夏油が何をしている人間なのか知らない審神者
御空を捨てた子ども【完結】
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宇治の橋姫伝説といえば、嫉妬深い橋姫という女性が生きたまま鬼になり、妬んだ女やその縁者共々殺した鬼女として有名である。更に、源綱が刀の髭切を用いて橋姫の腕を切ったことにより『鬼丸』と呼ばれるようになった、という話もある。
また、大抵がマイナスのイメージを持たれる橋姫であるが、古今和歌集や源氏物語に残る和歌の世界では健気で愛おしい女性、という描写が多く用いられている。
嫉妬深い鬼女だの、健気な女性だの、伝承は様々であるが、橋姫といえばもう一つ有名な肩書きが。『橋姫』という名の通り橋を守る女神のことである。古来より日本では、水辺やそこに架かる橋には心霊や呪霊が宿るとされ畏怖されていた。それにより、橋というものは女性神が守る場所である、と。
宇治の橋姫といえば、嫉妬深い鬼女であり、健気な女性であり、橋を守る女神なのである。
そんな橋姫の能面をつけ、呪術界上層部を前に背筋を伸ばし堂々と前を見据えるのは、審神者名片桐。
夏油と接触しているであろう淫夢に対して嫉妬で怒り狂うのを持ち前の精神力で留めている鬼にはなっていない女である。
また、1年程前に破談したにも関わらず縁談相手の夏油傑を想い続け、その夏油を付け狙う歴史修正主義者の宍倉の魔の手から救おうとしている健気な女の子でもある。
そして、呪術界と時の政府を繋ぐ橋掛りの命運を握っている広義な意味では橋を守る女神である。
時の政府に勤めるしがない事務員でしかない柴田は己の三歩ほど左側に立つこの橋姫の能面を付けた10代の少女が恐ろしくて仕方がなかった。
宮内庁直通のゲート前に今朝方集合した時から面をつけているし、無言であるし、少し話しても声に抑揚が全くなく、テンションもずっと平坦なのだ。なによりつけている能面が普通に怖い。般若のようにわかりやすい表情をしているより、眉間に皺を寄せ口元を薄く開いているのが尚怖い。夢に出そうだと思った。
柴田が恐ろしい、と肩を小さくしているにも関わらず、柴田と片桐の目の前に座る御老人方はニヤニヤと何が面白いのか気味悪く笑い、立派に携えた髭を撫で付け、そして時には憤怒で顔を染め、一貫して此方側に不遜な態度を取り続けている。彼らは命知らずなのだろうか。一周回って子供のようにこてん、と首を傾げてしまいそうだ。
片桐の背後に立つのは山鳥毛、日光一文字、南泉一文字の三振り。控えめに言っても怖すぎる。ただ立って、片桐の後ろに控えているだけなのにこの圧力。控えめに言わなくても十分怖いのに。
「こんな紙切れ一つで我々が横領しているなどという証拠にはなりはしませんが…そこの所、時の政府側はどうお考えなんでしょうかねぇ」
ぴら、と柴田達が用意していた領収書のコピーを掲げて見せる1人の男。
不敬すぎる、縮みあがりそうになるのを柴田は気合で抑える。
「しかし、こちらで納品している御守りや札と数が合わないんですよね。其方に記載してある呪具…無銘刀とはいえ、時の政府お抱えの刀鍛冶が打った上等な物ですし。領収書に記載してあるお名前は貴方のご親戚の方ですよ。十分貴方方が至福の肥やしにしている証拠になり得ますが…そこの所呪術界の皆様はどうお考えなのかしら」
怖い。全く同じ流れで向こうに聞き返した。
柴田が手にもつ資料は彼の汗で湿り出している。
話を簡単にまとめると、時の政府側が納品している特別性の御守りや札、霊力を込めて作っている呪具が納品する際の記録と実際の数が合わないのである。そこで詳しく調べてみた所、政府側の担当職員Aの個人口座から違和感満載な入金があった。振り込み元は、呪術界上層部の関係者B。詳しく問い詰めると高値で呪術界に売りつけていた、と。
その事実を知った審神者達の間には激震が走った。我々が命をかけて歴史遡行軍を討伐しているのに政府職員がしているのは不正なルートでの金儲けかよ、と。
特にキレたのは片桐含む徴兵組だった。諸事情により政府に徴兵された審神者達は家族や友人に会えず、滅多なことでは本丸から出ることを許されていない。本丸は監獄か、俺たちは罪人か、と普段から自虐ネタとして扱っているソレも流石に笑えなくなってきた審神者。
そんな審神者達の怒りを抑えるために立ち上がったのは片桐。己が呪術界に乗り込んで、罪を問い、非を認めさせ、謝礼をたんまり分捕ってくる。政府にもまた、私が功績を挙げて恩を売ろう、と宣ったのだ。片桐は徴兵組の中でも幼く、まだ十代であることもあり、審神者達には可愛がられている。あの女傑で有名な葦家も気にかけているというのは有名な話だ。
ここで一つ言いたいのは、政府職員Aを糾弾し、政府内で処理しようとしたものを審神者側に情報を漏洩させたのは全て片桐と葦家である、ということだ。
シレッとした顔で『さにチャンネルに情報漏らしときました』と言われた時は文字通りひっくり返ってしまった。
片桐の筋書きは以下の通り。
政府側の失態を手足となる審神者の間で情報を漏らし、混乱と反乱を起こさせる。普段からセコい政府を嫌う審神者は多く存在し、蓄積されていた不満を爆発させるトリガーを作る必要があった。それが今回の横領事件。
その怒りで震える審神者達を諌める片桐は己の評価を良く理解していた。徴兵組最年少で、戦績も上位に食い込む優秀な審神者で、クソ呪術界の呪術師と破談したうら若き乙女。
本人を知りもしない他の審神者達に夏油の悪口を言われるのは耐え難かったが、これも今後の為、と耐え忍び全審神者の代表としてこの場に立っている。
「怖い……」
堪らず柴田は小声で呟いた。
そんな柴田の恐怖心など知りもしない呪術界上層部はフンと鼻を鳴らして片桐を見下ろした。
「小娘1人で乗り込んで来たと思ったら、言う事かいて罪を認めろ、詫びろだの…」
「夏油と破談したことを根に持っているのでは?これだから女は…」
「橋姫とは、また縁起の悪い…。確か彼処は呪霊の巣窟ですぞ」
「時の政府様も我ら呪術師を舐めておられるのだ。斯様な子どもで事足りると」
「向こうも人手不足らしい。この娘が優秀な胎盤となれば話は別だろうが…」
「お言葉ですが」
聞くに耐えない呪術界達の言葉に柴田は驚きすぎて口をあんぐり、と開けてしまう。この男、2205年の時の政府で働いている未来人である。『呪術界の男尊女卑はエグい』と聞いてはいたし、『クソカスゴミクズ』と事前知識だけはあったので夏油と見合いをする片桐を心配していたが、ここまで酷いものとは思わなかった。少なくとも、夏油は不快な視線を片桐に向けたことはなかったし、失礼な言葉を投げつけることもしなかった。
というか審神者様に向かってそんな酷いこと言える人間、この世にいんの?というレベルである。
柴田は無意識に一歩足を引いた。その時、視界の端に立つ大男の姿をした刀剣男士の存在を思い出す。
横は向けなかった。己の主を貶されている一文字の刀達が怖くて堪らない。それから姿が見えない鶴丸国永と堀川国広、前田藤四郎も怖い。
しがない事務職員の柴田が何も出来ずにいると、嗄れた爺達の声を遮るように瑞々しい片桐の声が良く通る。
「お言葉ですが、審神者は実力主義なので男女云々は関係がありません。私がこの場に立っているのは、私の力を政府の皆々様がお認めになっているからです。いい歳こいて社会の流れに順応せず、止ん事無いお家柄を大切になさって、人間性を母胎に置いてきてしまった業突く張りの皆様とは違って、時の政府は柔軟性がありますから。私のような小娘にも、社会経験を積ませてくださっているんです。慈悲深いわあ」
柴田は片桐の口からするする吐き出される嫌味に流石片桐様、と感心していた。あのクセの塊である審神者達から信頼されているだけある、と思っていたのだが、途中で時の政府への嫌味が挟まった。
「社会経験を積ませてくる」とは、つまり「仕事を押し付けまくってくる」の意であった。柴田の上司がこれを聞いても気がつかないだろうが、片桐を担当してもう何年も経つ彼だからわかる。さり気に時の政府のこともきっちり貶している。
「こ、こわ……」
またも思わず呟いてしまった。
片桐と呪術界上層部の舌戦は続く。顔を真っ赤に染め上げて唾を飛ばす勢いで繰り出される罵詈雑言に、落ち着いた声で言い返される片桐の嫌味と皮肉。
ついこの間の事だが、怒れる片桐に詫びるために直接本丸に赴いた柴田だからわかる。
片桐様、ガチでキレたら怒りが持続するタイプだ。しかも自分で報復して相手を跪かせないと気が済まないタチの悪いタイプ。
柴田にとって、ただ地獄みたいな時間だけが過ぎる。
「先程から私を貶す言葉ばかり…論点がずれています。国語のお勉強はなさらなかったのかしら。……あら?」
煽るなぁ、ここまでくると気持ちがいい嫌味に身を任せていると、不自然に言葉を切った片桐。柴田はどうしたのか、と隣に立つ彼女を見る。
片桐の視線の先には目立たないように俯いて小さくなる1人の呪術師がいる。心成しか顔色が悪く見える。
「其方の方、どうされました。御気分でも悪いんですか」
己に視線が集まったことが分かったのだろう、顔色の悪いその男が脂汗を額に滲ませて顔を上げた。
声を掛けてきた片桐を見て、男は引き攣るような声を上げる。
「ヒッ…!?」
確かに橋姫の面は不気味だが、そこまで怯える事があるだろうか、あの呪術師が。
他の呪術師も怪訝な顔で男を見遣る。情けない姿を晒すな、弱みを見せるな、と視線で訴えかけるが、怯えてそれどころではない男。
「嗚呼、もしかして、貴方には見えてらっしゃる?」
見える、とは一体何が。
訝しげに呪術師達がコソコソと話し出す。
普通の人間には見えない呪霊を祓う呪術師に、見えないものなどあるのか。柴田もまた、怪訝な顔で片桐を見つめた。
「皆様には見えないと思って、紹介を省いてました。申し訳ありません」
心の籠らない口だけの謝罪を述べた片桐は、少し背後を振り返った。怯える男の唇に、色が乗っていない。
「私の刀です。右から、南泉一文字、山鳥毛、日光一文字」
視界の横で三振りが身動いだ。それに反応して、男は座っていた椅子から滑り落ちてしまう。頭を抱え、何かから身を守るように体を小さくする。尋常ではない怯え方に、見えない何かを警戒する呪術師達。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。殺気は出さないように言いきかせていますし、人を殺さないように躾けておりますので」
「……もしや、刀の付喪神か」
「はい。自慢の三振りです。普段は非術師にも見えているように動いていますが、今日は護衛だけですし、いいかと。でもまさか、見える方がいらっしゃるなんて。すみません、皆様にも見えるように顕現させますね」
そう言って、片桐がパン、と柏手を打つ。
清々しく美しい霊力が空間を一瞬で満たし、消える。その瞬間、呪術師には見えなかったはずの刀剣男士の姿が目に映る。
何人かは明らかに顔色を変え、汗を額に滲ませる。
見えない、というのは、やはり幸せな事だと柴田はしみじみ思う。
「もしかして、刀剣男士を見るのは初めてですか」
緊迫するこの場で片桐の抑揚のない声がよく響いた。先程までの凛とした声色と異なり、子供のように惚けた明るい声だった。
「見た通り、理性がありますから、無差別に人を殺すような事は致しません。抜刀許可も私が出していませんし。しかし、意思があるので自由に動き回る分にはお許しくださいね」
柴田は目を見開いた。呪術師の側に、姿の見えなかった他二振りが刀片手に手持ち無沙汰に存在していたからだ。
鶴丸国永が、無作法に机の上に乗り上げ、1人の呪術師を見下ろしている。
「きみ、五条の出かい?かなり薄いが、気配が似ているな」
「は、」
刀を肩に乗せ、顔を覗き込んで何やら話している。
真っ白な髪に人間離れした美しい顔立ち。金色の瞳は無機質なガラス玉の様に純度が高い。ゾッとするような圧倒的な美であった。
肉の身体から溢れ出るような清い気配も相俟って、呪霊とは異なる付喪神という存在に背筋が凍る思いだった。
「立派な剣タコですね。獲物は何をお使いになるんです?」
「な、に…っ!」
少し離れたところでは、背後を取られた男が無遠慮に腕を持ち上げられ、掌をまじまじと堀川国広に観察されている。
片桐の背後に控える三振りや鶴丸と異なり、明らかに見目が幼い堀川。人好きする笑みで男を見下ろしているが、剣術を嗜む人間からすると背後を取られる事はとても恐ろしいだった。
男は、無遠慮に手を持ち上げられた時、生きた心地がしなかった。堀川が触れる手首から先を、切れ味の良い刀で斬り落とされた錯覚まで覚えた。
「白い刀が鶴丸国永で、青い瞳の刀が堀川国広です。すみません、鶴丸は自由奔放で、堀川は世話焼きが性分なものですから。二振りとも、皆様のことが気になるようで」
片桐の背後に立つ三振りは微動だにしない。表情もまた、ピクリとも動かさず、呪術師達を見つめていた。殺意も敵意も感じないのに、目の前から放たれるプレッシャーは酷く重たいものだった。
「それで、なんのお話でしたっけ。…嗚呼、そうだわ。『呪術界では糞の役にも立たない霊力があるだけの小娘だが、母胎としてならば時の政府でも役に立つんじゃないか』、なんて言われてしまったから、また話の論点がずれてしまったんだったわ」
刀を肩に担いだ鶴丸がとん、と一つ、鞘の腹で首筋を叩く。
誰一人として、声を上げず、物音も立てず、先程までの勢いなどとうの昔の出来事のように思えてくる。それほどまでの静寂。
「話を戻しますけれど、今回の件について、呪術界の皆様は如何お考えですか」
「オイ、伊地知。面白い話しろよ」
「えっ!?えっと、」
「やめてくださいよ五条さん」
「はあ?じゃあ七海が面白い話しろ」
はぁ、と傍若無人な五条の様子に七海は大袈裟に溜息を吐く。
夜蛾に言われて任務の無い高専生が医務室に篭ってまだ30分も経っていない。
「つか腹減らね?昼飯まだかよ」
「まだ11時になったばかりです」
「医務室から出るなって、食堂にも行ったらダメなんですかね?僕もお腹空いたー!」
車椅子に座る灰原が落ち着き無くくるくるとその場で回る。
ここまで全く喋らない家入は窓を少し開けて匂いが籠らなよう煙草を吸っている。
じっとしていられない五条は、夏油がいないこともあり医務室の扉を開けて外へ出て行こうとする。
なるだけ五条に関わりたくない七海だったが、ここで彼を止めようとする人間は七海しか存在しない。
「ちょっと、五条さん」
「腹減ったから食堂行くわ」
「夜蛾センに拳骨くらうんじゃないか」
「こんだけ敷地広いんだから監査だのハニワだのと出会さないだろ」
「あ、なら僕も行きたいです!」
「灰原……」
もうだめだ、1人真面目で常識を携えている七海は額を抑えて項垂れる。灰原も灰原でそういうところがあったなそういえば。
オロオロと見ているしかできない伊地知と、「私と伊地知の分もついでに買ってきて」とちゃっかりしている家入。そもそも、家入の言い方だと七海も食堂に行く前提ではないか。
「七海、行こー」
朗らかに笑う灰原を見て、七海は無言で立ち上がり、さっさと出て行った先輩の背中を追う。夜蛾ならば己の苦労も理解してくれるはず、そう願って小さくなってしまった級友が利用する車椅子を押してやる七海だった。
医務室から食堂への道はそう遠くない。いつも以上に閑散としている廊下を進む。忙しなく動いていた大人達の姿は見えない。
特に会話の無かった3人の間に、女性の焦ったような声が届いた。
五条は声の聞こえた方向に視線を向け、思わずサングラスをずらして其方を凝視する。
「五条さん?」
五条は電話をしているらしい女性を物珍しそうに見ていたが、その横に立つ背の高い男の方が気になった。
七海と灰原もまた、五条が立ち止まり視線を向ける先が気になった。
「夜蛾先生達も一緒にいますね」
「監査の人ですかね?」
「なんだ、彼奴…」
五条はパッと窓から飛び降り、夜蛾達の元へ駆け出す。背後から後輩の驚いた声が聞こえたが、そんな事は一切気にせず進んでいく。
五条が此方へ向かっていることを知らない夜蛾、片桐、山鳥毛は、というか片桐は思いも寄らない事態に焦っていた。
「夏油さんが行方不明?」
『残穢が途中で途切れてる。小夜は確かに途中まで姿を見たらしいけど、検非違使が現れたもんだから…』
「……ウチの部隊も三振りが中傷、一振りが軽傷を負ってます。捜索しようにも少し不安なので、第一部隊から数振り其方へ向かわせます」
『助かるわ』
「宍倉はどうなりました。何も喋らないんですか」
『黙秘を貫いてる』
くそ、と片桐は夜蛾が側にいるにも関わらず悪態をついてしまう。
片桐の第二部隊と葦家は共に行動し、宍倉拘束の実働部隊として動いていた。小夜は宍倉を見張り、日向を葦家の元へ向かわせて、案内させるその少しの隙に宍倉は小夜の目を掻い潜って夏油へ接触したと言う。見つけた先で検非違使が現れ、2人を見失った小夜だったが、中傷を負いながらも宍倉だけはなんとか発見し、後から追いついてきた葦家と日向により拘束された。
宍倉のみを残して消えた夏油だが、残穢は途中で途切れ、捜索不可能となっている。
『主』
「青江?どうしたの」
『こんな時に申し上げにくいんだけど、いいかな』
「なに?」
『宍倉が見つかったのは旧◼︎◼︎村の外れだったんだけど、その村で虐待児童がいてね……』
「…ん?」
『呪霊が見えるみたいで、迫害されていたみたいだ。正直、これは僕らには手に負えないよ』
「………とりあえず、今呪術高専にいるから色々聞いてみるわ。報告ありがとう。宍倉には私からも話をしたいからまた連絡する。夏油さん捜索に専念して」
『了解』
片桐は通話を終え、第一部隊への指揮及び呪術関係者にも通話内容を報告しようと顔を上げた。夜蛾へ口を開こうとした時、背後に控えていた山鳥毛に腕を引かれ、背中へ庇われる。
「え、なに、」
見上げた美丈夫は、警戒するように前を見据えている。高専内は、天元による結界が張られているから安全では無かっただろうか。自衛手段をほとんど持たない片桐は身を硬くして視線を先を探る。
白い髪と見たことがない澄んだ青色の瞳を持った背の高い人物が、山鳥毛を間に挟んで此方を訝しげに見ていた。五条の存在に、片桐達はようやっと気がついたのだ。
「…失礼、高専生です」
更に山鳥毛との間に入るように夜蛾が間に割り込み、片桐と五条の視線を遮る。
目上の者に対しての最低限の敬語すら使わない五条を片桐に合わせるわけにはいかない夜蛾。今すぐ医務室へ戻れと視線で訴えかけるが、五条は彼を見ていない。
「アンタ、何だ?」
「悟、戻りなさい」
「人間じゃないけど、呪霊でもない。でも、器は人間だ。ナニモン?」
「君こそ、何者だ。まず自分から名乗ってはどうかな」
厳格な山鳥毛の声に夜蛾は背筋が伸びた。
己の受け持ったことのある生徒が、審神者達の怒りに触れているのではないかと気が気じゃ無い。頼むから失礼な態度を取るな、と心の底から願った。
呪術界管轄の呪具を時の政府が保管し、それに伴い様々な問題が露見した、というのは全て建前であった。正しくは、呪術界側が時の政府の人間と繋がり、そこで裏取引が行われ霊力の籠った呪具等を横領していたことが発覚した為、呪具を返すついでに審神者がカチコミに来た。簡潔に纏めるとこうだった。
つまり片桐達は呪術界に喧嘩を売りにきたのだ。それを上層部は買うことはせずに受け入れ、高専もまた彼らが敷地内に足を踏み入れることを許している。そんな彼らの喧嘩を今、五条悟が一人で買おうとしている。
人から見下されたことが殆どない、止ん事無い家出身の五条悟が、目の前の付喪神及び審神者を敬えるわけがない。平身低頭、失礼な態度について非礼を詫びる筈もない。
夜蛾一人にかかる教育者としての責任という重圧は、とても多大なものだった。
「…………五条悟。アンタら誰」
素直に名乗った五条に夜蛾の限界まで張り詰められた神経はゆっくりと弛んでいく。
「私は山鳥毛」
「片桐です。本日、視察に来た審神者なる者です」
「さにわ……」
山鳥毛の背中に護るように隠されていた片桐が少しだけ顔を出して頭を下げる。明らかに己と同じ歳の頃の少女の登場に、五条は目を見開いた。
五条が再度、何者なのか問おうとした折、片桐の端末が震えそれどころでは無くなった。
因みに、呪術界の上層部と対峙した際に付けていた橋姫の面は既に外されている。面はただの威嚇なので高専についてしまえば必要なくなった。
「そうだ…、夜蛾さん。電話口から聞き取れたかもしれませんが、緊急事態が発生しました。残りの五振りを顕現できて、なるべく人が寄り付かないお部屋を貸して頂けますか。それから、今回のことについて、大事な話があります」
「わかりました。直ぐご案内致します。悟は戻りなさい」
「俺もついてくわ。緊急事態って何?」
「悟!」
「構いません。五条さんは高専生ですよね?五条家の御子息とお見受けします。手数は多い方がいい」
「片桐、さんだっけ。ナニモン?」
「審神者です」
テンポのいい会話に五条は少し機嫌が良くなる。
五条は六眼で見た情報のまま、片桐を評価した。目の前の少女は呪力ではなく、霊力で充ち満ちている。禪院家なんかでは、霊力はゴミ扱いされているが、五条家ではそうでも無かった。
清廉な霊力が片桐を包み、彼女の眼の奥、脳に繋がるあたりに呪術師とは異なった作りの術式が見える。門外漢のためそれがどういったモノなのかは不明だが、中々良いものを持っているなとは思う。それから、彼女の雰囲気から五条は何かを感じ、普段のように見下すようなことをしなかった。
それに、隣に立つ何者かわからない男、の姿をしたナニカ。この男から感じるプレッシャーのこともあり、突っかかるような事はしない。触らぬ神に祟りなし、第六感が働いたお陰で、五条は文字通り山鳥毛の怒りを免れた。
夜蛾の案内で通されたのは視聴覚室。分厚い遮光カーテンが窓にも扉にも掛けられており、人目につかない広い場所で間違いなかった。
片桐はペタペタと室内の壁や床、机などを触りながら呪術師2人に緊急事態について説明した。
「まず、我々が身柄を確保しようとしている指名手配犯と、呪術師の夏油傑さんが接触しました」
「待てよ、アンタの仕事ってなんだ。審神者って警察?」
「省きます」
「はぁ!?」
「時間が惜しいので。それで、宍倉……接触した指名手配犯ですが、身柄は現場に赴いた仲間が拘束しました。しかし、ここで問題が発生しまして。…夏油さんが行方不明になりました」
「残穢から後は追えませんか」
「不自然に途絶えているので追えません。恐らく、宍倉によって隠されたのかと」
「隠されたって…術式か?」
「いえ、宍倉の呪力は一般人程度しかありませんし、術式なぞ大層なものは持って筈。奴の使役している式神の能力かと思われますが、それにしたって我々で追えないのならば、恐らく神隠しだと算段をつけています」
先程震えた端末から、葦家から送られてきた写真を確認した。夏油の残穢が途切れた辺りの写真数枚。確認した限り、怪しいのは写り込んだ祠だった。もう随分手入れされていない、苔が生え、朽ち掛けていた祠が門となり、夏油を誘ったのだと片桐は思う。目を凝らして見てみると、"道"が開いた形跡がある。
「山鳥毛、この窓どうかな」
「うん、良いと思うぞ」
心地良い低音が片桐を肯定すると、懐から何やら紙を取り出すと、それ窓に直接ペタペタと貼っていく。
「片桐サン、傑は呪霊に襲われたってことか」
「呪霊ではないです。恐らく、宍倉が"道"を作り、そこに夏油さんを迷わせたのかと」
「ていうか、そもそもなんで傑がその宍倉って奴の陰謀に巻き込まれたワケ?」
片桐は一瞬手を止め、隣に立つ山鳥毛を見上げた。呪術師2人には見えないが、片桐の目は不安そうに揺れていた。山鳥毛はそんな主の頭を優しく撫で、穏やかに微笑む。
心強い己の刀の存在に、片桐は一つ息を吐き出すと、最後の札を貼り終える。
「それは、夏油さんを救い出した後、お話しします。…先程省かせて頂きましたが、私は審神者。正しい歴史を守る者。宍倉は歴史修正主義者で、正史を身勝手に歪めるテロ集団の一員です」
夜蛾は審神者なる者について、片桐から直接語られた事を思い出す。五条が現れる前、応接室で聞いた
ならば、歴史修正主義者の狙いは、夏油の抹殺か、将又夏油の勧誘か、そんなまさか。
「悟……」
「あ?なに」
「喧嘩は程々にしろ…」
「は?」
夏油が過去を変えたがっていたとしたら、五条は間違いなくキレる。最近疲弊し、痩せて顔色が悪かった教え子を思い出す夜蛾。
どうか彼が足を踏み間違える前に、救い出してほしいと、片桐の背中に願った。
準備を終えた片桐が、数歩窓から離れ柏手を打つ。
乾いた音が室内に響き、瞬きひとつで見知らぬ男達が姿を現わす。
五条はぎょっと目を剥き片桐達を凝視する。
何か術式らしきものが柏手とともに発動したかに見えたが、一瞬でしかも霊力を基にしているため詳しくは分からない。現れた男達は山鳥毛と同じ気配をしていた。恐らく、片桐の式神だと思われる。
喋る式神なぞ、呪術界ならば特級なのにも関わらず、片桐は何体も使役しているのだろうか。
「話は聞いてたね。日光一文字、南泉一文字、鶴丸国永、堀川国広に第二部隊の救援、及び夏油傑さんの捜索を命じます。前田と山鳥毛は私と共に高専で待機。4振りは負傷した刀達をこんのすけに預けて帰還させて」
「拝命した」
日光が代表して頷き、南泉が先陣を切って窓を開け、外へ飛び出す。視聴覚室は3階。普通に降りれば大怪我では済まされないが、窓から出たところで、南泉の姿は外にはない。
片桐によって簡易ゲートとして機能している窓を潜れば、葦家から送られてきた座標へ移動できる。
「五条さんはどうされますか。夏油さん捜索に向かわれますか」
「そん中潜ったらいける感じ?」
「はい。現地に着いたら『片桐に派遣された』とその場にいる人間の女性に伝えてください。私と同様に霊力を持っている人です」
「其奴の名前は?」
「葦家さんという方です」
「りょーかい」
「…五条さんは、甘党ですか」
「あ…?甘いもんは好きだけど」
片桐は五条のその答えに瞳を伏せ、懐に入れていた御守りの存在を思い出した。
彼女が渡した御守りでは、夏油の心を守りきれなかった。片桐では、夏油を助けてあげられなかった。
「夏油さんを、救ってください」
片桐のその様子に息を飲んだのは夜蛾だった。
夏油の縁談相手であった片桐。上層部に乗り込んだという話を聞いた時は仰天し、恐ろしい人が来ると焦ったものだったが、今五条を見つめている少女の姿は年相応に健気で切ない。
政府職員の柴田という男から聞いた話だが、審神者には自衛手段を持つ人間は少ないという。片桐もまた、自衛手段を持たず今回の様に任務に出ることもほとんど無いと。
だから、片桐はどれだけ心配でも夏油の捜索には出て行けない。高専で大人しく、現場で動く刀剣男士と葦家、五条からの連絡を待つしかない。
「言われなくても」
片桐の必死さに気が付かない五条は不思議そうにそう言い返すと、簡易ゲートとなっている窓を潜った。
任務結果をいうと、夏油は無事神隠しから帰還した。葦家からその報告を受け、堀川から詳細を聞いた。その後、堀川の声の後ろから怒号が聞こえ、ドカン、だとか、バコン、だとかいう物騒な音が聞こえ通信は中断した。
葦家は宍倉を連れて本部へ向かい、虐待されていたという少女2人は夏油を送迎していた補助監督に預けられた。
そして、宍倉に付け狙われていた夏油だが、何故か顔を腫らし、腕も足を折れているのか引きずりながら、全身怪我をして高専へと帰ってきた。因みに五条も同じくらい重傷を負っている。
TPOも特に省みず大喧嘩した2人だったが、夜蛾は夏油のどこかスッキリした顔を見て、反省文を書かせる事で許すことにした。ただ、家入に反転術式で怪我を治してやるな、とは指示を出しておいた。
*
片桐は夏油がいるという医務室の前で佇んでいた。背後に立つ堀川を振り返っては、扉の取っ手を見つめ、また後ろを振り返る。
彼女の顔にはあの橋姫の面が付けられている。
葦家から夏油への事情聴取を申し付けられた片桐は、約1年ぶりに想い人と対面しようとしている。
堀川は何も言わず、背中を押すこともなく、優しく微笑みながら様子を見守っている。
何度目かの覚悟を決め、片桐がノックをしようと扉を叩こうとした時、視界が開かれた。
目の前には車椅子に乗った少年。背後に立つ金髪の背の高い男の子が押しているようだった。
「わっ!おっ、お面…」
「何方ですか」
金髪の方、七海が警戒したように車椅子に乗る灰原の前に出る。
片桐は片桐で、突然医務室の扉が開いてしまったことに動揺してしまう。
「…っあ、すみません。審神者の片桐と申します。夏油さんの事情聴取に参りました」
「夏油さんなら今奥で休んでますよ!」
「ありがとうございます。此方、入校許可証です」
掲げたそれに七海は納得したようだった。灰原は灰原で、人懐っこそうな笑みで片桐を見上げている。
呪術師皆が皆んな、クソな訳ではないと夜蛾を見てわかってはいたが、"目"で見てみても目の前の2人の在り方は尊敬できるものだった。
面を付けてきて良かったと思った。声だけは取り繕えているが、表情だけは上手く作れない。
2人の横を通り過ぎ、カーテンが閉まっているベッドへ向かう。声が聞こえるから、恐らく五条達と喋っているのではなかろうか。
震えそうになる一歩を、堀川の手が背中を押す。優しく添えられているだけの手だったが、それだけでぐっと前に進める。
遮るカーテンを開けることはせず、回り込み、楽しげに談笑する高専生と対峙する。
久しぶりに見た夏油は、あちこち怪我だらけで、ガーゼと包帯、シップに包まれていた。切れ長の目が、片桐を捉え見開かれる。
一緒にいた家入は怪訝な表情で、五条はあっ、と立ち上がる。
「片桐サン、どうしたんだよ」
「事情聴取に参りました」
「なんだっけ、宍倉って奴の」
「はい、……嘘、」
面をつけていることをいいことに、近くに立つ五条を見上げながら、夏油の姿を盗み見る。緊張で固くなる身体だったが、その緊張も一気に撒散した。
「堀川抜いて!」
弾かれたように叫び、ベッドに乗り上げた片桐が夏油へ摑みかかる。目を剥く一同と、抜き身の刃を掲げた堀川。
片桐は夏油の耳の裏にある何かを掴むと力任せに引っ張り、堀川がそれに刀を突き付ける。
「ヒ、」
「夢魔か」
片桐が掴んだそれは、宍倉の式神だった夢魔に間違いなかった。
幼い子供のような見た目をしているが、こういうものに見た目年齢は一切関係無い。
「ちょ、なんだよ、何事だよ。傑いつからそんなもんつけてたんだよ」
「し、知らないよ、私だって」
片桐は元々無い握力を振り絞って夢魔の首を握り締めた。
橋姫の面効果もあり、夢魔は完全に観念していた。嫉妬に狂った鬼女に殺されることから逃れられないと悟りきっている。
低い片桐の声が彼女の怒りを表していた。
「斬り殺されるか、私に下るか選びなさい」
「下るっ、ます!」
「名乗りを上げて」
「サキュバスのリリーです!ご主人様の仰せのままにっ」
夢魔が名乗ると、縁が結ばれる。首を掴まれた状態から、身体が小さく収束し、夏油達が知る呪霊の玉の様に小さくなる。それを片桐が着物の袖口へ隠す様に手ごと引っ込める。
ほっと息を吐いた片桐だったが、3人を置いてきぼりにしていることに気がつき、更に夏油の上にはしたなく乗り上げていることを思い出して身を起こす。
夏油の肩に置かれた手を持ち上げようとするが、それを阻むように何者かに包まれた。片目を腫らし、頰に大きなシップを付けた男が、真摯な瞳で片桐を見つめる。そんな級友の様子に、家入は何かを察した。情緒育成途中の五条だけが、何も分かっていなかった。
「傑?何してんだお前」
「片桐さん、ですよね」
「っ、あの、」
大きな手が、いつかみたいに指に絡んでくる。徐々に力が込められていき、その温もりに片桐は胸がいっぱいになった。離れていた分、行き場の無い恋心は抱えきれない程大きく育ってしまっていた。
夢魔に抱いた醜い嫉妬と怒りは、夏油に緩りと解かれてしまった。
「ほりかわぁ…」
蚊の鳴くような声で助けを求めれば、背丈がそれほど変わらない堀川に軽々と抱えられる片桐。刀剣男士なだけあって、体格など関係無く助け出される。
火照った顔を面で隠したまま、仕切り直す様に3人に向き直る。
「し、失礼しました。審神者の片桐です。今回、我々が指名手配していた『宍倉幸昭』という男についてお話を伺いたいので、夏油傑さんにはご協力頂きたく」
「さっき夏油にくっ付いてたのは何ですか」
「宍倉が使役していた夢魔です。西洋の悪魔なので、呪霊とは少し異なります」
「サキュバスとか言ってたけど、あのエロい奴の?」
「悟、君ね」
「気になるだろーが。ToLOVEるじゃん」
「やめろ馬鹿」
家入が小さく最悪、と呟いている。夏油が本気で五条に殴りかかったが、無限で防がれた。後で殴る。
片桐は片桐で先ほどの怒りを思い出したのか小さく震えている。表情が見えないせいで、夏油は彼女に引かれていると思い慌てて話を逸らす。
「その宍倉という男について、私にわかることがあるかは分かりませんが、お話しします」
「ご協力感謝します」
「ンだよ傑。いいカッコしいかよ」
「うるさいな。硝子、悪いけど悟と一緒に外に出ててくれるかな」
「は?なんで」
「2人で話したいからだ、ねぇ片桐さん」
「あ?お前…、知り合い……?」
「夏油、貸しな」
「助かる」
家入はゴネる五条を面倒臭そうに引きずって医務室の外へ出る。あまりに喧しいので、折れた腕を殴ると呻き声を上げて黙らせていた。
「主さん、僕も出ますね」
「えっ」
「出てすぐのところにいるので、何かあれば呼んでください」
ぺこ、と堀川は頭を下げて、先に退出した2人の後を追った。
2人きりの医務室に、静寂が満ちた。
案外、泣かないものだな、と片桐は思った。顔につけた面の隔たりが、現実を遠ざけているのかもしれない。
「…『宍倉幸昭』という男と面識はありますか」
「ありません。拘束されていた男の人を見ましたが、覚えはありませんでした」
「では、何か、おかしな夢を見ませんでしたか。その夢の中で、『変えたい歴史はないか』等の言葉をかけられたことは」
「あっ」
「……ありましたか」
メモを取りながら、質問を続ける片桐。宍倉はやはり、己の式神を使って夏油へと接触を図っていたのだ。
夏油から見ていた夢の内容を聞き、顔を顰める。同じ夢をよく見たという。夢の中で、片桐が『歴史を変えよう』と語りかけた、と。
「夢は大体同じ内容ですか。他に何か異なる夢は」
「ありません」
「では、神隠しされた前後の出来事を教えてください」
「あまり覚えてないんですけど、気がついたら悟…五条が目の前にいて、あの堀川…?さん達が居たので、神隠しというのを覚えてないです」
「なるほど…。大抵隠された人間は、そこであった出来事を覚えてないのが常です。記憶がなくて正解ですよ。逆に、あの村で任務に就いてからあったことは覚えてますか」
夏油は記憶を辿り、順を追って説明した。それを片桐が途中聞き返しながらも、ボールペンを走らせる。
己に会った、という夏油の証言に一度耳を疑ったが、夢魔がしっかりと憑いていた為そういう幻覚を見せられたのかもしれない、とペンを動かし続けた。
青い稲妻を見たという事は、検非違使に危うく遭遇する所だったと知り、密かに肝が冷えた。夏油がこの時代を生きる人間とはいえ、見境いのない検非違使が襲わないとは限らない。何もなくてよかったと心底思った。
大方の出来事を聞き終え、片桐は走り書きした用紙を眺める。黙秘を貫いている宍倉を揺する材料は何かないかと真剣に思考している片桐を、夏油は黙って見つめていた。
「……以上で聴取を終了します。ご協力感謝します」
「いえ、…なんか、納得しました」
力無く笑う夏油に、片桐は首を傾げた。疲れている様だったが、聴取に疲れたわけではなさそうだ。もっと、芯から疲れている様な、そんな笑顔。
片桐は身を硬くして、話を聞く体制に入った。
「…呪術師について、知ってますか」
「勝手ながら、調べさせていただきました」
「そうか……、私、ずっと非術師は守るべき存在だと思ってました。でも、そうは思えない出来事があって、なんだか、疲れていて…」
「心中お察しします」
「そうですよね、貴女も戦争中だから…」
夏油は、本気で歴史を変えようと思った。宍倉という男の仕業だと思うが、あの手この手で夏油を言いくるめ、仲間に引きずり込もうとしていた奴の口車に乗せられていた。
盤星教の非術師たちの命より、天内の命の方がずっと貴いと思った。
そこら中にいる呪霊を作り出すだけの何も知らない呪術師より、後輩の灰原の方がずっと大切だった。
一人で先に走っていく五条に、虚しくなった。
己が何のために呪術師をしているのか、わからなくなった。
「貴女のことも、結局非術師じゃないかと、勝手に失望していました…」
その言葉に、片桐は肩を揺らした。
あの日、夏油が零した言葉『呪術師なら良かったのに』、の意味がやっとわかったのだ。
呪術師ならば、これ程までに夏油を苦しめることなどなかったのだ。
疲弊した様子の夏油に、瞼が熱くなった。腹から湧き上がる気持ちを耐えるように拳を強く握る。
「ごめん、なさい…」
「貴女が謝る必要は…」
「ごめんなさい、ごめんなさい。まだ、夏油さんのことが、好きです」
俯いて震える声で謝罪を連ねる片桐の言葉に、夏油は息を飲んだ。
「私は、呪術師じゃなくて…、それは仕方ないとはいえ、もう会わないと決めた貴方に、会ってしまいました。好きだから、苦しめたくなかったのに…っまだ、好きで、ごめんなさい」
溢れた涙は面が邪魔をして拭えなかった。持ち上げた右手は、橋姫の木の面を撫でただけだった。
「顔が、見たいです」
縋るような夏油の言葉に、返事はできなかった。相槌で肯定する事も、否定することもできない。
下を向いたままの片桐に、夏油は手を伸ばした。頭の後ろの結び目を紐解、彼女の顔から面を剥がしてしまう。明るくなった視界に、戦う事を知る大きな手が映り込む。硬い掌が、片桐の頰を優しく持ち上げた。
苦しそうな表情の夏油。細めた瞳に、涙が溜まっているように見えた。
「私は、貴女がいたから踏み止まれた。自分から突き放したクセに、未練がましく記憶の中の貴女に縋っていたんです」
ほろ、と溢れた涙を、頰の湿布が吸収したように見えた。
夏油が定まらない本音を探す度に、片桐の顔が浮かんでいた。
「片桐さんが居なければ、私はきっと、人を殺していました」
その言葉に、唇を噛み締める片桐。それ程彼が追い詰められていたなんて、知る由もなかった。
「私は、何もしていません」
「そんなことない」
「あります!…っ夏油さんに渡した御守りじゃ、心を守りきれませんでした。私は、自衛できない審神者だから、貴方を直接探しに行けなかった。結局貴方を連れ戻したのは五条さんです」
私は、此処で五条さんに託し、祈るしかできませんでした。
夏油は高専での仔細を聞き、何故五条が片桐のことを知っていたのか納得した。
「貴女が、悟を遣わしてくれたんでしょう。やっぱり、片桐さんのお陰です。それに、貴女との思い出が、私の中での記憶が、私を最も強く繋ぎとめていました」
流れ続ける片桐の涙を、親指が優しく拭う。
この人は、流す涙まで清くて美しいのか。夏油はやはり彼女を眩しく思った。
審神者について、村にいた女性、葦家に簡単に聞いた夏油。呪術師と違って、神聖で、堅実で、彼女にぴったりだと思った。
何十もの刀の付喪神だという男の姿をした刀剣男士達をまとめ上げているのは、想像できなかったが、先程夏油に憑いていた夢魔を使役した姿を見て、真実だと認めた。あれ程鋭利な声が出せるのかと感心した程だ。
「身勝手で、情けない話ですが、私も片桐さんが好きです。まだ…、いいえ。ずっと好きです」
「…っはい、」
「審神者が何で、何をしているのかわからなくて苦しみました。でも、結局私は貴女が好きなままだった。貴女が何者かなんて関係無かった。片桐さんだから、好きです」
夏油の引き攣る表情に、泣くのが下手な人だと思った。真面目で、真面目過ぎて、おまけに優しすぎるから、きっと人に頼ることができない人なのだと思った。
頰を包む大きな手に、己の手も添えて擦り寄る。目を閉じて、暖かな体温に身を委ねてしまう。
『片桐』という不確定で、曖昧な存在を好きだと告げてくれたことが嬉しくて堪らない。
「片桐さん」
少しだけ硬い声に、片桐は目を開いて夏油を見つめた。涙のせいで、頰に貼った湿布が剥がれ始めていた。
頰から手を離し、己の手に重なる小さくて綺麗な手を柔らかく握る。
「また、私と会ってくださいませんか」
緊張気味の夏油の様子に、いつかの記憶が呼び起こされた。
初めて会ったあの日、勇気を振り絞って伝えた己の気持ち。再び会う約束を取り付けるだけで、必死だったあの頃。
片桐は夏油の力加減に反して、ぎゅっと彼の手を握りしめると、心底嬉しい、と言わんばかりに破顔した。
「はい、是非。私もお会いしたいです」
乾いた涙の跡も気にならないくらい、愛らしい満面の笑みだった。
また、大抵がマイナスのイメージを持たれる橋姫であるが、古今和歌集や源氏物語に残る和歌の世界では健気で愛おしい女性、という描写が多く用いられている。
嫉妬深い鬼女だの、健気な女性だの、伝承は様々であるが、橋姫といえばもう一つ有名な肩書きが。『橋姫』という名の通り橋を守る女神のことである。古来より日本では、水辺やそこに架かる橋には心霊や呪霊が宿るとされ畏怖されていた。それにより、橋というものは女性神が守る場所である、と。
宇治の橋姫といえば、嫉妬深い鬼女であり、健気な女性であり、橋を守る女神なのである。
そんな橋姫の能面をつけ、呪術界上層部を前に背筋を伸ばし堂々と前を見据えるのは、審神者名片桐。
夏油と接触しているであろう淫夢に対して嫉妬で怒り狂うのを持ち前の精神力で留めている鬼にはなっていない女である。
また、1年程前に破談したにも関わらず縁談相手の夏油傑を想い続け、その夏油を付け狙う歴史修正主義者の宍倉の魔の手から救おうとしている健気な女の子でもある。
そして、呪術界と時の政府を繋ぐ橋掛りの命運を握っている広義な意味では橋を守る女神である。
時の政府に勤めるしがない事務員でしかない柴田は己の三歩ほど左側に立つこの橋姫の能面を付けた10代の少女が恐ろしくて仕方がなかった。
宮内庁直通のゲート前に今朝方集合した時から面をつけているし、無言であるし、少し話しても声に抑揚が全くなく、テンションもずっと平坦なのだ。なによりつけている能面が普通に怖い。般若のようにわかりやすい表情をしているより、眉間に皺を寄せ口元を薄く開いているのが尚怖い。夢に出そうだと思った。
柴田が恐ろしい、と肩を小さくしているにも関わらず、柴田と片桐の目の前に座る御老人方はニヤニヤと何が面白いのか気味悪く笑い、立派に携えた髭を撫で付け、そして時には憤怒で顔を染め、一貫して此方側に不遜な態度を取り続けている。彼らは命知らずなのだろうか。一周回って子供のようにこてん、と首を傾げてしまいそうだ。
片桐の背後に立つのは山鳥毛、日光一文字、南泉一文字の三振り。控えめに言っても怖すぎる。ただ立って、片桐の後ろに控えているだけなのにこの圧力。控えめに言わなくても十分怖いのに。
「こんな紙切れ一つで我々が横領しているなどという証拠にはなりはしませんが…そこの所、時の政府側はどうお考えなんでしょうかねぇ」
ぴら、と柴田達が用意していた領収書のコピーを掲げて見せる1人の男。
不敬すぎる、縮みあがりそうになるのを柴田は気合で抑える。
「しかし、こちらで納品している御守りや札と数が合わないんですよね。其方に記載してある呪具…無銘刀とはいえ、時の政府お抱えの刀鍛冶が打った上等な物ですし。領収書に記載してあるお名前は貴方のご親戚の方ですよ。十分貴方方が至福の肥やしにしている証拠になり得ますが…そこの所呪術界の皆様はどうお考えなのかしら」
怖い。全く同じ流れで向こうに聞き返した。
柴田が手にもつ資料は彼の汗で湿り出している。
話を簡単にまとめると、時の政府側が納品している特別性の御守りや札、霊力を込めて作っている呪具が納品する際の記録と実際の数が合わないのである。そこで詳しく調べてみた所、政府側の担当職員Aの個人口座から違和感満載な入金があった。振り込み元は、呪術界上層部の関係者B。詳しく問い詰めると高値で呪術界に売りつけていた、と。
その事実を知った審神者達の間には激震が走った。我々が命をかけて歴史遡行軍を討伐しているのに政府職員がしているのは不正なルートでの金儲けかよ、と。
特にキレたのは片桐含む徴兵組だった。諸事情により政府に徴兵された審神者達は家族や友人に会えず、滅多なことでは本丸から出ることを許されていない。本丸は監獄か、俺たちは罪人か、と普段から自虐ネタとして扱っているソレも流石に笑えなくなってきた審神者。
そんな審神者達の怒りを抑えるために立ち上がったのは片桐。己が呪術界に乗り込んで、罪を問い、非を認めさせ、謝礼をたんまり分捕ってくる。政府にもまた、私が功績を挙げて恩を売ろう、と宣ったのだ。片桐は徴兵組の中でも幼く、まだ十代であることもあり、審神者達には可愛がられている。あの女傑で有名な葦家も気にかけているというのは有名な話だ。
ここで一つ言いたいのは、政府職員Aを糾弾し、政府内で処理しようとしたものを審神者側に情報を漏洩させたのは全て片桐と葦家である、ということだ。
シレッとした顔で『さにチャンネルに情報漏らしときました』と言われた時は文字通りひっくり返ってしまった。
片桐の筋書きは以下の通り。
政府側の失態を手足となる審神者の間で情報を漏らし、混乱と反乱を起こさせる。普段からセコい政府を嫌う審神者は多く存在し、蓄積されていた不満を爆発させるトリガーを作る必要があった。それが今回の横領事件。
その怒りで震える審神者達を諌める片桐は己の評価を良く理解していた。徴兵組最年少で、戦績も上位に食い込む優秀な審神者で、クソ呪術界の呪術師と破談したうら若き乙女。
本人を知りもしない他の審神者達に夏油の悪口を言われるのは耐え難かったが、これも今後の為、と耐え忍び全審神者の代表としてこの場に立っている。
「怖い……」
堪らず柴田は小声で呟いた。
そんな柴田の恐怖心など知りもしない呪術界上層部はフンと鼻を鳴らして片桐を見下ろした。
「小娘1人で乗り込んで来たと思ったら、言う事かいて罪を認めろ、詫びろだの…」
「夏油と破談したことを根に持っているのでは?これだから女は…」
「橋姫とは、また縁起の悪い…。確か彼処は呪霊の巣窟ですぞ」
「時の政府様も我ら呪術師を舐めておられるのだ。斯様な子どもで事足りると」
「向こうも人手不足らしい。この娘が優秀な胎盤となれば話は別だろうが…」
「お言葉ですが」
聞くに耐えない呪術界達の言葉に柴田は驚きすぎて口をあんぐり、と開けてしまう。この男、2205年の時の政府で働いている未来人である。『呪術界の男尊女卑はエグい』と聞いてはいたし、『クソカスゴミクズ』と事前知識だけはあったので夏油と見合いをする片桐を心配していたが、ここまで酷いものとは思わなかった。少なくとも、夏油は不快な視線を片桐に向けたことはなかったし、失礼な言葉を投げつけることもしなかった。
というか審神者様に向かってそんな酷いこと言える人間、この世にいんの?というレベルである。
柴田は無意識に一歩足を引いた。その時、視界の端に立つ大男の姿をした刀剣男士の存在を思い出す。
横は向けなかった。己の主を貶されている一文字の刀達が怖くて堪らない。それから姿が見えない鶴丸国永と堀川国広、前田藤四郎も怖い。
しがない事務職員の柴田が何も出来ずにいると、嗄れた爺達の声を遮るように瑞々しい片桐の声が良く通る。
「お言葉ですが、審神者は実力主義なので男女云々は関係がありません。私がこの場に立っているのは、私の力を政府の皆々様がお認めになっているからです。いい歳こいて社会の流れに順応せず、止ん事無いお家柄を大切になさって、人間性を母胎に置いてきてしまった業突く張りの皆様とは違って、時の政府は柔軟性がありますから。私のような小娘にも、社会経験を積ませてくださっているんです。慈悲深いわあ」
柴田は片桐の口からするする吐き出される嫌味に流石片桐様、と感心していた。あのクセの塊である審神者達から信頼されているだけある、と思っていたのだが、途中で時の政府への嫌味が挟まった。
「社会経験を積ませてくる」とは、つまり「仕事を押し付けまくってくる」の意であった。柴田の上司がこれを聞いても気がつかないだろうが、片桐を担当してもう何年も経つ彼だからわかる。さり気に時の政府のこともきっちり貶している。
「こ、こわ……」
またも思わず呟いてしまった。
片桐と呪術界上層部の舌戦は続く。顔を真っ赤に染め上げて唾を飛ばす勢いで繰り出される罵詈雑言に、落ち着いた声で言い返される片桐の嫌味と皮肉。
ついこの間の事だが、怒れる片桐に詫びるために直接本丸に赴いた柴田だからわかる。
片桐様、ガチでキレたら怒りが持続するタイプだ。しかも自分で報復して相手を跪かせないと気が済まないタチの悪いタイプ。
柴田にとって、ただ地獄みたいな時間だけが過ぎる。
「先程から私を貶す言葉ばかり…論点がずれています。国語のお勉強はなさらなかったのかしら。……あら?」
煽るなぁ、ここまでくると気持ちがいい嫌味に身を任せていると、不自然に言葉を切った片桐。柴田はどうしたのか、と隣に立つ彼女を見る。
片桐の視線の先には目立たないように俯いて小さくなる1人の呪術師がいる。心成しか顔色が悪く見える。
「其方の方、どうされました。御気分でも悪いんですか」
己に視線が集まったことが分かったのだろう、顔色の悪いその男が脂汗を額に滲ませて顔を上げた。
声を掛けてきた片桐を見て、男は引き攣るような声を上げる。
「ヒッ…!?」
確かに橋姫の面は不気味だが、そこまで怯える事があるだろうか、あの呪術師が。
他の呪術師も怪訝な顔で男を見遣る。情けない姿を晒すな、弱みを見せるな、と視線で訴えかけるが、怯えてそれどころではない男。
「嗚呼、もしかして、貴方には見えてらっしゃる?」
見える、とは一体何が。
訝しげに呪術師達がコソコソと話し出す。
普通の人間には見えない呪霊を祓う呪術師に、見えないものなどあるのか。柴田もまた、怪訝な顔で片桐を見つめた。
「皆様には見えないと思って、紹介を省いてました。申し訳ありません」
心の籠らない口だけの謝罪を述べた片桐は、少し背後を振り返った。怯える男の唇に、色が乗っていない。
「私の刀です。右から、南泉一文字、山鳥毛、日光一文字」
視界の横で三振りが身動いだ。それに反応して、男は座っていた椅子から滑り落ちてしまう。頭を抱え、何かから身を守るように体を小さくする。尋常ではない怯え方に、見えない何かを警戒する呪術師達。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。殺気は出さないように言いきかせていますし、人を殺さないように躾けておりますので」
「……もしや、刀の付喪神か」
「はい。自慢の三振りです。普段は非術師にも見えているように動いていますが、今日は護衛だけですし、いいかと。でもまさか、見える方がいらっしゃるなんて。すみません、皆様にも見えるように顕現させますね」
そう言って、片桐がパン、と柏手を打つ。
清々しく美しい霊力が空間を一瞬で満たし、消える。その瞬間、呪術師には見えなかったはずの刀剣男士の姿が目に映る。
何人かは明らかに顔色を変え、汗を額に滲ませる。
見えない、というのは、やはり幸せな事だと柴田はしみじみ思う。
「もしかして、刀剣男士を見るのは初めてですか」
緊迫するこの場で片桐の抑揚のない声がよく響いた。先程までの凛とした声色と異なり、子供のように惚けた明るい声だった。
「見た通り、理性がありますから、無差別に人を殺すような事は致しません。抜刀許可も私が出していませんし。しかし、意思があるので自由に動き回る分にはお許しくださいね」
柴田は目を見開いた。呪術師の側に、姿の見えなかった他二振りが刀片手に手持ち無沙汰に存在していたからだ。
鶴丸国永が、無作法に机の上に乗り上げ、1人の呪術師を見下ろしている。
「きみ、五条の出かい?かなり薄いが、気配が似ているな」
「は、」
刀を肩に乗せ、顔を覗き込んで何やら話している。
真っ白な髪に人間離れした美しい顔立ち。金色の瞳は無機質なガラス玉の様に純度が高い。ゾッとするような圧倒的な美であった。
肉の身体から溢れ出るような清い気配も相俟って、呪霊とは異なる付喪神という存在に背筋が凍る思いだった。
「立派な剣タコですね。獲物は何をお使いになるんです?」
「な、に…っ!」
少し離れたところでは、背後を取られた男が無遠慮に腕を持ち上げられ、掌をまじまじと堀川国広に観察されている。
片桐の背後に控える三振りや鶴丸と異なり、明らかに見目が幼い堀川。人好きする笑みで男を見下ろしているが、剣術を嗜む人間からすると背後を取られる事はとても恐ろしいだった。
男は、無遠慮に手を持ち上げられた時、生きた心地がしなかった。堀川が触れる手首から先を、切れ味の良い刀で斬り落とされた錯覚まで覚えた。
「白い刀が鶴丸国永で、青い瞳の刀が堀川国広です。すみません、鶴丸は自由奔放で、堀川は世話焼きが性分なものですから。二振りとも、皆様のことが気になるようで」
片桐の背後に立つ三振りは微動だにしない。表情もまた、ピクリとも動かさず、呪術師達を見つめていた。殺意も敵意も感じないのに、目の前から放たれるプレッシャーは酷く重たいものだった。
「それで、なんのお話でしたっけ。…嗚呼、そうだわ。『呪術界では糞の役にも立たない霊力があるだけの小娘だが、母胎としてならば時の政府でも役に立つんじゃないか』、なんて言われてしまったから、また話の論点がずれてしまったんだったわ」
刀を肩に担いだ鶴丸がとん、と一つ、鞘の腹で首筋を叩く。
誰一人として、声を上げず、物音も立てず、先程までの勢いなどとうの昔の出来事のように思えてくる。それほどまでの静寂。
「話を戻しますけれど、今回の件について、呪術界の皆様は如何お考えですか」
「オイ、伊地知。面白い話しろよ」
「えっ!?えっと、」
「やめてくださいよ五条さん」
「はあ?じゃあ七海が面白い話しろ」
はぁ、と傍若無人な五条の様子に七海は大袈裟に溜息を吐く。
夜蛾に言われて任務の無い高専生が医務室に篭ってまだ30分も経っていない。
「つか腹減らね?昼飯まだかよ」
「まだ11時になったばかりです」
「医務室から出るなって、食堂にも行ったらダメなんですかね?僕もお腹空いたー!」
車椅子に座る灰原が落ち着き無くくるくるとその場で回る。
ここまで全く喋らない家入は窓を少し開けて匂いが籠らなよう煙草を吸っている。
じっとしていられない五条は、夏油がいないこともあり医務室の扉を開けて外へ出て行こうとする。
なるだけ五条に関わりたくない七海だったが、ここで彼を止めようとする人間は七海しか存在しない。
「ちょっと、五条さん」
「腹減ったから食堂行くわ」
「夜蛾センに拳骨くらうんじゃないか」
「こんだけ敷地広いんだから監査だのハニワだのと出会さないだろ」
「あ、なら僕も行きたいです!」
「灰原……」
もうだめだ、1人真面目で常識を携えている七海は額を抑えて項垂れる。灰原も灰原でそういうところがあったなそういえば。
オロオロと見ているしかできない伊地知と、「私と伊地知の分もついでに買ってきて」とちゃっかりしている家入。そもそも、家入の言い方だと七海も食堂に行く前提ではないか。
「七海、行こー」
朗らかに笑う灰原を見て、七海は無言で立ち上がり、さっさと出て行った先輩の背中を追う。夜蛾ならば己の苦労も理解してくれるはず、そう願って小さくなってしまった級友が利用する車椅子を押してやる七海だった。
医務室から食堂への道はそう遠くない。いつも以上に閑散としている廊下を進む。忙しなく動いていた大人達の姿は見えない。
特に会話の無かった3人の間に、女性の焦ったような声が届いた。
五条は声の聞こえた方向に視線を向け、思わずサングラスをずらして其方を凝視する。
「五条さん?」
五条は電話をしているらしい女性を物珍しそうに見ていたが、その横に立つ背の高い男の方が気になった。
七海と灰原もまた、五条が立ち止まり視線を向ける先が気になった。
「夜蛾先生達も一緒にいますね」
「監査の人ですかね?」
「なんだ、彼奴…」
五条はパッと窓から飛び降り、夜蛾達の元へ駆け出す。背後から後輩の驚いた声が聞こえたが、そんな事は一切気にせず進んでいく。
五条が此方へ向かっていることを知らない夜蛾、片桐、山鳥毛は、というか片桐は思いも寄らない事態に焦っていた。
「夏油さんが行方不明?」
『残穢が途中で途切れてる。小夜は確かに途中まで姿を見たらしいけど、検非違使が現れたもんだから…』
「……ウチの部隊も三振りが中傷、一振りが軽傷を負ってます。捜索しようにも少し不安なので、第一部隊から数振り其方へ向かわせます」
『助かるわ』
「宍倉はどうなりました。何も喋らないんですか」
『黙秘を貫いてる』
くそ、と片桐は夜蛾が側にいるにも関わらず悪態をついてしまう。
片桐の第二部隊と葦家は共に行動し、宍倉拘束の実働部隊として動いていた。小夜は宍倉を見張り、日向を葦家の元へ向かわせて、案内させるその少しの隙に宍倉は小夜の目を掻い潜って夏油へ接触したと言う。見つけた先で検非違使が現れ、2人を見失った小夜だったが、中傷を負いながらも宍倉だけはなんとか発見し、後から追いついてきた葦家と日向により拘束された。
宍倉のみを残して消えた夏油だが、残穢は途中で途切れ、捜索不可能となっている。
『主』
「青江?どうしたの」
『こんな時に申し上げにくいんだけど、いいかな』
「なに?」
『宍倉が見つかったのは旧◼︎◼︎村の外れだったんだけど、その村で虐待児童がいてね……』
「…ん?」
『呪霊が見えるみたいで、迫害されていたみたいだ。正直、これは僕らには手に負えないよ』
「………とりあえず、今呪術高専にいるから色々聞いてみるわ。報告ありがとう。宍倉には私からも話をしたいからまた連絡する。夏油さん捜索に専念して」
『了解』
片桐は通話を終え、第一部隊への指揮及び呪術関係者にも通話内容を報告しようと顔を上げた。夜蛾へ口を開こうとした時、背後に控えていた山鳥毛に腕を引かれ、背中へ庇われる。
「え、なに、」
見上げた美丈夫は、警戒するように前を見据えている。高専内は、天元による結界が張られているから安全では無かっただろうか。自衛手段をほとんど持たない片桐は身を硬くして視線を先を探る。
白い髪と見たことがない澄んだ青色の瞳を持った背の高い人物が、山鳥毛を間に挟んで此方を訝しげに見ていた。五条の存在に、片桐達はようやっと気がついたのだ。
「…失礼、高専生です」
更に山鳥毛との間に入るように夜蛾が間に割り込み、片桐と五条の視線を遮る。
目上の者に対しての最低限の敬語すら使わない五条を片桐に合わせるわけにはいかない夜蛾。今すぐ医務室へ戻れと視線で訴えかけるが、五条は彼を見ていない。
「アンタ、何だ?」
「悟、戻りなさい」
「人間じゃないけど、呪霊でもない。でも、器は人間だ。ナニモン?」
「君こそ、何者だ。まず自分から名乗ってはどうかな」
厳格な山鳥毛の声に夜蛾は背筋が伸びた。
己の受け持ったことのある生徒が、審神者達の怒りに触れているのではないかと気が気じゃ無い。頼むから失礼な態度を取るな、と心の底から願った。
呪術界管轄の呪具を時の政府が保管し、それに伴い様々な問題が露見した、というのは全て建前であった。正しくは、呪術界側が時の政府の人間と繋がり、そこで裏取引が行われ霊力の籠った呪具等を横領していたことが発覚した為、呪具を返すついでに審神者がカチコミに来た。簡潔に纏めるとこうだった。
つまり片桐達は呪術界に喧嘩を売りにきたのだ。それを上層部は買うことはせずに受け入れ、高専もまた彼らが敷地内に足を踏み入れることを許している。そんな彼らの喧嘩を今、五条悟が一人で買おうとしている。
人から見下されたことが殆どない、止ん事無い家出身の五条悟が、目の前の付喪神及び審神者を敬えるわけがない。平身低頭、失礼な態度について非礼を詫びる筈もない。
夜蛾一人にかかる教育者としての責任という重圧は、とても多大なものだった。
「…………五条悟。アンタら誰」
素直に名乗った五条に夜蛾の限界まで張り詰められた神経はゆっくりと弛んでいく。
「私は山鳥毛」
「片桐です。本日、視察に来た審神者なる者です」
「さにわ……」
山鳥毛の背中に護るように隠されていた片桐が少しだけ顔を出して頭を下げる。明らかに己と同じ歳の頃の少女の登場に、五条は目を見開いた。
五条が再度、何者なのか問おうとした折、片桐の端末が震えそれどころでは無くなった。
因みに、呪術界の上層部と対峙した際に付けていた橋姫の面は既に外されている。面はただの威嚇なので高専についてしまえば必要なくなった。
「そうだ…、夜蛾さん。電話口から聞き取れたかもしれませんが、緊急事態が発生しました。残りの五振りを顕現できて、なるべく人が寄り付かないお部屋を貸して頂けますか。それから、今回のことについて、大事な話があります」
「わかりました。直ぐご案内致します。悟は戻りなさい」
「俺もついてくわ。緊急事態って何?」
「悟!」
「構いません。五条さんは高専生ですよね?五条家の御子息とお見受けします。手数は多い方がいい」
「片桐、さんだっけ。ナニモン?」
「審神者です」
テンポのいい会話に五条は少し機嫌が良くなる。
五条は六眼で見た情報のまま、片桐を評価した。目の前の少女は呪力ではなく、霊力で充ち満ちている。禪院家なんかでは、霊力はゴミ扱いされているが、五条家ではそうでも無かった。
清廉な霊力が片桐を包み、彼女の眼の奥、脳に繋がるあたりに呪術師とは異なった作りの術式が見える。門外漢のためそれがどういったモノなのかは不明だが、中々良いものを持っているなとは思う。それから、彼女の雰囲気から五条は何かを感じ、普段のように見下すようなことをしなかった。
それに、隣に立つ何者かわからない男、の姿をしたナニカ。この男から感じるプレッシャーのこともあり、突っかかるような事はしない。触らぬ神に祟りなし、第六感が働いたお陰で、五条は文字通り山鳥毛の怒りを免れた。
夜蛾の案内で通されたのは視聴覚室。分厚い遮光カーテンが窓にも扉にも掛けられており、人目につかない広い場所で間違いなかった。
片桐はペタペタと室内の壁や床、机などを触りながら呪術師2人に緊急事態について説明した。
「まず、我々が身柄を確保しようとしている指名手配犯と、呪術師の夏油傑さんが接触しました」
「待てよ、アンタの仕事ってなんだ。審神者って警察?」
「省きます」
「はぁ!?」
「時間が惜しいので。それで、宍倉……接触した指名手配犯ですが、身柄は現場に赴いた仲間が拘束しました。しかし、ここで問題が発生しまして。…夏油さんが行方不明になりました」
「残穢から後は追えませんか」
「不自然に途絶えているので追えません。恐らく、宍倉によって隠されたのかと」
「隠されたって…術式か?」
「いえ、宍倉の呪力は一般人程度しかありませんし、術式なぞ大層なものは持って筈。奴の使役している式神の能力かと思われますが、それにしたって我々で追えないのならば、恐らく神隠しだと算段をつけています」
先程震えた端末から、葦家から送られてきた写真を確認した。夏油の残穢が途切れた辺りの写真数枚。確認した限り、怪しいのは写り込んだ祠だった。もう随分手入れされていない、苔が生え、朽ち掛けていた祠が門となり、夏油を誘ったのだと片桐は思う。目を凝らして見てみると、"道"が開いた形跡がある。
「山鳥毛、この窓どうかな」
「うん、良いと思うぞ」
心地良い低音が片桐を肯定すると、懐から何やら紙を取り出すと、それ窓に直接ペタペタと貼っていく。
「片桐サン、傑は呪霊に襲われたってことか」
「呪霊ではないです。恐らく、宍倉が"道"を作り、そこに夏油さんを迷わせたのかと」
「ていうか、そもそもなんで傑がその宍倉って奴の陰謀に巻き込まれたワケ?」
片桐は一瞬手を止め、隣に立つ山鳥毛を見上げた。呪術師2人には見えないが、片桐の目は不安そうに揺れていた。山鳥毛はそんな主の頭を優しく撫で、穏やかに微笑む。
心強い己の刀の存在に、片桐は一つ息を吐き出すと、最後の札を貼り終える。
「それは、夏油さんを救い出した後、お話しします。…先程省かせて頂きましたが、私は審神者。正しい歴史を守る者。宍倉は歴史修正主義者で、正史を身勝手に歪めるテロ集団の一員です」
夜蛾は審神者なる者について、片桐から直接語られた事を思い出す。五条が現れる前、応接室で聞いた
ならば、歴史修正主義者の狙いは、夏油の抹殺か、将又夏油の勧誘か、そんなまさか。
「悟……」
「あ?なに」
「喧嘩は程々にしろ…」
「は?」
夏油が過去を変えたがっていたとしたら、五条は間違いなくキレる。最近疲弊し、痩せて顔色が悪かった教え子を思い出す夜蛾。
どうか彼が足を踏み間違える前に、救い出してほしいと、片桐の背中に願った。
準備を終えた片桐が、数歩窓から離れ柏手を打つ。
乾いた音が室内に響き、瞬きひとつで見知らぬ男達が姿を現わす。
五条はぎょっと目を剥き片桐達を凝視する。
何か術式らしきものが柏手とともに発動したかに見えたが、一瞬でしかも霊力を基にしているため詳しくは分からない。現れた男達は山鳥毛と同じ気配をしていた。恐らく、片桐の式神だと思われる。
喋る式神なぞ、呪術界ならば特級なのにも関わらず、片桐は何体も使役しているのだろうか。
「話は聞いてたね。日光一文字、南泉一文字、鶴丸国永、堀川国広に第二部隊の救援、及び夏油傑さんの捜索を命じます。前田と山鳥毛は私と共に高専で待機。4振りは負傷した刀達をこんのすけに預けて帰還させて」
「拝命した」
日光が代表して頷き、南泉が先陣を切って窓を開け、外へ飛び出す。視聴覚室は3階。普通に降りれば大怪我では済まされないが、窓から出たところで、南泉の姿は外にはない。
片桐によって簡易ゲートとして機能している窓を潜れば、葦家から送られてきた座標へ移動できる。
「五条さんはどうされますか。夏油さん捜索に向かわれますか」
「そん中潜ったらいける感じ?」
「はい。現地に着いたら『片桐に派遣された』とその場にいる人間の女性に伝えてください。私と同様に霊力を持っている人です」
「其奴の名前は?」
「葦家さんという方です」
「りょーかい」
「…五条さんは、甘党ですか」
「あ…?甘いもんは好きだけど」
片桐は五条のその答えに瞳を伏せ、懐に入れていた御守りの存在を思い出した。
彼女が渡した御守りでは、夏油の心を守りきれなかった。片桐では、夏油を助けてあげられなかった。
「夏油さんを、救ってください」
片桐のその様子に息を飲んだのは夜蛾だった。
夏油の縁談相手であった片桐。上層部に乗り込んだという話を聞いた時は仰天し、恐ろしい人が来ると焦ったものだったが、今五条を見つめている少女の姿は年相応に健気で切ない。
政府職員の柴田という男から聞いた話だが、審神者には自衛手段を持つ人間は少ないという。片桐もまた、自衛手段を持たず今回の様に任務に出ることもほとんど無いと。
だから、片桐はどれだけ心配でも夏油の捜索には出て行けない。高専で大人しく、現場で動く刀剣男士と葦家、五条からの連絡を待つしかない。
「言われなくても」
片桐の必死さに気が付かない五条は不思議そうにそう言い返すと、簡易ゲートとなっている窓を潜った。
任務結果をいうと、夏油は無事神隠しから帰還した。葦家からその報告を受け、堀川から詳細を聞いた。その後、堀川の声の後ろから怒号が聞こえ、ドカン、だとか、バコン、だとかいう物騒な音が聞こえ通信は中断した。
葦家は宍倉を連れて本部へ向かい、虐待されていたという少女2人は夏油を送迎していた補助監督に預けられた。
そして、宍倉に付け狙われていた夏油だが、何故か顔を腫らし、腕も足を折れているのか引きずりながら、全身怪我をして高専へと帰ってきた。因みに五条も同じくらい重傷を負っている。
TPOも特に省みず大喧嘩した2人だったが、夜蛾は夏油のどこかスッキリした顔を見て、反省文を書かせる事で許すことにした。ただ、家入に反転術式で怪我を治してやるな、とは指示を出しておいた。
*
片桐は夏油がいるという医務室の前で佇んでいた。背後に立つ堀川を振り返っては、扉の取っ手を見つめ、また後ろを振り返る。
彼女の顔にはあの橋姫の面が付けられている。
葦家から夏油への事情聴取を申し付けられた片桐は、約1年ぶりに想い人と対面しようとしている。
堀川は何も言わず、背中を押すこともなく、優しく微笑みながら様子を見守っている。
何度目かの覚悟を決め、片桐がノックをしようと扉を叩こうとした時、視界が開かれた。
目の前には車椅子に乗った少年。背後に立つ金髪の背の高い男の子が押しているようだった。
「わっ!おっ、お面…」
「何方ですか」
金髪の方、七海が警戒したように車椅子に乗る灰原の前に出る。
片桐は片桐で、突然医務室の扉が開いてしまったことに動揺してしまう。
「…っあ、すみません。審神者の片桐と申します。夏油さんの事情聴取に参りました」
「夏油さんなら今奥で休んでますよ!」
「ありがとうございます。此方、入校許可証です」
掲げたそれに七海は納得したようだった。灰原は灰原で、人懐っこそうな笑みで片桐を見上げている。
呪術師皆が皆んな、クソな訳ではないと夜蛾を見てわかってはいたが、"目"で見てみても目の前の2人の在り方は尊敬できるものだった。
面を付けてきて良かったと思った。声だけは取り繕えているが、表情だけは上手く作れない。
2人の横を通り過ぎ、カーテンが閉まっているベッドへ向かう。声が聞こえるから、恐らく五条達と喋っているのではなかろうか。
震えそうになる一歩を、堀川の手が背中を押す。優しく添えられているだけの手だったが、それだけでぐっと前に進める。
遮るカーテンを開けることはせず、回り込み、楽しげに談笑する高専生と対峙する。
久しぶりに見た夏油は、あちこち怪我だらけで、ガーゼと包帯、シップに包まれていた。切れ長の目が、片桐を捉え見開かれる。
一緒にいた家入は怪訝な表情で、五条はあっ、と立ち上がる。
「片桐サン、どうしたんだよ」
「事情聴取に参りました」
「なんだっけ、宍倉って奴の」
「はい、……嘘、」
面をつけていることをいいことに、近くに立つ五条を見上げながら、夏油の姿を盗み見る。緊張で固くなる身体だったが、その緊張も一気に撒散した。
「堀川抜いて!」
弾かれたように叫び、ベッドに乗り上げた片桐が夏油へ摑みかかる。目を剥く一同と、抜き身の刃を掲げた堀川。
片桐は夏油の耳の裏にある何かを掴むと力任せに引っ張り、堀川がそれに刀を突き付ける。
「ヒ、」
「夢魔か」
片桐が掴んだそれは、宍倉の式神だった夢魔に間違いなかった。
幼い子供のような見た目をしているが、こういうものに見た目年齢は一切関係無い。
「ちょ、なんだよ、何事だよ。傑いつからそんなもんつけてたんだよ」
「し、知らないよ、私だって」
片桐は元々無い握力を振り絞って夢魔の首を握り締めた。
橋姫の面効果もあり、夢魔は完全に観念していた。嫉妬に狂った鬼女に殺されることから逃れられないと悟りきっている。
低い片桐の声が彼女の怒りを表していた。
「斬り殺されるか、私に下るか選びなさい」
「下るっ、ます!」
「名乗りを上げて」
「サキュバスのリリーです!ご主人様の仰せのままにっ」
夢魔が名乗ると、縁が結ばれる。首を掴まれた状態から、身体が小さく収束し、夏油達が知る呪霊の玉の様に小さくなる。それを片桐が着物の袖口へ隠す様に手ごと引っ込める。
ほっと息を吐いた片桐だったが、3人を置いてきぼりにしていることに気がつき、更に夏油の上にはしたなく乗り上げていることを思い出して身を起こす。
夏油の肩に置かれた手を持ち上げようとするが、それを阻むように何者かに包まれた。片目を腫らし、頰に大きなシップを付けた男が、真摯な瞳で片桐を見つめる。そんな級友の様子に、家入は何かを察した。情緒育成途中の五条だけが、何も分かっていなかった。
「傑?何してんだお前」
「片桐さん、ですよね」
「っ、あの、」
大きな手が、いつかみたいに指に絡んでくる。徐々に力が込められていき、その温もりに片桐は胸がいっぱいになった。離れていた分、行き場の無い恋心は抱えきれない程大きく育ってしまっていた。
夢魔に抱いた醜い嫉妬と怒りは、夏油に緩りと解かれてしまった。
「ほりかわぁ…」
蚊の鳴くような声で助けを求めれば、背丈がそれほど変わらない堀川に軽々と抱えられる片桐。刀剣男士なだけあって、体格など関係無く助け出される。
火照った顔を面で隠したまま、仕切り直す様に3人に向き直る。
「し、失礼しました。審神者の片桐です。今回、我々が指名手配していた『宍倉幸昭』という男についてお話を伺いたいので、夏油傑さんにはご協力頂きたく」
「さっき夏油にくっ付いてたのは何ですか」
「宍倉が使役していた夢魔です。西洋の悪魔なので、呪霊とは少し異なります」
「サキュバスとか言ってたけど、あのエロい奴の?」
「悟、君ね」
「気になるだろーが。ToLOVEるじゃん」
「やめろ馬鹿」
家入が小さく最悪、と呟いている。夏油が本気で五条に殴りかかったが、無限で防がれた。後で殴る。
片桐は片桐で先ほどの怒りを思い出したのか小さく震えている。表情が見えないせいで、夏油は彼女に引かれていると思い慌てて話を逸らす。
「その宍倉という男について、私にわかることがあるかは分かりませんが、お話しします」
「ご協力感謝します」
「ンだよ傑。いいカッコしいかよ」
「うるさいな。硝子、悪いけど悟と一緒に外に出ててくれるかな」
「は?なんで」
「2人で話したいからだ、ねぇ片桐さん」
「あ?お前…、知り合い……?」
「夏油、貸しな」
「助かる」
家入はゴネる五条を面倒臭そうに引きずって医務室の外へ出る。あまりに喧しいので、折れた腕を殴ると呻き声を上げて黙らせていた。
「主さん、僕も出ますね」
「えっ」
「出てすぐのところにいるので、何かあれば呼んでください」
ぺこ、と堀川は頭を下げて、先に退出した2人の後を追った。
2人きりの医務室に、静寂が満ちた。
案外、泣かないものだな、と片桐は思った。顔につけた面の隔たりが、現実を遠ざけているのかもしれない。
「…『宍倉幸昭』という男と面識はありますか」
「ありません。拘束されていた男の人を見ましたが、覚えはありませんでした」
「では、何か、おかしな夢を見ませんでしたか。その夢の中で、『変えたい歴史はないか』等の言葉をかけられたことは」
「あっ」
「……ありましたか」
メモを取りながら、質問を続ける片桐。宍倉はやはり、己の式神を使って夏油へと接触を図っていたのだ。
夏油から見ていた夢の内容を聞き、顔を顰める。同じ夢をよく見たという。夢の中で、片桐が『歴史を変えよう』と語りかけた、と。
「夢は大体同じ内容ですか。他に何か異なる夢は」
「ありません」
「では、神隠しされた前後の出来事を教えてください」
「あまり覚えてないんですけど、気がついたら悟…五条が目の前にいて、あの堀川…?さん達が居たので、神隠しというのを覚えてないです」
「なるほど…。大抵隠された人間は、そこであった出来事を覚えてないのが常です。記憶がなくて正解ですよ。逆に、あの村で任務に就いてからあったことは覚えてますか」
夏油は記憶を辿り、順を追って説明した。それを片桐が途中聞き返しながらも、ボールペンを走らせる。
己に会った、という夏油の証言に一度耳を疑ったが、夢魔がしっかりと憑いていた為そういう幻覚を見せられたのかもしれない、とペンを動かし続けた。
青い稲妻を見たという事は、検非違使に危うく遭遇する所だったと知り、密かに肝が冷えた。夏油がこの時代を生きる人間とはいえ、見境いのない検非違使が襲わないとは限らない。何もなくてよかったと心底思った。
大方の出来事を聞き終え、片桐は走り書きした用紙を眺める。黙秘を貫いている宍倉を揺する材料は何かないかと真剣に思考している片桐を、夏油は黙って見つめていた。
「……以上で聴取を終了します。ご協力感謝します」
「いえ、…なんか、納得しました」
力無く笑う夏油に、片桐は首を傾げた。疲れている様だったが、聴取に疲れたわけではなさそうだ。もっと、芯から疲れている様な、そんな笑顔。
片桐は身を硬くして、話を聞く体制に入った。
「…呪術師について、知ってますか」
「勝手ながら、調べさせていただきました」
「そうか……、私、ずっと非術師は守るべき存在だと思ってました。でも、そうは思えない出来事があって、なんだか、疲れていて…」
「心中お察しします」
「そうですよね、貴女も戦争中だから…」
夏油は、本気で歴史を変えようと思った。宍倉という男の仕業だと思うが、あの手この手で夏油を言いくるめ、仲間に引きずり込もうとしていた奴の口車に乗せられていた。
盤星教の非術師たちの命より、天内の命の方がずっと貴いと思った。
そこら中にいる呪霊を作り出すだけの何も知らない呪術師より、後輩の灰原の方がずっと大切だった。
一人で先に走っていく五条に、虚しくなった。
己が何のために呪術師をしているのか、わからなくなった。
「貴女のことも、結局非術師じゃないかと、勝手に失望していました…」
その言葉に、片桐は肩を揺らした。
あの日、夏油が零した言葉『呪術師なら良かったのに』、の意味がやっとわかったのだ。
呪術師ならば、これ程までに夏油を苦しめることなどなかったのだ。
疲弊した様子の夏油に、瞼が熱くなった。腹から湧き上がる気持ちを耐えるように拳を強く握る。
「ごめん、なさい…」
「貴女が謝る必要は…」
「ごめんなさい、ごめんなさい。まだ、夏油さんのことが、好きです」
俯いて震える声で謝罪を連ねる片桐の言葉に、夏油は息を飲んだ。
「私は、呪術師じゃなくて…、それは仕方ないとはいえ、もう会わないと決めた貴方に、会ってしまいました。好きだから、苦しめたくなかったのに…っまだ、好きで、ごめんなさい」
溢れた涙は面が邪魔をして拭えなかった。持ち上げた右手は、橋姫の木の面を撫でただけだった。
「顔が、見たいです」
縋るような夏油の言葉に、返事はできなかった。相槌で肯定する事も、否定することもできない。
下を向いたままの片桐に、夏油は手を伸ばした。頭の後ろの結び目を紐解、彼女の顔から面を剥がしてしまう。明るくなった視界に、戦う事を知る大きな手が映り込む。硬い掌が、片桐の頰を優しく持ち上げた。
苦しそうな表情の夏油。細めた瞳に、涙が溜まっているように見えた。
「私は、貴女がいたから踏み止まれた。自分から突き放したクセに、未練がましく記憶の中の貴女に縋っていたんです」
ほろ、と溢れた涙を、頰の湿布が吸収したように見えた。
夏油が定まらない本音を探す度に、片桐の顔が浮かんでいた。
「片桐さんが居なければ、私はきっと、人を殺していました」
その言葉に、唇を噛み締める片桐。それ程彼が追い詰められていたなんて、知る由もなかった。
「私は、何もしていません」
「そんなことない」
「あります!…っ夏油さんに渡した御守りじゃ、心を守りきれませんでした。私は、自衛できない審神者だから、貴方を直接探しに行けなかった。結局貴方を連れ戻したのは五条さんです」
私は、此処で五条さんに託し、祈るしかできませんでした。
夏油は高専での仔細を聞き、何故五条が片桐のことを知っていたのか納得した。
「貴女が、悟を遣わしてくれたんでしょう。やっぱり、片桐さんのお陰です。それに、貴女との思い出が、私の中での記憶が、私を最も強く繋ぎとめていました」
流れ続ける片桐の涙を、親指が優しく拭う。
この人は、流す涙まで清くて美しいのか。夏油はやはり彼女を眩しく思った。
審神者について、村にいた女性、葦家に簡単に聞いた夏油。呪術師と違って、神聖で、堅実で、彼女にぴったりだと思った。
何十もの刀の付喪神だという男の姿をした刀剣男士達をまとめ上げているのは、想像できなかったが、先程夏油に憑いていた夢魔を使役した姿を見て、真実だと認めた。あれ程鋭利な声が出せるのかと感心した程だ。
「身勝手で、情けない話ですが、私も片桐さんが好きです。まだ…、いいえ。ずっと好きです」
「…っはい、」
「審神者が何で、何をしているのかわからなくて苦しみました。でも、結局私は貴女が好きなままだった。貴女が何者かなんて関係無かった。片桐さんだから、好きです」
夏油の引き攣る表情に、泣くのが下手な人だと思った。真面目で、真面目過ぎて、おまけに優しすぎるから、きっと人に頼ることができない人なのだと思った。
頰を包む大きな手に、己の手も添えて擦り寄る。目を閉じて、暖かな体温に身を委ねてしまう。
『片桐』という不確定で、曖昧な存在を好きだと告げてくれたことが嬉しくて堪らない。
「片桐さん」
少しだけ硬い声に、片桐は目を開いて夏油を見つめた。涙のせいで、頰に貼った湿布が剥がれ始めていた。
頰から手を離し、己の手に重なる小さくて綺麗な手を柔らかく握る。
「また、私と会ってくださいませんか」
緊張気味の夏油の様子に、いつかの記憶が呼び起こされた。
初めて会ったあの日、勇気を振り絞って伝えた己の気持ち。再び会う約束を取り付けるだけで、必死だったあの頃。
片桐は夏油の力加減に反して、ぎゅっと彼の手を握りしめると、心底嬉しい、と言わんばかりに破顔した。
「はい、是非。私もお会いしたいです」
乾いた涙の跡も気にならないくらい、愛らしい満面の笑みだった。