」
そう言って沙紀はにこにこと笑った。その笑顔からは誰も沙紀が凄腕のハッカーとは、妙な孤独感を抱えた人間だとは誰も思いはしないのだろう。
「……それでこの人物なんだがなんでもいい、情報とれないか?スマホでもハッキングできればありがたいんだが」
「うーん、個人だと企業と違って狙い定めるのが時間かかるんだよねえ。一週間くらい見てくれる?」
「スマートフォンの契約者情報ならあるが」
「……公安こわ。というかそれならサイバー対策室辺りに頼めば?やっぱそういう特定系は堂々と開示要求できる警察が強いよ?」
「……今は言えない。が、警察よりお前に任せる方が適任と判断した」
これは降谷零の仕事ではない。組織の探り屋、バーボンへの命令だ。沙紀には自身が潜入捜査に当たっているため万が一外で会ったとしても声はかけないよう、初対面として振る舞うように伝えてあるが、組織のことは何一つ教えていない。教えないままこうして何度か探り屋の仕事を手伝わせている。その方が沙紀にとっても安全である。それが公安警察としての自分の判断だった。沙紀は少し首を傾げたが、すぐに頷いた。
「了解。今は詳しく聞かないよ。……でも情報もう少しほしいかな。行動経路とかよく行く場所とか。この人に関係する情報、あるだけ全部ちょうだい」
「……ターゲットに直接近づくのか?」
「スマホなら近くのWiFiとか自宅のとか経由して乗っ取るのが早いんだよね、やっぱ。安定だしバレない」
「……まあそれはそうだろうが、できるだけお前は近づくな。技術は信頼してるが訓練も受けたことのない素人が近づくのは危険だ」
「……あー、もしかしなくても危ない人か。じゃあ降谷くんでも誰でもいいけど適当なスマホ持って近づいてよ。タイミング教えてくれればそれ遠隔操作して上手くやるから」
そう言うと沙紀はパソコンの横のカゴに無造作に放り込まれたスマートフォンをひとつ取り出し、ケーブルをつないであれこれといじりだした。その間に降谷はどうしようかと少し考え、そしてふと思いついた。ターゲットに張り付いているという組織の同胞――にして公安刑事、幼馴染に連絡を入れる。ターゲットの行動範囲、分かる限り教えてくれ、と。
「ああ、知り合いのハッカーに探らせてるんだが情報がほしいらしい。……ああそうだ、スコッチ、お前ちょっと今から来れるか?」
『ああ、これからライと交代だから構わないけど、どうかしたか?』
電話で詳しい話をするのは気が引けた。万が一盗聴されていたら事だ。ターゲットのことで見てもらいたい資料がある、直接足を運んでくれと伝え電話を切った。
***
愛車のガラスをコツコツと叩く音がした。顔を上げるとギターケースを背負った若い男が身をかがめて立っていた。助手席に乗せ、盗聴器発信機その他がついていないことを無言のままに確認し、そしてお互い頬をつねる。潜入の時に決めた合言葉を確認し、ようやく一息ついた。
「どこぞの魔女の変装でなくて安心したよ、スコッチ」
「そっちもな、バーボン。……で?見てもらいたいものって?」
「まあ、とりあえずうちに来てくれ」
「いいけど……。というか探り屋ともなるとハッカーの一人二人は抱えてるんだな。どこの紹介だ?」
「少しばかり伝手があってな。偶然手に入れられそうだったから引っ張ってきた」
「……大丈夫なのか?そいつ」
あらゆる意味を含んだ問いに降谷は軽く肩を竦め、車を走らせ来た道を戻る。あのセーフハウスに置く車は人目を避けるため目立たないごく普通の国産車である。一番の愛車に比べれば少々ハンドリングや感触に不満はあるが、こうして普通に法定速度内で舗装された道を安全に走る分には十分だ。本来この日本において車というのはそれだけ満たしていれば十分なのだが、潜入捜査官ともなるとそれ以上のスペックを求めたくなるときもある。
「万が一のためにお前にも顔つなぎしておこうと思ってな」
「なるほどね。つまりは本職絡みか」
「留置所とどっちがいいか本人に選ばせた。あのアイリーン・アドラーだよ」
「え、あれ捕まえたのか。公安でもずいぶん手を焼かされていたとか聞いたけど。どんなやつ?やっぱ美人?」
「……まあ会えば分かるさ」
そして人目を避けつつ部屋に向かい、かのアイリーン・アドラーを名乗るハッカーその人を目にした幼馴染は目を見開いた。それは沙紀の方も同様で。
「え、ヒロくん?え、すごい久しぶりだね!ヒロくんも警察官なの?降谷くんと?」
――そういえば沙紀は幼馴染と親しかったっけ。押し付けられた委員会か何かが一緒で、それなりに仲良くしていたのではなかっただろうか。それが彼女の存在を認識した最初のきっかけだったと思う。
「まあな。というかお前がまさかハッカーやってるとはな」
「それはこう、色々ありまして……でも私もびっくりだよ。いきなり同級生に家に上がり込まれて自白とられるとか」
「なんだよゼロ、証拠あがってなかったのか?」
「……そこはこいつの技術が上だったんだよ。もしやと思って目星つけて調べさせたらアイリーン・アドラー以前の似た手口の不正アクセス事件に妙にこいつが関係者として名前がちらほら上がっていてな」
「お巡りさん助けてって思ったけどこの人がお巡りさんだった」
お得意の違法作業か、と幼馴染は笑った。お茶でも持ってくるね、と沙紀はぱたぱたとキッチンへと向かい、リビングには二人が取り残された。つと幼馴染の表情が変わる。スコッチでも、同級生に向ける穏やかな笑みでもないそれ。公安警察としての顔に。
「……組織にはなんて言ってるんだ?」
「そこそこ使えるハッカーを雇った、組織のことは教えず、ヤミ金の債権回収業者を名乗って探らせている、とだけ」
「まあそこが現実的なラインだろうな。隠し過ぎれば疑われるし、うっかり同級生がばれれば連鎖的にこっちの身まで危うくなるしな。……実際のところはどこまで話してる?あいつに」
「組織のことは何も。潜入捜査をしているから外であっても声はかけるな、極力外出は抑えろとだけ。このマンションではあいつはある会社の社長令嬢で、海外出張で体調を崩して療養中ということになっているからあれが組織に疑われることもそうないだろう。……ただ」
「こっちか。お前にもしものことがあれば俺が、ってことだよな?」
「ああ。定期的に風見やその部下に様子を見に来させてはいるが保険は多いに越したことはない」
「何があろうと巻き込んだ協力者だけは守る、違法作業のツケは自分で払う」
「それが公安、だからな。ないとは思うがもしもの時は頼む」
「ああ。任せておけよ。ないだろうけど」
そうは言っても互いに潜入捜査官の身の上。いつNOCと知られて銃口が向けられるかは分からない。そうはならないよう日々全力を尽くしてはいるが、そのときのための備えは常に持っておくべきだ。協力者の安全確保もその一環である。
それから沙紀も交えて三人で思い出話に花を咲かせた。アルコールもなし、ティーパックの紅茶とジュースとコンビニ菓子で、まるで十代のあの頃のように。後になって思えばあれほど幸せな時もなかっただろう。その時間を終わらせたのはスコッチに入った一本の着信だった。その相手を見て僅かに表情を引き締め、そしていつもの笑顔で言った。
「また来るよ。今度は土産の一つも持ってくる」
そう言った幼馴染が再びこの部屋に来ることはなかった。それから半年後、彼はあの男に胸を拳銃で撃ち抜かれこの世を去った。そのことを降谷は沙紀に伝えなかった。あいつは任務の都合で海外に出ている、しばらくは帰れないそうだ、そう伝えた。
「……そっか。日本戻ってきたらまた会いたいかな。なんかちょっと懐かしいし」
そう無邪気に言った沙紀の顔を降谷は見ることができなかった。
***
気づけばそれから一年以上経っていた。幼馴染を殺した男もまたNOCであり組織から姿を消した。幹部の中でも特別な立ち位置にいる魔女の弱みも握り、探り屋バーボンの地位はある程度確立されていた。無論その陰には『the woman』の活躍がある。
近頃の沙紀は少し無口だ。――幼馴染のことを万一にも知られたくない降谷があまり話さないことが一つ。それからおそらくは近頃の捜査対象に何か勘付いているのかもしれない。
「ここのセーフハウスだが今年いっぱいで引き払うつもりだ。お前の荷物だがすぐに使わないものから少しずつ運び出せるように準備をしておけ」
「……了解。まあ最悪パソコン関係だけ持ち出せればいいかなあ。これだけ引きこもってると服とかもうなんでもいいし」
昼のニュース番組では梅雨明けを報じていた。男性アナウンサーがジャケットを脱ぎ涼しげなシャツで熱中症の危険性について原稿を読み上げている。絶賛ひきこもり中(事実上の軟禁ではあるが)の沙紀は梅雨入りも気づかなかった、と呟きながら降谷の渡した書類にぱらぱらと目を通していた。
「……それで、できるだけ急ぎで頼みたい仕事がある。この製薬会社の研究データをとってほしい」
「ここ?ああ、この前ちょっとした腕試しで潜ったんだけど……」
「腕試しってお前なあ……」
「いや、ほらカンを鈍らせないためにもね?痕跡残してないし。まあそのときこっちから見れるとこに研究データっぽいのなかったんだよね。イントラネットにすら繋いでなくて、たぶん完全オフラインにしてると思う。そもそものセキュリティ固かったしここまでやるの珍しいなーって思ったから覚えてる」
「そうなると直接侵入するしかないか……」
「あ、それなら防犯システムやっちゃう?調べられたらやったことはバレるけど夜間にカメラ誤魔化して防犯システム全カットすれば余裕で入れるよ」
「ID偽造の線はどうだ?」
「登録自体はできるけど記録残っちゃうし……たぶん生体認証あるんだけど証拠も残るんじゃない?」
「確かにな。……防犯システムの乗っ取りの線で行くか。何時間までやれる?」
「カメラ映像誤魔化さないとだから日の出までだから最大でも五時間ってとこかなあ。……ねえ、それとは別にいいこと考えたんだけど、どう?」
沙紀は一つの条件と引き換えにそれを口にした。ただ防犯システムを乗っ取るよりもそちらの方がおそらく成功率が高い。降谷は少し考え、そして頷いた。沙紀は俯きがちに言った。
「それじゃ……任せておいて。何とかするよ」
その一週間後、久しぶりにアイリーン・アドラーが新聞の一面を騒がせた。謎めいた愉快犯は『素敵なメインシステムで少し遊ばせてもらいました、ありがとう』とメッセージを残し、ニュースキャスターやコメンテーターはああでもないこうでもないと議論を繰り広げた。その当人はそんなテレビ番組を見ながらチョコレートを口にしている。頭脳労働には甘いもの、なのだそうだ。
「アイリーン・アドラーって基本愉快犯でしょ。だからあっちも愉快犯がメインシステム引っ掻き回したとは思っても、その隙にまさか直で研究データ抜かれたとは思わない」
「バーチャルの世界のハッカーがまさか物理的に仕掛けて来るとも思われないだろうしな。確かにこっちの証拠は一切ない」
「でしょー。……それで約束、守ってくれるんだよね?」
沙紀が出した条件は一つ。「ひとつだけ質問をするから嘘をつかず答えて」と。
「ああ。それで、何が聞きたい?」
おそらくはこの仕事の発注元のことだろう。沙紀もこれが公安警察からのものではないことは薄々気が付いているようであったし。組織のことも少しなら話しても大丈夫だろう。当然、彼のことは伏せた上で。
沙紀は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐに目を見て言った。
「――スコッチって、ヒロくんのことだよね?」
ひゅ、と喉が鳴った。何かを言おうとして、けれど言葉にならず、降谷は目を伏せた。どうして。なぜ沙紀がその名前を知っている。
「ちょっと気になったことあって探ってたら見つけたの。公安のスパイ、スコッチを処分したって報告のメール。荒かったけど……あの写真、どう見てもヒロくんだった」
今までにハッキングを頼まれた人物と団体、そしてそこに関わるとある組織。それを辿るうちに組織の構成員の誰かの携帯に繋がったらしい。そこにはスコッチと呼ばれる一人の男の死、そして自分の提供してきた情報を報告するバーボンという探り屋の存在。
「……降谷くんが答えてくれないなら私は今から警察に行く。もちろん降谷くんのことも公安のことも伏せて、私が遊び半分でハッキングしてたアイリーン・アドラーです、って。証拠だって私のパソコンには残ってる。今までのこと犯罪なのは事実だから別のやり方で罪を償うよ」
――ふと高校時代を思い出した。あれは一年の夏休み明け、頭の固い嫌味な生徒指導の教師にそれは地毛か染めているのではないかと恒例の呼び出しを受けたとき、同じ部屋に沙紀も呼び出されていた。おっとりとした風の彼女が何故、と思ったが、夏休みのうちにピアスホールを開けていたらしい。校則違反だ、反省文の提出とこれから休日もピアスはつけずに穴は塞げ、それで見逃してやると言う教師に向かって沙紀は笑顔で言ってのけたのだった。
『校則にはピアスなどのアクセサリーは禁止、となってますけど、ピアスホール自体の禁止はどこにも載ってません。だからこうやって外してきましたし、休日にアクセサリーを身に着けることを禁止する校則だってありませんよ?』
ものの見事に校則の穴をついたわけだが――その動機は「なんか面白そうだしやれると思ったから」というふざけたものだった。それから十年弱が経っても「面白そう、やれそう、やった」というふざけた理由でセキュリティーホールをついてハッキングを行っている。だが。本当のところは別の理由もあったことは知っていた。入学して早々その生徒指導の教師に彼女の友人が生来の髪色をしつこく注意され、ついには保健室登校をするようになっていた。意趣返しだったのだろう、彼女なりの。ハッキングとて最初の一回は義憤から。そんな人だった。そんな人だからこそ違法作業を敢行し協力者として引きこんだ。
降谷は震える息を吐きだした。きっとこの反応で沙紀には答えが分かっているのだろう。それでも答えなくてはいけなかった。伝えるのならば己の口で、はっきりと。それが降谷零が沙紀にしてやれる、最低限の誠実な振る舞いというやつだった。――それが公安警察として間違っていたとしても。
「……そうだ。スコッチは組織でのあいつのコードネームだった」
「ライって人に拳銃で胸を打ち抜かれて死んだ、そうだよね?」
「……ああ」
「嘘ついてたんだね。ヒロくんは海外にいる、って」
「巻き込みたくはなかった。……散々協力させておいて、だがな」
「知らない方がいいことってると思ったんでしょ。降谷くんの潜入先のこと言わなかったのは別に怒ってないけど、でもヒロくんのことは正直腹立ってるよ」
沙紀は一度息を吸い込んで言った。
「ヒロくんのこと、誰がちゃんと知ってるの」
身元の知れない潜入捜査官として組織に消された彼の死亡届が出されることはない。戸籍上彼は行方不明だ。親族の誰かが失踪届でも出せばそれから七年後に戸籍上彼は死亡したことになる。彼という人間の死を知っているのは公安部でも限られた人間だけ。
「……スコッチは……あいつは優秀な捜査官だった。公安のスパイとは知られたが情報はそれ以上漏らさなかった。本名も家族も友人も、同僚のことも何一つ漏らさずに死んだ。潜入の時点で公安側の名簿からあいつの名前は消され、組織が死体を処理したから書類上あいつは行方不明だ」
「そっか。……公安の人以外誰も知らないんだね」
「……ああ」
もうすぐ夏が来る。また来る、そう言った彼がこの部屋を訪れることはもう二度とないが、季節は確実に回る。沙紀はふいと頬杖をついて、降谷くん、と呟いた。
「お盆にあれ作ろうよ、胡瓜の馬と茄子の牛。さすがに迎え火は炊けないけどさ、家族も知らないんじゃ帰る場所ないじゃん、ヒロくん」
精霊馬。盆にあの世から戻ってくるという死者を乗せる馬。目立つ弔いができない代わりにささやかながらも彼を迎えよう、と沙紀は言った。
「……また来るって言ってたしね。ちゃんとお迎えしようよ」
「……そうだな」
昼の情報番組はある殺人事件を解決に導いたと言う高校生探偵のニュースを流していた。ハッカーも平成のホームズたる彼に捕まえてもらえばいい、などと無責任なことを言うコメンテーターの言葉を聞き流しながら沙紀はチョコレートの包み紙をぽんと放った。どこでも買えるチープなコンビニのもので、たしか三人で馬鹿な話で盛り上がったあの夜にもあったもの。あのときはあんなにも煌めいて見えたそれはおかしなくらいにくすんで見えた。
テレビの中のアナウンサーが言う。今年の夏も、熱くなるそうだった。
