夏油が何をしている人間なのか知らない審神者
御空を捨てた子ども【完結】
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庭を彩る金木犀を横目に、隣に座る男の子を見上げる。
上品な香りが鼻腔を擽り、彼の優しい声に耳を傾ける。
「珈琲の入ったマグカップの底に、溶けきらなかった砂糖が沈んでいるのをみたことがありますか」
「冷えた珈琲にシロップと間違えてシュガースティックを入れたことは流石に無いですよ」
「ふふ、そうですよね」
黒い制服には金木犀の橙色がとても良く映えていた。
彼が笑えば一房垂れた前髪も一緒に揺れ、目を細めれば黒い瞳は瞼に隠されてしまう。その表情と仕草が病みつきになって、もっと沢山笑顔を見せてくれないかしら、とぼんやり思った。
「でも、アイスじゃなくてホットなんです。珈琲の溶解度を超える程、角砂糖を入れるんですよ」
「えぇっ」
「重度の甘党で、終いには『珈琲の飲み方も知らないのか』って」
夏油の話を聞き、眉間に皺を寄せる片桐。そんな彼女の様子に夏油は吹き出したように笑う。
「その顔、私も同じ顔しました。正気の沙汰じゃないと思いましたよ」
「どうにも、……味覚が、奇天烈な方なんですね」
必死に言葉を選んだであろう片桐のフォローに夏油は今度こそ耐えきれず大口を開けて笑った。
「あっはっは!奇天烈…っ!」
あはあはと年相応に笑う夏油に釣られて、片桐も徐々に込み上げる笑いに肩を震わせた。
夏油の友人だという甘党の彼とは、相当仲が良い様子で、容姿からは大人っぽく見られがちなこの人も男子高校生なのだ実感した。
「仲が良いんですね」
「っふふ、はい。親友です」
からり、歯を見せて笑った夏油に片桐は胸が暖かくなった。彼が笑えば、彼女は嬉しくなり自然と笑顔が増える。
「片桐さんのご友人には、こう、……んんっ、奇天烈な方はいらっしゃらない?」
じわじわと込み上げてくる笑いを何とか耐えた夏油。そんなにツボにはまるとは思わず、フォローの為に言葉を選んで良かったと片桐は思った。
宗教系の高専に通うという夏油だが、対して片桐は通信制の高校に通っている為、友人という友人がいなかった。年の近い審神者は何人かいるが、毎日同じ時を過ごす学友に比べれば交流は微々たるものだった。
そこで考えるのは己の本丸にいる刀剣男士たち。
小さい子が好きだと豪語する短刀が頭に浮かび、消える。
物理的に縛られる事を好む打刀が頭に浮かび、消える。
なにかと脱ぎたがる、決して悪い子ではない打刀が頭に浮かび、消える。
片桐は何かを誤魔化すようににこり、と笑顔を貼り付け、本日の懐刀として連れてきた刀剣男士を思い浮かべた。
「そうですね、ひとづっ…」
「え?ひとづ…?」
「いえ、夏油さんのご親友に似ているのですが、お菓子が大好きな子がいます」
個性的な性癖を持つ刀が多過ぎて思考を放棄しようとした所、本日の懐刀である包丁藤四郎のヤバい方の一面を紹介しそうになり、済んでで持ち堪えた。
人妻が大好きな子がいます、と言ってみろ。今日まで築いてきた彼との友好関係がゼロどころかマイナスに振り切れてしまう。
「お菓子に対する情熱がすごい子で、新作の物が出ると必ず買いに行くんです」
「へぇ。しっかりリサーチしてるんですね」
「そうなんですよ。あと、ぼんやりでも『こういうお菓子無いかな』とか、『あの時食べたこんな味のするお菓子わかる?』って聞くとぴったりの物を用意してくれるんです」
「お菓子のスペシャリスト、みたいな」
「そうですそうです!本当にハズレがなくて。手土産を持参する時は必ずその子に相談するんです」
包丁は片桐本丸で茶菓子部の責任者をしている。茶菓子部の茶の部分を担っているのは鶯丸である。
各刀剣は何かしら役割が与えられており、包丁のそれも立派な仕事だった。経理部を担当している博多や長谷部と相談して来賓の為の茶菓子を用意したり、3時のおやつの厨番手製お菓子の材料費を交渉したりとしっかり務めを果たしている。
「流行にも敏感で、世間に疎い私よりも女子高生の間で流行っているものに詳しいんです」
片桐が本丸から出て、現世へと出かける機会は年に数えられる程しか無い。それも遊びに出かけているわけではなく、諸用や任務でしか外に出歩けないのだ。
今は夏油に会う為に現世に出ているが、これが終わればまた本丸へ寄り道する事なく戻らなければならない。
夏油と会うにも政府の息がかかった店しか許されておらず、今日のこの場所も敷地を覆う結界がしっかりと掛けられている。
片桐は、『世間知らずのお嬢さん』であり、『箱入り娘』であり、『籠の中の鳥』に違いなかった。
審神者一人を叩けば、何十振りと存在している刀剣男士を一息に消せる。本丸が一つ潰せれば、軍でいう所の小隊から中隊を一瞬で壊滅させることができるのだ。
よって、審神者は政府より厳密に秘匿され、守られる。
戦争において、決して此方側が不利にならないようにという対策であり、片桐もそれをよく理解していた。
しかし、どうしても自分の気持ちに嘘をつけないことはある。
私だって、竹下通りを歩いたり、表参道でショッピングを楽しんだりしたい、彼女もまた、東京の街に憧れる女子高校生なのだ。
普通に学校に通っている-と片桐は呪術師について何一つ知らない為そう思い込んでいる-夏油を少し羨ましく思い、視線を下に落としてしまう。
「…夏油さんは、ご友人とはよく遊びに行かれるんですか」
「あー、いえ。寮生活ですし、学校も東京郊外で交通の便が悪いんですよね。それに、課外活動が盛んで、外に遊びに行くことはあまり…」
「え……」
課外活動とは、呪術師の任務のことであり、既に等級が二級以上の夏油は日々忙しく過ごしている。
北は北海道、南は沖縄まであちこちを飛び回っている呪術師は審神者とは違った意味で自由がなかった。
片桐は事情も何も知らず、勝手に夏油を羨んだ己の浅慮さを恥じた。
片桐の心情など知らない筈の夏油が、彼女を慰めるかのように柔らかな声で耳を撫でる。
「いつか、」
金木犀が可愛らしく映えている庭園を眺めながら、縁側に腰掛け隣り合っていた2人。不自然にならない程度に人ひとり分以上を空けて座っていた隣の夏油が、庭から片桐へ視線を寄越す。
夏油の精悍な顔立ちを捉え、片桐は少し緊張した。
「私の知っている限り、にはなりますが、案内するので、行きませんか」
「えっと、」
「私も友人に女子高生の間で流行っているものを聞いておくので。デート、行きましょう」
「ぜっ…、是非」
デート。その単語を聞き、喉まで込み上げてきた何かを何とか飲み込み、片桐は言葉を絞り出した。
短い逢瀬の終わりは、片桐の迎えが来た事であっという間に訪れた。
見送ります、と夏油が声を上げた為、片桐と夏油が横に並び、斜め後ろに控えるのは護衛である堀川国広。
護衛がコロコロ変わると不審に思われる可能性がある、というので片桐は基本堀川固定の物吉貞宗、篭手切江の三振りでローテさせている。
夏油は明らかに同じ歳の頃、若しくは少し下程の少年を護衛にしている事について何とも言えない気持ちになっていたが、審神者についての秘匿規約に触れることかもしれない為聞けずにいた。しかし、片桐と護衛の少年達の間にそういう感情がない事に気づけばそれほど気にならなくなり、今に至っている。
料亭の玄関に向かえば、彼女の迎えらしいスーツを着た大人が待っていた。
片桐を見つけ、そして隣に立つ夏油に気がつくとギョッと目を見開いた。
夏油はその反応にえっ、と立ち止まり、片桐は怪訝な顔で担当役人である柴田を見つめた。
「柴田さん」
「ぁ、おっお疲れ様です。表に車を止めてありますので……」
柴田の心境を語るならば「これが片桐を射止めたクソ呪術界代表の学生呪術師夏油傑か…」である。片桐とそう歳が離れていない筈なのに、学生のクセに拭えない胡散臭さに眉を顰めそうになる。ぼんやりと妙な気配を纏わせているし、片桐様、騙されてないだろうかと疑ってしまう。
片桐は柴田の言葉に頷くと、夏油と向き合い、別れを告げる。
「また、ご連絡しますね」
「はい。待ってます」
爽やかでどこか照れ臭い2人の遣り取りに柴田は呆気にとられ、据わりが悪くなる。優しい眼差しで片桐を見つめる夏油と、付き合いの長い柴田が、見たことの無い表情を見せる片桐。
こんな純度の高い恋愛を目の前で見せつけられると、汚い大人は窒息して死ぬのだ、やめてくれと思い、先に外へと出る柴田。
柴田に続いて外へと向かう片桐に声をかけたのは堀川だった。
「主さん、忘れ物ありますよ」
「え?あっ、そうだ。夏油さん」
「どうしました?」
片桐は巾着から白い小袋を取りだし、それを夏油へと差し出した。
真っさらなその小袋を受け取ってほしい、と。
「ありがとうございます……、これは…?」
「御守りです」
「おまもり」
小袋の中を覗けば、青色の綺麗な生地に包まれたものが。取り出してみれば、『心身健康御守』と書かれている。
「季節の変わり目ですし、一応神職の端くれなので…」
小袋の中身は片桐の手作り御守り、ではなく万屋で購入可能な普通の御守りであった。『刀剣御守』ではなく、『心身健康御守』。主に刀剣男士が審神者へのお土産として、または政府役人がストレスマッハの際、買って有給をもぎ取る為に買う傾向がある。
因みに政府役人の間ではこの御守りがあればどんなに忙しくても必ず休みがもぎ取れると言われている。
「お身体にはお気をつけてください」
少し頬を染めて笑う片桐に夏油は胸が暖かくなり、これ程までに純粋な気持ちで人を気遣える人が居るのかと、驚いた。そして、この人の笑顔を守りたいと、強く思った。
片桐から与えられる柔らかい真っ直ぐな好意は酷く心地良い。
「……… 片桐さん」
「はい。どうされました…?」
「手を……」
「手、ですか?」
首を傾げながら身体の前で組んでいた手を持ち上げた片桐。その手を夏油が下から掬う様に触れる。
ぴく、と彼女の小さな肩が揺れた。
夏油はそんな反応も御構い無しに、傷一つない綺麗な手を極弱い力で握る。着物の色に合わせて塗られているマニキュアは年頃の娘らしく可愛らしい。
指先は少し冷えており、あまり寒い玄関に立たせたままは良くないよな、と頭の隅で思った。
「貴女も、身体は冷やさないよう、体調にはお気をつけて…」
「はっ、はい」
夏油はわかりやすく狼狽える片桐に目を細め、流れるように手を繋ぎ直し、外まで彼女を連れ出した。
外で待っていた柴田はまたしてもギョッと目を剥いたが、夏油は気にすることなく車まで片桐をエスコートする。
後ろを歩いていた堀川が二人を追い越し、料亭の入り口に停まっていた車の後部座席側の扉を開ける。
乗り込んでしまえば、もう夏油と片桐が手を繋いでいる意味は無い。名残惜しそうに、何方とも無く手が離れていく。
「では、また」
「はい。また」
堀川が扉を閉め、ぺこ、と会釈すると車道側から片桐の隣へと乗り込む。
遅れて柴田が助手席へ乗ると、車は夏油を置いて料亭の前から去って行った。
「びっっっっくりした…!」
「僕、思わず声出るところでしたよ…!」
片桐と堀川が高校生の様にはしゃいでいる声を背後で聴きながら「いやこっちは悲鳴あげそうになったわ」と柴田は心の内でボヤいた。
柴田は今日初めて噂の『夏油傑』を見たので未だに『片桐様誑かされている説』を推していた。
しかし、堀川の反応からしてその説も薄いのかもと、納得させられそうになっている。いやでも相手は呪術師だし、云々。
柴田が頭を悩ませている間、後部座席では片桐と堀川が恋話を繰り広げている。
「手が、大きくて…あったかくて…!」
「うんうん!」
「流れる様に手繋がれてほんとに、びっくりした!」
「僕も!」
きゃっきゃと年相応にはしゃいでいた片桐だったが、何かを思い出した様に堀川に詰め寄った。
「堀川、手貸して」
「えっ?」
はい、と差し出された堀川の手をまじまじと見つめた片桐は「失礼」と声を掛けてその手に触れた。ひんやりと少し冷たい堀川の手は、刀を握る武士の様に硬い。豆が何度も潰れ手の皮全体が硬く強靭になっている。
戦うものの手だった。
「夏油さんの手も、凄い硬かった」
片桐は初めて触れた彼の掌を思い出す。
刀剣男士は刀を持って戦う。その為、顕現する際"そういう"身体が出来上がった状態で人の身を得る。
指の付け根がボコボコと歪になり、剣を握ったことのない審神者とは比べ物にならない位皮が厚くなっている。
夏油もまた、似たような掌だった。
『課外活動』とやらは、一体どんな活動のことを指しているのか。
夏油は窓の外を流れていく景色を眺め、貰った御守りを掌で意味も無く遊ばせた。
先程料亭で握った掌は夏油より一回り以上も小さく、柔らかで、何もかも夏油と真反対だった。
「審神者って、今戦争中なんですよね」
「そうらしいな」
隣に座る引率の夜蛾は、上層部が持ち得る程の情報は持っておらず、曖昧に頷く。
審神者とは、神職であり、国民には伏せられているが戦争の真っ只中にいる現在、前線で指揮を執っている。
「何と戦っているんでしょうか」
「すまんが、其処までは…」
「ですよね」
夏油は苦く笑い、己の右手を見つめた。
呪術師の己と違い、荒事など知らない手。にも関わらず、戦争中だという。
夏油にとって、戦争と言われてもイマイチ想像がつかなかった。
第二次世界大戦は、夏油が生まれる随分前に終結しているし、祖父母から当時の話を聞いたことはあるが、彼等と同じような境遇にいるとは思えない。
上質な着物、健康的な顔色、整えられた綺麗な指先、夏油に見せる純真無垢な笑顔。
彼女が、何かを守る為に命を奪い、命を奪われている戦場に立っている想像など全くつかない。
「そういえば、」
名前も知らないな。
本名かどうかもわからない片桐という名。彼女の事を指す固有名詞を、夏油はそれしか知らない。
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもないです」
片桐のことを、素敵な女の子だと確かに思う。彼女といると気持ちが穏やかになり、胸が暖かくなる。
もっと話していたいと思うし、また会いたいという言葉に嘘はない。
ドラマや漫画で見るような劇的な気持ちとは言い難いが、夏油にとってそれは確かに恋だと断言できる。
片桐のことを、もっと知りたいのに、二人のことを阻むものは思ったよりも大きい存在だと、夏油はやっと気がついた。
君は一体、誰なんだ。
この心を蝕む苦しい気持ちも恋なのだと、夏油は身を以て知った。
2006年、10月。夏油は、忘れられない夏を越えた。
呪術界において、夏は自然と繁忙期になってしまい、夏油と片桐の穏やかな逢瀬は3ヶ月程期間が空いてしまっていた。
夏油は車に揺られながら、手元の御守りを見つめる。常に持ち歩いていたそれは、生地が解れることなく、しかし少し草臥れている。貰った時は、嬉しくて無意味に眺めたその御守りも、今は夏油の心をただ苦しめるだけだった。
何度か訪れた事のある、老舗の旅館の前で降ろしてもらい、立派な門を潜る。石畳を歩いて行けば、古風な日本家屋が見えてくる。
もう顔を覚えてしまった仲居の案内で、何度も彼女と会っていた部屋へ通される。
縁側に置かれた椅子に座り、計算づくされた庭園を眺める。
夏油と片桐が会う際、必ず夏油が先に会場に着いていた。そして、その1時間以内に彼女が姿を現わす。
指定される旅館や料亭には、必ず巧妙な結界が張られている。夏油がそれに気がついたのは高専1年生の終わりの頃だった。
片桐は守られている。時の政府によって、強固に。
ぼーっと庭を眺めていれば、30分程で外から声が掛かった。仲居が、片桐が来たと伝える。
夏油は椅子から立ち上がらず、椅子の背に持たれ、首を反って天井を見上げた。
「失礼します」
襖が開かれれば、いつも通り愛らしい彼女が立っている。
夏油は椅子に深く腰掛けたまま、顔だけで彼女に振り返った。
「お久しぶりです」
不遜な態度だったが、眉を顰めたのは彼女の護衛だけだった。
片桐は目の前に座る夏油を恐る恐る見上げ、眉を下げた。
何か、怒っていらっしゃるのかしら、と。
霊力の質により、『見える』タイプの片桐は彼の心を巣食う穢れの様な不浄の気を感知していた。しかし、それ程大きいものではなく、現代日本において社会人ならば皆抱えている様なストレスとそう変わらない為、禊ぎを行う程でもない。勿論落とせるものなら早急に落とした方がいいが。
「夏油さん」
「はい」
「何か、ありました?」
「……」
片桐の気遣わしげな眼差しに、箸を止め黙り込んでしまう夏油。
会えなかった3ヶ月の間で彼のストレスになる何かがあったのだと、片桐は当たりをつけた。
「前回お会いしてから、3ヶ月も空いてしまいましたし、貴方のお話をお聞きしたいです。話せる範囲で、構わないので…」
片桐は口にしてから、厚かましいかもしれないと声が小さくなっていく。
それでも、夏油の力になりたいと真摯に思っての言葉だった。片桐は俯かず、夏油をしっかりと見つめた。
彼の顔を見れば、3ヶ月前よりも痩せていることが伺えた。やはり、体調が芳しくないのかもしれない、御守りを折角渡したのに、と気分が沈んでしまう。
夏油は真っ直ぐ此方を見つめる片桐の視線を苦く思いながら、制服のポケットにしまってある御守りを握り込んだ。
「片桐さん」
「は、はい」
夏油の表情からは、何も読み取れない。が、何か良くないことが告げられるのでは無いか、片桐の勘が告げていた。
「もう、今日で終わりにしたい」
「は、」
夏油が発した言葉が、片桐の耳を通り抜けていく。
言われた言葉を、理解したくなかった。
「え、ぁ、どうして…」
「貴女と会うことが、苦しくなりました」
「そっ、れは、私のことが嫌いになったということですか」
片桐の縋る様な声に、夏油は息を吐き、以前貰った御守りを彼女に突き返すことで答える。
少し草臥れたそれを見て、片桐は言葉を無くした。
万屋で人気のその御守りが、効力を失っている。
『心身健康御守』は、すでに役目を果たし終えている。
「お返しします」
片桐は御守りを見つめ、夏油を見上げる。彼は、この御守りでは守りきれないほど、心身ともに苦痛を受けたのだと、片桐は理解した。
「私は、貴女のことを知りません。名前も、審神者とは一体何なのか、も」
「っ、」
緘口令が敷かれているその内容に、片桐は息が詰まったように声が出なくなる。
「最初はそれでもよかったんです。確かに苦しかったですが、貴女と会えるだけでも嬉しかったので」
一度目を伏せた夏油は、緩慢な動きで利き腕を持ち上げ、目元を覆う。肘は机に置かれ、頭は項垂れていて、表情は全く見えない。
「ですが、貴女を好きになればなるほどそれが苦しくて、辛かった」
「げ、とう、さん」
「片桐さんは、素敵な方です。優しくて、明るくて、心が綺麗だ。心底、そう思います」
今の状況で無ければ飛び跳ねて喜ぶ内容を聞きながら、指先から全身へ身体が冷えていく。
夏油の低い声が、殊更そうさせた。
「ですが、もう疲れてしまって」
効力の切れた御守りを見てしまえば、片桐はそれについて何も言えなくなる。心を病んだであろう夏油の心労に、これ以上なりたくなかった。
もう、彼の口から出る言葉で、柔い恋心を傷付けられたくなかった。
今日は、それを言うために来ました、夏油の絞り出す様な苦しげな声に、片桐は鼻の奥がツンと痛くなる。
だが、彼の前では決して泣きたくなかった。
夏油が優しいことを片桐は知っている。知っているからこそ、伝えられたこと全て、彼が胸を痛めながら言葉にしていると思った。そこで更に自分が泣いてしまえば、夏油が気に病んでしまうと思った。
数時間前まで、3ヶ月ぶりに会える事に浮き足立っていた己が酷く惨めに思えた。歌仙兼定、和泉守兼定と吟味した着物。次郎太刀に施された化粧。乱藤四郎に結い上げてもらった髪。それら全てが今の片桐を辱めた。
ピリリ、場違いな電子音が空気の重い室内に響く。
夏油の携帯の着信音だ。
「すみません、」
一言断りを入れ、縁側の方へと姿を消す夏油。
片桐は涙がこぼれてしまわぬように目元に力を入れ、深い呼吸を繰り返す。夏油が戻ってくる前に何とかせねば、と涙を堪える。
目の前の二人分の食事が、もう誰の喉を通ることはないだろうなと考えると虚しく思えた。
「片桐さん、急用が入ったので、もう失礼します」
「えっ、」
片桐は思わず立ち上がり、名残惜しそうに夏油を見つめた。
もう会えないんですか、どうしてもダメなんですか、みっともなく縋りそうになる言葉を飲み込み、唇ごと歯を噛み締める片桐。
夏油はそんな健気な片桐の姿を見て、腕を伸ばし抱きしめそうになる気持ちを抑え込む。
鼻が赤くなり、涙目になって泣くのを耐えている姿を、慰めることはできない。夏油には、その資格がない。つい先程、夏油はそれを自らの手で放棄した。
「てっ、手を、貸してください」
「手、ですか。……はい」
震える彼女の声を聞き、罪悪感に苛まれた夏油は言う通り手を差し出した。
彼女と出会って約一年。随分身長が伸びた夏油は、30㎝程下にあるつむじを見下ろす。
片桐は差し出された手を取り、己より大きなそれを包み込むように触れ、己の額に祈るように当てる。
夏油の指が、艶やかな片桐の髪に触れる。彼はそれに反射で体を硬くし、しかしされるがまま受け入れた。
「貴方が、好きでした」
「…っ!」
「だから、もう夏油さんには、会いません」
震える唇が紡いだ言葉は、泣いていた。
耐え切れず、夏油の手が、片桐の手を握り返す。力任せに、痛いほどぎゅう、と握る。
それに応えるように、片桐もまた強く握り返した。
「貴女が、呪術師なら良かったのに…」
独り室内に残された片桐は、力無く座り込み畳を濡らす。外で待っていた護衛の篭手切江が、驚いたように審神者の元へ駆けてくる。
「主…!?如何されましたっ!」
「うっ、うぅ〜〜〜っ!!」
子供のようにぼたぼたと涙を流す片桐は、膝をついて視線を合わせる篭手切へ腕を伸ばす。それを抱きとめた篭手切江は、我が子をあやすように、頭を撫で、背中をトントンと叩いてやる。
表情を苦しそうに歪めた夏油が、此方へ頭を下げて部屋から出て行ったのを見送った篭手切は、何かあったのかもしれないと、襖を開いた。
そこには、泣き崩れる片桐がおり、篭手切は二人の間で起こったであろう悲劇を想像した。
今日の為に、選んだ着物も、髪型も、化粧も、片桐自ら崩すように泣き喚く。
篭手切は痛ましそうに己の主を抱き締め、すれ違った若人の苦しげな表情を思い出し、胸を痛めた。