そのいち
あなたの名前はなんですか?(夢小説機能)
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真昼の下、僕はなんとなくれんげ畑に足を運んでいた。
冬も終わり、開花の季節になりつつある。れんげ草は春を告げるように花を咲かせるけど、まだぽつぽつと蕾があった。だけどそれでいいのだ、それが春の訪れを感じさせるから。
……ああ、春だ。れんげ畑を見て呟いて、そして顔を上げてみれば、今鳥がさえずりを上げながら木の枝から飛び立ち空に向かって突進した。空にぶつかる天井はないけれど、その勢いの良さについ笑みが零れる。そのまっすぐさは彼女に似ている気がして。あの鳥の名前はなんだったかなあ、と思いつつ僕はまた呟くのだ。ああ、春だ、と。
僕らが出会ったのは、約五百年前の雪解けの季節。
咲きかけた花を見て嬉しそうに笑う彼女を見つけた。くノ一教室の女子は性格がいいとは言えないから普段は声をかけないだけれど、この日の僕は彼女の美貌につられてか、つい声をかけてしまっていた。
「君は花が好きなの?」
彼女はこちらに振り向いたかと思えば、また笑って、ううん。と答える。てっきりそうだよ、と返ってくるとばかり思っていた僕は戸惑って、瞬きを過剰にした。冷静を装って、じゃあどうしてと僕は再び話しかけた。
「春が来るって実感が湧くからだよ。春って、新しいことが色々はじまるじゃない。だから楽しそうな予感がして、つい笑顔になるの」
「……へえ」
春といえば物悲しいものだ。詩集ばかり読んでいたからか、僕はすっかりそういった考えになっていた。だから僕はそのとき、彼女の考えに賛同することができなかった。それでも構わない、というように彼女はまた口を開く。
「正直言って、歌人が言う侘しさとか寂しさとかよく分からないのよね。だって、季節は変わりゆくものなんだから寂しいとか言ったってしょうがないじゃない。それに、そんな悲しい印象を持たれる季節が可哀想だと思うの。春は花見、夏は川遊び、秋は紅葉狩り、冬は雪遊び、とかそういうのでいいのよ。寂しいとか言うから、せっかく楽しいものもつまらなくなっちゃうんじゃないの、って私は思うの」
「……はははっ! 名前さん、君、案外面白いことを言うね」
僕はつい笑った。だって僕が思っていた彼女と、目の前の彼女とが全然違ったからだ。といっても悪い意味ではなく、こんな一面もあるんだと愉快な気持ちになったくらいで、むしろ僕が思っていた彼女よりはこっちの方がずっとよかったほどだ。
僕の思っていた彼女、というのは噂の中の彼女である。
くノ一教室の優等生、器量よし行儀よし礼儀よし。無口ながら話術が巧みな女子で、なおかつ実家はそれなりの武家、引く手数多の大和撫子、とかそういう感じの、まあとにかく、完璧超人で通されていたから近寄り難い印象だった。
それがどうだ。この言葉が五百年前にあったかはよく覚えてはいないが、蓋を開けてみればまさに色気より食い気、という感じの女子だったのだ。
普通の女子なら、歌人に頬に涙を浮かべて共感に震えるくらいなのに、彼女はそれをしょうがないの一言で跳ね除けてしまった。しょうがないことを嘆いているからこそ、より寂しさが強調されるのだ、とか解説じみたことを言っても彼女には通用しないだろうということが初対面の僕にも分かってしまうくらい彼女の語りの勢いは強烈だった。こんなところが、あの名の分からぬ鳥に似ていると感じる所以なのかもしれない。
「……一つ忠告しておくけど、私がこういう女子だって誰にも言わないでよ。私は完璧超人で通っているからね」
「……ん? ああ、分かったよ」
一拍遅れて返事をすると、名前は不審に思ったようでもう一度念を押してきたので、再び分かったよ、と返した。ぼうっとしていたわけではない。忠告されずとも他人に告げ口しようなど思っていなかったから、変に間が空いてしまっただけ。多分、僕は純粋に彼女の秘密を独占したかったからそんな考えは浮かばなかったんだろう。鉢屋三郎なら、これを種に彼女を一生からかい続けるんだろうけど。
そして僕らは友達になったけど、その友達の期間はあっけなく短いものだった。名前は武家の家で、更には行儀見習い組。別れるときはきっとそうだろうと覚悟はしていたものの、僕はとても悲しかった。もう会えないかもしれないと僕に告げた名前もこれから嫁入りする女子だとは思えないくらい大泣きしていて、僕はその涙を拭うことしか出来なかった。
本当は、両手で彼女を抱きしめてしまいたかった。それがダメなことだと分からないフリなんて僕は出来なくて、とうとう彼女が僕の腕の中に入ることはなかった。彼女なら迷わず抱きしめるのだろう。結局僕は何も変わらなかったのだ。
名前が嫁入りしたあとに文でも送ろうかと思ったが、僕は男で彼女は女なわけで、下手したら恋文だと勘違いされかねない。そう思った僕は、僕であることをやめることにした。名前があの日見ていた花の名前を下の名前にして、僕は女子になりきって彼女と文通を試みたのだ。
名前も僕だと分かったようで、数日後忍術学園に手紙が届けられた。相変わらず強よかに生きているということが分かり、安心した僕はその一通で手紙を送るのをやめた。名前には名前の人生があるし、僕には僕の人生があるのだと強く思ったから。そして、これ以上続けても互いにいいことはないと思ったから。
そうして僕らの関係は幕を閉じ、輪廻転生をして今僕は五百年後の未来で名前のことを思い出していた。
ときどき目が覚めると、布団を抱きしめるようにして寝ていることがある。
別に彼女の夢を見ていたわけでもないのに、なぜかこの季節にだけこんな寝相になってしまう。そして、目が覚めてこの寝相を見てから呟くのだ。ああ、春だと。あのときも、奇っ怪なことに春の訪れの日だったなあ、なんて思ったりして。僕は名前に恋をしていたんだと改めて実感する瞬間でもあった。
……あの時、抱きしめていたら。なんて例え話は何度したか分からない。そんなこと言ったってしょうがないじゃない、と名前は言うだろう。でも僕はどうしても納得出来なくて、なんだかもどかしいと思う。
やっぱり僕は春に寂しさを感じてしまう。名前のおかげで他の季節は楽しく過ごせるようになったけど、春だけは僕の特別で、どうしようもない気分に駆られて日の暑さにやられたかのように、ぼーっとこのれんげ畑に突っ立って思いに耽ってしまうようになった。これなら前の方がまだマシだったよ、と僕は自傷的に笑う。
ああ、会いたいなあ。目を閉じると、僕の中の名前がこちらを見て笑っている。彼女もこの平和な世にやってきているのだろうか。もしそうなら、僕に彼女を抱きしめる権利はあるだろうか。今すぐ名前を抱きしめたいのに、その彼女はれんげ畑にいないから僕はただ空気を掴もうとする。それと同時に鳥のさえずりが聞こえて、僕は我に返り目を開いた。やっぱり彼女はそこにいないけれど、鳥は枝からまっすぐ飛び出した。
あの鳥の名前はなんだか忘れたけれど、なんだか励まされている気がしたから、僕はあの鳥のように強く生きていこうと思った。
冬も終わり、開花の季節になりつつある。れんげ草は春を告げるように花を咲かせるけど、まだぽつぽつと蕾があった。だけどそれでいいのだ、それが春の訪れを感じさせるから。
……ああ、春だ。れんげ畑を見て呟いて、そして顔を上げてみれば、今鳥がさえずりを上げながら木の枝から飛び立ち空に向かって突進した。空にぶつかる天井はないけれど、その勢いの良さについ笑みが零れる。そのまっすぐさは彼女に似ている気がして。あの鳥の名前はなんだったかなあ、と思いつつ僕はまた呟くのだ。ああ、春だ、と。
僕らが出会ったのは、約五百年前の雪解けの季節。
咲きかけた花を見て嬉しそうに笑う彼女を見つけた。くノ一教室の女子は性格がいいとは言えないから普段は声をかけないだけれど、この日の僕は彼女の美貌につられてか、つい声をかけてしまっていた。
「君は花が好きなの?」
彼女はこちらに振り向いたかと思えば、また笑って、ううん。と答える。てっきりそうだよ、と返ってくるとばかり思っていた僕は戸惑って、瞬きを過剰にした。冷静を装って、じゃあどうしてと僕は再び話しかけた。
「春が来るって実感が湧くからだよ。春って、新しいことが色々はじまるじゃない。だから楽しそうな予感がして、つい笑顔になるの」
「……へえ」
春といえば物悲しいものだ。詩集ばかり読んでいたからか、僕はすっかりそういった考えになっていた。だから僕はそのとき、彼女の考えに賛同することができなかった。それでも構わない、というように彼女はまた口を開く。
「正直言って、歌人が言う侘しさとか寂しさとかよく分からないのよね。だって、季節は変わりゆくものなんだから寂しいとか言ったってしょうがないじゃない。それに、そんな悲しい印象を持たれる季節が可哀想だと思うの。春は花見、夏は川遊び、秋は紅葉狩り、冬は雪遊び、とかそういうのでいいのよ。寂しいとか言うから、せっかく楽しいものもつまらなくなっちゃうんじゃないの、って私は思うの」
「……はははっ! 名前さん、君、案外面白いことを言うね」
僕はつい笑った。だって僕が思っていた彼女と、目の前の彼女とが全然違ったからだ。といっても悪い意味ではなく、こんな一面もあるんだと愉快な気持ちになったくらいで、むしろ僕が思っていた彼女よりはこっちの方がずっとよかったほどだ。
僕の思っていた彼女、というのは噂の中の彼女である。
くノ一教室の優等生、器量よし行儀よし礼儀よし。無口ながら話術が巧みな女子で、なおかつ実家はそれなりの武家、引く手数多の大和撫子、とかそういう感じの、まあとにかく、完璧超人で通されていたから近寄り難い印象だった。
それがどうだ。この言葉が五百年前にあったかはよく覚えてはいないが、蓋を開けてみればまさに色気より食い気、という感じの女子だったのだ。
普通の女子なら、歌人に頬に涙を浮かべて共感に震えるくらいなのに、彼女はそれをしょうがないの一言で跳ね除けてしまった。しょうがないことを嘆いているからこそ、より寂しさが強調されるのだ、とか解説じみたことを言っても彼女には通用しないだろうということが初対面の僕にも分かってしまうくらい彼女の語りの勢いは強烈だった。こんなところが、あの名の分からぬ鳥に似ていると感じる所以なのかもしれない。
「……一つ忠告しておくけど、私がこういう女子だって誰にも言わないでよ。私は完璧超人で通っているからね」
「……ん? ああ、分かったよ」
一拍遅れて返事をすると、名前は不審に思ったようでもう一度念を押してきたので、再び分かったよ、と返した。ぼうっとしていたわけではない。忠告されずとも他人に告げ口しようなど思っていなかったから、変に間が空いてしまっただけ。多分、僕は純粋に彼女の秘密を独占したかったからそんな考えは浮かばなかったんだろう。鉢屋三郎なら、これを種に彼女を一生からかい続けるんだろうけど。
そして僕らは友達になったけど、その友達の期間はあっけなく短いものだった。名前は武家の家で、更には行儀見習い組。別れるときはきっとそうだろうと覚悟はしていたものの、僕はとても悲しかった。もう会えないかもしれないと僕に告げた名前もこれから嫁入りする女子だとは思えないくらい大泣きしていて、僕はその涙を拭うことしか出来なかった。
本当は、両手で彼女を抱きしめてしまいたかった。それがダメなことだと分からないフリなんて僕は出来なくて、とうとう彼女が僕の腕の中に入ることはなかった。彼女なら迷わず抱きしめるのだろう。結局僕は何も変わらなかったのだ。
名前が嫁入りしたあとに文でも送ろうかと思ったが、僕は男で彼女は女なわけで、下手したら恋文だと勘違いされかねない。そう思った僕は、僕であることをやめることにした。名前があの日見ていた花の名前を下の名前にして、僕は女子になりきって彼女と文通を試みたのだ。
名前も僕だと分かったようで、数日後忍術学園に手紙が届けられた。相変わらず強よかに生きているということが分かり、安心した僕はその一通で手紙を送るのをやめた。名前には名前の人生があるし、僕には僕の人生があるのだと強く思ったから。そして、これ以上続けても互いにいいことはないと思ったから。
そうして僕らの関係は幕を閉じ、輪廻転生をして今僕は五百年後の未来で名前のことを思い出していた。
ときどき目が覚めると、布団を抱きしめるようにして寝ていることがある。
別に彼女の夢を見ていたわけでもないのに、なぜかこの季節にだけこんな寝相になってしまう。そして、目が覚めてこの寝相を見てから呟くのだ。ああ、春だと。あのときも、奇っ怪なことに春の訪れの日だったなあ、なんて思ったりして。僕は名前に恋をしていたんだと改めて実感する瞬間でもあった。
……あの時、抱きしめていたら。なんて例え話は何度したか分からない。そんなこと言ったってしょうがないじゃない、と名前は言うだろう。でも僕はどうしても納得出来なくて、なんだかもどかしいと思う。
やっぱり僕は春に寂しさを感じてしまう。名前のおかげで他の季節は楽しく過ごせるようになったけど、春だけは僕の特別で、どうしようもない気分に駆られて日の暑さにやられたかのように、ぼーっとこのれんげ畑に突っ立って思いに耽ってしまうようになった。これなら前の方がまだマシだったよ、と僕は自傷的に笑う。
ああ、会いたいなあ。目を閉じると、僕の中の名前がこちらを見て笑っている。彼女もこの平和な世にやってきているのだろうか。もしそうなら、僕に彼女を抱きしめる権利はあるだろうか。今すぐ名前を抱きしめたいのに、その彼女はれんげ畑にいないから僕はただ空気を掴もうとする。それと同時に鳥のさえずりが聞こえて、僕は我に返り目を開いた。やっぱり彼女はそこにいないけれど、鳥は枝からまっすぐ飛び出した。
あの鳥の名前はなんだか忘れたけれど、なんだか励まされている気がしたから、僕はあの鳥のように強く生きていこうと思った。