短編
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名前英語圏のジャンルは片仮名推奨。
日本語圏は漢字又は和名推奨。
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父は母に対してだけ、愛情深い人だった。家族皆を平等に愛しているように見えて、父の心は常に母のそばにあった。母が病で儚くなってからは、その愛情が私へと向いた。母によく似た私の事を、父はたいそう可愛がってくれた。綺麗な着物を買い与え、ハイカラな甘味を食べさせて、本も、簪も、櫛も、なんだって私に与えてくれた。私を愛してくれていた。
兄は才能溢れる人だった。利口で賢く、剣術の腕も立つ。誰も兄には敵わない。囲碁の打ち方、将棋の打ち方を教えてくれた。血の繋がりはなく、養子として我が家に訪れた兄だったが、義妹にあたる私を愛してくれていた。
下男の彼は穏やかで優しい人だった。母が死んで悲しむ私を一番支えてくれた。友人との関係で悩む私の相談に乗ってくれた。私のどんな話にも根気よく付き合ってくれた。いつでも私を気にかけてくれていた。私を愛してくれていた。
例えそれが、全て偽りの愛だったのとしても、構わなかったのだ。
私が十五の頃、結婚が決まった。相手方は士族で、少し前までは名の通った武士も出ていたらしい。私は女学校を辞め、士族に嫁ぐことになった。父は喜び、下男も祝福してくれたが、兄だけは何も言わなかった。
「兄様、何処に行かれるというのですかっ!」
「ここでは無い何処かだ!」
私の腕を痛いくらい強く掴み、強引に先を行く兄は酷く焦っているようだった。背後からは父や父の部下たちの怒鳴り声が聞こえる。
山に入り、林をかける。地主の娘である私を連れた兄。追ってくるのは町の中でも一等屈強な男たち。追いつかれる事は一目瞭然。それでも兄は私の手を離さなかった。
山道から外れ、雑木の中に紛れ込む。木と闇夜に紛れるように身を屈め、息を殺す私たち。男たちは私たちに気付く事なく、山の奥へと駆けて行った。
「兄様…、」
「すまない、だが、俺はどうしてもお前を嫁に行かせたくなかった」
「あ……」
近い距離を、更に密着させる兄を抵抗なく受け入れる。縋るように抱き締められては、私は何も言えなかった。
「愛してる、愛してるんだ…!」
「兄様…、私も、」
お慕いしております、掠れた声は確かに兄の耳に届いたようだった。兄は私の言葉を聞くと、抱擁を強めた。身動きができず、息すら苦しくなる程の熱い抱擁。私は確かに愛を感じた。兄に、私は愛されている。
どれ程そうして抱き合っていたか分からない。兄は顔を上げ、私を見つめると、静かに言葉を紡いだ。
「一緒に逃げよう」
お前が誰かのものになるなど考えたくもなかった。だから今日、衝動のままに手を引いて屋敷からお前を連れ出したんだ。ここでは無い何処かへ、二人で行こう。兄は真剣に、私にそう伝えた。駆け落ちをしようと、私にそう言ったのだ。それでもいいと思った。兄とならば、全てを捨てて共に生きたいと、本気でそう思ったのだ。
はい、と確かに頷くと豆だらけの掌を差し出された。蝶よ花よと育てられた軟い私の手が、それに重なる。しっかりと握り込まれた二人の手は、二度と離れないものなのだと、そう信じていた。
そう信じていた、のに。どうしてこんなことになってしまったの。
私を母の代わりだと言わんばかりに愛した"ふり"をしていた父は、兄に斬り伏せられ、瞼を閉じることなく瞳を濁らせている。最期に小さな声で母の名を呼んでいた事を、私の耳は確かに拾った。最期の最期まで母だけを愛していた父親は、私を最期まで愛してくれる事はなかった。
お父様、ご存知でしたか、お母様は黄色味の強い着物を好み来ていましたが、私は赤味が強いものの方が好きなのです。でも、お父様は私に赤色のものは何一つ与えて下さらなかったわよね。あれが欲しいと指しても、貴方は別の物ばかり。私が本当に欲しいものは、何一つくれなかった。赤い着物も、お父様からの愛情も。
木に頭を打ち付けて気絶している下男も、私を愛していたわけではなかった。私たちを追って現れた彼は、兄に私だけ置いて勝手に逃げてろ、と暴言を吐いた。兄の代わりに私を愛すると、そう続けた。激昂した兄と共に掴み合い、斬り合い、先に地に伏した。
お前は私を愛していると言ったわね。兄様よりも、自分の方が私を深く愛していると。でもね、私は知っているのよ。お前が私を本当は愛していないことなんて。お前はよく私のために時間を割いて共に居てくれたわね。だけど、あれは私にお前の時間を与えていたわけではなくて、兄から私との時間を奪っていただけ。さっきのもそう、お前に無いものを持っている兄様を妬んでいたから、何か奪いたくて、その何かに私を選んだんでしょう。奪うならば、なんでもよかったんでしょう。
それから、刀を持って呆然と立ち尽くしている兄も、私を愛していたわけでは無かった。父を斬り伏せ、追ってきた下男と兄が私を取り合った。振り回されるがまま、抵抗できずに参っていると、顔の右側が熱くなった。体の中心が焼けるような痛みに襲われた。下男の刃が私の顔を裂き、兄の刃が私の腹を貫いた。喉から悲鳴が出る事はなかった。余りの痛みに声すら出せず、私は息を詰まらせ、着物を泥で汚した。口許から頰にかけて裂け、口が閉じられなくなった。黄色の着物を汚す赤は、私の欲したものでは無い。
兄様が何かに縛られる事を一等嫌っている事を私は知っていました。養子として我が家にやってきた貴方は、後継になる事を決められていましたね。貴方はそれから如何しても逃げたくて、抗いたくて、剣術に打ち込み、勉学に励んでいましたね。だけど逃げられず、一人娘の私だけ、他所の家へと此処から去る。それが羨ましかったんですよね。だからこれを機に、と私と共に逃げようなどと。貴方はずっと逃げ出したかった、共に来るのは私でなくてもよかった、そうですよね。貴方は別に私を愛してはいない。愛している、なんて言葉を口実に、何処かへ逃げ出したかったのでしょう。それを証拠に、貴方は私から目を逸らし、夜へと消える。
「に、さま……」
死が目前に迫っていながら、私の内で燻っているのは何だろうか。
嗚呼、何と腹立たしい。赦しがたい。ゆっくりと遠くなる意識と共に、湧き出た激情も沈んでいくのだろうか。憎いと叫ぶ私に反して、身体の感覚は私から離れていく。
*
「風柱様」
鈴を転がすような声で不死川は呼び止められた。
不死川は上弦と思われる鬼の出る街へと任務のために赴いた。鎹烏曰く、甲の隊士と共に二人で任務にあたることになる。甲の隊士は柱ほどではないが極端に人数が少ない。誰しもそこまで生き残れないからだ。実力のある隊士ならば、柱も数名知っている。継子に誘うこともある。
不死川を呼び止める声は、聞き覚えのある隊士の声だった。
「吉澤かァ」
「お久しぶりでございます」
吉澤アキラ、口許を隠すように顔半分を布で覆う女隊士だ。炎柱である煉獄杏寿郎の継子で、炎の呼吸を使う実力のある隊士であり、気性は鬼殺隊にしては珍しく穏やかであった。女性でありながら甲まで上り詰めた吉澤。不死川はこの吉澤が嫌いではなかった。
「私と風柱様との任務なんて、とても不穏ですね」
「あァ、隊士が10人以上行方不明となると、流石に俺らに回ってくるんだろうよ」
「まぁ、そんなに。最近は隊士の質が落ちている、とよく耳に挟みますが…」
憂う様に眼を伏せる吉澤。
吉澤は煉獄の継子なだけあって、よくできた人間だった。優しい人間、神様に好かれる人間だ。
哀しみを帯びた志村の表情を横目に、不死川はこの隊士を任務から生きて返さねばならぬと思った。
任務は滞りなく完了した。柱の不死川、甲の吉澤にとって大したことのない鬼だった。
2人はその後、藤の家紋の家で一旦休む事にし、早朝になると別の任務へ向かう為、別れることとなった。
「もし、聞きたいことがあるのですが」
「へぇ。如何致しましたか」
早朝、屋敷の玄関に向かう道中、不死川は吉澤と屋敷の主人の声を聞いた。どうやら不死川の進路の先に居るらしく、姿は見えないが吉澤も屋敷を発つ所なのだろう。
ゴソゴソと吉澤の隊服が擦れることがする。
「こちらの写真…、この男性に見覚えはありませんか」
「失礼」
吉澤は写真を取り出し、その被写体の人物について尋ねているらしかった。任務で探しているのか、彼女の個人的な人探しかはわからない。
「うーん、申し訳ありません。見たことがねぇです」
「そうですか…。いえ、お手を煩わせてすみませんね」
「とんでも無いです!…もしや、鬼狩り様のご家族か、恋人か、何方ですか…?あ、いやっ、不躾にどうも、」
「気になさらないで。…兄なのです」
吉澤の言葉に、不死川はぴくと指先を動かす。
「随分前に行方知らずになりまして…。探しておりますの」
彼女が力無く笑う姿が想像できて、不死川は止めていた足を再び動かした。廊下を曲がると、2人の姿はすぐに見えた。
「俺にも見せろォ」
「風柱様」
吉澤は不死川の姿に驚いた様子だったが、手元の写真をそのまま不死川へと差し出す。
不死川はそれを丁寧に受け取り、まじまじと紙切れの中に写る人物を見た。草臥れた写真の中に精悍な顔つきの青年がこちらを見つめている。彼は洋服に身を包んでおり、其れなりの身分がある家の生まれなのだと推測された。吉澤の言葉遣いや立ち振る舞いを見る限り、その推測は当たっていた。
目元は特に吉澤に似ているとは思わなかった。特徴的なのは彼の頰に2つ縦に並んでいる黒子だろう。
不死川は写真をじっと見つめたが、特に思い当たることはなかった。会ったことも見たこともない青年だった。吉澤の助けになれなかったため、小さく謝りながら写真を返した。
吉澤と不死川は藤の家紋の屋敷を出立するタイミングが重なったこともあり、そのまま駅まで共に歩くことになった。
不死川は逡巡していた。吉澤の兄について彼女に尋ねるかどうかについて。鬼殺隊の隊士は皆何かしら事情を抱えて剣を取ったものが殆どだ。不死川も然り。だが、不死川はその詳細を誰かに語るつもりは一切無い。だからこそ、彼女に聞いていいものかと悩んでいるのだ。この男、顔が目つきや傷のせいで怖いが、女性や子供に対しては酷く優しい性分なので尚更のことであった。
しかし、吉澤が不死川の弟の様に命の危険を冒してまで兄に会いたいがために探している、というのなら考え直せ、と口に出したくはあった。どんな事情があるのかは勿論一切知らないが、兄という立場として妹には健やかに生きていて欲しい。こんな地獄の様な道は選んで欲しくない、そう思ってしまう。
「お前、兄貴探してどれくらいだァ」
「育手の先生に拾って頂いた頃ですから……4年程前かしら」
「あぁ?」
育手に拾ってもらった、ということはそれまでは共に暮らしていたのか。拾われる境遇になったということは、鬼に家族を殺されたからだろうか。そうでなければ、これ程育ちの良い娘が鬼狩りになるとは思えない。温室でぬくぬくと育った様なおっとりとした喋り方は鬼殺隊には似合わない。
「……他の家族はどうしたんだ」
「母は病死で、父は……鬼に喰われたらしいです」
「らしい?」
「はい。何分私、その時意識を失っておりまして、先生がその鬼を殺して私を拾ってくださったのです」
吉澤は少しばかり気まずげな不死川と対照的に、淡々と語った。不死川から尋ねられたことにより、吉澤は自らも自身の事を話し始めた。
「先生曰く、その場の死体は2人だけ、だと。父と我が家の下男の2人だったと」
「兄貴は鬼に喰われたわけじゃない、ってか」
「恐らくですが。兄はあの時刀を持っていましたし、何より剣術が得意な方でした。そう簡単に殺される様ななお人では御座いません」
甲の吉澤がいうのなら、相当腕が立つのだろうなと不死川は思った。
「私が鬼殺隊に入ったのは、先生への恩返しと、各地を回る事で兄に会えるのではないかという期待故です」
不純でしょうか、吉澤は眉を下げて不死川を見上げた。妹が怒られる事を恐れて己の罪を自白する時の表情だった。
不死川は正面を向き、吉澤から視線を逸らすとその頭に己の手を置いて適当に撫でた。育手への恩返しと、兄を探すために各地を飛び回る鬼殺隊に入ったなど、健気で何も言えなくなったのだ。これが実の弟であれば再起不能にしてでも止めるが、他人故に頭を撫でてやる事しか出来なかった。
生きているか、死んでいるかもわからない兄に会うことが、彼女の生きる理由なのかもしれない。
*
煉獄杏寿郎が死んだ。烏が鳴くと共に、吉澤は持っていた筆を書きかけの手紙の上へ落としてしまう。白い紙に、黒い墨が滲み広がっていく。顔色を無くし、右手は戦慄き震えていた。
煉獄の訃報から数日、彼を悼む人々が多くいる中、一時的に空席となった炎柱の席が埋まった。
吉澤アキラ、それが新しい炎柱の名だ。
*
吉澤は額に青筋を浮かべながら無限城内を疾走していた。
敬愛するお館様が志村の目の前でその命を散らせたからだ。無限城に落とされてから、蛆虫のように湧いて出てくる鬼に対しても酷く怒りが湧いた。斬っても斬っても、無限に出てくる鬼。キリが無いそれに、普段は温厚な吉澤ですら苛立った。
「ガアアァァァア!!」
「っ…邪魔!!!!」
異形の鬼の巨大な首を跳ね飛ばしたと同時に、何者かによって突き破られる吉澤の背後の襖。
「!?」
そのまま飛び退き、背後を振り返ると、血走った目でこちらを睨みつける不死川と視線が合う。
「ご無事でしたか!」
「ったりめぇだァ」
しかし、息つく間もなく次々と鬼は襲ってくる。2人は地を蹴り、再び刀を振り上げる。
暫くそうして鬼を狩っていると、なにやら可笑しな紙を額につけた烏が鳴いた。なんだなんだと烏を見上げていると、それは2人の頭上を旋回し、付いて来いと言わんばかりに無限城内を迷いなく飛んでいる。
「!案内か!」
「そのようですね、行きましょう」
鬼を斬りながら、烏を見失わないように2人は駆け出した。
道中、胡蝶しのぶの訃報が響き渡った。吉澤はヒュ、と走りながら息を漏らし、動揺した。不死川もまた、鬼に対して怒りを募らせた。
吉澤はしのぶが姉の仇を討つために己の身体を毒に換えている事を知っていた。穏やかな表情でいつも笑っている彼女が、その実心の内に激情を秘めている事を知っていた。鬼が憎い、憎くてたまらないのだ。刺し違えてでも殺してやる。彼女の意思は固かった。
吉澤はしのぶの意思を聞いて、それを止めようとは思わなかった。他人にどんな事を言われても、本人からしてみれば、それは蝿の羽音と同じだから。鬱陶しくて、邪魔で、苛立って仕方がないだけなのだ。
だが、吉澤は彼女の友人として、しのぶが死んでしまうのは悲しい事だと心底思った。もう彼女と話すことすら出来ないのだと、そう思うと寂しくて、胸が苦しくなる。
酷い世界だ、と吉澤は思う。と、同時に悲願を果たしたしのぶが羨ましくもあった。自分も、この無限城から生きて帰って、兄を探さなければ。
ドン!と不死川と吉澤の背から壁が迫り、2人は反応する間も無く前へと押し出される。ゴオと風の切る音しか吉澤の耳には拾えない。目が乾いて仕方がなかったが、薄眼を開けて今の状態を打開しようとするが、目の前からも迫る壁にギョッとした。それは不死川も同じだったようで、体制が整わない中無理やり型を使って迫り来る壁を壊す。
炎の呼吸 伍ノ型 炎虎
風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風
ドゴォ!!と壁を破壊した音が轟き、2人は何やら広い部屋へと飛び出た。床は畳で、大広間のようだった。
そこに、こちらに背を向けて気怠そうに座っている男が1人。
壁を突き破った事で立った騒音に鬱陶しそうに振り返る男。
吉澤は、その男の顔を見て息を止めた。
縦に伸びた瞳孔、鋭く伸びた爪、唇から覗いた牙は鬼のソレだったが、何より問題なのはその鬼の男の顔だった。
「に、さま……、」
「は、」
頰に二つ並んだ黒子。精悍な顔つきの青年の姿をした鬼は、吉澤の兄にそっくりだった。
写真を見たことがある不死川も、吉澤の思わず呟いてしまった言葉に驚きを隠せない。
兄。吉澤の兄が、今目の前で鬼として存在している。
吉澤が、健気に探し続けていた兄が、鬼に。
「あー?柱じゃん。しかも二人!伍のオレじゃあ、荷が重いなぁ」
「上弦の、伍」
更に鬼の瞳に刻まれているのは伍の数字。ついこの間頸を斬った筈なのに、もう補充されていたのか。不死川はビキビキと怒りを募らせる。刀を握る手がギチギチと音を立てる。
酷い世の中だ。クソッタレめ。
不死川の耳は、隣に立つ吉澤の呟きを拾っていた。
嗚呼、そんな。兄様、鬼に、なんて事。こんな、こんなことって。
吉澤の心中を察し、不死川は前に出た。
「吉澤、」
「兄様、兄様。私、私、嗚呼、貴方が鬼になるなんて。こんな、こんなことって、」
「おい!」
フラフラと上弦の伍の元へ歩み寄る志村を止めようと、肩を掴む。吉澤の震える小さな声が、徐々に力を持って大きくなる。
認めたくない事実に、吉澤が可笑しくなってしまったのではないかと不死川は思った。
無理もない、兄に会いたい一心で今まで生きてきた志村は、最悪の形で再会を果たしてしまったのだから。
だが、不死川の心配は、裏切られることとなる。
悲観に暮れ、顔を俯かせていると思っていた志村の顔には、笑顔が浮かんでいた。頬を紅潮させ、瞳は潤んでいる。心の底から嬉しくてたまらない、というのが伝わってくる表情だった。
「こんなに嬉しいことは無いです…!嗚呼、なんて良い日!私、きっと今日の為に生まれてきたんだわ!!」
「ぁん?」
流石の鬼も自分に会えたことを喜ぶ吉澤の様子に怪訝に思っている。
上弦の伍に人間だった頃の記憶はないようだった。
「兄様、私ね、貴方に会う為だけに生きてきたの!もう会えないって心の何処かで思っていたのだけれど、嬉しい誤算だわ!だって貴方は生きていて、更には鬼になっていた!」
「貴方は鬼!私は鬼狩り!私は貴方を殺してしまっても、何の罪にも問われない!!」
「嬉しい!嬉しくてたまらないわ!貴方を殺せる!私は、やっと憎くて憎くて、殺してしまいたい程恨んだ男をこの手で自ら手に掛けられるんだもの!!」
興奮した様子で吉澤は叫ぶ。表情は高揚した乙女のそれで、熱っぽい視線で鬼を見つめている。
しかし、表情は少しずつ歪み、熱っぽさを持ちながらも、吉澤は鬼を睨みつけた。
「無惨様の言った通り、鬼殺隊は異常者の集まりって本当の事だったんだなあ」
冷めた鬼の瞳に、吉澤は兄の面影を見て殺意を強く持つ。己の人生を悲観し、周りの人間を見下していた兄の瞳とそっくりだったからだ。
吉澤にとって、最早兄は愛おしく思った家族でも男でも何でも無い。殺したい程憎み恨んだ存在でしか無いのだ。今の吉澤は、兄だった男の全てを否定したい。
吉澤は顔半分を隠していた布を取り払い、吼える。不死川は、吉澤の素顔をこの時初めて見た。
「お可哀想に、鬼になって記憶を失ってしまわれたのですね。でも大丈夫、私が全て忘れることなく覚えていますので。ほら、貴方が殺した女の顔ですよ。覚えていようが覚えてなかろうが最早関係ありません。今から貴方を殺す女の顔ですよ、よく見てくださいまし!」
吉澤の顔には大きな傷が有った。口の端が大きく裂け、縫った跡が歪に頰に残っている。口がうまく閉じられないのか、傷がある方は不自然に開いてしまっている。美しかったであろう女の美貌を、その傷が台無しにしていた。
更に、吉澤は嘗て兄に刀で刺された事により子を授かれない身体になっていた。文字通り、女として吉澤は死んだのだった。
「不死川様、ここは私にお任せください。貴方は先へ進んでくださいませ」
「上弦だぞ」
「わかっております。ですが、あの男を殺すのは私です。あの男の腹を斬り、喉を裂き、目玉をくり貫いて、酷く惨めに殺してやるのは私です。譲ってくださるわよね」
「………死ぬんじゃねぇぞォ」
「ええ、勿論です。貴方様も」
不死川は駆け出した。吉澤をこの場に一人置いて。
心配はいらないだろうという確信があった。不死川は吉澤の実力を認めている。あの煉獄も継子の吉澤のことを大層褒めていた。
そして、あの鬼になってしまった兄への憎悪。あの憎悪は本物だった。兄に会ったことで吉澤を正気に保たせていた何かが外れたのか、普段の穏やかさから掛け離れた吉澤の様子に不死川は肌が栗立った。怒り狂う様は当に修羅の如く。
「死ねっ!!!!」
怒れる女の声を背に、不死川は鬼の首領、鬼舞辻無惨を殺すため先を目指した。