最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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どこかぎこちない杏寿郎の姿に、黎伊那はあえて何も指摘しなかった。
原因はおそらく、先日行われた柱合会議。鬼を連れた隊士を容認し、またその鬼が人を襲わぬ事に命を賭けた黎伊那。
二人はあの殺伐とした会議以来、今日初めて顔を合わせたのだった。
黎伊那と杏寿郎は、定期的に食事を共にする仲であった。決して二人の間に邪な雰囲気は無かったが、穏やかに会話と食事を楽しむ二人の姿を知る者は、少なからずいる。
だが、今日に限っては穏やかとは言い難かった。若干空気がひりつくのをお互いがお互いに感じていた。
黎伊那は意外に思った。杏寿郎は明朗快活な男故に、負の感情を表に出すことは少ない。幼い頃こそ喜怒哀楽がわかりやすい少年だったが、それも成長するにつれ感情が読みにくくなっていた。そんな杏寿郎がこれほどわかりやすく気まずいです、と顔に書いて現れると流石の黎伊那も笑いがこみ上げてくる。
「ふふ、」
「っ、どうされました」
突然笑い出した黎伊那に杏寿郎は驚き、怪訝な様子で問いかける。黒い瞳と、眩い瞳がかち合った。杏寿郎はもう黎伊那の瞳に怯えることはなかった。
「だって、杏寿郎くん、わかりやすいもの」
「わかりやす…」
「そんな気まずそうな顔しないで」
「うっ、………すみません!」
溌剌と謝罪を述べながら、決まりが悪そうに視線を泳がす杏寿郎。
黎伊那はその様子にまた笑い、一呼吸置いて少し遠くを見ながら話し始める。
「私はね、未来に賭けたの」
黎伊那の言葉に杏寿郎は目を瞬かせる。大きな瞳をパチパチと丸くさせる様は彼を幼く見せた。
歌うように黎伊那は語る。
「君や、義勇たちのような若い柱。もっと若い炭治郎たちに、この先の未来を託す。私はその道を開きたい」
暗い瞳を伏せて、色素の薄い金の睫毛に透けている。杏寿郎はあの日のように真摯に黎伊那を見つめた。
「炭治郎と禰豆子の事は、君たちの判断に任せるよ。君の目で見て、しっかり見極めて欲しい」
杏寿郎は言い様のない違和感に顔を顰めるも、黎伊那の言葉に素直に頷いた。
あの柱合会議で、杏寿郎は竈門兄妹を一旦受け入れることにした。だが、認めたわけではない。炭治郎においては、鬼舞辻を倒すという力強い言葉に感銘を受けたが、認めるには足らない。妹の禰豆子も然り、ただ人を食わない証明をしたに過ぎなかった。
その後は少しぎこちなさを残しながらも二人は穏やかな時間を過ごした。
食事後、担当地区の見廻りの為陽が暮れる前に解散することとなった。伸びる2人の影に、黎伊那は感慨深いものを感じる。出会った頃は、声変わりもしていない少年だったのに、そう思いながら右隣を歩く青年を見上げた。
杏寿郎は今年二十歳になった。黎伊那の実弟が死んだのも、二十歳の年だった。黎伊那は目を細めて、随分見慣れた派手な髪色をみる。実弟の黒とは程遠い鮮やかな色。
視線に気がついた杏寿郎は己より数センチ下にある黎伊那の顔を見下ろした。
「黎伊那さん?」
ほんの少し幼い彼の表情に、黎伊那は僅かに笑みを浮かべる。
黎伊那の身体は、とっくのとうにボロボロだった。いつまで持つだろうか、明日の朝日は拝めるのだろうか。布団に入る度、死を意識した。どうせ朽ち果てるのなら、この青年の為に命を投じたいと思った。それを自分の生まれてきた理由にしたいと、醜いながら願ってしまう。
黎伊那は杏寿郎の呼び掛けに答えず、自然に手を持ち上げると、柔らかく杏寿郎の首筋に触れる。ぴく、と杏寿郎の目尻が小さく動く。
「………生きてる」
「……生きていますが」
杏寿郎は喉元がカッと熱くなり、速くなる心臓を誤魔化すように呼吸を深めた。黎伊那が己の脈を確認していることが分かると尚更呼吸に集中した。
杏寿郎は平静を装いながら非難めいた目で黎伊那を見る。黎伊那はそんな視線を意にも返さない。
首筋に触れていた手はする、と滑り杏寿郎の肩へと置かれた。ぽんぽん、と2度掌を弾ませると、黎伊那はいつものように別れを切り出す。
「では、また生きて会いましょう」
「はい!また文を出します!」
「うん、待ってる」
「では、お気をつけて!」
「杏寿郎くんも」
お互いが背を向けた時、杏寿郎は拭えない違和感によりその場に踏み留まり、黎伊那へと振り返る。
「黎伊那さん!」
「っ、?どうしたの」
いつも通り、何も変わらない暗い瞳。杏寿郎が嘗て切ってしまい、それ以降短く切り揃えられた美しい髪。外見だけではなく、内面さえも美しいその女性は、杏寿郎が出会ってから変わらず眩ゆい。杏寿郎は何かに追い立てられるように焦燥を感じた。
そこまで離れていない距離を詰めると、黎伊那へ断りを入れて、手を掬うように握った。
「触れても?」
「え?あ、えぇ、」
戸惑っている黎伊那の様子を感じながらも、己よりも一回りは小さい手をじっと見つめた。遠かった黎伊那の背中を、杏寿郎はまだ掴めたとは思っていない。まだ遠い、それが、掴めぬまま消えてしまうのではないかと思った。
柔らかさの少ない掌は固く、指や甲は殆ど骨と皮のようだった。冷たい指先に、杏寿郎は祈りたくなった。死なないで欲しい。居なくならないで欲しい。
『私はもう長く生きられません』母の声が杏寿郎の記憶の中で波紋を広げる。
バッと顔を上げて黎伊那を見た。彼女は困ったように杏寿郎の様子を見守っていた。記憶の中の厳しい母の目つきとは似ても似つかない。
「………っ、…」
「もう行かなくちゃ」
何も言えない杏寿郎。黎伊那は目尻を下げて杏寿郎を諭すように語りかける。
杏寿郎は黎伊那の優しい笑顔が好きだった。鬼殺隊・船木黎伊那と懸け離れた、本来の穏やかな気性が表れた黎伊那の優しい笑顔が好きだったのだ。それを今、杏寿郎は初めて見たくないと思った。
「………はい、……」
「…またね」
小さな杏寿郎の声を聞くと、するりと手を抜き、黎伊那は呼吸を駆使して一瞬で姿を消した。
*
猗窩座は高揚した。闘気を至高の領域に近いところに練り上げられている杏寿郎との戦闘は、心躍るものだった。楽しいこの瞬間を、誰にも邪魔されたくないと心底思った。
「弱者に構うな杏寿郎!!全力を出せ!俺に集中しろ!!」
背後に横たわるしかない弱者が目障りだった。もっと楽しみたい、この男と楽しい時を過ごさせてくれ、そう思うのに。猗窩座は背後から物凄い速さで何者かが迫っているの感じた。
気配を感じ、杏寿郎からの斬撃を躱し、背後を振り返った瞬間、刃は既に振るわれていた。
「!?」
「なっ…!」
猗窩座が金色を捉えた瞬間、頸から噴き出る血飛沫。黎伊那の振るった刃は文字通り、猗窩座の首の皮一枚を残して血を浴びた。
猗窩座を仕留め損ねたことに黎伊那は表情を崩して凶悪な舌打ちをこぼす。
猗窩座は頭を押さえながら距離を取るように後退した。
「黎伊那さん!?何故ここに!」
「烏から伝達が来た。飛んできたけど、君は怪我が無さそうね。炭治郎たちは、」
「船木、さん、」
「止血はできてるな。そのまま回復に専念しなさい」
「は、はい!」
猗窩座は顔を嫌そうに顰めて黎伊那を見ていた。何故女が、然も頸を斬られかけた。
猗窩座が見る限り、黎伊那の闘気も恐ろしいまでに練り上げられていた。女である事が惜しいと思う程に。
「あれが上弦……。数字は」
「参です。気をつけてください、奴の拳は宙を撃つだけで凄まじい攻撃を生みます」
「了解。君は好きに攻撃して。合わせる」
「御意!」
杏寿郎と黎伊那は短い会話を終わらせるとほぼ同時に地を蹴った。
猗窩座は女の相手など忌々しい、と思いながらも杏寿郎へだけ拳を振るう。
実を言うと炎の呼吸と海の呼吸は連携においては非常に相性の悪い呼吸だった。どちらも強い踏み込みを必要とする力強い技ばかりだからだった。だが、杏寿郎と黎伊那は共に任務に就き、共に稽古する時間が他の隊士より多くあった。2人はお互いの癖をよく理解していた。
炎の呼吸 伍ノ型 炎虎
海の呼吸 壱ノ型 高潮
2人は二段構えで攻撃に入った。杏寿郎の背後から黎伊那が飛び出してきての斬撃。
海の呼吸において、壱ノ型である高潮は横一線に繰り出す広範囲的な攻撃である。海の呼吸は黎伊那にしか使えない呼吸だった。水の呼吸の柔、炎や岩の呼吸のような剛を兼ね備えた呼吸は、常人より大分丈夫で規格外の身体でなければ使うことはできなかった。そしてそれはこの壱ノ型にも起因する。高潮は只の斬撃ではない。より深く、長く、そして早く呼吸することによって脳に酸素を回し、血液を巡らせ、一気に黎伊那を極限の集中状態にまで高めるのだ。つまり、無理やりドーパミンを分泌させ、ランナーズ・ハイに似た興奮状態にする。これにより黎伊那は脳内で常にアドレナリンを分泌し、普段以上のパフォーマンスを行う事ができるのである。
炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり
海の呼吸 陸ノ型 灘
広範囲を薙ぎ払う斬撃により猗窩座の視界は一瞬塞がれる。その隙を見ての黎伊那による素早い連撃。荒々しいその連撃は猗窩座の身体に抉った様な傷をつける。
そうして三人は一進一退の攻防戦を繰り広げるが、杏寿郎と黎伊那がいくら猗窩座に傷をつけようと、それは瞬きの間に塞がる。逆に杏寿郎と黎伊那は塞ぎきれなかった攻撃を何度も受け続け傷は増えるばかり。だが2人は一呼吸も置かずに技を出し続ける。一瞬たりとも隙を見せず、刀を振り続ける。背後には怪我をした後輩がいた。さらにその背後には偶然列車に乗り合わせた一般人がいた。猗窩座という脅威を、背後へやってはいけない、それだけに力を注いだ。守りながら戦うことは難しい。現柱と元柱の二人はよく知っていた。
「邪魔だ女ァ!!」
「!!」
杏寿郎との戦闘を楽しみたかった猗窩座はフラストレーションを溜め込み、そして爆発した。猗窩座にとって黎伊那は女というだけで邪魔で邪魔で仕方がなかった。だが、猗窩座は女は絶対に殺さない、喰わない。故に、黎伊那を戦闘不能へと持ち込むため手始めに刀を折ろうと、振り下ろされている刃を横から叩き割ろうとした。
黎伊那は何故か己を殺そうとしない猗窩座に困惑しながらその意図を読み取ると、叩き割られる瞬間、刀を握る手の力を抜いた。下手をすれば刀は黎伊那の手から離れ、遠くへ飛ばされてしまう。が、黎伊那は上手く猗窩座が横から与えた力を往なし、ふた振りの刀を左手に持ち、右手を空け、間髪入れずにその右手で猗窩座の顔面を殴った。猗窩座の脳を揺らすほどのその衝撃は隙を生み、杏寿郎の刃が猗窩座の頸を半分斬り裂いた。
「クソッ!」
「何度でも行くぞ!」
悔しげに悪態をついた杏寿郎に黎伊那が声を上げる。
炭治郎と伊之助はそんな三人の戦闘を見ているしかできなかった。目で追うのがやっと、いや、追えている自信はなかった。気がつけば杏寿郎と黎伊那は傷を作り、気がつけば猗窩座の傷は治っている。
ビリビリと肌を刺すような異次元な戦闘に見ている他なかった。
「ハハハ!」
「………、」
「気味の悪い、」
攻防の最中、突然笑い出した猗窩座に対して、杏寿郎と黎伊那は訝しげに視線を向ける。片手で首元を押さえ、もう片方の手で顔を押さえている猗窩座。
「ハハ!そういえば女、お前は出会い頭に俺の頸を皮一枚残して斬ったな!そうだったな!」
高笑いしたかと思えば黎伊那へと意識を向けてきた猗窩座に杏寿郎は一歩前へ出る。当の黎伊那は目を細めて猗窩座を見据えていた。
「女だてらにその素晴らしい闘気!剣技!女であるということだけが悔やまれる!お前は柱だな!?そうだろう!?一応聞いておこう、名は何という!」
「貴様に教える名など無い」
「そうか!先程黎伊那と呼ばれていたな!お前が女であることが残念でたまらない!」
「私の名を口にするな。殺す」
ビキビキ、黎伊那の怒りと呼応し、額には青筋がいくつも浮かんだ。猗窩座は黎伊那の声が聞こえていないのか、次いで杏寿郎へ話しかける。
「どうだ杏寿郎、鬼になる気はなったか?更なる強さを、高みを目指す気にはなったか?」
「ならない。何度も言わせるな」
「そうか、残念だ。先程からお前達は弱者に構い過ぎだ。俺との死合いを楽しまず、すぐに背後へと意識をやって。弱い人間は、やはり邪魔だな」
破壊殺・空式
猗窩座はドンと地鳴りが響くほど強い力で地面を蹴り上げ、空中からいくつもの空撃を繰り出した。そのどれもが背後にいる闘えない者を狙っている。杏寿郎が防ぐも、捉えられなかった衝撃波は背後へ逸れていく。炭治郎と伊之助目掛けて飛んできたそれを、二人は目を見開いてみていることしかできなかった。
死、二人の脳裏にその一文字が浮かんだ。
海の呼吸 伍ノ型 溟渤沈下
褐色がふわりと揺れたと思えば、黎伊那により猗窩座の攻撃は相殺された。黎伊那は怒りに震え、猗窩座を射殺さんとばかりに睨み付けた。
炭治郎の鼻は捉えた。滲み出て、隠す事なく溢れ出る怒りを。あれ程匂いが薄い黎伊那がこれ程までに怒りを露わにしている。
伊之助もまた、黎伊那の怒りをビリビリと肌で直接感じた。圧倒的強者の、逆鱗に触れたが如くの怒り。背中が寒くて仕方がなかった。
「嗚呼!黎伊那!やはりお前が女なのが残念でたまらない!お前が男ならば鬼にしてやれたのに!その才能が鬼にならずに残り続けないのが残念でたまらないぞ俺は!」
「さっきからごちゃごちゃと、何を訳の分からないことを」
狭霧山で出会ったあの日よりも、黎伊那の声は恐ろしく煮立っているのを炭治郎は感じた。
「お前みたいな鬼は生かしておけない。弱者だ強者だ心底しょうもない。お前のような鬼がいるから、罪無き一般市民は鬼への恐怖で夜も眠れない」
猗窩座の言動は、黎伊那の高尚な正義感に火を付けた。黎伊那は誰かの平和を愛している。誰かの幸福を願っている。だからこそ、それを脅かす鬼が許せない。更には弱者だなんだと言って、黎伊那が未来を託したいと思える若者殺そうとしたのだ。死ぬべきなのは、この子達ではない、黎伊那は歯を食いしばり怒りに耐える。
「そもそも、お前の言う強さとはなんだ?闘気どうの、剣技が、才能が、だの。そんなもの鬼になってまで得てどうする。何に使う。何の意味がある」
「……なに」
「惨めったらしく鬼になってまで強さに拘る意味を聞いている。嗚呼、別に答えなくていい、興味が無いから」
ピキ、猗窩座にとって何かが地雷だったらしい。黎伊那は嫌味ったらしくニヤリと笑う。見下すように、蔑むように。心の底から猗窩座を嘲笑った。
猗窩座の殺気は膨れ上がり、肌をチリチリと焦がした。杏寿郎と黎伊那は再び刀を構える。
黎伊那は確信した。殺気はビシビシと黎伊那の肌を刺しているが、矢張り猗窩座から黎伊那を殺す気は感じられない。猗窩座の拳は杏寿郎ばかり狙い、黎伊那へは厄介な牽制程度。だが当たれば勿論重傷どころでは済まない威力。
杏寿郎の腕が、足が、体が傷つくたびに黎伊那は焦った。怒らせたのは己なのに、何故一切狙わないのか、と。傲慢に嫌味を吐き出したのは態とだった。怒りの矛先をこちらに向け、杏寿郎に猗窩座の頸を確実に斬ってもらおうと図っていたのに。
黎伊那は身体が徐々に言う事を訊かなくなっていることに気がついた。高潮により、確かにアドレナリンは分泌し続けている。だが、心臓を無理に動かし、血液を循環させ続ける事で体が軋み始めていた。鼻血が止まらないことに、気がつきたく無かった。信じたく無いことに、黎伊那の身体は、短時間の戦闘すらできなくなっていた。
そして、猗窩座もまた、苛ついていた。黎伊那からの罵倒は殺してやりたい程腹が立つものだった。それ程怒りを感じた。だが、黎伊那が女である為殺せない。そして、黎伊那を殺せない為、杏寿郎へ致命傷という致命傷も与えられない。
鬱陶しい、当たれば確実に戦線離脱まで追い込める攻撃を、黎伊那は往なし、防ぎ続ける。
「……嗚呼、そうか」
邪魔な女は、殺さなければいいのか。
破壊殺・乱式
猗窩座は黎伊那に牽制する事をやめ、杏寿郎へ技を展開した。それに二人は驚き、黎伊那は距離を取ろうと、杏寿郎は技を受け止めようと伍ノ型を繰り出す。猗窩座は杏寿郎へ目もくれず、後退した黎伊那との距離を縮める。
「!?」
「黎伊那さ、!?」
黎伊那は猗窩座が何をしようとしているのか目で追うことができた。再び刀を折ろうと迫ってきたのかと思ったが、違う。猗窩座は黎伊那を再起不能にしようとしていた。両腕を切り落としてしまえば、杏寿郎へ余計な援護を入れないと考えたのだ。鬼でなければできない捨て身の策だった。黎伊那の間合いに臆することなく飛び込み、己の腕が切り落とされることなど厭わない猗窩座。
黎伊那は目で追うことはできたが、あちこちガタが来ている身体では片腕を死守することで精一杯だった。
猗窩座は黎伊那に腕を斬り落とされながら、黎伊那の右手を千切り飛ばし、左に持つ刀を叩き折った。
黎伊那には全て見えていた。ゆっくりと、コマ送りのように。そして次に己がしなければならないことが瞬時にわかった。
黎伊那は痛みに呻く間も無く、使えなくなった左の刀を棄て千切れた右手が握っていた刀へ持ち換えると、素早く猗窩座の頸へ斬り込んだ。刃は頸半ばで止まった。刀の持ち主は、柄を握っていなかった。
足が自由だった猗窩座に黎伊那は蹴り飛ばされ、雑木林の中へ為すすべなく転がされていた。
「船木さんッッ!!!」
炭治郎の絶叫が響いた。
*
『無様だね』
私はその声で、自分がいつのまにか寝ていたことに気がついた。
あれ、私何してたんだっけ。
ヒュー、ヒューと、喉からおかしな呼吸音が聞こえた。瞼を持ち上げると、光沢が映えている懐かしい革靴が目に入った。今私が履いているものより、もっと女性的なデザインのそれ。ゆっくりと革靴の持ち主を辿っていくと、藍色のスラックスに、セットアップのスーツが確認できた。何やら懐かしい白いコートを肩から掛けている。私とは違う、長い金色は一つに括られていた。
嗚呼、私はコイツを知っている。
目線を精一杯上へ向けようと粘っていると、目の前の人物は私の前に膝を折ってしゃがみ込んだ。四肢を投げ出し、俯せになって倒れている私は必死にソイツの顔を見ようと重い瞼を何度もこじ開ける。
ソイツは頬杖をついて私を見下ろしていた。
『ボロ雑巾みたいで、酷く無様ね』
煩い。
私の言葉は声にならなかった。
ソイツの事はよく知っていた。嫌味で高飛車で、傲慢な女。それでいて正義感が強くて、誰かの幸せが壊される理不尽を酷く恨んでいた。
六つ下の弟がいて、その弟の為ならなんだってできたシスコンクソ女。ただ弟に生きていてほしいだけだったのに、それがうまく伝えられなかった不器用な女。
それでいて、弟を目の前で殺された哀れな女。
『お身体大丈夫かしら?流石、血は争えないわね。同じ病気とは恐れ入ったわ』
黙れ。
ヒュー、とやっぱり少しおかしい呼吸音しか聞こえない。
身体が熱を持っているのがわかる。全身が火照って仕方がない。熱くて熱くて、堪らなく苦しい。鈍器で殴られているような頭痛が止まらない。鼻血は際限無く流れ続け、止まる様子な全く無い。全身の節々が痛み、関節が思うように動かない。
『刀を手放しちゃうなんて、剣士の恥ね』
殺す。
言葉は出てこず、ゴホと血だけを吐いた。
ドクドクと右手の途中から血が流れ出ていて、その場で血だまりを作っている。身体中に小さな傷が付いていて、羽織も隊服もボロボロだった。血が滲む褐色に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
『そんなんじゃ、失血死しちゃうわよ。あの呼吸とやらで止めなくていいの』
煩い殺す。
呼吸をしようと深く息を吸うと、胸が酷く痛み、次いで脂汗が止まらなくなるくらい腹が痛んだ。それでも私は呼吸を止めず、何度も深い呼吸を繰り返す。その都度気を失うほどの痛みが私を苦しめる。
呼吸をしながら、私は隊服のポケットへしまっていた手ぬぐいを取り出し、酷く醜い格好のまま、左手と口を駆使して右手の止血を行う。ドクドク、流れ出る血液は徐々にゆっくりになる。呼吸での止血は成功しているらしい。
あちこちの骨が折れて、それが内臓に刺さって、それでいて失血が多すぎる。私の命、あと数分も持たないな。
『あら、死んじゃうの?何も為さず、何も為せず?』
いいから黙れよ、本当に殺すわよ。
身体中が痛いが、呼吸を繰り返したらずっとましになった。ぼんやりする頭と視界だけど、こればっかりは呼吸でどうすることもできない。軋む身体は、私のものじゃ無いみたいに言う事を訊かない。身体の熱で、内側から焼き殺されそうだ。
ポタポタ、鼻血だけはどうしても止められないみたい。
遠くの喧騒に、目を向ける。あの子が、一人で戦っている。
『結局、守りたいもの何一つ守れないのね』
わかった、もう殺す。お前は殺す。
声が聞こえる。残念ながら彼等の話している内容まで理解はできないけれど。ハァハァと、あんなに荒い息遣いはあの子から聞いたのは久しぶりだった。
あの子が、最後の力を振り絞って技を繰り出すのが見える。相手もまた、忌々しい事に楽しそうに笑って、あの子に拳を、こぶ、し、を…。
『お前、何の為に生まれてきたの』
その言葉、そっくりそのまま返してやる。
海に沈み込むように息を深く吸い、そして長くゆっくりと吐き出す。
痛む身体に鞭打って、私は立ち上がる。私はもう間違えない。死にたくなるほどの後悔なんてしない。
私は、生まれてきても良かったんだろうか。
それがずっとわからない。生まれてきた理由が見つからない。
だから、もう、浅ましい理由を勝手につけることにしたんだ。
*
杏寿郎は己の最期を悟った。片目は潰れ、肋骨は砕け、内臓は傷ついた。
黎伊那さんが離脱しただけでこのザマだ。
杏寿郎は黎伊那の身に何が起こったのかよく見えた。彼女の右手が千切れ、それでも残った左手で刀を持ち換え、猗窩座の頸を斬ろうと刃を振るった姿。
届かない、まだ届かない。高潔な貴女にはまだ俺は遠く及ばない。
杏寿郎が背後を振り返った一瞬の出来事だった。
「生身を削る思いで戦ったとしても全て無駄なんだよ杏寿郎」
「お前たちが俺に喰らわせた素晴らしい斬撃もすでに完治してしまった」
「だがお前たちはどうだ。お前の潰れた左目、砕けた肋骨、傷ついた内臓。黎伊那の千切れた右腕。もう取り返しがつかない」
本当に、一瞬の出来事だった。何度も優しく俺に触れてくれたあの右手が、宙に舞う様を、俺の目には焼き付いてしまった。
「鬼であれば瞬きする間に治る。そんなもの鬼ならばかすり傷だ」
「どうあがいても人間では鬼に勝てない」
黎伊那さんが猗窩座の腕を切り落としたのを先に確認した。それでも常軌を逸した回復速度により、あの人の手は千切られた。
杏寿郎は、雑木林の方へ吹き飛ばされてしまった黎伊那の安否を祈る。
「俺は俺の責務を全うする!!ここにいるものは誰も死なせない!!」
貴女は俺たちに未来を託したいと言ったけれど、俺もまた貴女のように道を開きたい。
背後にいる炭治郎たちを、そして二百人の乗客を守る為に、杏寿郎は刀を構えた。
炎の呼吸 奥義 玖ノ型 煉獄
術式展開 破壊殺・滅式
海の呼吸 玖ノ型 海風
杏寿郎は技を放つ瞬間、美しい金色を見た。
杏寿郎、猗窩座が放った技により舞った土煙。それが徐々に晴れ、冷や汗の止まらない炭治郎達の目に全貌が映る。
技を放った猗窩座の腕は、蹴り飛ばされたはずの黎伊那の身体を貫いていた。
「なっ、…黎伊那!?」
「ッグ……ゥ、!」
猗窩座は殺さないよう邪魔だった黎伊那を戦場から離脱させたはずだった。だのに、その黎伊那は目の前で己が右手で貫いているでは無いか。猗窩座は黎伊那の身体を貫いてしまったことに動揺し、隙を作ってしまった。
「…………ッ頸!!」
「ッ!」
杏寿郎は目の前の光景が信じられず、己の目を疑った。金のつむじが見えて、苦しそうに呻いたかと思えば、嗄れていながらも力強い声で発せられた短い単語。
杏寿郎は殆ど条件反射で刀を振るった。憧れた高潔な人と同じように、素早く猗窩座の頸を斬らんと気力だけで動いた。
「オオオオオオオ!!!」
ハッと我に返った猗窩座は頸に力を入れ、決して刃を通さぬよう杏寿郎を睨みつける。ズ、と頸に刃が食い込んだ。猗窩座は焦り、空いている左手を杏寿郎へ放つ。しかし、それも杏寿郎が反射で掴む。そこで漸く、猗窩座は夜明けが近いことに気がついた。杏寿郎の背後から空が白んで来ていた。忌々しい日輪が、猗窩座の身を焼き切らんと近づいてきている。
「!」
残った左手で、猗窩座の腕を爪を立て握りしめる黎伊那は、逃がさないとばかりに猗窩座を睨みつけた。
猗窩座は焦り、動揺し、恐怖し、低い唸り声を上げながら黎伊那の身体から腕を引き抜こうと藻搔く。
杏寿郎は気力を振り絞り猗窩座の頸に刃を推し進める。
絶対に離さない。お前の頸を斬り落とすまでは。
黎伊那と杏寿郎の執念が重なった。
黎伊那の顔は蒼白で、どこにそんな力があるのかと思う程だった。必ずお前を地獄に落とす、黎伊那の目は雄弁だった。暗い瞳は死の淵に立っても尚、奥底に消えない火を宿している。
炭治郎の叫び声に、伊之助もまた動き出した。頸を斬らんとする杏寿郎に助太刀するために。伊之助の刃が迫る。その時、地を踏みしめた猗窩座が飛び上がった。猗窩座は己の両手を引きちぎり、黎伊那と杏寿郎の執念から脱した。猗窩座は、地獄に落ちることなく、日輪から逃げ出したのだった。
猗窩座に刀を投げつけ、杏寿郎と黎伊那の勝ちだと、お前の敗北だと泣き叫ぶ炭治郎を尻目に、黎伊那はついに膝から崩れ落ちた。
「っ!黎伊那さんっ!!」
杏寿郎は黎伊那を支え、己の腕の中で抱えた。黎伊那の身体はゾッとするほど冷たく冷え切っていた。
体温を確かめるように杏寿郎はすっかり血色悪くなった頰に触れる。黎伊那はそれに弱々しく擦り寄った。
「暖かい…生きてる。君の炎は、消えてないのね」
酷く安心しきった顔で小さく笑う黎伊那に、杏寿郎は声が震えた。
「すぐ、治療を…!」
「いい…助からない事ぐらい、私にもわかる」
黎伊那の声は弱々しくて、否が応でも現実を突きつけられた。
強くて美しい女性、憧れた背中、守りたいと思った心。杏寿郎は喉が詰まって、胸から込み上げてくる何かを吐き出すことさえできない。
黎伊那の腹を貫いた猗窩座の腕は、日光に当てられてボロボロと崩れ始めている。
炭治郎が涙を零しながら、よたよたと黎伊那の元へ膝をつく。伊之助もまた、呆然と立ったまま黎伊那を見下ろしていた。
「船木、さん、黎伊那さん、!」
「炭治郎、お前なら大丈夫…私は、お前を信じてるわ」
「はい、…っはい!」
「私が死ぬことは、気にしなくていい。先の世を担う、お前たちの盾になるのは、当然のことよ」
ぐしゃぐしゃの顔で、涙を流し続ける炭治郎に、黎伊那は優しく語りかける。
杏寿郎の暖かい体温を感じながら、黎伊那は虚空を眺め、弱々しい声で言葉を紡いだ。
「私ね、自分が生まれた理由が、わからなかった。ずっとね、早く死んでしまいたいって、思っていたの」
杏寿郎は、何故そんなことを、と唇を震わせた。どうしてそんな悲しいことを言うんだ、と怒鳴りつけたくなった。
「でもね、こんな命でも、使うなら、君のために使いたいって、思ってた。それが、私の生まれた意味なんだって、思いたかった。最低でしょう」
黎伊那は自嘲した。醜い己の命を、勝手に杏寿郎の為のものだと後付けし、勝手に意味を見出したことに。
杏寿郎は本当に酷い人だと思った。最低だと、そう思った。勝手に己の為に命を使いたいなど決めるな、己の為に命を捨てたかったなど言ってくれるな。酷い、酷い。最低だ。
杏寿郎は言葉を振り絞る。
「俺の為になど、言わないでください…!自分の命を、軽んじないでくれ!!」
胸が張り裂けそうだった。今にも息を引き取りそうな儚い目の前の人に、縋り付いて、子供のように泣き喚きたかった。
死なないで欲しい。居なくならないで欲しい。側にいて欲しい。一緒に、生きて欲しい。
「俺は、貴女と…!っ黎伊那さんと、一緒に生きたい、!!」
黎伊那にはもう目が見えていなかった。杏寿郎が一体どんな表情で己を見つめているのか、一切わからなかった。
『一緒に生きたい』その言葉は、黎伊那にとって心が震えるほど嬉しい言葉だった。生まれてくることを望まれず、生きていることさえ許されなかった。だが、杏寿郎のその言葉で、黎伊那は抱えていた罪を全て清算できた気がした。未練はもう、何一つ無くなった。
「ふふ、私、愛されてるね…」
少女のように柔らかく笑う黎伊那。
「勿論です…!俺は貴女を、愛して…!」
ほとんど反射で黎伊那に話しかけ続ける杏寿郎。そこで己の気持ちに気が付き、そして絶望した。愛らしい笑顔が、杏寿郎の心を切り裂く。
黎伊那にはもう、何も聞こえてない。
「私もよ。私も。私もね、大好きよ」
鬼殺隊・元海柱、船木黎伊那が死亡した。上弦の参との死闘の末、列車の乗客二百名、鬼殺隊一般隊士3名、及び炎柱煉獄杏寿郎の生還。死亡者は船木黎伊那一名のみ。その情報は、瞬く間に鬼殺隊中に伝達された。
*
杏寿郎は重体で蝶屋敷に運ばれ、五日間昏睡状態だったが無事に身体は回復した。三日ほど絶対安静を屋敷の主人に言いつけられ、約1週間の療養期間で生家に戻れることとなった。
「お館様が?」
「えぇ、ご実家に戻られる前に、とのことです」
「承知した!態々すまないな、胡蝶!」
「まだ傷は塞ぎきっていません。大声を出し過ぎないでくださいね」
「うむ!気をつけよう!」
「えぇ、そうしてください」
しのぶ曰く、煉獄家に戻る前に産屋敷邸に先に顔を出して欲しいとのことだった。杏寿郎は全身の包帯が取れないまま、自分の足で邸へと向かった。
しのぶは一人、その後ろ姿を見送った。欠損は左手の眼球のみで、五体満足。上弦の鬼と遭遇したにも関わらず、見事な生還だった。杏寿郎は目を覚ましてから、黎伊那について一度も尋ねて来なかった。そのことに、しのぶは瞳を伏せる。
黎伊那の遺体を確認したのはしのぶと、黎伊那の主治医である熊野だった。熊野は蝶屋敷が忙しい時、たまに手を貸してくれる町医者で、しのぶはカナエが存命の時分から熊野とは親交があった。
黎伊那の身体は上弦との戦闘で受けた外傷だけではなく、内側から蝕む病により、目も当てられない状態だった。
しのぶは黎伊那が病を患っていることに、なんとなく気がついていた。顔色を誤魔化すような厚い化粧。血色をよく見せる為の色鮮やかな紅。しのぶが毒を食み、周りに気付かれないようにしていた事を、黎伊那もまた、病を隠すために行なっていた。しのぶに対して、黎伊那は何も言わなかった。だから、しのぶも何も言えなかった。
杏寿郎と黎伊那が親しい事は柱全員の間で周知の事実だった。杏寿郎が隊士となる前からの付き合いだという事も聞いたことがある。
しのぶからは、もう杏寿郎の姿は見えなくなっていた。
「黎伊那の遺書だよ」
「……拝見します」
輝哉が杏寿郎に渡したのは、黎伊那の手によって書かれた遺書だった。万年筆で書かれたらしいそれは、いつも文で見る黎伊那の字と寸分違わず同じものだった。
遺書の内容は、二人で食事をしたのが最後になったあの日に話した事と似通っていた。
『未来を生きる貴方方に託します。』
綴られた言葉は美しかった。黎伊那の誠実さが文字からも言葉からも滲み出ていた。
『いつか訪れる、鬼という脅威に脅かされない世界で、皆様が笑って過ごせます事を心より願っております。』
黎伊那らしい、誰かの幸福を願う穏やかで優しい言葉だった。
あの人の笑顔がひどく恋しいと、杏寿郎は強く思った。
『これを読み、何方かが私の死に涙を流してくれたら、と浅ましくも願ってしまいます。それだけで、私の生に、意味があったと思えるのです。』
杏寿郎の瞳に、涙が滲んだ。黎伊那の最後の言葉が蘇る。杏寿郎が思いがけなかった酷く悲しい言葉。
己の生の意味がわからず、早く死にたいと。杏寿郎の為に命を使いたいと。いつからそう思っていたのか、今となってはわからない。
「黎伊那はね、随分前から病を抱えていたんだ」
「病……」
「柱を降りたのは、末期と診断されたから。それを、あの子は誰にも悟らせなかった」
杏寿郎はあの日覚えた違和感の正体を知った。骨と皮だけに感じた小さな手。
黎伊那は剣が鈍っているのに気がつき、いずれ身体が悲鳴を上げ、刀を握ることすらできなくなる未来を悟った。背に守るべき命、後輩たる一般隊士や一般市民を背負ったまま、無責任に刀を握り続ける事は出来ないと判断し、柱を辞したという。いつ病床に伏し、二度と起き上がれなくなるかわからない状態だった、と。
杏寿郎は己の不甲斐なさで死にそうになった。病を抱え、それでも尚刀を振り続け、杏寿郎を庇って死んだ。思い出さないようにしていた情景が、脳裏に蘇る。
「杏寿郎」
「…はい、」
「黎伊那は、笑っていたかい」
少女のような愛らしい笑顔を思い出して、拳を強く握る。
「…笑っていました。心から喜んでいるのだと、一目見て分かる程。華やいだ笑顔でした」
悔いなどない、未練などない、そんな晴れやかな笑顔だった。幼少時分から世話になっている杏寿郎だったが、初めて見た表情だった。
「俺は、あの方と、一緒に生きたいと思ったのです…。一緒に生きたいと、思って欲しかった…!」
終には、杏寿郎は大きな瞳から涙を零す。
己の為に死にたいより、己とともに生きたいと、言って欲しかった。黎伊那の死に際に自覚した己の想い。
「俺は、黎伊那さんの、未練になりたかった…!!」
酷い、酷い人だ、杏寿郎は胸を押さえ、蹲る。
誰かに重ねられていても構わない。構わないから。
黎伊那がもう生きていない事実に、心臓が締め付けられる。込み上げてくる悲しさと悔しさで、窒息死しそうだった。
杏寿郎の嗚咽だけが、室内を満たした。いつもの溌剌とした面影は無い。
『君は私が居なくなったら悲しい?』
いつか黎伊那が尋ねた子供のような問いかけが、杏寿郎の耳の奥で聞こえた。
嗚呼、悲しい。悲しいに決まっている。今だって涙が止まらない。貴女に会いたくて堪らないのに、貴女は何処にもいないのだ。