最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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「貴重なお時間を割いて頂き、誠にありがとうございます」
深く頭を下げた私に、お館様はいつも通り慈悲深く、声を掛けてくださる。
数年前から病を患っていた私は、遂に余命を宣告された。
調子を崩した頃は、高熱と鼻血等の出血を繰り返していた。あまりにも頻度が多い為、元同期で今は医者をしている男、熊野に診察してもらった。普段は怪我をしないため、あまり世話になる事はないのだが、私の様子に熊野は驚いていた。熊野の診察でも、流行病の結核ではない、ということしかわからなかった。熊野は酷く慌てていたが、逆に私は冷静だった。不治の病にかかったのだと、事実を事実のまま受け入れた。
熊野曰く、感染の恐れはないとの事だった。私はこの病が遺伝性のものだろうとどこかで思っていた。何故なら、実の父親が不治の病にかかっていた事を知っていたからだ。あの男は末期になるまで海での旅を続け、そして病死ではなく、処刑され、死んだ。私の世話を焼いてくれた血の繋がらない祖父が教えてくれた事だった。
熊野は手を尽くしてくれた。前例のない病にも関わらず、薬を処方してくれた。熊野の尽力も虚しく、私の病は進行し続け、後一年も保たないと熊野の口から言わせてしまった。
私自身、剣が鈍るのを感じていた。いずれ身体は悲鳴を上げ、刀を握ることすらできなくなる。それがいつ来るかわからないが、背に守るべき命を背負ったまま、無責任に刀を握り続ける事は出来ないと判断した。だから今日、私はお館様に柱を辞任する旨を伝えた。
お館様は自身も病を患っているにも関わらず、私の状態に嘆き、労ってくださった。本当にお優しい方だ。それから、お館様から提案があった。
「黎伊那には、柱とは別の視点から鬼殺隊を支えてほしいと思ってるんだ」
「一体それは?」
「柱を支える柱、は少し大げさかもしれないけど、そうだね、所謂相談役として隊に貢献してほしい」
「相談役…」
お館様が言うには、柱を下りた私は階級が甲になる。元柱の立場から柱合会議で是非助言や意見を述べてほしいとの事だった。
「黎伊那の意見はいつも的を得ていて、組織として君の存在はとても大きい」
「ありがたい、お言葉です……。わかりました、是非相談役としてこれからも力を尽くします」
「うん、ありがとう」
「いえ、最期までお力になれず、申し訳ありません」
「そんな事はないさ。これからも、頼りにしているよ」
「はい、お任せください」
では、失礼致します、そう言って退出しようとするが、お館様から呼び止められる。いつも通り穏やかな表情に、落ち着いた声色。その立ち居振る舞いは、とても私の三つ下とは思えない。先代のお館様の頃から私は柱を務めているが、当主の座についた頃からその貫禄は変わらない。
お館様はいつも通り、私の心を慰める美しい声で言葉を紡ぐ。
「黎伊那、私は君に生きて欲しいと思うよ」
私はその言葉に息を飲んだ。そのたった一言に、呼吸まで止まってしまった。
「私は君に死んで欲しくない。病でも、闘いの中でも、だ」
ドッと心臓が早まる。頭に響くのは嘗て浴びせられた罵倒。記憶にあるのは、罪も無く殺された母子達。
私の身体には、鬼の血が流れている。紛う事無き、人で無しの血が。鬼と大差ない程の罪を重ねた人間が私の父にあたる。憎き父親の顔が過ぎる。
私は拳を強く握り、頭を振る。
「いえ、いいえ、私は、私の血は…」
「黎伊那、」
まるで事実を突き付けるように私の身体は病に侵されている。あの男と同じ病に。どれだけ善行を積んだって消えない罪。私が生まれてきてしまったことの罪。
何故、お館様は私の血筋を知っている?違う、落ち着け。誰も知らない、私の血筋のことなど誰も知らない。あの男のことすら、誰一人として知らない。
視力が衰えてきたというお館様の瞳は、まるで私の心の内を見透かすようで、恐怖を覚えた。
一体お館様のお言葉にどのような意味が込められているのか、私には全くわからない。だって、そんな筈は無いからだ。世界中の誰からも死を望まれた。心の底から生まれたことを祝福されたことなど、無い。生きて欲しいなど、誰も思わない。
「死にます、死にたいんです。誰かの為にこの命を使って、私は」
許されたいのです。誰にも言ったことのない私の本心が、思わず溢れた。
口に出してしまうと、急に緊張が解けて身体が脱力した。そしてそのまま、義父母を亡くし、記憶を思い出した時のような虚無感に襲われた。
船木黎伊那の人生は、贖罪する為に与えられたものだと思っている。嘗ての罪を償う為に、私は未だ生き永らえている。
「黎伊那が、どうしてそんな悲しいことを思ってしまうようになったのか、私には分からないけれど…」
力無く項垂れる私の手に、お館様の温もりが重なる。冷たい私の手とは対照的に、お館様の手は暖かくて心地良い。
緩慢な動きで私はお館様と視線を合わせる為、頭を上げる。
お館様は、まるで私を心から慈しむ様に目元を細め、柔らかな声が私の心を震わせる。
「黎伊那が死んでしまったら、私は哀しくて、君を想って涙が止まらなくなると思う」
私は、私が死んだ時、悲しんでくれる人を切望していた。自分本位な私が、ずっと切望していた。
お館様のその言葉は、私が一生懸けても得られないと思ったもの。私が欲して止まなかったもの。
「私だけじゃない、君の育手、義勇に、杏寿郎だって悲しむよ」
君が救った市井の人々も、恩人が亡くなったとなれば悲観に暮れるだろう。黎伊那は、どれだけ自分が多くの人を救ったのか自覚していないのかもしれないね。
「君のお陰で、今を幸せに生きている命もある。黎伊那という存在が、居てこそ、なんだよ」
私がそうであって欲しい、と思う言葉をお館様は紡がれる。
恩師にあたる鱗滝先生は、最終選別から帰ってきた折、私が生きていることに喜んでくださっていた。
弟弟子で元継子にあたる義勇は、私を信頼して、どれだけ厳しい鍛錬にも付いてきてくれた。
幼い頃から縁のあった杏寿郎くんは、私に懐き、そして慕ってくれており、貴重な休日にも関わらず食事等に誘ってくれる。
彼らが私の死に悲しんでくれたら、そう思ったことなど何度もある。でも所詮それは願望で、誰も私の血筋を知らないから言える事。そして、私が救った命があったとしても、私のせいで失われた命もある。
何より、弟が生きていないのに、私が生きている意味もない。弟一人守れなかった私の人生に、何の意味があったというのか。
私はお館様のお言葉に、小さく「申し訳ありません」と溢すと頭を深く下げて、今度こそ退出した。
産屋敷邸から、自分の邸へ戻る道中、いつだったか杏寿郎くんに尋ねた愚かな問いかけを思い出す。
『君は私が居なくなったら悲しい?』
馬鹿な問い掛けだと、私は思い出すたびに頭を抱えてしまいそうになる。幼稚で、間抜けな問答だと。自我の確立していない幼児の方がまだまともな質問をする。
私の愚鈍なこの問い掛けに、杏寿郎くんは間髪入れずに『悲しいに決まっています』と、答えてくれた。私はこの答えに、あの時確かに救われたのだ。悲しいのか、そうか、ならば私の生はこの子にとっては無意味では無い、ということなのだろうか、傲慢もいいところだが、私はそう思って救われた。あの時触れた温度は記憶の中にある弟と大差なく…。
と、そこまで考えて、私はまた自己嫌悪に陥る。なんと浅ましい人間だろうか。私の不甲斐なさで死んだ弟と、何の関係もない杏寿郎くんを重ねるなんて。
遣る瀬無さで思考が暗い海の底に沈んでいく。彼と食事や文でやり取りするたびに思う。弟はもうこの世にはいないのだと、彼は弟では無いのだと。いつも通りの悪循環だ。勝手に重ねて、勝手に落胆して、そんな浅はかさに対しての自己嫌悪。
やはり私はあの男の娘なのだと実感する。こんなにも心が貧しく矮小なのだから、糞犯罪者の実子で間違いないだろう。
*
藤の花の家紋の家で休息中、見覚えのある鴉が手紙を運んできた。師範の鴉だった。
手紙を受け取ると、俺からの返事を待つことなく、踵を返して飛び立った。きっと返事を必要としていない文。暫く任務で屋敷をあける、だとかそんな内容だろうか。
しかし、達筆な『義勇へ』と書かれた字は己の知る師範のものとは異なっている。これは、確かいつも世話になる医者の熊野という男のものでは無いだろうか。何故医者から手紙が。不審に思いながらも俺は丁寧に畳まれた手紙を開く。
内容は師範が倒れた、というものだった。今は安静にしていて、体調も落ち着いているらしい。直接話したいことがあるから時間が空いたら屋敷に寄ってほしい、とのこと。
嫌な予感がした。きっと、医者から語られるものはいい話では無い。
次の任務は入っていない、特に怪我もしていなかった俺は、すぐさま出立した。
師範との出会いは、錆兎が死んで、何も出来ず悲しみに暮れている頃のことだった。鱗滝先生の弟子で、俺の姉弟子にあたる人。既に柱の地位に迄上り詰めたすごい人だった。
当時の俺は、食事すらままならず、夜もまともに眠れない程憔悴していた。先生同様、優しい語り口で寄り添ってくださった。
師範が狭霧山に滞在していたのは僅か1日半だったが、今思えば柱にとって1日半とはとんでもなく貴重な時間だ。会ったこともない弟弟子の為に、その貴重な時間を割いてくださっていたのだ。
『強くなりたいと思った時、私の屋敷を訪ねなさい』そう言い残して師範は任務へ向かった。俺がその言葉を思い出したのは鬼殺隊として鬼を狩り始めて数年経った頃。同じ任務に就いた隊士が大勢死んだ。己の弱さに打ちのめされ、運良く生き残っただけの俺は休息中だった。夢を見たのだ、あの頃の夢。悪夢だと思った。残された錆兎の着物。喉を通らない食事。己の不甲斐なさ。何故、俺だけがまた生き残ってしまったのか。
蹲る俺の背に暖かい手が触れた。温もりの持ち主は穏やかな声で告げる。
『立ち止まってもいいのよ』
俺の悲しみに寄り添い、慈しむ声だった。金色の髪が視界の端で揺れる。
『でも、生きているのなら、いつかはまた歩き出さなきゃダメ。時間は止まってくれないから』
顔を上げると、手の主は俺の元から離れている。此方に背を向けて遠く離れていくその人。
『強くなりたいと思った時、』
声は聞こえなかった。だが、その時俺は思い出した。姉弟子の船木黎伊那さんのことを。
夢から覚めた俺は、直ぐに手紙を出した。鱗滝先生に姉弟子に会いたい旨を伝え、中継ぎをして貰ったのだ。
その後、俺は彼女が柱であることを知り恐れ慄く。入ったことなどない程大きな屋敷に招かれ膝が震えた。継子になる事はその場で決定したが、夢で見た優しい女性はその場に居らず、厳しい指導の元、師範に叩きのめされたのだ。血反吐を吐くどころではない、間違いなく俺は死を見た。
師範の元で修行をしながら鬼を狩っていたら、いつの間にか柱になる条件を満たしていた俺は、水柱という位を授かっていた。何度も断った、辞退した。しかし、師範とお館様の強い心願もあり、俺は最終選別を突破していないにも関わらず、柱の位に就いてしまった。
そして現在、俺は嘗て住み込みで修行をした海屋敷へ向かう。
「ごめんください、義勇です」
もう継子では無くなった為、玄関口で声を掛ける。パタパタと誰が此方へ向かってくる足音がする。俺を迎え入れたのは医者の男だった。
「熊野さん、」
「嗚呼、義勇おかえり。船木なら寝室にいる」
「……はい」
おかえりと、もう屋敷を出たにも関わらず迎え入れてくれた熊野さんにむず痒くなりながらも、過ごした屋敷を歩く。
熊野さんは海屋敷に住み込んでいて、近くの診療所で働いている。俺が継子になって暫くしてから三人暮らしになった。その後志願して継子になりたいという隊士が居たが、恐ろしく厳しい稽古に根を上げて、残ったものは誰もいない。
俺が過ごした私室は和室で、懐かしいその部屋を通り過ぎると、木の扉が増えてくる。海屋敷には洋室が多い。そして、師範の私室は全て洋室だ。
熊野さんは師範の寝室の扉を2度叩くと、声をかけて扉を開ける。
「入るぞ」
ベッドから身を起こしてる師範には、外傷は無さそうだった。
「義勇、早いわね」
「師範、お体は…」
師範の視線が熊野さんへと動く。熊野さんは一つ頷くと、お茶を入れてくると言って部屋を後にした。
2人きりになった室内に、師範の声が響く。
「柱を下りる事にしたわ」
「え、」
俺は目を見開いて師範を見つめる。師範は、今いる柱の中で一番古株だ。女性にも関わらず、実力も上位に位置する。一体何故。
「随分前から、病を患ってた…けど、どうやら最近悪化したようでね。こんな状態じゃあ、柱として鬼殺隊を支えられない。お館様にも、もうお話してある」
「び、病状は……っ」
「高熱、だとかそんなところ。病名は不明で熊野曰く、前例がない事には治しようがないらしいわ。症状はもう末期」
「そんな…!」
師範が病気、随分前からとは一体いつからなのか。一緒に住んでいたのに全く気がつかなかった。
「感染の心配は無いものよ。確証はないけど、…私も父親も似たような病気だったから、遺伝性のものだと思う」
師範の口から始めて家族の存在が出たことに俺は驚いた。俺は師範のことをそれほど詳しく知らない。継子だったが、師範は己の事を多くは語らない。そして俺も、話すのが苦手だった。だから俺は、師範のことを知っているようで知らない。その歯痒さを、今改めて感じた。
それにしても、師範が鬼殺隊を辞めるとなると、相当の戦力が削がれたことになる。海柱の存在は大きい。俺は正当な水柱とは言えず、未だに後継者は現れていないのに。
「今後は、治療に専念するということでしょうか…」
「いや、柱は辞めても鬼殺隊は辞めない」
「しかし…先程末期だと」
「そう、末期だからもう治らない」
『治らない』それはつまり、師範は病に侵され続け明日死ぬかもわからない命だということ。鬼殺隊は確かに死が近いが、俺の様に運良く生き残り続けられたとしても、師範の体は1年ももたないらしい。
「私は布団の上で静かに死んでなんかやらない。この命尽きるまで、鬼を狩り続けるわ」
強い人だと心底思う。水の呼吸を極められなかったことを悔やんでいらっしゃったが、派生させた呼吸は師範の唯一無二の強みだ。純粋な剣技もまた、鍛え抜かれた圧倒的なもので、俺は追いつける気がしない。鱗滝先生の様に、厳しいが愛情深く、見知らぬ隊士からも慕われている。それに比べて俺は、
「義勇」
いつのまにか落ちていた視線をあげ、師範に顔を向ける。穏やかな表情で、師範は俺を見つめていた。
いつもより化粧の薄い師範の顔色は、こんなにも悪かったのか。唇の色も、紅でごまかしていたのか。己の鈍感さに嫌気がした。
「お前は強いよ。自信を持ちなさい。私と先生が鍛えたんだから、間違いないわ」
「……はい、」
「何事も後ろ向きに考えてしまう癖、しっかり治さなきゃね」
「………いえ、」
「こら、思っていることは全て口にしなさいと言ってるでしょう」
俺が継子の時分から繰り返されたこのやり取りも、もうできなくなるのか。師範に何度言われても治らなかった俺の悪癖。師範に恥じない継子でいたいのに、俺にはその才能が終ぞなかった。申し訳ない、本当に申し訳なく思う。
その後、熊野さんが3人分のお茶を入れて寝室に戻ってきた。熊野さんからは、師範から聞いた話よりも、病気についての詳細を聞いた。俺は全身から血の気が引き、恐ろしくなって茶など飲めなくなった。
師範は、今生きているのが奇跡な程だった。常人ならば、既に死んでいるような状態。元々丈夫だった身体に加え、常中で寿命を何とか伸ばしているようなもの。師範は言った、どうせ死ぬのだから。その言葉に、熊野さんは拳を強く握りしめていた。師範はずっと冷静だった。己の運命を悲観せず、どこまでも冷静に受け入れていた。
師範は明朝に屋敷を発ち、鱗滝先生の元へ挨拶に行くとのこと。俺は余計な心労は増やせないと思い、ずっと黙っていたある兄妹の事は伏せたままにしておいた。
狭霧山から戻った師範と海屋敷に顔を出した折、怒りを凝縮した拳を脳天に受け、同時に暫くぶりの怒鳴り声を聞いた。病を患っているなど嘘なのではないか、と思う程素早い拳を受けた俺は矢張り師範には未だに追いつけないのだと痛感した。
*
罠だらけの山を走って降り、刀を握って素振りを二千。鱗滝さんに転がされ、汗と泥で汚れた身体を軽く拭いていた。
鱗滝さんは夕食の準備の為に小屋に篭っていたが、少し出てくる、と言い残して町の方へ向かった。
今日の夕食は鱗滝さんに手伝わなくていい、と事前に言われていたが、本当に何もする必要がないのだろうか、と囲炉裏の周りをウロウロと歩いてしまう。既に鍋に具材は放りこまりており、あとは火に焼べるだけ。しかし、勝手にしてしまってよいものか、鱗滝さんには手伝い不要と言われているし。
俺は先に今日の日記を書いてしまうことにした。眠り続けている妹・禰豆子へ向けた日記。布団に横たわり、一向に目を覚まさない禰豆子を横目に、俺は今日言われたことを思い出しながら筆を動かす。
「ごめんください」
小屋の外から女性の声が聞こえた。俺は声を張り上げて返事をして、手元の筆を置いて慌てて土間へ向かう。草履を履き、戸へ手を掛け、引く。
今日は西日が強いのか、俺は思わず差し込んだ光に目が眩んだ。目が慣れないながら、お客さんを待たせるわけには行かず、鱗滝さんなら今留守にしています、と声を掛ける。
何度か瞬きを繰り返し、尋ね人を俺は見上げる。見たことの無い金の髪色と、彫りの深いはっきりとした顔の造形。俺は思わず固まってしまった。
女性は困ったように首を傾げながら、そうなの…と左の掌を頰に当てた。
女性は、白と若草色を基調とした矢絣模様の着物に身を包んでおり、それがよく似合っていた。ふわ、と女性からした匂いは初めて嗅いだ匂いだった。感情の匂いでは無い、この人特有の匂い。川の近くで嗅いだ事のあるような、無いような…。
「私、昔鱗滝さんにお世話になって、近くに寄ったからご挨拶しようと思ったのだけれど…」
「そうだったんですね。俺は竈門炭治郎です!鱗滝さんの元で修行をさせてもらっています!」
「修行…?」
「はい!あっ、そろそろ日が暮れますし今日は泊まっていかれたら如何でしょうか?」
「いえ、そんな。ご迷惑でしょうし」
「とんでもないです!それに、夜は鬼が出る、と言います」
「鬼?」
一般人の、それも女性をこんな時間に帰すわけには行かず、俺は引き留める。こんな綺麗な着物を着て、何かあった時恐らく逃げられない。草履は履き慣れたもののようだが、ここから街までかなり距離があるし。
俺は女性を小屋に入れる為、途中までしか開いていなかった戸を全開にする。カタ、と戸を引くと、戸で隠されて見えなかった女性の全身像が俺の眼に映る。
「え?」
女性の右手に握られているのは、抜き身の刀。西日で照らされ、きらりと光る。
ガッと首に強い衝撃があったと思うと、俺は土間の上に引き倒されていた。
目の前にあるのは、訪ねてきた女性の顔。女性の真っ黒な瞳と目があった。匂いは薄い。が、確かに怒りの匂いが鼻を掠めた。
俺の首を掴んでいる掌は硬い。手の皮が厚いんだ。この女性は市井の人じゃない。刀を持っていた、厳しい鍛錬を積んだ人の手だった。この人は、鬼殺隊だ。
「ここは、元水柱・鱗滝左近次先生の家だと思ったんだが…?」
声に先程までの柔らかさはない。冨岡さんの時のように、強く怒鳴られた訳ではないのに、俺は身体が震え、声が出せなかった。
「何故、鬼がいる?」
女性がゆっくりと動く、顔を上げ、禰豆子の眠る部屋へと視線をやる。俺から目を離しているのに、俺はこの人の隙を付けない。否、隙などない。
まずい、まずいぞ。禰豆子が、殺されてしまう。冷や汗が吹き出し、小さな声が漏れた。
「ぁ、」
動け、動け俺。
女性の右手が、持ち上がる、俺の首を抑える力は変わらない。
動けない。いや駄目だ、そんなの関係ないだろ、動くんだ。頭では分かっているのに、女性を止める算段が何一つ湧かない。嫌だ、嫌だ嫌だ、禰豆子、
「黎伊那」
町を出ていたはずの、鱗滝さんの声がした。
女性は鱗滝さんの声に動きを止め、体制も視線もそのままだったが、首からの圧迫感は少しだけ和らいだ。
ヒュッ、と俺の喉から呼吸とともに高い音が鳴った。
「先生、一体どういうことです。この家には鬼がいる」
「義勇から何も聞いていないのか」
「義勇から?…いいえ、何も」
義勇、とは確か冨岡さんの名前の筈。鱗滝さんを先生と呼ぶこの女性は、もしかして俺の姉弟子にあたる人なのかもしれない。
「鬼はいるが、害はない。今暫く眠ったままだ」
「眠ったまま?……鬼は眠りません。被害が出てからでは遅いのです、斬ります」
「違う……!!」
女性の口から出た斬る、という言葉に反応して俺は思わず声を張り上げた。鱗滝さんが来るまでは声すら出せなかったが、張り詰めた糸が緩んだ今は、声が出せた。
女性の視線が、部屋の向こうにいる禰豆子から、こちらに向いた。硝子玉のような無機質な瞳に、表情の強張る俺が映る。
「禰豆子は人を食いません!鬼になったけど、人を食べたりしない!!」
「憶測でものを語るな愚か者」
有無を言わせぬ罵倒に俺はまた言葉が喉で詰まった。
「それはお前の希望的観測に過ぎない。今はまだ食っていないが、この先食わない保証がどこにある?」
この人の言うことは間違っていない。確かにそうだけど、保証はないけれど、禰豆子は人を食わない、今までも、これからも。
「もし鬼が人を食ったらどうする。鬼を生かしたお前はどう責任を取るんだ」
「禰豆子を殺して、俺も死にます」
感情の匂いが薄くて分かりづらいが、少し匂いが変わった。
数秒か数十秒の沈黙の後、黒い瞳は一度伏せられ、首の圧迫感が完全になくなった。
咳き込みながら俺は身を起こし、女性を見上げる。着物の裾を片手で直し、刀の鞘を鱗滝さんから受け取っている。大きな溜息をひとつ吐くと、俺へ向けて手を差し出される。
「取り敢えず、今は斬らない。詳しい話は、後から聞いてやる」
女性らしさが失われた掌に、俺のものも重ねる。危なげなく引っ張り起こされ、俺は先程言えなかった言葉を連ねる。
「さっき、禰豆子…妹を殺して俺も死ぬ、と言ったけど、そうはならないです」
「何故」
「俺がそうならないようにするからです。絶対に。必ず俺が禰豆子を人に戻すんです」
「そう」
俺の言葉に興味などない、というような気の無い返事が返ってくる。
その女性は、船木黎伊那さんという。俺の姉弟子で、冨岡さんの姉弟子でもあるらしい。
船木さんは改めて鱗滝さんに挨拶をすると、一度外へ出て行った。
町から帰ってきた鱗滝さんの手には魚があり、今日の夕飯は鯛のあら汁だ、と。具材の入った鍋に魚の切り身を放り込むと、火を焼べて煮る。曰く、海魚が船木さんの好物て、その為に町まで買いに出かけていたんだ。
日が沈んで暫く、船木さんが外から帰ってきた。
俺は先程のやり取りで少し船木さんに対して警戒しながらも鍋の中身を器へよそう。
「どうぞ…」
「ありがとう」
対して、船木さんは何も気にしていないようで澄ました顔で器を受け取る。やはり匂いは薄い。感情を押し殺しているのか、何を考えているのか何一つ伺えない。
「この後任務はあるのか」
「いえ。でも、日付の変わる頃にはここを発ちます」
「そうか、」
鱗滝さんとのやりとりを視線をうろうろさせながら眺める。初めの印象は怖い人だと思った。そもそもあの反応が普通なのだ、と鱗滝さんから言われた。冨岡さんだって直ぐに斬りかかって来た。鬼殺隊にとって、鬼は見つけ次第直ぐに斬るべき存在。許してはならない存在。
「炭治郎」
「は、はい!」
「先生にもう名前は聞いたかもしれないけど、私は船木黎伊那。お前の姉弟子にあたる」
「よろしく、お願いします」
それから俺は、俺の家族を襲った悲劇について船木さんに話した。
家に帰ると、家族は皆冷たくなっており、唯一僅かに息の合った妹の禰豆子すら、鬼に成ってしまった。禰豆子は鬼には成ったが、人を襲うことはせず、気絶していた俺を守る仕草までした。狭霧山に向かう道中に出くわした鬼とも戦うことができた。
狭霧山についてからはずっと眠ったままで、今日まで一度も目を覚ましていないことも伝えた。
俺の話の最中、船木さんからは驚愕と困惑の匂いがした。
「……鬼は、人を喰らうわ。人を襲わないなんて、聞いたことも見たこともない………」
「鬼殺隊が出来てから、そのような話は実際に出たことがない。禰豆子が特例だ」
船木さんの思わず溢れた言葉に、鱗滝さんが続ける。
船木さんは少し考え込んだ後、徐に口を開いた。出会い頭に感じた威圧感は、既に感じられなかった。
「……私は、鬼は死体だと思って斬ってきたわ」
「死体ですか…?」
「鬼に成った時点で人間だった頃の生は終わったと思ってる。肉体だけ生き永らえてしまった屍だと、割り切ってきたの…」
俺は船木さんの言葉で、斧で鬼の首元を切ったことを思い出す。肉を断つ感触。動物ではなく、生きた人の形をした鬼。
この人は、元は罪のない人間だったかもしれないことを承知で、刀を握っているのだ。いや、鬼殺隊の人達は皆そのことを知っている。あの冨岡さんもきっと。
「炭治郎、お前の妹…禰豆子はまだ人なのね」
薄かった感情の匂いが濃く成った。滲み出る慈愛に、懐かしい気持ちになる。優しい人だ、さっき引き倒されたことなど忘れて、俺は素直にそう思った。
感情が見えない黒い瞳に反して表情も声も柔らかい。
「炭治郎、お前が進むのは茨の道よ。それはわかる?」
「は、はい」
「決して折れるな。何があっても妹を守れ。お前が折れた時、それは即ちお前達2人の死よ。己を鼓舞し続けろ、自分はできるやつだと言い聞かせろ。転ぶのは構わない、だけど何度でも必ず立ち上がれ。お前の死は、妹の死で、妹の死は、お前の死だ」
禰豆子が人を喰ったら、それは人ではなくなる。船木さんの言う通り、本当に死ぬんだ。同時に、俺も腹を切って死ぬ。
俺が先に死んでしまったら、禰豆子を人に戻す算段もなくなり、守ることもできなくなる。
力強い言葉は、俺の胸に強く響いた。俺はこの先、絶対に挫けそうになる。だけど、決して諦めてはいけない。
「どうして、信じてくれるんですか…」
俺は言葉にした後にはっと我に帰る。
「あっ、いや、あの…あり得ないことだと、分かっています。だから、どうして…」
「私の信頼できる弟弟子と、私の敬愛すべき師範が信じているからよ」
穏やかに答える船木さんは、やはり優しい人なのだと思う。
「それに、家族を想う気持ちに、嘘偽りなんてものはない。お前は禰豆子を己の命より大切に想っているでしょう。一目見ればわかるわ」
私も、同じだったもの。船木さんの感情の匂いは薄れ、あら汁のいい香りしかわからなくなる。
ぐっと目頭に力を入れて、俺は涙を堪える。この人にも、大切に想った家族がいて、俺の様に必死で守っていたんだ。けど、きっと、船木さんの家族は。
一瞬だけ掠めた苦しいほど悲しい匂いに俺は唇を噛み締める。そして、誤魔化す様に器に残った鍋の具を掻き込んだ。
「炭治郎」
俺は口いっぱいに含んだ野菜と魚を咀嚼しながら船木さんの方へ再び顔を向ける。
黒い瞳の奥に、何か見えた気がした。
「死ぬな」
船木黎伊那さん。俺にとっての姉弟子で、冨岡さんの姉弟子にもあたる。おそらくとても強い人で、だけどとても優しい人。何も写していないような硝子玉みたいな黒い瞳だけれど、心はきっと暖かい人だ。
*
「鱗滝左近次、船木黎伊那、冨岡義勇が腹を切ってお詫び致します」
読み上げられた元柱にあたる鱗滝からの手紙の内容に、水を打ったように静まり返る。
元水柱にして現育手一名、元海柱にして現参与一名、そして現役の水柱一名、計3名の命が炭治郎と禰豆子の行く末に掛けられた事実に柱の何名かは息を飲んだ。
炭治郎の視界の先にいる義勇の表情は変わらず澄ましたものであったが、炭治郎は溢れ出る涙を止めるすべを知らなかった。一度会っただけの子供に対してどうして命をかけられるのか。
そして義勇からさらに少し離れたところで膝をついている黎伊那もまた、表情は何一つ変わらない。少し話したことのあるだけの弟弟子に、命が委ねられている。
禰豆子を生かすため、炭治郎の大義のため、三人の命が対価として差し出された。炭治郎の涙はやはり止まらなかった。
船木黎伊那という女は、柱を辞しても尚、後輩隊士から慕われている人間であった。
当時十五歳の時分から最高位にあたる柱としての責務を背負い、二十六歳である現在まで現役で鬼を狩っている。鬼殺隊最強と謳われる悲鳴嶼と並ぶ程の実力を持ち、女の身でありながら、男性の柱に勝るとも劣らない磨き抜かれた剣技は他の柱が一目置く程であった。
更に備えられたカリスマ性に魅かれる者も少なくなく、一般隊士の中には彼女を神格化している者が一部存在しているらしい。
黎伊那が柱の階級を自ら辞したのは約一年前。入れ替わるように現恋柱である甘露寺蜜璃が黎伊那の推薦により柱となった頃。黎伊那が何故柱を辞し、今現在相談役という立場に収まっているのか、知っているのは産屋敷家当主と義勇、育手の鱗滝のみだった。
黎伊那の話が一年程前の柱合会議で挙がった際、反対の声も勿論あった。悲鳴嶼と並ぶ実力を持ち合わせている黎伊那が柱を辞めるというのは鬼殺隊にとって大きな戦力を失うことになる。更に黎伊那は、入れ替わりが激しく若輩者が多い柱にとっても精神的支柱となっていた年長者だった。
何故辞めるのか、と説明を求めた柱達に黎伊那は口を開くことはしなかった。いずれ分かる、それだけを告げて以降、二度とこの話題に触れることはしなかった。
黎伊那が不治の病を患っていることを誰も知らない。余命幾ばくかであることを誰も知らない。そして、黎伊那がずっと、誰かの為に死にたがっていることを誰一人として知らない。
柱の間に動揺が走ったものの、逸早く立て直したのは不死川だった。
「……切腹するからなんだというのか。死にたいなら勝手に死に腐れよ。何の保証にもなりはしません」
地を這うような低い声は、不死川の怒りと憎しみを煮詰めたような声だった。次いで、歴代炎柱を輩出している煉獄の出である杏寿郎が声を上げる。
「不死川の言う通りです!人を喰い殺せば取り返しがつかない!!殺された人は戻らない!」
杏寿郎は黎伊那の継子でこそ無かったが、一般隊士の頃から深い関わりを持っていたのは有名な話である。
杏寿郎は黎伊那からの教えを忠実に守り、確実に成長していった。公私混同はしない、黎伊那に教えられた一つであった。
杏寿郎にとって、黎伊那は"正しさ"の象徴のような人だった。誰かの平和を守りたい、黎伊那の芯になる部分はそれだった。それを壊す理不尽が許せなくて、黎伊那は鬼を狩っている。いつだって、誰かの為に。杏寿郎の目指す先に、黎伊那はいた。母からの教えそのもののような高潔な人。憧れで、目標で、何よりも眩しくて、隣に立ちたいと思い続けている相手。
しかし、黎伊那が強いだけではないことを杏寿郎は知っている。大切な誰かを失くし、涙を流す姿を見たことがある。暗い瞳に激情を秘め、射殺さんとばかりに煮立った憎悪を向ける相手がいるのを知ったときは、驚きと苦しい程の悲しみを抱いた。誰かの幸せを守りたいこの人は、その幸せを奪われてしまった人なのだ。不安定なその姿に、支えたいと思った。頼って欲しいと願った。
そして、黎伊那が杏寿郎に触れる時、その温もりは亡き母を彷彿とさせる。優しくて心地好い慈しみに、杏寿郎は懐かしさと虚しさを覚えるようになった。懐かしさを感じる度に、違うのだと頭を振った。黒い瞳が細くなった瞼に少し隠れる度に、心が空虚になった。黎伊那が杏寿郎に誰かを重ねていることを、杏寿郎は気が付いている。触れてもらえる幸福と、その愛情が己ではない誰かに向けられていることが哀れに思えた。
杏寿郎が黎伊那に抱いている感情は、まだ成熟しきっていない曖昧なものだった。憧憬と庇護欲、それと言葉にできない何か。文を交わし、食事に出かけ、優しく触れられる度に杏寿郎の心をかき乱す何か。恋仲になりたいわけではない、生涯を共にしたいわけでもない。杏寿郎自身、己の気持ちを持て余していた。
産屋敷家のご息女が連ねた名前の中に、黎伊那のものがあったとき、杏寿郎もまた動揺した柱の一人だった。何故、どうして貴女が鬼を庇うのですか、今すぐ詰め寄って目を覚まして欲しいと訴えかけたかった。
不死川の言葉でぐるぐると回っていた思考が強制的に閉じられ、炎柱として責務を果たそうと声をあげたのだった。
「確かにそうだね。人を襲わないという保証ができない、証明ができない。ただ、人を襲うということもまた、証明ができない」
「!!」
「禰豆子が二年以上もの間人を喰わずにいるという事実があり、禰豆子のために四人の者の命が掛けられている。これを否定するためには、否定する側もそれ以上のものを差し出さなければならない」
産屋敷の言葉に唸る不死川と杏寿郎。更に連ねられた鬼舞辻の名に柱は立ち上がる。黎伊那もまた、驚きで炭治郎に思わず目を向ける。諸悪の根源と、炭治郎が遭遇した。ゾワと思わず鳥肌が立った黎伊那は顔を顰める。鬼の首領と鉢合わせて尚生きている弟弟子の運の良さに安堵すると同時に、何故鬼舞辻が炭治郎を生きて逃したのか疑問が生じた。情報の開示は続き、鬼舞辻は炭治郎に追ってを放ったというではないか。炭治郎、もしくは禰豆子に何かあるのか、それとも姿を見られた口封じの為か。
産屋敷により口を閉じた柱たちは静かに敬愛する上司の話に聞き入った。理解はしたが、納得はしていないといったところだろうか。柱もまた鬼に恨みを持つ者が多い。鬼を生かして隊士と同行させているなど事例が無さすぎて誰一人了承などとてもではないができなかった。
そんな中、またしても声をあげたのは不死川。唇を噛み締めすぎて血が流れているが、気にするそぶりを見せず、低く唸るように不承を唱えると自らの身体を傷つける。
不死川は稀血の中でも特に珍しい稀血の持ち主だった。その己の血で禰豆子の鬼としての本能を呼び起そうとしている。黎伊那はその行為を黙って見守った。
禰豆子が再び三度刺され、炭治郎は身体を押さえつけられながらも無理に動こうとしている。黎伊那は義勇が動き出すのを視界に収めた。
禰豆子は、不死川を襲うだろうか。不死川の血は鬼を酔わせる程強力なもの。あれに禰豆子が耐えられるだろうか。涎をぼたぼたと垂らし、わなわなと不死川へ手を伸ばす鬼の姿に黎伊那は諦観の念を抱きながらその様子を傍観していた。
結果的に、禰豆子は不死川を襲わなかった。自ら顔を背けたのだ。何かが変わる、黎伊那はそう直感した。人を喰わない鬼が本当に現れたという事を改めて実感した。拮抗し、変わらず続く鬼との地獄のような争いに、不明瞭だが布石が打たれた。
おそらく己はそのいく末を見届けることは叶わないだろう。禰豆子が鍵となり、炭治郎が大義を果たすその時を。
*
柱合会議が終わり、産屋敷が退出した後、次に腰を上げるのはいつも黎伊那だった。我先にとさっさと姿を消しそうなのは義勇だが、師範の手前そうする度に叱責が飛んできていたので黎伊那の姿が見えなくなるといつの間にか消えているのが義勇であった。閑話休題。
いつものように次いで退出しようとする黎伊那を引き留めたのは不死川だ。
「待てよ、船木さん。アンタまでどういうつもりで鬼を許容してたんだァ?」
「どう、とは?」
「俺たちは鬼殺隊だァ、なんでアンタともあろうお人が、鬼を殺さずに生かしてたのかって聞いてんだよォ!」
青筋を浮かべ、声を荒げる不死川を静かに見つめていた黎伊那はまだ座ったままの柱達を見渡した。
此方にガン飛ばす不死川。眉を顰めている伊黒。無表情の宇髄。亡き姉と同じ笑みを浮かべる胡蝶。ハラハラと挙動不審な甘露寺。空虚を見つめる時透。意識だけを此方に向けている悲鳴嶼。視線を下に伏せる義勇。強く真摯な眼差しの杏寿郎。
黎伊那は片足に体重を乗せ、楽な姿勢で立つと腕を組んで話し出す。
「人間ってのは、変化を嫌う生き物だ。何故なら今の現状で満足しているから。保守的になってしまうのは最早性みたいなもの」
どこか威圧的な態度に、全員正座のまま黎伊那に注目している。
「禰豆子を許容していたのは、鬼殺隊に変化をもたらす為。現状、柱は下弦の鬼を殺しながらも、上弦の鬼を殺すことはできないでいる。柱が何度入れ替わっても、この流れはずっと変わらない」
胡蝶しのぶの作られた笑顔がピクリ、一瞬だけ不自然に動いた。
「人を喰わない鬼、俄かには信じがたかったが、現れた。しかも鬼と闘うことのできる鬼。更にあの兄妹の元には鬼舞辻からの追っ手。まだあの兄妹は何も為していないが、これから先何も為さないとは限らない。明らかに彼らには此方に大きな変化をもたらしてくれる」
黎伊那の言葉に我慢ならないとばかりに不死川は立ち上がった。
「アンタは鬼の醜さを一番知ってる筈だァ!前例がないモンを引き入れて変化だと!?アンタの話は全部憶測に過ぎない!!」
「頭が固いな、不死川は」
「アァ!?」
フン、と鼻を鳴らした黎伊那は、普段後輩に見せることの少ない嫌味な女の皮を被っていた。ピキリ、不死川の額に青筋が増える。
「時には柔軟性も必要だと言ってるんだ。何もかも排除していたら、未来に発展も進展もない」
「だからといって鬼を引き入れると?気が狂ったとしか思えませんね」
伊黒の追随に黎伊那は心の中で確かに、と頷いた。敵を自らの組織に生きて引き入れるなんて正気の沙汰ではない。だが、黎伊那は既に自分が狂っている事を知っている。
「私は鬼を滅殺する為ならなんだってする。手段など選ばない。人を喰わない鬼を組織に引き入れることも厭わない。実際に鬼舞辻は尻尾を見せた。これ以上無い実績だが、何か反論はあるか?」
ぐ、と押し黙る伊黒と不死川の様子に黎伊那は少しばかり安堵した。
ジャラ、と聞こえた数珠の音に、黎伊那は悲鳴嶼へと視線を遣る。盲目の男と視線が合うことはない。
「…私たちが言いたいのは、道理にかなっていない、ということだ…」
「逆に聞くが、この世が道理にかなっていたことがあったか?」
自嘲するような笑みを浮かべ、再び柱達を見渡す黎伊那。善人が殺され、悪鬼が蔓延るこの世。理不尽が横行する世界に、縋る神など存在しない。
心当たりしかなさそうな柱の表情に一つ頷くと言葉を続ける。
「この世に神はいない。いるのは人間か鬼か、だ。禰豆子は鬼だが、私の目で確かめ、話を聞き、私自身が認めた。炭治郎もまた信じるに値すると判断した。だからあの兄妹に私は命を預けた」
義勇は相変わらず目線を下に落としたままだった。
「何より、お館様のご意向に私は従う。お前達はお前達であの兄妹を見極めればいい。私も義勇も、自身で決めた」
失礼する、今度こそ黎伊那は産屋敷邸を後にした。