「遊び半分でハッキングしてたら同級生と入籍していた」
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このセーフハウスに降谷くんの部屋が出来てから一か月ほど経った。組織の残党狩りはまだ続いていた。予想より早いと言われているのは皮肉なことに壊滅したことによって改めて黒ずくめの組織の脅威が警察や検察上層部に知らしめられ、民間人に多大な被害を及ぼさない範囲での多少の強引な捜査が容認される空気も大きいという。「ただいつまでもこのままじゃこちら側が第二の組織になってしまうからそろそろ引き締めないとな」と降谷くんが言っていた。でも同じ口で「そういう訳でこのリストのスマホのハッキング頼む」と言うのだから、まあそこはさすがゼロというべきだろうか。守るべき理想も分かっていて、それでいてなお現実に必要なものを選びとれる。一言でいえば判断力に優れている。
――でも朝起こすとたまにぐずぐずしてることもある。ネクタイを結んでくれないと仕事に行かないと駄々をこねることもある。膝枕を要求してみたり髪を乾かしてほしがったりもする。公安のエリートではなく普通の人間な一面が垣間見えることにちょっぴり優越感に似たものを覚えたり、その後のお返しと言わんばかりの至れり尽くせりな手作り料理に胃袋を掴まれたり、ごく普通に幸せな生活を送っていた。まあ二人揃って国際犯罪組織をリアルバーチャル両面から追いかけ回しているのだけれど。そして私も時々仕事、というか公安依頼の作業と甘い恋人の時間が曖昧になりそうで引き締めないとな、と思っている。
ダイニングテーブルにノートパソコンとタブレットを広げた私の向かい側で、降谷くんは同じくノートパソコンをセッティングして何か書類でも作っているのだろうか、忙しくタイピングしている。別にやろうと思えば侵入できるけどそこはマナー違反である、何をしているのかは知らない。とりあえず夕ご飯の時間になればお互い撤収作業が必要なので、たぶんそんなに腰据えてやるようなものでもないのだろう。
「……降谷くん、データとれたよ。確認お願い」
「了解。……ところで、さ」
渡したタブレットで情報を確認しながら降谷くんがふっと切り出した。――何かやってしまっただろうか。真っ先に浮かんだのはそれ。この前のデータに不具合でも、いやまさか逆にウイルス仕込まれた?色々と嫌な想像が頭をよぎる私に、降谷くんは少し口をとがらせて言った。
「その降谷くんっていうの、いい加減やめないか」
「……あー、さすがに作業中はあれか。降谷刑事?」
失敗ではなくて良かった。でも確かに、降谷くんなんて呼び方はあまりよろしくないのかもしれない。少なくとも作業中は公安刑事と協力者なのだから。
「……違う」
「じゃあ、降谷さん?」
「違う」
「わかった、安室さん」
「違う」
「……え、まさかのバーボン?」
「絶対に違う。もうそれは『後処理が完璧に終わるまではお前の籍はない、これで呼ぶぞ』とか言うどこぞの理事官だけで充分だ」
「あー、降谷くんまだ警察庁に籍復帰させてもらえないんだっけか。……え、それ給料出てるの?大丈夫?」
「いや、給料は出てるから。……またそれ、降谷くんって」
「……じゃあ何。なんて呼べばいいの?」
ここで私はちょっぴり嘘を吐いた。いや、ほんとのことを言わなかった、の方が正しい。その呼び方はちょっとだけ頭にあって、だけど口にはできなかった。少なくともコードネームよりは先に思いついていた。でも本人の口から聞きたいかなあ、なんていうのがあって。降谷くんはタブレットを置いて、そっぽを向きながら言った。
「……零でいいだろ」
思ってた通りだけど、でもこう、いざ呼ぼうとすると照れが先に来る。……中学生でもないのに。いやでも本当にこれは照れ臭い。キーボードを叩く指が止まる。これはちょっと、だいぶやばい。俯いてノートパソコンの陰に顔を隠す。ちょっと今降谷くんの顔を見れる気がしない。
「……いやこの十年、降谷くんって呼んでたわけだし、いきなりはその」
「ヒロくん」
「……それはさ、初対面から下の名前でいいよって言われたし……ヒロくん話しかけやすかったし……」
「コナンくん」
「子供に張り合う気か。自分の年考えたら?私たちついに三十代秒読みよ?」
「……まあ子供だけど、でもそうじゃなくて」
テーブルの向かい側から降谷くんの腕が伸びてきて私の使ってたノートパソコンをぱたんと閉じた。そして思わぬことを口にした。
「沙紀、お前も降谷さんだろ」
「…………は?」
――それはこのセーフハウスの名義的なアレだろうか。その方が周辺住民からは疑われないとかそういう。いやでも降谷くんに限ってそこで本名は使わない。それに確かここの名義は佐藤さんだか渡辺さんだか、よくある名字をお借りしているはずで。いやもう一つ可能性はある。そしてその可能性はこの男なら十分可能である。
「まさかとは思うけどさ、一応聞くよ。どういうことかな?」
「籍は入れた。先週だったかな」
「嘘だろ聞いてない」
「ちゃんと許可は取った。『知識も技術も放置できるものではないので責任持って一生預かる』と言ったら許可は下りた。ゼロは当分お前を手放す気はないらしい。まあ俺もないけどな」
「恋人より先に上司か、まあ仕方ないのは分かってるよ?でも一度は解放するとか言ったのどのお口かな?え?違法作業?仮にも恋人に対して?離婚届出そっかな?」
「不受理申出書も提出済みだ。諦めろ。それに自分から捕まりに来たのはお前の方だろう?」
「捕まりに来たんじゃないよ、捕まえに来たんだよ。放っといたら殺されかかり?そして爆弾に巻き込まれそうになる?……言ったよね。降谷くんの分は作る気ないから。地獄のドラテクで戻って来なきゃ許さない」
「……それは悪かったよ。でもまあ、そういうことだ」
「そういうことってどういうことなのかな。私書いた覚えないよ?」
「いや、確かにお前が書いた。先週、ちょっと作業が詰まっていただろ?」
――先週。確かに作業が詰まっていた。テロ計画を企てている犯人グループの通信網を探っていて、組織壊滅作戦時ほどじゃないけど数日間半徹状態で乗り切った。あの数日間は栄養ドリンクとお友達になっていた。降谷くんにしたら「ちょっと」なのだろうけど、私のような常人には「かなり」だった。その修羅場を乗り切った後……確かに降谷くんが帰ってきた。よく頑張ったとあらゆる意味で甘やかされ……そのあと何かにサインをしなかっただろうか?眠くて覚えてないけど、何か書いた記憶がある。
「……あのときのサインと捺印って」
「それに結婚の承諾もしたぞ。ほら」
そう言って降谷くんが取り出したのはスマートフォン。音声データの再生が始まった。
『……明日何食べたい?』
『あしたぁ?……うーん、降谷くんのオムレツ……ふわふわのやつ……』
『俺のか。……お前も降谷さんになるか?降谷くんのオムレツ、食べ放題だぞ』
『食べ放題……?うん……いいよ……』
『ちょっとこれに名前書くか。……うん、そう。それでここに押せばいいから』
……オムレツで結婚に承諾した女。いやいや待て、何だそれ、ほんと何だそれ。そしてあらゆる意味でくたくたの恋人を利用して言質を取る男って何なんだ。公安警察だ。
「……いや朦朧状態で証言の信憑性薄いし。あれだ、不当な証言、無効です」
「オムレツ、美味かっただろ?」
「くっそ乗っ取って消してやる、消されないと思うなよ」
「残念だったな、別のセーフハウスのオフラインの機材にバックアップを取ってある。ついでにカセットテープにもダビングした。これはハッキングじゃ消せない」
「なんでそういうところだけ用意周到なのかな?おかしいでしょ!」
ぶん殴りたくなるほどの良い笑顔。スマートフォンだけなら消してやるのに。いやもう消そう。これだけでも消してやる。ノートパソコンを立ち上げて降谷くんのスマホにハッキングを仕掛ける。降谷くんも通信関係カットして全力で回避してるようだけど甘い、そのスマホには先日既にアプリを仕込んである。十分ほどかかったけどどうにか抹消に成功した。降谷くんがお手上げだ、といった顔で軽く両手をひらひらさせて、ダイニングテーブルからソファに移動する。つい先日まで私のベッドだったそこは現在普通のソファとしてしか使われていない。なぜなら降谷くんの部屋に運び込まれたベッドがクイーンサイズだったからだ。そして非常に寝心地が良い。そんな現在日勤オンリーとなったソファに降谷くんは長い足を組んで座り込んだ。
「……俺もそれなりにハッキングも対策もできるんだけどな」
「引きこもりハッカー舐めんな、公安のバックアップでめちゃくちゃスキルあがってるからね」
「ますます手放せなくなったな」
「だからって違法作業で結婚って何」
「悪かったって。俺も疲れてたんだよ」
「……いやいやそれで?疲れてた人がやることじゃないでしょ、あれ。用意周到過ぎない?」
「ここに住みはじめたときから婚姻届は用意していた」
「……ごめんちょっと引いた、用意周到過ぎない?」
――よくよく考えたら非常に無駄な時間を過ごした気がする。人生で一、二を争う無意味な努力であった。なんだったのだろう。テーブルに突っ伏して背中を伸ばす。最近ちょっぴり肩こりがひどい。主に公安部からの作業とか作業とかで。肩以外の痛みの八割方は現在ソファを占領する恋人のせいである。
「ああ、もういいよ、諦めた……いや待って、交際期間短くない?何日よ」
「今更待つ必要がどこにある。もうお互いのことは分かってるだろ」
「分かってるけどさあ……それにこんなだまし討ちにする必要あった?」
「あった。今のゼロの状態ならどさくさ紛れに押し通せる。変に反対する奴もその余裕がないし。……それにお前は放っておくと『別れないとは言ってないし』とか言って逃げ出しかねない」
「……いやそんな野生動物みたいな真似しないから」
「お前ならやる。やれそうだからついやったとか言ってやる。……でもだってもう離せない、言っただろ」
そう言って振り向いた瞳は何となく寂しそうにも見えて。自分のおもちゃを取られたくない子供のようにも見えてちょっとだけ可愛く思えてしまう。いや取られたくないおもちゃが自分だと思うと何とも微妙な心持ちだけど。少し溜め息をついて立ち上がる。
「……言ったでしょ。もう離す気ないし、捕まえるのはこっちだって」
背もたれに腕をかけて真ん中にどかっと座るのがこれほど様になる男もいないだろう。正面に回って、少し迷ったけどそのまま膝の上に跨る。肩を掴んで、捕まえた、というと降谷くんはついと口の端を持ち上げた。
「捕まった。……で?何してくれるんだ?」
「…………」
「考えてない、と」
図星である。……いや本当に何も考えていなかった。なんとなくそこに降谷くんがいたから乗った、それだけで。
「……考えてるから」
「へえ。何を?俺のことどうしてくれるの?」
「……こ、こうしてやる!」
「へ?ちょ……っひゃはは!ちょっと、この野郎、」
人体錬成されてるのか筋肉合金製なのかと疑いたくなるこの男、でも一応は人間である。いくら公安のエリートでも弱点は同じ。――くすぐり攻撃は偉大だ。脇の下、脇腹、背中その他。これって命の危険を感じるとかなんとからしいから、数か月前まで綱渡りのような潜入をしてた降谷くんにはより効くのかもしれない。じたばた暴れるのを体重で押さえてくすぐってると、不意に景色が切り替わった。――そういえばこの部屋に引っ越してきた初日にあったな、こんなこと。
「……えー、ごめん」
「何が?」
「調子に乗り過ぎた。ごめん」
「……それで済むなら警察はいらないな」
まったくもっていい笑顔。そして私に逆転の技術はなく。
「――覚悟しろ」
「え、ちょっと待っ、ひゃあ!」
この後死ぬほどくすぐり倒された。
――でも朝起こすとたまにぐずぐずしてることもある。ネクタイを結んでくれないと仕事に行かないと駄々をこねることもある。膝枕を要求してみたり髪を乾かしてほしがったりもする。公安のエリートではなく普通の人間な一面が垣間見えることにちょっぴり優越感に似たものを覚えたり、その後のお返しと言わんばかりの至れり尽くせりな手作り料理に胃袋を掴まれたり、ごく普通に幸せな生活を送っていた。まあ二人揃って国際犯罪組織をリアルバーチャル両面から追いかけ回しているのだけれど。そして私も時々仕事、というか公安依頼の作業と甘い恋人の時間が曖昧になりそうで引き締めないとな、と思っている。
ダイニングテーブルにノートパソコンとタブレットを広げた私の向かい側で、降谷くんは同じくノートパソコンをセッティングして何か書類でも作っているのだろうか、忙しくタイピングしている。別にやろうと思えば侵入できるけどそこはマナー違反である、何をしているのかは知らない。とりあえず夕ご飯の時間になればお互い撤収作業が必要なので、たぶんそんなに腰据えてやるようなものでもないのだろう。
「……降谷くん、データとれたよ。確認お願い」
「了解。……ところで、さ」
渡したタブレットで情報を確認しながら降谷くんがふっと切り出した。――何かやってしまっただろうか。真っ先に浮かんだのはそれ。この前のデータに不具合でも、いやまさか逆にウイルス仕込まれた?色々と嫌な想像が頭をよぎる私に、降谷くんは少し口をとがらせて言った。
「その降谷くんっていうの、いい加減やめないか」
「……あー、さすがに作業中はあれか。降谷刑事?」
失敗ではなくて良かった。でも確かに、降谷くんなんて呼び方はあまりよろしくないのかもしれない。少なくとも作業中は公安刑事と協力者なのだから。
「……違う」
「じゃあ、降谷さん?」
「違う」
「わかった、安室さん」
「違う」
「……え、まさかのバーボン?」
「絶対に違う。もうそれは『後処理が完璧に終わるまではお前の籍はない、これで呼ぶぞ』とか言うどこぞの理事官だけで充分だ」
「あー、降谷くんまだ警察庁に籍復帰させてもらえないんだっけか。……え、それ給料出てるの?大丈夫?」
「いや、給料は出てるから。……またそれ、降谷くんって」
「……じゃあ何。なんて呼べばいいの?」
ここで私はちょっぴり嘘を吐いた。いや、ほんとのことを言わなかった、の方が正しい。その呼び方はちょっとだけ頭にあって、だけど口にはできなかった。少なくともコードネームよりは先に思いついていた。でも本人の口から聞きたいかなあ、なんていうのがあって。降谷くんはタブレットを置いて、そっぽを向きながら言った。
「……零でいいだろ」
思ってた通りだけど、でもこう、いざ呼ぼうとすると照れが先に来る。……中学生でもないのに。いやでも本当にこれは照れ臭い。キーボードを叩く指が止まる。これはちょっと、だいぶやばい。俯いてノートパソコンの陰に顔を隠す。ちょっと今降谷くんの顔を見れる気がしない。
「……いやこの十年、降谷くんって呼んでたわけだし、いきなりはその」
「ヒロくん」
「……それはさ、初対面から下の名前でいいよって言われたし……ヒロくん話しかけやすかったし……」
「コナンくん」
「子供に張り合う気か。自分の年考えたら?私たちついに三十代秒読みよ?」
「……まあ子供だけど、でもそうじゃなくて」
テーブルの向かい側から降谷くんの腕が伸びてきて私の使ってたノートパソコンをぱたんと閉じた。そして思わぬことを口にした。
「沙紀、お前も降谷さんだろ」
「…………は?」
――それはこのセーフハウスの名義的なアレだろうか。その方が周辺住民からは疑われないとかそういう。いやでも降谷くんに限ってそこで本名は使わない。それに確かここの名義は佐藤さんだか渡辺さんだか、よくある名字をお借りしているはずで。いやもう一つ可能性はある。そしてその可能性はこの男なら十分可能である。
「まさかとは思うけどさ、一応聞くよ。どういうことかな?」
「籍は入れた。先週だったかな」
「嘘だろ聞いてない」
「ちゃんと許可は取った。『知識も技術も放置できるものではないので責任持って一生預かる』と言ったら許可は下りた。ゼロは当分お前を手放す気はないらしい。まあ俺もないけどな」
「恋人より先に上司か、まあ仕方ないのは分かってるよ?でも一度は解放するとか言ったのどのお口かな?え?違法作業?仮にも恋人に対して?離婚届出そっかな?」
「不受理申出書も提出済みだ。諦めろ。それに自分から捕まりに来たのはお前の方だろう?」
「捕まりに来たんじゃないよ、捕まえに来たんだよ。放っといたら殺されかかり?そして爆弾に巻き込まれそうになる?……言ったよね。降谷くんの分は作る気ないから。地獄のドラテクで戻って来なきゃ許さない」
「……それは悪かったよ。でもまあ、そういうことだ」
「そういうことってどういうことなのかな。私書いた覚えないよ?」
「いや、確かにお前が書いた。先週、ちょっと作業が詰まっていただろ?」
――先週。確かに作業が詰まっていた。テロ計画を企てている犯人グループの通信網を探っていて、組織壊滅作戦時ほどじゃないけど数日間半徹状態で乗り切った。あの数日間は栄養ドリンクとお友達になっていた。降谷くんにしたら「ちょっと」なのだろうけど、私のような常人には「かなり」だった。その修羅場を乗り切った後……確かに降谷くんが帰ってきた。よく頑張ったとあらゆる意味で甘やかされ……そのあと何かにサインをしなかっただろうか?眠くて覚えてないけど、何か書いた記憶がある。
「……あのときのサインと捺印って」
「それに結婚の承諾もしたぞ。ほら」
そう言って降谷くんが取り出したのはスマートフォン。音声データの再生が始まった。
『……明日何食べたい?』
『あしたぁ?……うーん、降谷くんのオムレツ……ふわふわのやつ……』
『俺のか。……お前も降谷さんになるか?降谷くんのオムレツ、食べ放題だぞ』
『食べ放題……?うん……いいよ……』
『ちょっとこれに名前書くか。……うん、そう。それでここに押せばいいから』
……オムレツで結婚に承諾した女。いやいや待て、何だそれ、ほんと何だそれ。そしてあらゆる意味でくたくたの恋人を利用して言質を取る男って何なんだ。公安警察だ。
「……いや朦朧状態で証言の信憑性薄いし。あれだ、不当な証言、無効です」
「オムレツ、美味かっただろ?」
「くっそ乗っ取って消してやる、消されないと思うなよ」
「残念だったな、別のセーフハウスのオフラインの機材にバックアップを取ってある。ついでにカセットテープにもダビングした。これはハッキングじゃ消せない」
「なんでそういうところだけ用意周到なのかな?おかしいでしょ!」
ぶん殴りたくなるほどの良い笑顔。スマートフォンだけなら消してやるのに。いやもう消そう。これだけでも消してやる。ノートパソコンを立ち上げて降谷くんのスマホにハッキングを仕掛ける。降谷くんも通信関係カットして全力で回避してるようだけど甘い、そのスマホには先日既にアプリを仕込んである。十分ほどかかったけどどうにか抹消に成功した。降谷くんがお手上げだ、といった顔で軽く両手をひらひらさせて、ダイニングテーブルからソファに移動する。つい先日まで私のベッドだったそこは現在普通のソファとしてしか使われていない。なぜなら降谷くんの部屋に運び込まれたベッドがクイーンサイズだったからだ。そして非常に寝心地が良い。そんな現在日勤オンリーとなったソファに降谷くんは長い足を組んで座り込んだ。
「……俺もそれなりにハッキングも対策もできるんだけどな」
「引きこもりハッカー舐めんな、公安のバックアップでめちゃくちゃスキルあがってるからね」
「ますます手放せなくなったな」
「だからって違法作業で結婚って何」
「悪かったって。俺も疲れてたんだよ」
「……いやいやそれで?疲れてた人がやることじゃないでしょ、あれ。用意周到過ぎない?」
「ここに住みはじめたときから婚姻届は用意していた」
「……ごめんちょっと引いた、用意周到過ぎない?」
――よくよく考えたら非常に無駄な時間を過ごした気がする。人生で一、二を争う無意味な努力であった。なんだったのだろう。テーブルに突っ伏して背中を伸ばす。最近ちょっぴり肩こりがひどい。主に公安部からの作業とか作業とかで。肩以外の痛みの八割方は現在ソファを占領する恋人のせいである。
「ああ、もういいよ、諦めた……いや待って、交際期間短くない?何日よ」
「今更待つ必要がどこにある。もうお互いのことは分かってるだろ」
「分かってるけどさあ……それにこんなだまし討ちにする必要あった?」
「あった。今のゼロの状態ならどさくさ紛れに押し通せる。変に反対する奴もその余裕がないし。……それにお前は放っておくと『別れないとは言ってないし』とか言って逃げ出しかねない」
「……いやそんな野生動物みたいな真似しないから」
「お前ならやる。やれそうだからついやったとか言ってやる。……でもだってもう離せない、言っただろ」
そう言って振り向いた瞳は何となく寂しそうにも見えて。自分のおもちゃを取られたくない子供のようにも見えてちょっとだけ可愛く思えてしまう。いや取られたくないおもちゃが自分だと思うと何とも微妙な心持ちだけど。少し溜め息をついて立ち上がる。
「……言ったでしょ。もう離す気ないし、捕まえるのはこっちだって」
背もたれに腕をかけて真ん中にどかっと座るのがこれほど様になる男もいないだろう。正面に回って、少し迷ったけどそのまま膝の上に跨る。肩を掴んで、捕まえた、というと降谷くんはついと口の端を持ち上げた。
「捕まった。……で?何してくれるんだ?」
「…………」
「考えてない、と」
図星である。……いや本当に何も考えていなかった。なんとなくそこに降谷くんがいたから乗った、それだけで。
「……考えてるから」
「へえ。何を?俺のことどうしてくれるの?」
「……こ、こうしてやる!」
「へ?ちょ……っひゃはは!ちょっと、この野郎、」
人体錬成されてるのか筋肉合金製なのかと疑いたくなるこの男、でも一応は人間である。いくら公安のエリートでも弱点は同じ。――くすぐり攻撃は偉大だ。脇の下、脇腹、背中その他。これって命の危険を感じるとかなんとからしいから、数か月前まで綱渡りのような潜入をしてた降谷くんにはより効くのかもしれない。じたばた暴れるのを体重で押さえてくすぐってると、不意に景色が切り替わった。――そういえばこの部屋に引っ越してきた初日にあったな、こんなこと。
「……えー、ごめん」
「何が?」
「調子に乗り過ぎた。ごめん」
「……それで済むなら警察はいらないな」
まったくもっていい笑顔。そして私に逆転の技術はなく。
「――覚悟しろ」
「え、ちょっと待っ、ひゃあ!」
この後死ぬほどくすぐり倒された。
