Up to you【長編/跡部景吾】
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氷帝学園中等部を統べる絶対王者、跡部景吾。
そう呼ばれるようになるために、彼に要求されたのは血の滲むような努力だった。
幼少期の苦い経験を胸に、ただ、強さのみを求めてきた。
現在氷帝学園の生徒であり跡部の名を知る者で、彼が幼少期にどんな経験を積んだかを知っている人物はいない。
だから彼はカリスマであれたし、常に頂点に君臨してこれた。
_________“彼女”が来るまでは。
「この時期に転校生ですか、珍しいですね」
都大会を終え、関東大会進出を決めた氷帝学園中等部テニス部。関東大会に向けてトレーニングを積むべきある日、跡部景吾はテニス部の監督である榊に呼び出されていた。
もちろん学業、部活共に問題なく、生徒会長としての仕事も容易にこなす彼が説教で呼ばれるわけがない。そんな事は本人も承知しており、大方何かしら雑用だろうと思っていた跡部が榊につたえられたことは、時期外れの転校生の存在だった。
「あぁ、学業の特待生としての編入だ。本当は3年になると同時に来る予定だったのだが、少し色々あってな、この時期になった」
「そうですか。で、その特待生の世話を俺がしろと?榊先生」
「そうだ」
表情一つ変えずに言い切る榊に、跡部の眉が少し上がる。
関東大会に向けての大事な時期なのだ。負けるつもりは無いが、都大会よりも強大な敵を相手にするのだから練習をしておくに越したことはない。よく分かりもしない特待生のお守りなどごめんだと跡部は内心吐き捨てた。
そんな彼の心を知ってか知らずか、榊は“関東大会のことも心配だと思うが”と前置きをしてから再び語り出す。
「あの特待生にはお前が適任だ。互いに刺激となることは間違いないだろう」
「…お言葉ですが、先生。一度も会ったことがない生徒相手に適任も何も無いと思いますが?」
端正な顔立ちの跡部の額にさらに眉が深く刻まれる。相当苛立っている事が榊には見て取れた。
関東大会に出られるとは言っても、そのための道のりは決して彼が納得するものではなかった。レギュラーの敗北。予期せぬ敗退。プライドの高い彼にとって耐え難い状況なのだろう。だからこそ今はテニスに集中したい。その気持ちはわからなくはないのだ。
しかし、ここで譲るという選択肢は榊にはない。この経験が彼にプラスに働くことは確実だと思っているし、何より彼は思い違いをしているのだから。
「違うな、跡部。“一度も会っていない”生徒ではないぞ」
「は…?」
跡部らしからぬやや間の抜けた声。
そんな返答が来るとは思っていなかった彼は珍しく虚を突かれたような顔で榊を見つめる。ようやく冷静に話を聞けそうな跡部に満足そうに頷いた榊は、机の上に置いてある紅茶を一口、口に含む。
「つまり先生、その特待生と私は面識があるということですか?」
「その通りだ。少なくとも特待生の方はそう言っていた」
「…それが俺にどんな刺激を与えると?」
面識があったところでそれが何だ。尚も食い下がる跡部を榊が制す。
「あとは本人に聞けばいい。もう間もなく来る」
「…榊先生、俺は」
苛立ちが頂点に達し、下手すれば掴みかかりかねない跡部が足を踏み出したその瞬間、扉をノックする音が響いた。
榊の入りたまえという声と共に、失礼しますと女生徒の声がする。その声を聞いて跡部は眉を顰める。凛と響く良く通る声。聞き良いその声は跡部の記憶にはない。
ただ自分と関わることを目的に嘘をついているのではないか、そう彼が思ったとき、同時に扉が開いた。
「本日よりこちらの生徒となる、九条理央奈と申します。よろしくお願い致します」
「九条…理央奈…?」
中に入ってきたのは160センチ前後だろうか、全体的に細い印象の女生徒だった。緩やかに波打つ豊かな茶髪と焦げ茶の瞳を持つ彼女は隙一つない身のこなしで礼をすると、静かに跡部を見つめる。その瞳にはやけに見覚えがあった。
媚びるでもなく、妬むでもなく。
ただ静かに彼を見つめる、そんな瞳。
「九条のクラスはお前と同じだ、色々と説明してやれ」
「っ、先生、まだ話は」
「以上、行ってよし」
有無を言わせず話を切り上げた榊は九条と呼ばれた女生徒に軽く状況の説明をした後、2人を部屋から出す。
未だ納得のいってない様子の跡部だったが、彼女の存在そのものには興味を抱いているようだ。悪くない始まり、そう榊は思う。
九条理央奈の目まぐるしい経歴。そしてそこに隠れる跡部との繋がり。
この学園では誰1人知らない彼の姿を知っている唯一の少女。
彼らはきっと、今のお互いに必要な存在であるのだ。
*
榊のいた音楽準備室から始まる氷帝学園中等部の案内。その道中は至って静かだった。跡部は口にこそ出していないが、自分が案内することへの不満がその淡々とした口調と憮然とした表情に色濃く出ていたし、対する理央奈も考え事をしていた為に彼と話すどころではなかった。
榊先生は、何を考えているのか。
2人の抱く共通の感情は、疑問。何故自分が案内するのか、何故彼に案内されるのか。主体こそ違えど本質は同じ、なぜ相手と関わらなければならないのかの1点につきた。
「…ここが3年A組。明日からのお前のクラスだ。質問は?」
「大体覚えたので特には。ありがとうございます」
互いに距離を図りかねた会話は同級生としてもかつての知り合いとしても不自然なまでに他人行儀である。しかし跡部にしてみれば目の前の女生徒との繋がりなど記憶にないので、そうなっても無理はない。
「…ならこちらから聞かせてもらう。お前は誰だ?」
「……質問の意味を理解しかねます。もう1度名乗ればいいのですか?」
「んなわけあるか。俺様が聞きたいのはこの俺との繋がりだ。榊先生が言ってたんでな、俺とお前は初対面じゃないと」
あの教師、いつの間にそんな余計なことを。
理央奈の顔が忌々しそうに歪んだ。自分と彼との繋がりは誰にも知られたくなかったのだ。
特に、目の前にいるこの男には。
「…あなたの、記憶にはあるのですか?」
「ないから聞いている」
「ではその通りなのでしょう、榊先生の勘違いでは?」
「………何?」
あまりにも静かな答えすぎて、その言葉を理解するのが数秒遅れる。やがて完全に把握した時、彼に湧き上がったのは純粋な苛立ちだった。
大会前の大事な時期だ。本当はこんなことに割く時間などない。ひたすらコートでボールを追いかけていたかったのを、先生の頼みだから仕方なく務めたに過ぎない。
跡部景吾はテニス部部長であると同時に生徒会長であり、二重の意味で上に立つ者だった。その彼が地位に基づいて生まれる仕事を放棄することなど有り得ない。
とはいえ優先したいのはテニスであるという本音は隠しようがなかった。それを邪魔した上に自身の質問にまともに答えようとしない転入生に、どうして反感を持たずにいられるだろうか。
「てめぇ、ふざけてるのか!!」
時刻は放課後もかなり経った頃。
ほとんどの生徒は部活に行っており、活動がない生徒も流石に帰宅している時間ゆえに校内に人の気配はなかった。それをいいことに声を荒らげた跡部だったが、対する理央奈は変わらず静かだった。
ただ一瞬、その瞳の波が揺れた以外は。
「覚えていないなら、その方がいいのよ」
「おーい、跡部!まだ来れねぇのか?!」
小さく呟かれた言葉は、外から飛んできた声にいとも簡単に掻き消される。声の主は跡部と同じく氷帝テニス部に所属する向日岳人で、彼を呼んでいることは内容からも明らかだった。
「…生徒会長自らご案内、ありがとうございました。お時間を取ってしまって申し訳ございません、失礼します」
「っ、おい…!」
これ以上同じ空間にいることは耐えられないと、理央奈は素早く身を翻してその場を離れる。逃げ出したと言っても良いかもしれない。あれ以上あそこにいたら、きっと隠す決意をした全てをぶちまけてしまう気がした。
置いていかれた跡部といえば、己の制止を聞かずに走り去る彼女の後ろ姿を無意識に目で追って呟くのみ。
「………何なんだ、あの女」
やがて声のみでなく姿も見せた向日に肩を叩かれ、彼もまたその場を去った。
そう呼ばれるようになるために、彼に要求されたのは血の滲むような努力だった。
幼少期の苦い経験を胸に、ただ、強さのみを求めてきた。
現在氷帝学園の生徒であり跡部の名を知る者で、彼が幼少期にどんな経験を積んだかを知っている人物はいない。
だから彼はカリスマであれたし、常に頂点に君臨してこれた。
_________“彼女”が来るまでは。
「この時期に転校生ですか、珍しいですね」
都大会を終え、関東大会進出を決めた氷帝学園中等部テニス部。関東大会に向けてトレーニングを積むべきある日、跡部景吾はテニス部の監督である榊に呼び出されていた。
もちろん学業、部活共に問題なく、生徒会長としての仕事も容易にこなす彼が説教で呼ばれるわけがない。そんな事は本人も承知しており、大方何かしら雑用だろうと思っていた跡部が榊につたえられたことは、時期外れの転校生の存在だった。
「あぁ、学業の特待生としての編入だ。本当は3年になると同時に来る予定だったのだが、少し色々あってな、この時期になった」
「そうですか。で、その特待生の世話を俺がしろと?榊先生」
「そうだ」
表情一つ変えずに言い切る榊に、跡部の眉が少し上がる。
関東大会に向けての大事な時期なのだ。負けるつもりは無いが、都大会よりも強大な敵を相手にするのだから練習をしておくに越したことはない。よく分かりもしない特待生のお守りなどごめんだと跡部は内心吐き捨てた。
そんな彼の心を知ってか知らずか、榊は“関東大会のことも心配だと思うが”と前置きをしてから再び語り出す。
「あの特待生にはお前が適任だ。互いに刺激となることは間違いないだろう」
「…お言葉ですが、先生。一度も会ったことがない生徒相手に適任も何も無いと思いますが?」
端正な顔立ちの跡部の額にさらに眉が深く刻まれる。相当苛立っている事が榊には見て取れた。
関東大会に出られるとは言っても、そのための道のりは決して彼が納得するものではなかった。レギュラーの敗北。予期せぬ敗退。プライドの高い彼にとって耐え難い状況なのだろう。だからこそ今はテニスに集中したい。その気持ちはわからなくはないのだ。
しかし、ここで譲るという選択肢は榊にはない。この経験が彼にプラスに働くことは確実だと思っているし、何より彼は思い違いをしているのだから。
「違うな、跡部。“一度も会っていない”生徒ではないぞ」
「は…?」
跡部らしからぬやや間の抜けた声。
そんな返答が来るとは思っていなかった彼は珍しく虚を突かれたような顔で榊を見つめる。ようやく冷静に話を聞けそうな跡部に満足そうに頷いた榊は、机の上に置いてある紅茶を一口、口に含む。
「つまり先生、その特待生と私は面識があるということですか?」
「その通りだ。少なくとも特待生の方はそう言っていた」
「…それが俺にどんな刺激を与えると?」
面識があったところでそれが何だ。尚も食い下がる跡部を榊が制す。
「あとは本人に聞けばいい。もう間もなく来る」
「…榊先生、俺は」
苛立ちが頂点に達し、下手すれば掴みかかりかねない跡部が足を踏み出したその瞬間、扉をノックする音が響いた。
榊の入りたまえという声と共に、失礼しますと女生徒の声がする。その声を聞いて跡部は眉を顰める。凛と響く良く通る声。聞き良いその声は跡部の記憶にはない。
ただ自分と関わることを目的に嘘をついているのではないか、そう彼が思ったとき、同時に扉が開いた。
「本日よりこちらの生徒となる、九条理央奈と申します。よろしくお願い致します」
「九条…理央奈…?」
中に入ってきたのは160センチ前後だろうか、全体的に細い印象の女生徒だった。緩やかに波打つ豊かな茶髪と焦げ茶の瞳を持つ彼女は隙一つない身のこなしで礼をすると、静かに跡部を見つめる。その瞳にはやけに見覚えがあった。
媚びるでもなく、妬むでもなく。
ただ静かに彼を見つめる、そんな瞳。
「九条のクラスはお前と同じだ、色々と説明してやれ」
「っ、先生、まだ話は」
「以上、行ってよし」
有無を言わせず話を切り上げた榊は九条と呼ばれた女生徒に軽く状況の説明をした後、2人を部屋から出す。
未だ納得のいってない様子の跡部だったが、彼女の存在そのものには興味を抱いているようだ。悪くない始まり、そう榊は思う。
九条理央奈の目まぐるしい経歴。そしてそこに隠れる跡部との繋がり。
この学園では誰1人知らない彼の姿を知っている唯一の少女。
彼らはきっと、今のお互いに必要な存在であるのだ。
*
榊のいた音楽準備室から始まる氷帝学園中等部の案内。その道中は至って静かだった。跡部は口にこそ出していないが、自分が案内することへの不満がその淡々とした口調と憮然とした表情に色濃く出ていたし、対する理央奈も考え事をしていた為に彼と話すどころではなかった。
榊先生は、何を考えているのか。
2人の抱く共通の感情は、疑問。何故自分が案内するのか、何故彼に案内されるのか。主体こそ違えど本質は同じ、なぜ相手と関わらなければならないのかの1点につきた。
「…ここが3年A組。明日からのお前のクラスだ。質問は?」
「大体覚えたので特には。ありがとうございます」
互いに距離を図りかねた会話は同級生としてもかつての知り合いとしても不自然なまでに他人行儀である。しかし跡部にしてみれば目の前の女生徒との繋がりなど記憶にないので、そうなっても無理はない。
「…ならこちらから聞かせてもらう。お前は誰だ?」
「……質問の意味を理解しかねます。もう1度名乗ればいいのですか?」
「んなわけあるか。俺様が聞きたいのはこの俺との繋がりだ。榊先生が言ってたんでな、俺とお前は初対面じゃないと」
あの教師、いつの間にそんな余計なことを。
理央奈の顔が忌々しそうに歪んだ。自分と彼との繋がりは誰にも知られたくなかったのだ。
特に、目の前にいるこの男には。
「…あなたの、記憶にはあるのですか?」
「ないから聞いている」
「ではその通りなのでしょう、榊先生の勘違いでは?」
「………何?」
あまりにも静かな答えすぎて、その言葉を理解するのが数秒遅れる。やがて完全に把握した時、彼に湧き上がったのは純粋な苛立ちだった。
大会前の大事な時期だ。本当はこんなことに割く時間などない。ひたすらコートでボールを追いかけていたかったのを、先生の頼みだから仕方なく務めたに過ぎない。
跡部景吾はテニス部部長であると同時に生徒会長であり、二重の意味で上に立つ者だった。その彼が地位に基づいて生まれる仕事を放棄することなど有り得ない。
とはいえ優先したいのはテニスであるという本音は隠しようがなかった。それを邪魔した上に自身の質問にまともに答えようとしない転入生に、どうして反感を持たずにいられるだろうか。
「てめぇ、ふざけてるのか!!」
時刻は放課後もかなり経った頃。
ほとんどの生徒は部活に行っており、活動がない生徒も流石に帰宅している時間ゆえに校内に人の気配はなかった。それをいいことに声を荒らげた跡部だったが、対する理央奈は変わらず静かだった。
ただ一瞬、その瞳の波が揺れた以外は。
「覚えていないなら、その方がいいのよ」
「おーい、跡部!まだ来れねぇのか?!」
小さく呟かれた言葉は、外から飛んできた声にいとも簡単に掻き消される。声の主は跡部と同じく氷帝テニス部に所属する向日岳人で、彼を呼んでいることは内容からも明らかだった。
「…生徒会長自らご案内、ありがとうございました。お時間を取ってしまって申し訳ございません、失礼します」
「っ、おい…!」
これ以上同じ空間にいることは耐えられないと、理央奈は素早く身を翻してその場を離れる。逃げ出したと言っても良いかもしれない。あれ以上あそこにいたら、きっと隠す決意をした全てをぶちまけてしまう気がした。
置いていかれた跡部といえば、己の制止を聞かずに走り去る彼女の後ろ姿を無意識に目で追って呟くのみ。
「………何なんだ、あの女」
やがて声のみでなく姿も見せた向日に肩を叩かれ、彼もまたその場を去った。
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