終わりから始まった恋
今日はイッキと会えない日。
でも、郵便受けは相変わらず汚されるし、迷惑メールも非通知からの電話もくる。
いい加減、いちいち拒否するのも面倒だから、電話番号とアドレスを変更することにした。
「いらっしゃいませ」
「連絡していた#名前#です」
「#名前#様ですね。3番の窓口へどうぞ」
「ありがとうございます」
上京してきたときに名義は自分にしてあるから、用件を伝えて手続きをする。
そのあと親とイッキにだけ連絡先を変更したことを伝える。
正直、友達はどこから漏れるかわからないから、一連のことが終わるまではSNSのみでやりとりをすることにした。
「ありがとうございました〜」
「ありがとうございます」
これで今日の用事は終わり。
早く帰って本でも読もう。
あまり外に長くいると、何をされるかわからないから。
「人通りの多いルートは……っと」
スマホで家までのルートを調べる。
なるべく大通りを通って帰れるように。
「通るならここ、かな……」
「あのぉ」
「はい?」
スマホに気を取られていた私は、背後から近づいてくる男の存在に気付けなかった。
「#名前#さんですか?」
「?違いますけど」
見ず知らずの男。
私の名前を知っているはずがない。
「えっ」
「もういいですか?失礼」
脈が早くなる。
こいつはたぶん、FCが嫌がらせで出会い系サイトに載せた私の写真を見たんだ。
そうでなければ、見覚えもない男に名前を呼ばれる謂れはない。
「ちょ、ちょっと待って」
男は慌てて私の手首を掴む。
「……離してください」
あくまで毅然とした態度で応対する。
それでも男は離さない。
「はあ……大事にされたいんですか?」
私の言葉に男は怯み、手を離す。
「それで、ご用件は?人違いだと思いますが」
「こ、この写真、」
男は徐に自らの携帯画面を見せてくる。
「こ、これ、あなたですよね?」
「違いますね。随分と似ていますが」
「そ、そんなに誤魔化さなくていいんですよ。ぼ、僕は、あなたのことがす、好きなんです」
随分とおどおどした話し方をする男だ、と思った。
「あ、あなたも僕のこと、す、好きだって」
男が見せてきたトーク画面では、確かに私の偽アカウントから「優しくて好きです♡」というメッセージが届いていた。
「それは私ではありません。別の方ですよ」
「で、でも、あなたも、い、今そこの携帯ショップから出てきましたよね」
「?」
「さ、さっき、ショップから出たら、あ、会いましょうって」
最新のメッセージのやり取りに、そう書かれている。
「!」
私は思わず、目の前の男のことを忘れて、周囲を振り返る。
私の行動はずっと見られているのか。
「ね、ねえ」
私が目を離したすきに、再び腕を掴まれる。
「っ!?」
「て、照れてるんですか?」
近くの交番まで、走って3分くらいか。
どうする?周りの人はさっきから通り過ぎるばかりで助けてくれそうな気配はないし。
3分の間に追いつかれるか……?
「……もう一度言います。手を離してください」
男はビクッとしたが、手を離さない。
私がやりとりをしていた相手だと確信しているのだろう。
共感性の低いタイプの人か。
「何度も言うようですが、私はあなたとやり取りをしていた人物ではありません。いい加減にしてください」
隙を見て3分全速力……いけるか?
でもそれしかない。
運が良ければ、逃げている私を保護してくれる人がいるかもしれないし。
「そ、そんなことないです!う、嘘つくな!」
「いたっ……」
腕を掴む力が強くなる。
「どうして……?あ、あなたも僕を、ば、馬鹿にするのか!」
付き合ってられない。
大声を出して怯ませるか?
いや……怯むか?
そもそも今でもかなり心臓がうるさい。
この状態で大きな声が出るだろうか。
……叫べなくても、通常より大きい声になればいい!
「は、離して!!!」
「っ!」
突然の私の声に相手が驚いて手をパッと離す。
今だ!
「っ!」
「あっ、ま、待って!」
私は後ろを振り返らず、無我夢中で走った。
イッキと付き合い始めて、嫌がらせをされるようになってから、出先では必ず交番の位置を確認するようになった。
だから今日もショップに来るまでに交番の位置はちゃんと確認してきた。
「っは、はぁ、っふ、」
こんなに全力で走るの、いつぶりだろう。
だんだん酸素が足りなくなってくる。
元々運動はそんなに得意ではないし、高校時代の持久走だって最後までマトモに走れたことはなかった。
「#名前#さん……!」
後ろからはまだ声が聞こえる。
追ってきている。
そこの角を曲がって、もう少し頑張れば交番……!
「きゃっ、」
無我夢中で走っていた私は、向こう側から曲がってくる人に気づかず、そのままぶつかってしまった。
「っとと、大丈夫……って、#名前#?」
また名前を呼ばれてバッと顔を上げると、そこには心底安心する顔があった。
思わず抱きつく。
「い、イッキ……」
「……なんでこいつがこんなところに……?」
「……もう少し先で合流するはずだったのに……」
周りのFCがヒソヒソ話し始める。
やはり奴は罠だった。
体を離すと、イッキは優しく私の頬に手を添える。
「い、イッキぃ、そんな子放っとこうよぉ〜」
FCの子たちがイッキに擦り寄る。
イッキはそれを気にも留めず、私の目を見る。
「こんなところでどうしたの?それになんか顔色が───」
「#名前#さん……!」
追いかけてきた男の声に、肩がビクッと跳ねる。
「!……そ、その男は……?」
「……」
イッキは私と奴の様子を見て、私の肩を抱き寄せた。
「この子の彼氏だけど、君は?」
「か、彼氏っ!?」
「僕の彼女に何か用かな」
「う、嘘だ!」
男はワナワナと肩を震わせ、さっきのように携帯の画面を見せてくる。
「か、彼女は僕と、す、好き合ってるんだ!」
この状況でもまだそんなことが言えるのか……。
イッキは男から携帯を受け取り、確認する。
「これ、出会い系サイトだね」
「出会い系〜?」
「イッキと付き合ってるのにねぇ……」
FCの子たちがクスクスと笑う。
「だ、だったらなんだ!」
「この子のプロフィール写真、正面からじゃないし、明らかに盗撮でしょう」
イッキは肩を抱く手に力を込めた。
周りの子は顔を強張らせる。
「そ、そんな……」
「この子は、僕と付き合ってるのに出会い系サイトで別の男とやり取りをするような、そんな不誠実な子じゃない」
私がわざわざ否定しなくても、イッキは信じてくれた。
「誰がこんな悪質なことしたのか知らないけど、これは彼女を装って登録してるだけだ」
イッキは私の手を取る。
その瞬間、手首に赤く手形がついていることに気づいた。
イッキの目の色が変わる。
「これは、お前がやったのか」
「ひっ……」
今まで聞いたことがないくらい、低い声。
男も流石に怒りを察したようで、後ずさった。
周りの子たちもイッキの様子に驚いて、互いに目配せしている。
「答えろ。彼女に傷をつけたのはお前かと聞いてるんだ」
「……っ」
男は恐れのあまり何も答えられなくなり、そのまま身を翻して走って行った。
「あいつ……!」
「ま、待ってイッキ」
追いかけそうになるイッキの袖を掴む。
「!」
このままイッキがいなくなれば、ここにいるFCの子たちから何をされるかわかったものではない。
「ごめん、ちょっと動揺してた。今は#名前#の傍にいなきゃだよね」
そう言ってイッキは私を抱きしめてくれる。
「ごめんみんな。この子を送るから、今日はもう遊べない」
「えっ──」
「わ、わかった」
明らかに『えっ』という声が聞こえたが、女の子たちは思いの外聞き分けよく帰っていった。
抱きしめられていたから表情は読めなかったけど、珍しく怒ったイッキを見て、今日は駄々をこねるのをやめたのかもしれない。
「それじゃあ行こうか」
「うん。……ありがとう」
全力疾走したせいで、たぶん汗でメイクも髪型もぐちゃぐちゃになってる。
いつもだったら、こんな状態で会いたくなかったって後悔してるけど、今日はイッキに会えていなかったら、交番に着く前にまたつかまっていたら。
そう考えると、気道が狭くなった気がした。
「家着いたけど……大丈夫?まだ顔色悪いね」
「えへ……ごめん、心配かけて……」
私は笑ってみせたけど、イッキはずっと心配そうな顔をしている。
「もし#名前#が嫌じゃないなら、落ち着くまで傍にいさせて」
「!」
「ふふ、心配しなくても、顔色悪い子に手を出したりしないよ」
「……ありがとう」
家の鍵を開けて、イッキを招き入れる。
私の家に呼ぶのは初めてだ。私もイッキの家に行ったことはない。
私はどうせ3ヶ月で別れるなら体の関係を持つつもりはなかったから、イッキの部屋に行きたいと言ったことはなかった。
「あんまり綺麗じゃないけど、好きなところに座ってて。今お茶を、」
「お茶はいらないから。おいで」
お茶の用意をしようとした私の手をイッキが握る。
もう片方の手を広げ、私が来るのを待っていた。
「……うん」
私はイッキに後ろから抱きしめられる形で座る。
「君の部屋、初めて来たな」
「あんまり見ないで。まさか来ると思ってなかったから、片付けてない……」
「そう?僕の部屋より片付いてると思うけど。……今度、僕の家にもおいでよ」
「……うん」
イッキは、さっきまで赤かった私の手首を摩る。
「これからは、どこかに行く時は僕もついていくよ」
「えぇ?大丈夫だよ。こんなことがいつもあるわけじゃないし」
背中からイッキの鼓動が伝わってくる。
心がどんどん落ち着いていくのがわかった。
「あの男がまた追いかけてくるかもしれないでしょ。……それに、出会い系サイトに君の名前が載ってるみたいだし、また同じような男に迫られるかもしれないじゃない」
「それは、そうだけど……でも、イッキの予定を縛っちゃうじゃない」
「僕の知らないところで君が変な男に迫られるより全然いいよ。それに、今は長期休みだから幸い大学もないし」
イッキは優しい。
もうすぐ別れるであろう相手に対しても、すごく紳士的に対応してくれる。
「僕がバイトの時はお店にいれるように、店長に話しておくよ。終わったら一緒に帰ろう」
「……ありがとう」
「好きな子のために、当たり前のことをしてるだけだよ」
イッキが私の頭を優しく撫でる。
「イッキが恋人で……よかった……」
「ん、あれ、もしかして眠い?」
「ん……。なんか、さっきまで気を張ってたから……気が抜けちゃって……」
「君の部屋で僕が言うのもなんだけど、眠かったら寝ていいよ」
「ごめん……せっかく、一緒にいるのに」
「いいよ」
イッキの手を握る。
「ここに、いてね……」
「うん。君が起きるまで、ちゃんとここにいるよ」
結局イッキは、私が起きるまで本当に傍にいてくれた。
イッキの胸元で眠ったはずの私は、起きたらちゃんとベッドの上にいて、イッキが運んでくれたのだと悟った。
イッキはベッドの傍で私の手を握って、私と同じように眠っていた。
私は2時間ほど眠ってしまっていたようで、起きた頃には日が傾いてきていた。
「……すぅ……」
イッキも気持ち良さそうに眠っていたから、起こすのは忍びなくて、ひとまずお茶を入れて待つことにした。
そっと手を離し、キッチンへ向かう。
イッキはコーヒー派だから、戸棚にしまってあるインスタントコーヒーを出す。
「ん……」
イッキが目を覚ましそうになったので、コーヒーと自分用のお茶をテーブルに置き、傍に寄る。
「あれ……起きたの……?」
「うん。おはよう、イッキ」
「おはよう……」
イッキは目覚めに弱いのか。
まだむにゃむにゃしていて可愛い。
「ん……」
「んっ……、ふふ、寝ぼけてぅんむ……」
イッキは寝ぼけたまま、私にキスしてくる。
「よしよし、イッキは寝起きが弱いのね」
頭を撫でてあげると、徐々に意識が浮上してきたのか、ガバッと起き上がる。
「わっ」
「あっ、ごめん。……かっこ悪いな、僕……」
「イッキはいつでもかっこいいよ」
イッキにコーヒーを手渡す。
「ありがとう」
コーヒーを飲んで、イッキも完全に目が覚めたらしい。
「ちゃんと傍にいてくれて、ありがとう。……ごめんね、寝辛かったでしょ?」
「大丈夫。#名前#は嫌な夢とか見なかった?」
「うん」
「そう。よかった」
イッキはコーヒーを飲み終えると、帰る支度を始める。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰ろうかな」
「……うん。今日は本当にありがとう」
「明日のデート、こっちまで迎えに来るよ」
イッキは靴を履きながらそう言う。
頷きかけて、私は郵便ポストのことを思い出した。
「でも、」
「断らないで。迷惑だとか、考えなくていいから。迎えに行ってればよかったとか後悔したくないんだ」
「……わかった」
私は朝、早起きすることを決意した。