夏油が何をしている人間なのか知らない審神者
御空を捨てた子ども【完結】
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セーラー服に身を包んだ少女が、目の前に横たわっている。無防備に仰向けで転がり、おさげが床に投げ出されている。
少女の表情はよく見えない。だが、頭部を負傷しているらしく血がどくどくと床へと広がっていく。血溜まりが広がり、夏油の足元まで迫ってくる。
何も出来ずにその様子を眺めていれば、左手を誰かに掴まれた。優しく、此方を見て欲しいというように、存在を主張するように。
左側に振り返ろうとすると、このタイミングで必ず声が聞こえるのだ。
「変えたい過去はないか」
あの少女、天内理子の声で、そんな言葉が聞こえた。パッと視線を正面に戻すも、目の前の死体に何の変化もない。だが、確かに天内の声で聞こえた筈だった。
天内を見つめていれば、横たわる彼女に影が指す。
影の主は、親友の五条悟。ポケットに手を入れて、いつものように笑いかけてくる。
「変えられるだろ、俺たちなら」
長い脚を折りたたみ、天内の側にしゃがみこむ五条。そのまま五条が手を翳せば、夏油の足元まで侵食していた血溜まりが、天内の元へと巻き戻っていく。みるみる血溜まりは小さくなり、完全に傷が消えた頃、五条の掌に弾丸が転がっている。天内を貫き、壁でひしゃげていた其れは、真っさらな状態で彼の手の内に収まっていた。
「変えられますよ」
左手を掴む人物が言う。ゆっくりと振り向けば、穏やかな顔の想い人、片桐が夏油を見上げている。
いじらしく触れていた左手が、片桐によって絡み合う。つつ、となぞるように弱い力で指が隙間なく触れ合う。反対の手で、手の甲に浮かぶ筋や血管を勿体振るように撫で、太い夏油の腕に頭を預ける片桐。
「変えたい過去は、変えちゃえばいい」
秘め事を嬉しそうに話す時と同じ声色で、片桐は夏油に笑いかけた。裏表を感じさせない、心からの笑顔だった。
ピピピ、無機質なアラーム音で意識が覚醒していく。
すっかり見慣れた天井をぼーっと見上げながら、夏油は頭を働かせていく。
今日の予定は午前は普通に授業に出て、午後からは岐阜で任務。そのまま北陸三県を周り、新潟までぶっ続けで入っている特級案件や一級任務を終わらせる。帰ってくるのは早くて4日後。
思考がまともに働くようになった頃、そういえばと思い出す。
「また同じ夢だな」
寝起きで低く掠れた声でもう何度も繰り返して見る夢を思い出す。
死んだ天内、変わる前の五条と、諦めた片桐。
「変えたい過去、か」
我ながら女々しいな、と夏油は苦笑する。
過去なんて、変えられるわけがない。変えられたら、こんな思いはしていない。
天内を救えたならば。五条と共に歩めたならば。片桐と笑い合えたならば。
*
皆は知らない呪霊の味。負の感情を凝縮し、煮詰め、成り立ったようなそれは、この世で最も醜悪な味だと思う。
例えるなら、吐瀉物を処理した雑巾を丸呑みしているような。飲み込むたびに身体から拒否反応が起き、体外へと吐き出さんとえずきそうになる。作業だと割り切り飲み込む。その度に舌に残る醜悪さに気が滅入るのも仕方のないことだ。
もう何百、何千と繰り返したのかもしれない。もしかしたらまだ百すら超えていないかもしれない。
口元を押さえていた右手を離し、帳の外へと向かう。
夏油は五条と顔を合わせる事なく、既に2週間が過ぎた。最後に会った際も、廊下ですれ違っただけ。親友はもう随分遠いところに行ったのだと、こうして呪霊を取り込み、帳の外へとひとりで向かう度に思う。
今年の夏も、酷いものだ。こうして呪霊が蔓延るのは、全て非術師のせいだというのに。
「っ……」
夏油は立ち止まり、くしゃりと髪を乱した。
つい先日会った特級呪術師の九十九由基の言葉を思い出す。
非術師を見下す自分、それを否定する自分、どちらもまだ本音ではないと言われた。まだ決まらない、定まらない、己はこんなに弱かったか。
五条の姿を思い出し、夏油はついにその場でしゃがみ込んだ。胸で燻るのは確かに劣等感だった。それと同時に、どうしようもない孤独感。舌に残る呪霊の味が全身に回る毒のように感じる。
「……くそ、」
何故己は呪術師なんてしているんだろうか。こんなマラソンゲームに、終わりなんて無いだろうに。
呪術師から呪いは生まれない。ならば、非術師を全員殺せばいい。
そう考える夏油の眼裏に、両親の顔が浮かび、友人の顔が浮かび、最後に片桐の顔が浮かぶ。
泣きそうな彼女が、必死に言葉を紡いでいた姿をまだ鮮明に思い出せる。
『貴女が、呪術師になら良かったのに』
夏油は今、心底あの日零した言葉に共感した。片桐が呪術師であれば、今ほど悩んでいないかもしれない。もっと簡単に踏ん切りがついて、あっさりと本音が見つけられたのに。
まだ己は、誰かも知らない女に心を囚われている。片桐という虚像を、未だに愛しく思っている。
任務を終え、高専に帰還した夏油は、医務室の奥、ICUで1人隔離されている後輩の灰原雄の姿を眺めた。
扉の前の椅子には、七海建人が壁に頭を預けている。
「なんてことはない、二級呪霊の討伐任務のハズだったのに…!!」
絞り出すような七海の悲鳴に夏油は瞳を伏せた。沢山の管に繋がれ、ピクリとも動かない灰原の顔を見つめる。体に掛けられたシーツは、彼の身体の半分程度しか膨らみがない。灰原は、下半身を殆ど失くした状態で奇跡的に高専まで帰還できた。
「クソッ…!!産土神信仰…、アレは土地神でした…、一級案件だ…!!」
呪術師の階級に見合わない任務。可愛がっていた後輩の変わり果てた姿。夏油は静かに息を吐き出した。
灰原は呪術界には珍しい善人だった。根が明るく、人懐っこく、裏表もない。人を見る目があるのだと、そう言いながら、クズと評される己を慕う。
非術師は守るべき存在だ。
本当に、そうだろうか。
灰原をこんな風にしたのは、呪霊で、その呪霊を生み出しているのは誰だ。非術師ではないか。
何故我々呪術師が命を懸けて、己の尻拭いもできない非術師を守らなければならないんだ。
「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」
夏油は踵を返し、灰原の容態を聞こうと同級の家入硝子の姿を探しに退室する。
セーラー服に身を包んだ少女が、目の前に横たわっている。無防備に仰向けで転がり、おさげが床に投げ出されている。
少女の表情はよく見えない。だが、頭部を負傷しているらしく血がどくどくと床へと広がっていく。血溜まりが広がり、夏油の足元まで迫ってくる。
何も出来ずにその様子を眺めていれば、左手を誰かに掴まれた。優しく、此方を見て欲しいというように、存在を主張するように。
左側に振り返ろうとすると、このタイミングで必ず声が聞こえるのだ。
「変えたい過去はないか」
あの少女、天内理子の声で、そんな言葉が聞こえた。パッと視線を正面に戻すも、目の前の死体に何の変化もない。だが、確かに天内の声で聞こえた筈だった。
天内を見つめていれば、横たわる彼女に影が指す。
影の主は、親友の五条悟。ポケットに手を入れて、いつものように笑いかけてくる。
「変えられるだろ、俺たちなら」
長い脚を折りたたみ、天内の側にしゃがみこむ五条。そのまま五条が手を翳せば、夏油の足元まで侵食していた血溜まりが、天内の元へと巻き戻っていく。みるみる血溜まりは小さくなり、完全に傷が消えた頃、五条の掌に弾丸が転がっている。天内を貫き、壁でひしゃげていた其れは、真っさらな状態で彼の手の内に収まっていた。
「変えられますよ」
左手を掴む人物が言う。ゆっくりと振り向けば、穏やかな顔の想い人、片桐が夏油を見上げている。
いじらしく触れていた左手が、片桐によって絡み合う。つつ、となぞるように弱い力で指が隙間なく触れ合う。反対の手で、手の甲に浮かぶ筋や血管を勿体振るように撫で、太い夏油の腕に頭を預ける片桐。
「変えたい過去は、変えちゃえばいい」
秘め事を嬉しそうに話す時と同じ声色で、片桐は夏油に笑いかけた。裏表を感じさせない、心からの笑顔だった。
「天内が救えたらさ、どんなに良かったか」
天内のだらりと人形のように力の入らない四肢を五条が無理やり持ち上げる。傷は塞がっても、瞳は濁ったままの天内が、まるでオモチャのように五条の手で遊ばれる。青白い肌から生気は感じられず、それに対して五条の表情は子供のように無邪気だった。
チグハグな目の前の光景が、酷く不気味だった。
「やっぱり、過去に戻って盤星教の奴ら、殺しに行くってのはどうだ」
名案だ、とばかりに五条が笑う。
「いいですね、それ!」
左に立つ片桐が、楽しげに声を上げる。
馬鹿馬鹿しい、過去に戻れるわけなんてないのに。
「戻れますよ」
くい、と心を読んだかのように夏油の服の袖が下へ引っ張られる。
穏やかに微笑む片桐が、彩られた愛らしい唇で言葉を紡ぐ。
「審神者には、時間を遡って過去へと飛べる力があるんです」
何を御伽噺のような事を。
片桐の言葉と言えども、非科学的過ぎて、夏油には理解できない。
車に乗って、時間旅行でもするというのか、映画じゃあるまいし。
「だから、緘口令が敷かれてるんですよ。過去を変えられるって知ったら、大変だから。政府が制限しているんです。呪術界の上層部とも、縛りを結んでますが、知っていますよ」
片桐の柔らかな口調で紡がれるそれらを聞き、目の前の五条に視線を投げる夏油。目の前の男は相変わらず楽しげに天内の遺体で遊んでいる。
「天内さんを救えたら、こんな気持ちになる事なかったのにね」
片桐から切なげな声がする。
涙を堪えるようにきゅ、と眉間に皺を寄せ、俯いてしまう。健気な彼女は、最後に会った時と同じだった。
「そうしたら、夏油さんは私の側に居てくれたのに」
片桐は夏油にもたれかかっていた身体を離し、繋いでいた手もするりと解かれる。何故か夏油の左手は動かなかった。彼女を引き止める術を持っていたなかった。
片桐は夏油と距離を取り、涙の浮かんだ目元を乱暴に拭うと、綺麗に笑った。
「きっと、重症を負った灰原さんも救える筈です。変えたい過去は、変えちゃえばいいんです。全部変えられたら、夏油さんは苦しまなくて済むんだから」
視界が一瞬白み、夢の中で夏油の意識が下へと落ちる。同時に、現実の世界で意識が浮上する。
すっかり見慣れた天井をぼーっと見上げながら、夏油は徐々に頭を働かせていく。
今日の予定は午前から任務が入っており、◼︎◼︎県◼︎◼︎市で一級相当呪霊の祓除を行うのだ。確か村落内で神隠しや変死が見られているという。
思考がまともに働くようになった頃、そういえばと思い出す。
「また同じ夢だな」
夏油は地図にすら乗らないような集落から呪霊の残穢を辿り、一級呪霊を祓った。特級呪術師の夏油にとって造作も無い任務だった。
集落自体、山奥に存在しており、市街地からは車で一時間程掛かる場所に存在していた。1番近いバス停からでも歩いて20分程度掛かる距離だった。
呪霊は民家から少し離れた森の中に隠れていた。帳を下ろし即座に祓ったことで任務は終了した。
村民に終わった事を伝えるべく、獣道から逸れようとしたとき、パキ、と枯れ枝を踏んだ音が背後から聞こえた。この場には夏油しかいない筈、まさか呪霊がまたいたのか、そう思い振り返った。
「あ……」
「は」
振り返った先には、こんな田舎が似合わないような華やかな着物で着飾った少女がいた。知らぬ存在では無い、あの片桐が、夏油の目の前にいた。
「片桐、さん…?」
「夏油さん…!」
ぱっと表情を明るくした彼女は、夏油の近くへ駆け寄る。
明らかに山を登るのに不適切な下駄を履いている。草木が生い茂るこんな場所では、高そうな着物も引っ掛けてしまわないだろうか。
「は、何故ここに、」
驚きと戸惑いで夏油はひどく混乱した。変わらぬ笑顔が、夏油へと向けられる。泣かされた相手に、何故そこまで好意を向けられるんだ。
「言ったでしょう、変えるって」
「なにを、」
「過去を、変えに行きましょう」
す、と相変わらず綺麗な手が目の前に差し出されると、夏油は何の意識をする事なくその手を取った。
「まずは、天内さんの所でいいですかね」
「あの、片桐さん…何を言っているのか」
無意識に重ねてしまった手に夏油の混乱は増した。
怪訝な表情で片桐を見つめるも、彼女は笑顔を浮かべるだけで何を考えているのかよくわからない。
「変えたい過去が、ありますよね」
目を細め、うっそりと夏油を見上げる片桐は、本当に片桐だろうか。
そもそも、こんな所に片桐が1人でいるはずがない。いつも護衛を必ず連れている彼女が、単独で動いていることがおかしいのだ。
『変えたい過去』、奇しくも、夏油が見る夢と同じ内容だ。毎回同じような夢をみるというのもおかしな話だが、現実のでも夢の中と同じ話題が出るなんて。
必死に頭の中を整理する夏油に、片桐は時間が惜しいと詰め寄る。
「手始めに盤星教の奴らを殺しましょう。あいつら、天内さんの暗殺を依頼したんだから、死んで当然ですよね。そうしたら、天内さんの命を狙う者は居なくなって、彼女は救われます。夏油さんの心も、きっと救われますよ」
パチパチパチ、乾いた音が夏油の耳を打つ。静かで何も聞こえなかった森の中で、あの嫌な音が響いている。
はぁ、はぁ、気がつけば夏油の呼吸は浅くなり、耳鳴りまでしてくる。一種のフラッシュバックだった。
何も答えることのできない夏油に、片桐は尚も語りかける。
「過去の己を救うんです。そうすれば、自ずと幸せな日々を過ごせるようになります。天内さんの願い、今度こそ叶えましょうよ。盤星教の奴らなんて、何の力も持たない猿なんですから」
夏油は崩れそうになる足をなんとか持ちこたえ、片桐を見下ろした。
この人の、言う通りだと思った。猿を殺して、天内を救えたならば。全ての歯車が狂ったあの日に戻れば、何か変わるかもしれない。
思考が鈍る夏油が、震える声で頷きそうになったとき、徐に片桐が空を見上げた。
「あ、まずい」
平坦な声で片桐が言葉をこぼす。何がまずいのか、夏油もまた、空を見上げた。
青い稲妻が空を走り、空間を裂くように亀裂が入る。禍々しい気が立ち込め、亀裂が広がり、何かが顔を出した。
何だ、と確認する前に、夏油の手を片桐が引いて走り出す。
「えっ!片桐さん!?」
どこにそんな力があったのだ、と目を見開く。痛いほど強い力で夏油の手を握り、着物の合わせ目が乱れることも気にせず走る。
空からだけでなく、背後からも何かの気配を感じた。
「宍倉ッ!!」
怒鳴るような声に、夏油は思わず振り返った。青い髪の少年が、鬼のような形相で此方を睨みつけている。小さな体から想像できないほど大きな怒気を感じた。
宍倉、とは誰のことだ。
此方へ駆け出そうとする少年の行く手を阻むように何か大きな生き物が視界を遮った。肩に見たことがないほど巨大な刃物を担いでいる。
まさか、あれで子供を殺すのか。
呪霊と似た嫌な気配を纏ったそれを祓わなければならない、夏油はなけなしの正義感でそう思った。しかし、片桐が掴む手を振りほどけない。
「片桐さんっ!」
「夏油さん」
片桐は背後の少年と刃物を持った呪霊が見えなくなった所で立ち止まり、息一つ見出すことなく夏油を見上げた。
笑顔はない、のっぺりとした能面のような表情だった。
「色好い返事をお待ちしております」
丁寧に頭を下げた片桐。夏油は状況が一切読めずに困惑するばかり。
片桐がゆっくりと頭をあげる。彼女の表情を、夏油が確認することはできなかった。
気がつけば、また1人で森の中に佇んでいたからだ。瞬き一つの間に、目の前から片桐の姿は消えていた。
空を見上げれば、禍々しい気配はない。亀裂も入っていない。
背後を振り返れば、呪霊らしき気配も無く、少し歩いて戻っても少年の姿は一つもない。
勿論、辺りを見渡しても片桐の姿など見えやしない。
何だかよくわからないが、取り敢えず戻ろうと空から民家の位置を探ろうとした。そこで、はた、と気がついた。
呪霊が出せないのだ。
得体が知れない不快感が自身を侵す。
狐につままれたような不可解な出来事に、術式が使えない事態。
こうなれば自力で来た道を戻るしかあるまい、と歩き出す。
道無き道を進み、推測で村を目指す。
「こんな祠、あったか…?」
苔が生い茂った石の祠に目を留める。背中に嫌な汗が伝った。
祠の後ろにも、また小さな祠があった。さらにその奥にも。似たような箱からが後ろへ連なっていた。
「なんなんだ…」
まるで神隠しにあっているような。
夏油は意を決して祠の先へと進むことにした。仮にもし神隠しであるなら、この先にいるであろう神とやらを祓ってしまえばいい。術式が使えなくとも、夏油は己の身一つでも十分戦えた。
2007年、9月。◼︎◼︎県◼︎◼︎市(旧◼︎◼︎村)にて、10時50分頃、特級呪術師夏油傑との連絡が途絶える。
尚、旧◼︎◼︎村の外れにて、夏油の残穢は途切れている模様。
*
五条は任務で全国を飛び回る中、高専に帰ってこれても寝に帰るだけ、という日々を過ごしていた。学生のうちからこれだけ多忙なんて、特級とかいう階級に何の意味があるのかと甚だ疑問に思えてくる。
久しぶりに昼間のうちから高専へ帰ってきた五条は、周りの騒がしさに首を傾げた。
高専関係者の姿をこの広大な敷地で目に留めることはそこまで多くないが、何やらパタパタと走り回っているのか事務方やら補助監督、高専教師が忙しなくしているのをよく見た。
時折「政府」、「監査」という言葉が聞こえるが国のお偉いさんでも来んのか、と己は寮へと向かう。が、途中で足を止めて大怪我を負った後輩の顔を見に行くことにした。
「悟」
「あ〜?」
厳しい声に呼ばれて振り返れば、一年時の担任に呼び止められた。
「何。今から医務室行くんだけど」
「医務室……そうか、なら硝子と共にいるな」
「は?灰原の顔見たら寮に戻るけど」
それを聞くと少し考えるように顎に手を当て、五条の顔を見て首を横に振った。
「いや、しばらく硝子と一緒にいろ。私が顔を出すまで寮にも戻るな」
「は?ンでだよ。あ、監査来てっから余計なもんは見せないようにってか?」
オエ、と顔を顰める五条。それに対し、知っていたのかと夜蛾は目を瞬いた。サングラスでよく見えないが。
「…知っていたのか」
「知らねーよ。昼間帰ってきたの久しぶりだし。周りの奴らがなんか走り回ってるからそう思っただけだよ」
「なるほどな」
五条と夜蛾で話していると、夜蛾の背後から事務員の大人が焦ったように駆け寄ってくる。五条が視線を向ければ、それに気がついた夜蛾も振り返る。
「どうした」
「すみません、お話中に。…お電話が」
「誰から」
「時の政府の柴田さんという方から……」
「すぐに行こう。悟、医務室から出るなよ」
大人2人が職員室へ向かう姿を五条は五歩後ろほどから追いかけた。全く夜蛾から言われた事を守るつもりがない。
流石に職員室内には入れなかったが、扉の前から中をじっと覗いていると電話を終えたらしい夜蛾が五条の元へ。
「悟………」
「大人しく待ってたんだからどういう事かくらい教えてくれても良くね?」
頭が痛い、と額を抑えた夜蛾は溜息をつくと、扉のレールを仕切りに今の状況を話した。
「時の政府が此方側の呪具を保管しているらしく、それに伴って今まで露見しなかった両者間の問題が発覚した」
「時の政府…?」
「我々同様、秘匿機関だ。で、時の政府所属で前衛で指揮をとっている審神者という役職の軍人が上層部にカチコミに来た、と」
「ハ?」
「それでこれからその審神者が高専に来て、天元の結界の視察や、呪具が仕舞ってある保管庫に高専内に時の政府管轄の呪具が紛れ込んでいないかやら見に来る。だからお前たち学生は医務室で大人しくしていろ」
時の政府とは。カチコミとは。審神者とは。五条が疑問を聞く前に早口で言うこと全て伝えるとピシャリと扉を閉めた。
職員室には電話が鳴り響いている。中では大人たちが忙しなく電話対応、書類整理、いつも以上に仕事に追われているようだった。
どうせ偉そうな人間が踏ん反り返ってイチャモン付けてくるだけだろ、そう思った五条は興味を失い、大人しく医務室へと向かった。
五条は親友の夏油が己の知らぬところで見合いなるものをしていた事を知らない。夏油がその見合い相手の事を好いており、婚約までは至らなかったが、何度も逢瀬を重ねていた事を知らない。
そして、その相手が上層部にカチコミに来たという審神者なる者だということも知らない。
少女の表情はよく見えない。だが、頭部を負傷しているらしく血がどくどくと床へと広がっていく。血溜まりが広がり、夏油の足元まで迫ってくる。
何も出来ずにその様子を眺めていれば、左手を誰かに掴まれた。優しく、此方を見て欲しいというように、存在を主張するように。
左側に振り返ろうとすると、このタイミングで必ず声が聞こえるのだ。
「変えたい過去はないか」
あの少女、天内理子の声で、そんな言葉が聞こえた。パッと視線を正面に戻すも、目の前の死体に何の変化もない。だが、確かに天内の声で聞こえた筈だった。
天内を見つめていれば、横たわる彼女に影が指す。
影の主は、親友の五条悟。ポケットに手を入れて、いつものように笑いかけてくる。
「変えられるだろ、俺たちなら」
長い脚を折りたたみ、天内の側にしゃがみこむ五条。そのまま五条が手を翳せば、夏油の足元まで侵食していた血溜まりが、天内の元へと巻き戻っていく。みるみる血溜まりは小さくなり、完全に傷が消えた頃、五条の掌に弾丸が転がっている。天内を貫き、壁でひしゃげていた其れは、真っさらな状態で彼の手の内に収まっていた。
「変えられますよ」
左手を掴む人物が言う。ゆっくりと振り向けば、穏やかな顔の想い人、片桐が夏油を見上げている。
いじらしく触れていた左手が、片桐によって絡み合う。つつ、となぞるように弱い力で指が隙間なく触れ合う。反対の手で、手の甲に浮かぶ筋や血管を勿体振るように撫で、太い夏油の腕に頭を預ける片桐。
「変えたい過去は、変えちゃえばいい」
秘め事を嬉しそうに話す時と同じ声色で、片桐は夏油に笑いかけた。裏表を感じさせない、心からの笑顔だった。
ピピピ、無機質なアラーム音で意識が覚醒していく。
すっかり見慣れた天井をぼーっと見上げながら、夏油は頭を働かせていく。
今日の予定は午前は普通に授業に出て、午後からは岐阜で任務。そのまま北陸三県を周り、新潟までぶっ続けで入っている特級案件や一級任務を終わらせる。帰ってくるのは早くて4日後。
思考がまともに働くようになった頃、そういえばと思い出す。
「また同じ夢だな」
寝起きで低く掠れた声でもう何度も繰り返して見る夢を思い出す。
死んだ天内、変わる前の五条と、諦めた片桐。
「変えたい過去、か」
我ながら女々しいな、と夏油は苦笑する。
過去なんて、変えられるわけがない。変えられたら、こんな思いはしていない。
天内を救えたならば。五条と共に歩めたならば。片桐と笑い合えたならば。
*
皆は知らない呪霊の味。負の感情を凝縮し、煮詰め、成り立ったようなそれは、この世で最も醜悪な味だと思う。
例えるなら、吐瀉物を処理した雑巾を丸呑みしているような。飲み込むたびに身体から拒否反応が起き、体外へと吐き出さんとえずきそうになる。作業だと割り切り飲み込む。その度に舌に残る醜悪さに気が滅入るのも仕方のないことだ。
もう何百、何千と繰り返したのかもしれない。もしかしたらまだ百すら超えていないかもしれない。
口元を押さえていた右手を離し、帳の外へと向かう。
夏油は五条と顔を合わせる事なく、既に2週間が過ぎた。最後に会った際も、廊下ですれ違っただけ。親友はもう随分遠いところに行ったのだと、こうして呪霊を取り込み、帳の外へとひとりで向かう度に思う。
今年の夏も、酷いものだ。こうして呪霊が蔓延るのは、全て非術師のせいだというのに。
「っ……」
夏油は立ち止まり、くしゃりと髪を乱した。
つい先日会った特級呪術師の九十九由基の言葉を思い出す。
非術師を見下す自分、それを否定する自分、どちらもまだ本音ではないと言われた。まだ決まらない、定まらない、己はこんなに弱かったか。
五条の姿を思い出し、夏油はついにその場でしゃがみ込んだ。胸で燻るのは確かに劣等感だった。それと同時に、どうしようもない孤独感。舌に残る呪霊の味が全身に回る毒のように感じる。
「……くそ、」
何故己は呪術師なんてしているんだろうか。こんなマラソンゲームに、終わりなんて無いだろうに。
呪術師から呪いは生まれない。ならば、非術師を全員殺せばいい。
そう考える夏油の眼裏に、両親の顔が浮かび、友人の顔が浮かび、最後に片桐の顔が浮かぶ。
泣きそうな彼女が、必死に言葉を紡いでいた姿をまだ鮮明に思い出せる。
『貴女が、呪術師になら良かったのに』
夏油は今、心底あの日零した言葉に共感した。片桐が呪術師であれば、今ほど悩んでいないかもしれない。もっと簡単に踏ん切りがついて、あっさりと本音が見つけられたのに。
まだ己は、誰かも知らない女に心を囚われている。片桐という虚像を、未だに愛しく思っている。
任務を終え、高専に帰還した夏油は、医務室の奥、ICUで1人隔離されている後輩の灰原雄の姿を眺めた。
扉の前の椅子には、七海建人が壁に頭を預けている。
「なんてことはない、二級呪霊の討伐任務のハズだったのに…!!」
絞り出すような七海の悲鳴に夏油は瞳を伏せた。沢山の管に繋がれ、ピクリとも動かない灰原の顔を見つめる。体に掛けられたシーツは、彼の身体の半分程度しか膨らみがない。灰原は、下半身を殆ど失くした状態で奇跡的に高専まで帰還できた。
「クソッ…!!産土神信仰…、アレは土地神でした…、一級案件だ…!!」
呪術師の階級に見合わない任務。可愛がっていた後輩の変わり果てた姿。夏油は静かに息を吐き出した。
灰原は呪術界には珍しい善人だった。根が明るく、人懐っこく、裏表もない。人を見る目があるのだと、そう言いながら、クズと評される己を慕う。
非術師は守るべき存在だ。
本当に、そうだろうか。
灰原をこんな風にしたのは、呪霊で、その呪霊を生み出しているのは誰だ。非術師ではないか。
何故我々呪術師が命を懸けて、己の尻拭いもできない非術師を守らなければならないんだ。
「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」
夏油は踵を返し、灰原の容態を聞こうと同級の家入硝子の姿を探しに退室する。
セーラー服に身を包んだ少女が、目の前に横たわっている。無防備に仰向けで転がり、おさげが床に投げ出されている。
少女の表情はよく見えない。だが、頭部を負傷しているらしく血がどくどくと床へと広がっていく。血溜まりが広がり、夏油の足元まで迫ってくる。
何も出来ずにその様子を眺めていれば、左手を誰かに掴まれた。優しく、此方を見て欲しいというように、存在を主張するように。
左側に振り返ろうとすると、このタイミングで必ず声が聞こえるのだ。
「変えたい過去はないか」
あの少女、天内理子の声で、そんな言葉が聞こえた。パッと視線を正面に戻すも、目の前の死体に何の変化もない。だが、確かに天内の声で聞こえた筈だった。
天内を見つめていれば、横たわる彼女に影が指す。
影の主は、親友の五条悟。ポケットに手を入れて、いつものように笑いかけてくる。
「変えられるだろ、俺たちなら」
長い脚を折りたたみ、天内の側にしゃがみこむ五条。そのまま五条が手を翳せば、夏油の足元まで侵食していた血溜まりが、天内の元へと巻き戻っていく。みるみる血溜まりは小さくなり、完全に傷が消えた頃、五条の掌に弾丸が転がっている。天内を貫き、壁でひしゃげていた其れは、真っさらな状態で彼の手の内に収まっていた。
「変えられますよ」
左手を掴む人物が言う。ゆっくりと振り向けば、穏やかな顔の想い人、片桐が夏油を見上げている。
いじらしく触れていた左手が、片桐によって絡み合う。つつ、となぞるように弱い力で指が隙間なく触れ合う。反対の手で、手の甲に浮かぶ筋や血管を勿体振るように撫で、太い夏油の腕に頭を預ける片桐。
「変えたい過去は、変えちゃえばいい」
秘め事を嬉しそうに話す時と同じ声色で、片桐は夏油に笑いかけた。裏表を感じさせない、心からの笑顔だった。
「天内が救えたらさ、どんなに良かったか」
天内のだらりと人形のように力の入らない四肢を五条が無理やり持ち上げる。傷は塞がっても、瞳は濁ったままの天内が、まるでオモチャのように五条の手で遊ばれる。青白い肌から生気は感じられず、それに対して五条の表情は子供のように無邪気だった。
チグハグな目の前の光景が、酷く不気味だった。
「やっぱり、過去に戻って盤星教の奴ら、殺しに行くってのはどうだ」
名案だ、とばかりに五条が笑う。
「いいですね、それ!」
左に立つ片桐が、楽しげに声を上げる。
馬鹿馬鹿しい、過去に戻れるわけなんてないのに。
「戻れますよ」
くい、と心を読んだかのように夏油の服の袖が下へ引っ張られる。
穏やかに微笑む片桐が、彩られた愛らしい唇で言葉を紡ぐ。
「審神者には、時間を遡って過去へと飛べる力があるんです」
何を御伽噺のような事を。
片桐の言葉と言えども、非科学的過ぎて、夏油には理解できない。
車に乗って、時間旅行でもするというのか、映画じゃあるまいし。
「だから、緘口令が敷かれてるんですよ。過去を変えられるって知ったら、大変だから。政府が制限しているんです。呪術界の上層部とも、縛りを結んでますが、知っていますよ」
片桐の柔らかな口調で紡がれるそれらを聞き、目の前の五条に視線を投げる夏油。目の前の男は相変わらず楽しげに天内の遺体で遊んでいる。
「天内さんを救えたら、こんな気持ちになる事なかったのにね」
片桐から切なげな声がする。
涙を堪えるようにきゅ、と眉間に皺を寄せ、俯いてしまう。健気な彼女は、最後に会った時と同じだった。
「そうしたら、夏油さんは私の側に居てくれたのに」
片桐は夏油にもたれかかっていた身体を離し、繋いでいた手もするりと解かれる。何故か夏油の左手は動かなかった。彼女を引き止める術を持っていたなかった。
片桐は夏油と距離を取り、涙の浮かんだ目元を乱暴に拭うと、綺麗に笑った。
「きっと、重症を負った灰原さんも救える筈です。変えたい過去は、変えちゃえばいいんです。全部変えられたら、夏油さんは苦しまなくて済むんだから」
視界が一瞬白み、夢の中で夏油の意識が下へと落ちる。同時に、現実の世界で意識が浮上する。
すっかり見慣れた天井をぼーっと見上げながら、夏油は徐々に頭を働かせていく。
今日の予定は午前から任務が入っており、◼︎◼︎県◼︎◼︎市で一級相当呪霊の祓除を行うのだ。確か村落内で神隠しや変死が見られているという。
思考がまともに働くようになった頃、そういえばと思い出す。
「また同じ夢だな」
夏油は地図にすら乗らないような集落から呪霊の残穢を辿り、一級呪霊を祓った。特級呪術師の夏油にとって造作も無い任務だった。
集落自体、山奥に存在しており、市街地からは車で一時間程掛かる場所に存在していた。1番近いバス停からでも歩いて20分程度掛かる距離だった。
呪霊は民家から少し離れた森の中に隠れていた。帳を下ろし即座に祓ったことで任務は終了した。
村民に終わった事を伝えるべく、獣道から逸れようとしたとき、パキ、と枯れ枝を踏んだ音が背後から聞こえた。この場には夏油しかいない筈、まさか呪霊がまたいたのか、そう思い振り返った。
「あ……」
「は」
振り返った先には、こんな田舎が似合わないような華やかな着物で着飾った少女がいた。知らぬ存在では無い、あの片桐が、夏油の目の前にいた。
「片桐、さん…?」
「夏油さん…!」
ぱっと表情を明るくした彼女は、夏油の近くへ駆け寄る。
明らかに山を登るのに不適切な下駄を履いている。草木が生い茂るこんな場所では、高そうな着物も引っ掛けてしまわないだろうか。
「は、何故ここに、」
驚きと戸惑いで夏油はひどく混乱した。変わらぬ笑顔が、夏油へと向けられる。泣かされた相手に、何故そこまで好意を向けられるんだ。
「言ったでしょう、変えるって」
「なにを、」
「過去を、変えに行きましょう」
す、と相変わらず綺麗な手が目の前に差し出されると、夏油は何の意識をする事なくその手を取った。
「まずは、天内さんの所でいいですかね」
「あの、片桐さん…何を言っているのか」
無意識に重ねてしまった手に夏油の混乱は増した。
怪訝な表情で片桐を見つめるも、彼女は笑顔を浮かべるだけで何を考えているのかよくわからない。
「変えたい過去が、ありますよね」
目を細め、うっそりと夏油を見上げる片桐は、本当に片桐だろうか。
そもそも、こんな所に片桐が1人でいるはずがない。いつも護衛を必ず連れている彼女が、単独で動いていることがおかしいのだ。
『変えたい過去』、奇しくも、夏油が見る夢と同じ内容だ。毎回同じような夢をみるというのもおかしな話だが、現実のでも夢の中と同じ話題が出るなんて。
必死に頭の中を整理する夏油に、片桐は時間が惜しいと詰め寄る。
「手始めに盤星教の奴らを殺しましょう。あいつら、天内さんの暗殺を依頼したんだから、死んで当然ですよね。そうしたら、天内さんの命を狙う者は居なくなって、彼女は救われます。夏油さんの心も、きっと救われますよ」
パチパチパチ、乾いた音が夏油の耳を打つ。静かで何も聞こえなかった森の中で、あの嫌な音が響いている。
はぁ、はぁ、気がつけば夏油の呼吸は浅くなり、耳鳴りまでしてくる。一種のフラッシュバックだった。
何も答えることのできない夏油に、片桐は尚も語りかける。
「過去の己を救うんです。そうすれば、自ずと幸せな日々を過ごせるようになります。天内さんの願い、今度こそ叶えましょうよ。盤星教の奴らなんて、何の力も持たない猿なんですから」
夏油は崩れそうになる足をなんとか持ちこたえ、片桐を見下ろした。
この人の、言う通りだと思った。猿を殺して、天内を救えたならば。全ての歯車が狂ったあの日に戻れば、何か変わるかもしれない。
思考が鈍る夏油が、震える声で頷きそうになったとき、徐に片桐が空を見上げた。
「あ、まずい」
平坦な声で片桐が言葉をこぼす。何がまずいのか、夏油もまた、空を見上げた。
青い稲妻が空を走り、空間を裂くように亀裂が入る。禍々しい気が立ち込め、亀裂が広がり、何かが顔を出した。
何だ、と確認する前に、夏油の手を片桐が引いて走り出す。
「えっ!片桐さん!?」
どこにそんな力があったのだ、と目を見開く。痛いほど強い力で夏油の手を握り、着物の合わせ目が乱れることも気にせず走る。
空からだけでなく、背後からも何かの気配を感じた。
「宍倉ッ!!」
怒鳴るような声に、夏油は思わず振り返った。青い髪の少年が、鬼のような形相で此方を睨みつけている。小さな体から想像できないほど大きな怒気を感じた。
宍倉、とは誰のことだ。
此方へ駆け出そうとする少年の行く手を阻むように何か大きな生き物が視界を遮った。肩に見たことがないほど巨大な刃物を担いでいる。
まさか、あれで子供を殺すのか。
呪霊と似た嫌な気配を纏ったそれを祓わなければならない、夏油はなけなしの正義感でそう思った。しかし、片桐が掴む手を振りほどけない。
「片桐さんっ!」
「夏油さん」
片桐は背後の少年と刃物を持った呪霊が見えなくなった所で立ち止まり、息一つ見出すことなく夏油を見上げた。
笑顔はない、のっぺりとした能面のような表情だった。
「色好い返事をお待ちしております」
丁寧に頭を下げた片桐。夏油は状況が一切読めずに困惑するばかり。
片桐がゆっくりと頭をあげる。彼女の表情を、夏油が確認することはできなかった。
気がつけば、また1人で森の中に佇んでいたからだ。瞬き一つの間に、目の前から片桐の姿は消えていた。
空を見上げれば、禍々しい気配はない。亀裂も入っていない。
背後を振り返れば、呪霊らしき気配も無く、少し歩いて戻っても少年の姿は一つもない。
勿論、辺りを見渡しても片桐の姿など見えやしない。
何だかよくわからないが、取り敢えず戻ろうと空から民家の位置を探ろうとした。そこで、はた、と気がついた。
呪霊が出せないのだ。
得体が知れない不快感が自身を侵す。
狐につままれたような不可解な出来事に、術式が使えない事態。
こうなれば自力で来た道を戻るしかあるまい、と歩き出す。
道無き道を進み、推測で村を目指す。
「こんな祠、あったか…?」
苔が生い茂った石の祠に目を留める。背中に嫌な汗が伝った。
祠の後ろにも、また小さな祠があった。さらにその奥にも。似たような箱からが後ろへ連なっていた。
「なんなんだ…」
まるで神隠しにあっているような。
夏油は意を決して祠の先へと進むことにした。仮にもし神隠しであるなら、この先にいるであろう神とやらを祓ってしまえばいい。術式が使えなくとも、夏油は己の身一つでも十分戦えた。
2007年、9月。◼︎◼︎県◼︎◼︎市(旧◼︎◼︎村)にて、10時50分頃、特級呪術師夏油傑との連絡が途絶える。
尚、旧◼︎◼︎村の外れにて、夏油の残穢は途切れている模様。
*
五条は任務で全国を飛び回る中、高専に帰ってこれても寝に帰るだけ、という日々を過ごしていた。学生のうちからこれだけ多忙なんて、特級とかいう階級に何の意味があるのかと甚だ疑問に思えてくる。
久しぶりに昼間のうちから高専へ帰ってきた五条は、周りの騒がしさに首を傾げた。
高専関係者の姿をこの広大な敷地で目に留めることはそこまで多くないが、何やらパタパタと走り回っているのか事務方やら補助監督、高専教師が忙しなくしているのをよく見た。
時折「政府」、「監査」という言葉が聞こえるが国のお偉いさんでも来んのか、と己は寮へと向かう。が、途中で足を止めて大怪我を負った後輩の顔を見に行くことにした。
「悟」
「あ〜?」
厳しい声に呼ばれて振り返れば、一年時の担任に呼び止められた。
「何。今から医務室行くんだけど」
「医務室……そうか、なら硝子と共にいるな」
「は?灰原の顔見たら寮に戻るけど」
それを聞くと少し考えるように顎に手を当て、五条の顔を見て首を横に振った。
「いや、しばらく硝子と一緒にいろ。私が顔を出すまで寮にも戻るな」
「は?ンでだよ。あ、監査来てっから余計なもんは見せないようにってか?」
オエ、と顔を顰める五条。それに対し、知っていたのかと夜蛾は目を瞬いた。サングラスでよく見えないが。
「…知っていたのか」
「知らねーよ。昼間帰ってきたの久しぶりだし。周りの奴らがなんか走り回ってるからそう思っただけだよ」
「なるほどな」
五条と夜蛾で話していると、夜蛾の背後から事務員の大人が焦ったように駆け寄ってくる。五条が視線を向ければ、それに気がついた夜蛾も振り返る。
「どうした」
「すみません、お話中に。…お電話が」
「誰から」
「時の政府の柴田さんという方から……」
「すぐに行こう。悟、医務室から出るなよ」
大人2人が職員室へ向かう姿を五条は五歩後ろほどから追いかけた。全く夜蛾から言われた事を守るつもりがない。
流石に職員室内には入れなかったが、扉の前から中をじっと覗いていると電話を終えたらしい夜蛾が五条の元へ。
「悟………」
「大人しく待ってたんだからどういう事かくらい教えてくれても良くね?」
頭が痛い、と額を抑えた夜蛾は溜息をつくと、扉のレールを仕切りに今の状況を話した。
「時の政府が此方側の呪具を保管しているらしく、それに伴って今まで露見しなかった両者間の問題が発覚した」
「時の政府…?」
「我々同様、秘匿機関だ。で、時の政府所属で前衛で指揮をとっている審神者という役職の軍人が上層部にカチコミに来た、と」
「ハ?」
「それでこれからその審神者が高専に来て、天元の結界の視察や、呪具が仕舞ってある保管庫に高専内に時の政府管轄の呪具が紛れ込んでいないかやら見に来る。だからお前たち学生は医務室で大人しくしていろ」
時の政府とは。カチコミとは。審神者とは。五条が疑問を聞く前に早口で言うこと全て伝えるとピシャリと扉を閉めた。
職員室には電話が鳴り響いている。中では大人たちが忙しなく電話対応、書類整理、いつも以上に仕事に追われているようだった。
どうせ偉そうな人間が踏ん反り返ってイチャモン付けてくるだけだろ、そう思った五条は興味を失い、大人しく医務室へと向かった。
五条は親友の夏油が己の知らぬところで見合いなるものをしていた事を知らない。夏油がその見合い相手の事を好いており、婚約までは至らなかったが、何度も逢瀬を重ねていた事を知らない。
そして、その相手が上層部にカチコミに来たという審神者なる者だということも知らない。