終わりから始まった恋
朝起きて、ストレッチをして、スキンケアをしながらカレンダーと予定を確認する。
今日を含めてあと2週間で、期限の3ヶ月だ。
「2週間か……」
今日のデートは映画の後にディナーだから、大人しめのロングスカートかな。
スマホを見ながら今日のヘアアレンジを決める。
「うん、いい感じ」
忘れ物がないかバッグの中を確認する。
手に持った袋の中には洗剤とブラシと目薬とゴミ袋などの片付け用品。
「よし。今日はどうなってるかなあ」
家を出て鍵を閉める。
この瞬間は、いつも緊張する。
イッキと付き合い始めて1週間が経った頃、うちの郵便受けは色んなゴミで汚されるようになった。
おかげで管理人さんにお願いして、大切な郵便物はとっておいてもらうことになった。
「うわ……今日は虫の死骸かあ」
よくこんなの仕込めるな。
ひとまずゴミ袋の中にブラシで掃く。
洗剤をかけて、もう一つのブラシで磨く。
管理人さんがオートロックドアの近くに置いてくれているバケツを持ってくる間に目薬をさして、泣く演技をしながら戻り、水をかけながらバケツの中に汚れを流す。
手首で目元を軽く拭う素振りを見せながら、バケツの水を排水溝に流す。
「……」
ゴミ袋の口を結んで、管理人さんが用意してくれたカゴの中に入れる。
私がこの嫌がらせに耐え続けてこられたのは、親しい間柄である管理人さんのおかげだ。
たぶん嫌がらせをした本人たちは、私がこうして片付けをしている様子を何処かから見ている。
だから、意気揚々と片付けをして立ち去るわけにはいかない。
啜り泣いているくらいでないと、もっと悪化してしまうから。
「っ……」
顔を覆って、早足で歩く。
イッキとの待ち合わせより1時間早く家を出たし、十分メイクを直す時間はある。
待ち合わせ場所近くのお店に入って、お手洗いでメイクを直す。
ここにも長時間いると、彼女たちに追い詰められてしまうかもしれないから、手短に。
「アイシャドウも元通り、リップを塗り直したし……よし」
鏡の前で最終チェックをして外に出る。
待ち合わせ15分前!
待ち合わせ場所でSNSとメールのチェックをする。
相変わらず嫌がらせメールや迷惑メールが来るけど、片っ端から受信拒否のアドレスに設定しているから、二度同じアドレスからメールが来ることはない。
「お待たせ。難しい顔してどうしたの?」
「!」
バッと顔を上げると、イッキがすぐ横まで来ていた。
メールの内容、見られてないよね?
「イッキ!全然待ってないよ〜。喧嘩した友達からメール来てて、ちょっとムッとしちゃっただけ」
「そうなの?大丈夫?」
「うん。たぶん今日中には仲直りできるよ」
「そっか。それならいいけど」
イッキには、FCからの嫌がらせのことを言っていない。
管理人さんがこっそり設置してくれた監視カメラで証拠は残してあるから、いつでも訴えられるけど、イッキに余計な心配はかけたくなかった。
「それじゃあ行こうか」
「うん!今日は何見るの?」
スッとイッキと手を繋ぐ。
「#名前#は見たいのないの?」
「うーん、そういうの疎いんだよね」
イッキは外にいる時、ずっとサングラスをしている。
初めは眩しいのが苦手なのかと思っていたけど(働いている冥土の羊も地下だし)、付き合って2ヶ月経った頃、自分の不思議な能力について教えてくれた。
『ねえ、いつもそのサングラスしてる、よね?』
『あー……』
『あっごめん。言いにくいことだった?』
『……#名前#にならいいかな』
話してくれた内容は何かのファンタジー小説に出てきそうなくらいで、初対面で聞いていたらたぶん信じられなかった。
でもイッキはこの手の冗談を言うタイプじゃないことはわかるし、何より好きな相手だから、信じる以外の選択肢はなかった。
『すごい、奇跡みたいな話ね!』
『信じてくれるの?』
『イッキは誤魔化しはしても、そういう大切なことで嘘はつかないでしょ』
『……うん』
それから、今までよりも私とイッキの距離は縮まったような気がする。
「#名前#?」
「あっ、え?何?」
「映画館着いたけど……、もしかして体調悪い?」
「全然!久しぶりに会えたから、ちょっと気持ちに浸ってただけ」
「可愛いこと言うね。一昨日も会ったじゃない」
「ふふ、私は毎日でもイッキに会いたいよ」
あと2週間。
今日の朝それを強く意識してしまって、なんだかこれまでのことを思い出してしまう。
「早く映画見よう!イッキは何見たいの?」
「僕は……これかな」
チケットを買って、中に入る。
照明が消え、映画が始まって、そうして初めてイッキはサングラスを外す。
「やっとちゃんと目を見れた」
「僕もようやく#名前#の顔ちゃんと見れた」
初めの頃は、ずっとサングラスを外してくれなかった。
イッキの話を聞いた今ならわかる。
私の気持ちはイッキの『目』によるもので、サングラスをして応対していればいつか気持ちが冷めると思われていたんだろう。
しかしひと月経ってもイッキへの気持ちは変わらなかった。
サングラスできちんと目が見えなくても、そうまでして隠すならと冥土の羊に通うのもやめた。
サングラス状態のイッキと1ヶ月向き合って、ようやくイッキは私の気持ちを信じてくれるようになった。
「……」
隣でサングラスをとって映画を見ているイッキの横顔を見て、なんだか感慨深くなってきた。
手を握るのも、初めはすごく義務的な感じだったけど、最近は自然とどちらからともなく相手の手に触れることが多くなった気がする。
「映画どうだった?」
劇場から出る時も、手を繋いだまま。
「面白かった!最後の主人公とヒロインのお別れはちょっと嫌だったけど……」
「そうだね……」
ちょっと空気が暗くなってしまった。
「あ、私お手洗い行ってきていい?」
「うん。行っておいで。僕は外で待ってるから」
手を離して、お手洗いにいく。
鏡で化粧崩れや髪崩れをしてないか確認。
お手洗いも済ませて、改めてメールのチェックもする。
いくつか非通知の番号からの着信もあったので、全部着信拒否に設定する。
携帯をバッグにしまって外へ出ようとした時、入れ違いで入ってきた女の子と肩がぶつかった。
「っ!」
避けたつもりだったのに。
驚いてその子の方を見ると、明らかに私を見てクスクスを笑っていた。
これは、わざとか。
「……っ」
怯えた表情を作って、走ってその場を離れる。
ついに直接手を出してくるようになったか。
3ヶ月まであと少し。
万が一3ヶ月を超えれば直接手を出してくるかと思ったけど、もう3ヶ月にもなるということで手を出してきたのだろうか。
私が全く別れる気配を見せないから、焦っているのかもしれない。
「!」
お手洗いから出ると、数人の視線を感じた。
仲間か。
ひとまずバッグをギュッと抱いて、早足でその場を離れる。
私に恐怖を植え付けられたと勘違いさせるために。
「調子に乗んなバーカ」
すれ違った女の子が、私だけに聞こえる声量で呟いた。
「!」
不意打ちで、体が本当にビクッと震える。
顔が見えていない相手は着拒したり受信拒否したり、対処のしようがある。
郵便受けへの嫌がらせも、管理人さんが優しくしてくれるから耐えられる。
でもこうなってくると、ちょっと、キツイかも。
剥き出しで直接ぶつけられる敵意って、こんなに心を抉られるんだ。
「か、鏡……」
私今、どんな顔してるかな。
イッキに心配かけそうな顔してないかな。
バッグから手鏡を出して、自分の顔を見る。
「……っは……」
眉が下がり、口角も下がっている。
笑っても、どこか痛々しい。
「あと2週間なのに……!」
これまでよりももっと、最高に楽しい2週間にしなくちゃいけないのに。
こんな顔で出て行ったら、イッキも楽しめなくなっちゃう。
「くそっ……」
つい口が悪くなる。
爪も噛んでしまっていることに気付いて、慌てて口元から手を離す。
せっかくサロンで綺麗にしてもらったのに、爪が欠けてしまうところだった。
「……っ」
泣かない。泣かない。
絶対本当の涙なんか見せてやらない。
イッキと付き合えていて幸せなんだから、流す涙も幸せでなくちゃ。
「#名前#!」
「!」
名前を呼ばれて振り返ると、イッキがこっちに向かって走ってきていた。
ヤバイ、泣きそうなのバレちゃう。
「全然出てこないから心配した……って、どうしたの?何かあった?」
言い訳、何か言い訳を……。
「ちょっと場所変えようか」
握り締められた私の手を、イッキが優しく両手で包む。
手を握られただけで、こんなにも安心する。
やっぱり、イッキのこと好きだなあ。
「ううん、大丈夫。ごめんね!イッキがどこにいるかわかんなくって、ちょっとパニックになっちゃったの」
ちょっと、苦しいかな。
「……そうなの?ごめん、ちょっと場所わかりづらかったかな」
「はは、私もまだまだだね。1キロ先からでもイッキを見つけられるようにならなくちゃ」
イッキはやっぱり、ちょっと納得がいかない顔をしている。
でもごめんね、嫌がらせの話をしたら、たぶん2週間も楽しく過ごせないから。
「ほら、ディナーまでまだ時間あるし、ちょっと買い物でもしようよ」
「……うん、そうだね」
手を繋いだまま私の服を見たり、イッキの服を見たり、雑貨屋に寄り道したり。
そうしているうちに、かなり気持ちが落ち着いてきた。
「そろそろ時間だね。行こっか」
「そうだね」
「今日はね、ちょっと前に見つけた美味しそうなレストランなの」
「へえ、楽しみにしてたもんね」
「うん!実際に行った友達も美味しかったって言っててね、絶対イッキと行きたいなって思ってた」
イッキが揚げ出し豆腐が好きなのは調査済み。だから和食レストランを選んだ。
絶対気に入ってくれるはず!
「ご予約のお客様ですね。こちらへどうぞ」
イッキとご飯へ行く時は必ず個室があるお店を選ぶようにしている。
店員も、彼が女性恐怖症だと言って、男性で固めてもらう。
2人でゆっくり食事がしたいから。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルでお呼びください。失礼いたします」
メニューをイッキに渡し、自分も開く。
「何にしようかなあ」
「いつも気を使わせてごめんね」
「ん?」
「個室」
「なあに?どうしたの急に。そんなの気にしなくていいんだよ。私がイッキとゆっくりご飯食べたいだけだもん」
「ありがとう」
なんだろう、私が泣いたりしちゃったから、気負わせちゃったかな。
そのあとは普通にお互い注文して、他愛ない話をしながら食事を終えた。
個室で、男性店員を指定したおかげか、終始落ち着いて食事をすることができた。
問題は、店を出てから。
ここへ来るまでの間、ずっと誰かがついてきているような印象があった。
「ごちそうさまでした〜」
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
会計を済ませてお店を出る。
「どうだった?」
「美味しかったよ。結構好きな味だったな」
「そう!よかった〜」
お店を出て少し歩いたところで、脇道から女の子が5,6人出てくる。
「あれぇ!?イッキ!偶然〜!」
FCの子たちだ。
「こんなとこで会えるなんてぇ〜!」
イッキに擦り寄ろうとしてきたので、握った手に力を込め、イッキの背後に隠れる。
そんな私の様子をチラリと見て、イッキも私の手を強く握り返してくれた。
「偶然だね。ごめんけど彼女を送っていかなきゃいけないから、また今度ね」
「えぇ〜?いいじゃん、1人で帰れないのぉ?」
「っ!」
俯いたままイッキの手を離さない私の顔を、女の子が覗き込んでくる。
突然のことにびっくりして、反射的に体ごとイッキにくっつく。
「!」
すると、その子と私の間に、イッキがスッと体を入れてくれた。
「ごめんね、そういうことだから」
「そんな……」
「イッキぃ〜!」
「おいで」
イッキが女の子たちをかき分けて、私の手を引いてくれる。
私は女の子たちの鋭い視線を感じながらも、イッキの後を必死について行った。
「……」
イッキが強めの態度だったからか、それからFCは追いかけてこなかった。
もしかしたら、私と別れた後のイッキを狙っているのかもしれないけど。
私は時々後ろを気にしながら、イッキは少しずつ歩調を緩めていった。
「ごめんね、ちょっと怖かったかな」
「えっ?」
「まあ、あんなに強く言ったのは初めてだから、たぶんもう追ってこないよ」
「……そうなの?」
じゃあ今までは、彼女が一緒でも普通に応対してたのかな、とか。
ちょっと頭をよぎってしまった。
まあ、そういうこともあるだろうとは思ってたけど。
「イッキは全然怖くなかったよ。あの子たちからしたら怖かったかもしれないけど、私は頼もしかった。庇ってくれてありがとう」
これまでも、待ち合わせ場所でイッキが女の子たちに群がられてることとか、私と会わない日に女の子と遊びに行ってたりとか、そういうことはあった。
でも、いざ出かけた帰りに邪魔されたのは、今日が初めてだ。
「なんか今日は色々あったね」
「あは、そうだね」
そう話しているうちに、家に着いた。
「送ってくれてありがとう」
「ううん。じゃあ、またね。次会えるのは明後日か」
「……うん」
「そんな顔しないで……ん」
「んっ……」
不意にイッキがキスしてくる。
「もっと離れ難くなっちゃう……」
「今度、泊まりでどこか行こうか」
今度、とは。いつを表しているんだろう。
2週間より先を考えてくれているなら嬉しいけど、たぶん期限までの間にっていうことなんだろうな。
「うん!行きたい!」
うちにも泊まりにきて、と言いたいところだけど、朝の郵便受けの惨状を見られるわけにはいかないから、そうなると呼べないな……。
「それじゃあ、またね」
「うん」
イッキは私がオートロックを開けて、自分の部屋の扉を開けるところまでずっと見守ってくれていた。