最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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時は戻って数刻前。黎伊那は杏寿郎と逸れ、怪しい宿舎の男を見失った後、一人屋内を走り回っていた。
宿舎内で見聞色擬きすら使えないのは、恐らく血鬼術か何かが原因だと黎伊那は思った。ならば己にかかった術を解かなければどうにもならない。黎伊那は刀を構え、息を細く吸い込む。
海の呼吸 伍ノ型 溟渤沈下
己を軸に回転するように刀を振るう。壁が傷つく事など一切気にせず、刀を振り抜く。先程まで胸にあった小さな焦りは消え、自身が溟渤に沈み、穏やかに死を迎える心地を錯覚する。
『海の呼吸 伍ノ型 溟渤沈下』は血鬼術を切ることの出来る斬撃。宿舎自体に術がかかっているのか、宿舎の敷地内全て術に侵されているのか確かではないが、黎伊那は人の気配が少し探れるようになっていた。
一時的ではあるが、術の解けた黎伊那の眼に映る光景は、気持ちのいいものではなかった。黒いシミがこびり付いた床と壁。隅には埃がたまっており、天井には蜘蛛の巣が張っている。
血鬼術は幻覚系か精神や脳内に直接影響を及ぼすものだと黎伊那は思い至った。覇気擬きが使えなかったことを考えると、脳に何か作用していることが最も有力だった。しかし、脳内に直接影響があるとなると、外から血鬼術の触媒となる何かを摂取する必要がある。この宿、というより町に来てから一切何も口にしていない黎伊那には思い当たる節がなかった。
黎伊那は杏寿郎と合流、男の捕獲の為宿内を走り回りながら血鬼術の絡繰を考察する。なるべく宿の物には触れないよう、襖を刀で切り捨て、障子を足で蹴破り、前に進んでいく。人の気配は徐々に近づいているが、ふらふらと動き回っているのか中々辿り着けない。
和室から一変、ハイカラな洋間へと扉を蹴り開けると背中を丸めた一人の男が。黎伊那に気がつき逃走を図ろうとする男を逃がすわけもなく、一瞬で距離を詰めると胸ぐらを掴み上げ、壁へ叩きつける。
「お前、鬼と結託しているな…?」
「ひ、ひィッ!?」
恐怖に顔を染め上げる男は矢張り普通の人間に見える。
「ど、どうしてここに、どうやって、」
「血鬼術だな。私達を惑わしたのは」
「ッ、ヒィ……!」
咽喉をひきつらせ、短い悲鳴をあげることしかできない男に黎伊那は苛立ちを募らせる。
「答えろ、お前が鬼に人を喰わせていたのか」
「……そっ、…そうだよっ!?おお、俺が、人を呼び込んだっ!!」
ヤケクソとばかりに声を張り上げた男に黎伊那は迷いなく拳を振るった。バキ、痛ましい音が洋間に響く。
こいつ、こいつこいつ!黎伊那は怒りでどうにかなりそうになる己を理性で繋ぎ止める。
「自分がなにをしたのか分かっているのか!?」
「ぐゔっ…!わ、分かってるさ!だけど仕方ないだろう!?人しか喰えなくなっちまったんだ!なら人を喰わせるしか、」
男の言葉を最後まで聴くことなく、黎伊那は再び壁へ男を叩きつける。息の詰まった男は低く呻くことしかできない。
「お前は何もわかっていない。弟を鬼にされた?それで?人しか喰えなくなった弟の為に何の罪もない旅人らを弟に喰わせて、お前は弟"だった"鬼と仲良く暮らしていたのか?」
「俺の、弟だ…大切な、弟…!大切な弟なんだよ…!」
「お前の弟は人を喰ってまで生き永らえたいと思うような人間だった訳だ?そういうことだな?だからお前は弟に人を喰わせたと?可愛い可愛い弟の為に生きた人間を差し出していた訳だな?」
答えない男に、黎伊那は怒りのままに声を荒げる。
「お前の弟はもう死んだ!!肉体だけ生き永らえ、罪のない人を喰う重罪を重ねているんだぞ!?」
「死んでない死んでない死んでない!!!弟は鬼じゃない!!!ただ、生きて欲しいという俺の気持ちなんか、あんたにはわからない!!」
「弟を本当に愛しているなら、弟に人を食わせるな!お前の弟は人を喰って欲を満たすような倫理観の欠けたクズだったのか!?違うだろうが…!!」
子供のように駄々を捏ねる男に我慢ならなかったのは黎伊那の方だった。
「お前の弟の好物は何だった!?新鮮な人間の肉か!?内臓か!?目玉か!?記憶も理性も無くして、本能のままに力を振るう理不尽みたいな人間だったか!?よく思い出せ!!自分に聞いてみろ!」
「ぅ、うぅ…ゔッ…!」
黎伊那からの叱責に瞳に涙を溜めた男は徐々に体から力を抜いていく。黎伊那もまた、掴んでいた胸倉から手を離す。ズルズルと壁を伝って床へ座り込む男。掌で顔を覆って泣く姿は何とも情けなく、憐れであった。
「お前の弟はもう死んだ、ずっと前に死んでるんだ。あの鬼を弟だと思うな。人道から外れたあれは、弟の皮を被った屍だ」
男からは何の反応もなく、ただ俯いて涙を流している。黎伊那の話を聞いているのかわからなかったが、それでも黎伊那は言葉を続けた。
「お前が人を喰わせた罪も消えない。そんなお前のすべきことは何だ?」
男と視線を合わせるように膝を折った黎伊那。呼びかける声に、もう怒りは滲み出ていなかった。声に乗せた感情は男に対しての哀れみのみ。弟を愛し、ただ生きて欲しいと願う気持ちは痛いほどわかる、だが鬼に成ってしまっては話は別だ。
黎伊那は鬼狩りとして気持ちを割り切っていた。鬼の中には元は罪の無い一般市民がいたと理解している。しかし、そう思っては振り下ろす刃が鈍る。だから黎伊那は、鬼になってしまった人間を死人と捉えている。鬼になった時点でその人間は生きる屍と姿を化した、とそう言い聞かせて黎伊那は鬼の頸を斬ってきた。
ポタポタと木目を濡らす男は肩を震わせながらゆるゆると顔を上げる。涙で濡れていると思った瞳には、『下』弦の『壱』と刻まれていた。
しまった、と思った時には既に鬼の血鬼術に嵌っていた。ぐにゃり、と意識が鬼の瞳に吸い込まれるような錯覚に陥る。黎伊那はその感覚に驚き大きく目を見開いたかと思うと、驚きで力んだ身体が次第に弛緩し、瞬きをゆっくりと二度繰り返す。その後、弾かれたように部屋を飛び出した。
黎伊那が部屋を去った後、男はじわじわと姿を変え、完全に幼い少年のような容姿へ変化する。
「強くて賢い人間が訪ねてきたときは焦ったけど、情に熱い人間でよかったぁ」
ねぇ、兄さん、無邪気に子供のように笑うのは鬼、下弦の壱だ。黎伊那が斬ったはずの血鬼術は再び黎伊那自身を蝕んでいることに本人は気づかなかった。いくら黎伊那が伍ノ型で血鬼術を斬ろうが、この屋敷に充満している花の香りは風で漂い、何度でも黎伊那の身体を侵食した。
下弦の壱は薄まる己の血鬼術の気配を察知し、黎伊那の元へと迫っていたのだった。兄が泣き崩れている様子を見た下弦の壱は流石に驚いたが、兄を引きずって退かし、黎伊那を術中に完全に陥れようと下弦の壱を兄の方だと"思わせた"。
「さてさて、子供の方をいじめてこよぉ」
ぱたぱたと室内を駆ける鬼はまさに子ども。床に蹲って涙を流す男に一瞥もくれなかった鬼の姿に、男は黎伊那の言葉を思い出す。
『兄さん、大丈夫かい?』
昔から泣き虫で情けない兄を心から慕ってくれる優しい弟だった。転んだだけで泣きべそをかいてしまう己に手を差し伸べてくれる暖かな弟だった。
「本当に、お前は、」
死んでしまったのか…?言葉にならなかった男の呟きに答える存在は居ない。
*
「中将!!火拳が解放された模様です!!」
部下の声に我に返った私は、背後にあった筈の処刑台を見上げる。オレンジに輝く光と、ガラガラと崩れ落ちる処刑台が現在起こっている非常事態を表していた。
「お前達はこのまま白ひげの軍勢を相手取れ!!私は向こうの応援に向かう!」
声を張り上げて駆け出した私は酷く焦っていた。火拳を逃す事は海軍にとって大きな損害となる。いや、もうこの戦争自体が大きな損害だ。あちこちに転がる同志と海賊の死体に眼を背けたくなる。
オレンジの光は徐々に海岸へと近づき、彼らがこの戦場から脱出しようとしている様子がわかる。私は歓喜に心が震えた。何も考えず、死んだ様に職務をこなし、今日という日を迎えた。処刑時間が早まり、顔色を無くしながら刀を握っていた。だが、まだ生きている、火拳が、エースが、弟が…!私は自然と口角が上がっていることに気がつかない。
四方八方から飛んでくる鉛玉を躱し、視線の先のオレンジへ走り続ける。そんな中、鮮やかなオレンジを飲み込むかのように噴き上がる溶岩に私は一瞬時が止まった気がした。
まずい、あれはまずい、あの人だけはまずい。煮え滾り、まともに触れることすらできない禍々しい溶岩そのもののような人間。それがサカズキ大将という人だった。海賊を殺すためならどんな犠牲も厭わない人。苛烈を極める彼の正義と私の正義は決して相容れないものだった。
あの人が見逃すわけがない、きっとエースを必ず捉えて、焼き殺す。最悪の想像をして、背筋が凍って思うように身体が動かない。足が鉛のように思い。早く弟の元へ行きたいのに、距離はなかなか縮まらない。
最悪の想像をして、呼吸がままならなくなっていく。動揺するな、落ち着け、まだ何も終わってはない。奇跡は起きた、弟があの悍ましい断頭台から地へと降りてきたのだから。後は広大で自由な海に逃がすだけ。この命に代えても、果たさなくてはならない。
私は正義を背負った大きな背中が見えると迷いなく、愛刀を振り下ろした。
「!?」
覇気を纏った刃は自然系の能力者にも有効だが、流石大将、勘がいいのか見聞色の覇気なのかこちらを見ることなく私の刀を躱した。
「何の真似じゃぁ……!!!」
「っ……クソッ!」
青筋を浮かべる大将に負けじと睨みつける。緊張からか冷や汗が止まらないが、そんなものは関係ない。緊張したところで、最早逃げ場など無い。十数年間で築き上げた私の海軍での地位を、信頼を、全て捨てる時が来た。今までの人生、そして恐らく残り数分の命、私の全てを掛けて背後に立つ弟の為に使う。
「エース!早くルフィを連れて船に戻って!!」
「ッ、なんで…!」
「いいから早く行きなさい!!」
私とエースの短いやり取り、そして私がサカズキ大将に斬りかかった事実だけで謀反が起きたのだと悟られた。
表情がどんどん凶悪なものになっていく上司を前に、私は煽るように真実を告げる。
「ロジャーは人知れず、子どもを2人も授かっていた」
「!?…っな!!」
「1人はエース、母が命を懸けて愛した男の子の名前。そして、」
見ろ、私を見ろ。私だけを見ろ。煮え滾る溶岩の矛先を変えるように勿体ぶってゆったりと語る。
「ゴール・D・レギーナ。それが私の本当の名です」
喧騒の止まない戦場に、私の声だけが響いた気がした。空気で周りの人間が心底驚いている様子が伝わる。忌々しい父親の姓を名乗るだけで、反吐が出そうだった。口角が下がるのを耐え、いつも通りの嫌味で高慢な私を作り出す。
「海軍は一体何年間、忌み嫌う海賊王の血筋を内部に入り込ませ、それを許していたんですかね?」
「貴様っ……!!!」
迫り来る死にほんの僅かだが、身体が固まった。咄嗟に刀に覇気を纏わせ拳を去なそうとするが、一瞬の硬直が命取りだった。手前に出した左の刀は折れ、逃し切れなかった衝撃で左指が3本ほど潰れた。刀だけでなく、拳すら握れなくなった私は虚勢のため舌打ちをこぼす。
「危険因子のくせに、一丁前に正義掲げて…海軍ごっこは楽しかったか?レギーナ」
沸点は驚く程低いくせにこうして煽ってくるこの上司が私はどうも苦手だった。
怒るな、怒りに任せて単調な攻撃をするなよ私。右手でもう一振りの刀を強く握り怒りに耐える。煽りに乗っては駄目だ。私が逆に乗せなくては。エースのように誰かを人質に取られたならば堪まったものじゃない。
「えぇ、まぁ。すぐそこに今すぐ殺すべき血筋の人間がいるのに、それに気が付かない海兵を見ているのはとても滑稽でした」
そんな風に思ったことなどない。誰もが皆、己の信じる正義の為に戦っていた。守りたいものの為に必死だった。立派な同僚たちを尊敬こそすれ、滑稽に思ったことなど一度としてない。
胸が苦しい、息がしづらい。酸素が薄い?何故?エースの炎?大将のマグマ?この戦場に立って感じた事のない違和感の1つだった。
私は気づかれないように浅く呼吸を繰り返し、精一杯の虚勢をはる。
「海兵って馬鹿ばかりなんですね。私はずっとそこに居たのに、気付かないなんて…。救いようが無い無能軍隊ですよね、貴方も含めて」
ブチ、何かの切れるような音が聞こえた気がした。迫る鬼の形相に私は息つく間もなく刀で去なし、防ぎ、身を躱すしかなかった。
嗚呼、呼吸が苦しい。
アドレナリンが出ていたのはほんの数分弱で、私は熱を持ち始めた使い物にならない左腕と思うように動かなくなってきた身体に焦り始めた。
気を抜いたわけではない、のだが、私のそんな一瞬の隙を突き大将は私の背後に目をやると、力強い踏み込みで船へ向かっているはずのエースの後を追った。
「…っあ、」
思わず漏れた短い声。私は顔色を無くしながら、慌てた苛烈な正義の背中を追う。
すぐ目の前で大将が赤い拳を振り上げている。拳の狙う先は私の唯一。させない、私がさせない、殺させない。
一歩出遅れただけで、死が近づいてくる。今もそうだ、向こうのが早く踏み出した。だから私は対象の背中を追っている。どうあがいても間に合わない。エースと大将の間に身体を滑り込ませることが出来たとしても、刀で防ぐ時間はない。
ぐ、と歯をくいしばると私は大将の体より前に出る。大将に比べ、身体が小さい分パワーは劣るがスピードはこちらの方が僅かに速い。目前に迫る拳の形をしたマグマに向かって、使い物にならなくなった左腕を突き出し、庇う。
「あぁあ"あ"あ"ぁぁあ"ッ……!!」
想像を絶する熱さに悲鳴は我慢できなかった。熱いのか痛いのかよくわからない。ただ、とんでもない衝撃に叫び出してしまった。左手の感覚はない、肘の下は、覇気を纏っていてもマグマに飲み込まれている。死ぬ、このままじゃまともに肉壁になれずに死ぬ。右手に握る刀を自身の左腕へと振り落とす。傷口はマグマで焼かれて失血はない。左側が軽くなり、バランスを崩すも、渾身の力を込めて大将の鳩尾を狙って蹴り飛ばした。
「ねぇ、ちゃ…」
「っ、貴様……っ!!!」
背後に庇うエースが私の叫びで振り向いたようだった。
火事場の馬鹿力が発揮されたのか、大将は私が思ったよりも倍は吹き飛んだようだった。
恐ろしい形相でこちらを睨みつける大将。嗚呼、本当にもう後がない、と悟る。
「…っ忌々しいロジャーの子供、お前らの罪が一体何なのかわかっちょらんようじゃのぅ…!」
地を這うような低い声。ボコボコと大将の身体は煮えたぎり、呑まれたもうない左手がヒリついた。
「生まれてきたことが罪!生きていることが罪!存在自体が許されん…!鬼の子もまた鬼じゃ…っ!!」
「鬼じゃない!!」
刀を握る右手の震えが止まらない。痛みか疲れか、否、間違いなくそれは怒りだった。内で燻る怒りが震えで現れる。
鬼は、鬼とは、血も涙もない常軌を逸脱した化け物だ。人を思いやる心も無い、無慈悲で凶悪な化け物だ。
「この子は…っ私たちは、鬼なんかじゃない…!!」
私たちには赤い血が流れてる。悲しかったり悔しかったりしたら、涙も出る。母に愛されて生まれてきたエースは、鬼なんかじゃない。ルフィを愛し、世話を焼く姿は立派な兄の姿だ。
無慈悲に一般市民を必要な犠牲だと切り捨てる、目の前の男の方がよっぽど鬼だ。私はお前らが奪った命を忘れない。必要な犠牲だったと、お前らが手放した命の尊さを忘れない。
ただ、笑って生きていたかった私たちから、平穏を奪ったお前らを、私は許さない。
「っ立ち止まるな!走れ!!」
立ち竦んでいた後ろにいるエースに向かって叫び、私は大将へ立ち向かう。内で燃え続ける怒りと憎しみ、そして哀しみを募らせて、それを全て大将に向ける。今の私の全部で、時間を稼ぐ。きっと、ここが私の墓場となる。
向こうの攻撃をギリギリで躱し、致命傷を狙った捨て身の策で懐へ飛び込む。剣技は荒れ、どんどん単調になっていく攻撃。これじゃ勝てない、このままでは本当に死ぬ。わかっている、死んだっていい。あの子が生きてさえいてくれれば、それでいい。
疲労により、遂には大将を巻き込んで地面に倒れ込んでしまう。気を失ってしまいそうな中、気力だけで大将を睨みつける。
横眼でエースの行方を探る。背中は小さくなっており、随分遠く離れているらしい。よかった私の言う通り逃げてくれている。もう、大丈夫だ。倒れてもいいかな、眠ってもいいかな、死んでもいいかな。
そんな時、走馬灯のように幼い頃のエースの声が響いた。
『おれは逃げない……!!』
そう、これは確かエースがまだ8歳の頃。エースとの鍛錬中、地に伏せて泣きべそをかくエースに『嫌なら逃げてみれば?』と煽ったことがある。その時、鼻水を垂らしながら、必死に涙を我慢しながら私に噛み付いた言葉だった。
そうだ、何で忘れていたんだろう。嘗てグレイターミナルが炎に包まれた時のことを、ダダンに聞いた。ブルージャムという海賊と会敵した時も、そう言ったと。
思えば、エースは私の言うことを一度でも聞いたことがあっただろうか。爺ちゃんと共に、海賊になるな、海兵となれと言ってもずっと反抗しっぱなしだった。終いには血筋がバレて、海軍に捕まり、公開処刑までされそうになった。
嗚呼、最悪だ、最低の気分だ。私は今、この世界が現実のものではないと悟ってしまった。着慣れた深い青色のスーツは色を変え、黒色の詰襟へと変化し、白い正義のコートは、褐色の羽織へ。フッ、と息を吐き出すと先程まで苦しかった呼吸が楽になった。
エースは死んだ、そうだった。この場で死ぬのは私じゃなくて、エースだ。
「海の呼吸 伍ノ型 溟渤沈下」
目を見開く大将の瞳は、黄色と赤が混ざった、綺麗な炎の色をしていた。
*
黄色の花弁が杏寿郎の目の前で散った。
サァ、と波の引くような静かな音がしたと思ったら、黎伊那は虚ろな瞳のまま刀を構えた。黎伊那が呼吸を使い、刀を振り落とさんとしている。杏寿郎は目を見開いて、黎伊那の姿を瞳に納める。そしてこれから訪れる痛みに耐えるようにギュッと強く目を瞑った。
「最悪だ、」
苦しそうに吐き出された言葉は、黎伊那の声で聞こえた。痛みが襲ってこないことに不思議に思い、恐る恐る瞼をこじ開ける。杏寿郎の視界に、この屋敷を囲んでいる黄色の花弁が入り込んだ。
「最悪の気分だよ、本当に」
此方に背を向けるように立っている黎伊那は、鬼に対してそう吐き出すと、一瞬で鬼の四肢を切り落とした。先程まで守るそぶりしか見せなかったのに、目が覚めたのか、杏寿郎は目を瞬かせる。
「は、」
呆然とする鬼の意味をなさない声が聞こえた。べしゃ、と子供の姿のまま、地面に崩れ落ちた。
「な、なんで、どうして!?どうやって…!!」
「喚くな」
鬼の言う通り、一体どうやってこの人は術を解いたのだろうか、杏寿郎は身を起こして鬼と黎伊那のやり取りを見守る。そんなとき、何かが焦げるような臭いが鼻を掠めた。何かを焼く臭い…というより、燃えている臭いではなかろうか。杏寿郎は、パッと空を見上げる。煙が空へ立ち上っているのが見えた。
「お前の兄貴が花を焼いてるみたいだな」
「えっ、は、なんで…なんで…!?」
鬼の疑問に黎伊那は応えることなく、軽く刀を振るい、首がコロン、と転がった。
首が切れても尚、なんでなんでと叫び続ける鬼など気にも留めず、黎伊那は杏寿郎の元へ歩み寄ってくる。
膝を降り、苦虫を噛み潰したような表情で杏寿郎を見つめる黎伊那。
「…ごめんね」
苦しそうにそう溢すと、黎伊那の頰を優しく撫でる。硬い掌が、頰から感触を伝えてくる。
「立てる?」
「…ぁ、はい!」
手を差し出す黎伊那に捕まると、杏寿郎は引き上げられ、2人一緒に屋敷を後にしようとする。
宿舎は入ってきた時が嘘のように廃れ、荒れ果てていた。杏寿郎が驚いている雰囲気が伝わったのか、黎伊那が口を開く。
「全部血鬼術だろうね。私たちにそう見せていたんでしょ。恐らく、町も…」
「え………」
燃える植垣の花を横目に、宿舎を後にする。そして、黎伊那の憶測通り、人で賑わっていたはずの町もまた、荒廃していた。昼間あった面影などどこにもない。茶屋も、八百屋も、人の影一つない。
「全部、鬼の血鬼術だったんですね…」
「そうね、あの術の媒介にしていた花を、家の中にでも置いといたんだと思う。最悪ね、さっさとこんなところ出ようか」
足を早める黎伊那を追いかける杏寿郎。背の低い杏寿郎が下からちら、と黎伊那の顔色を伺うが、無表情のため何一つ感情が読めない。これなら仏頂面をしてもらっていた方が話しかけやすい、杏寿郎は小さく息を吐きながら思う。
「あのっ!!」
背後からの大声に驚き、慌てて振り返る杏寿郎。鬼かと思い、刀に手を掛けたが、先程の鬼とは全く違う、六十代程の老人だった。どこか草臥れた様子で、目元は赤く染まっている。泣いていたのだろうか。
「俺はっ、一体これから、どうすれば…!」
「知るか」
底冷えする声色だった。軽蔑、侮蔑、そんな感情が含まれた声。それを感じ取ったのだろう、老人も肩を震わせている。
「自分の罪を思い出せ、全部だ。あの鬼の罪はお前の罪でもある。お前が喰わせた。お前がこの町の人間、全員殺した。何十年もの間。そうやって生きてきたんだろう」
杏寿郎は理解した。この老人が、あの鬼の兄だと。鬼の血鬼術で外見を若く見せていたのだと。恐らくあの鬼はあの年頃に鬼になり、兄もまた、幼い頃から弟だった鬼に人を食わせていたのだ。
ブワッと内から湧き上がる怒りで老人に向かって怒鳴り散らしたくなった。駆け出して、何度も殴りたくなった。黎伊那は杏寿郎の心を読むように、ふわりと肩に手を置いた。とんとん、と落ち着かせるように二度と叩かれると、杏寿郎は息を深く吐き出し、自ら怒りを抑えようとする。
「そう簡単に、地獄に行けると思うなよ」
黎伊那はそう言うと、踵を返し、再び町の外へと向かう。杏寿郎もまた、老人を強く睨みつけるに留まり、外へ向かう。途中、隠とすれ違ったため、あの老人の処遇は彼らが対応するのだとわかった。
黎伊那の鎹烏に先行してもらい、近くの藤の家紋の家へと向かう。道中、2人の間に会話は無い。杏寿郎はやはり黎伊那の様子を伺うが、相変わらず感情が読めない。話しかける事も憚られ、痛む鳩尾を無意識に押さえながら朝日を浴びた。
目的の藤の家紋の家へと着き、杏寿郎は治療を受けるために黎伊那と別れた。黎伊那は用意されていた食事に手をつける事もなく、一人部屋で休むといい家の奥へと消えた。
杏寿郎の怪我は、医者に全身見てもらったが、鳩尾を打撲し、後は打ち身や切り傷だけだった。骨折などの酷い怪我はなく、2日程安静にしていろ、とだけ言われた。
*
船木様はあれから、お部屋から一度も出てこない。朝食、昼食も食べずに部屋に籠っている。彼女の烏が鳴くのが聞こえたが、明日の早朝には任務に出ると。
腕の怪我は大丈夫だろうか、誤って斬ってしまった髪はどうなっただろうか、夕飯も食べないのだろうか、俺はもう三十分も船木様の滞在している部屋の前で声をかける事もできずに立ち竦んでいた。
物音一つ聞こえないが、もしや不在だろうか。いいや、そんなはずは。一人悶々と悩みながら襖に手を伸ばしては下ろし、伸ばしては下ろし、と繰り返していると、唐突に襖が開いた。
「うッ!!?」
驚きで、俺は出したことのない声が出た。襖を内から開けたのは勿論船木様だった。俺が切ったはずのザンバラだった髪は、肩の上で綺麗に整えられ、よく似合っていた。しかし、表情はやはり無表情。がらんどうな瞳が、ボンヤリと俺を見つめている。得体の知れない不気味さを感じながらも、怯えを隠して声を掛ける。
「ひっ、一人では寂しいので、夕飯を一緒に食べてくださいませんか!!?」
思いの外俺は動揺していたらしい。頭が悪くて子供っぽい、そしてあまりにも突飛な話の振り方で、俺は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。全身がカッと熱くなり、羞恥でどうにかなりそうだ。
船木様は一瞬無表情を崩し、ぽかんと呆気にとられたような顔をされた。その後、少し頰を緩めると、
「そうね、独りは寂しいわね」
そう言って、一緒に食事することを許可してくださった。
俺はその表情が、儚くなる前の母の面影と重なり、無性に泣きたくなってしまった。
食事を船木様の部屋に運んで貰い、少し居心地悪く感じながらも共に食事につく。
あの宿舎で、鬼の血鬼術により過去の幻影を見ていた船木様が覚えているかはわからないが、髪について謝らなければならない。髪は女の命。艶やかで長かった髪が、今はあんなに短く…、俺は事の重大さを再認識して、顔を青くするしかなかった。
中々言い出せずにいる俺を見兼ねて、怪訝な顔をしながら船木様から尋ねてくださった。
「どうしたの?」
え、あ、と視線を忙しなくうろうろさせ、俺は情けなく下を向いた。女性の髪を切っておいて、一緒に食事をしたいなど、厚顔無恥にも程がある。しかし、ここで謝らないのも男として最低だ。箸を置き、意を決して顔を上げる。
「っ髪の毛を斬ってしまい、申し訳ありませんでした!!」
覚えておられないかもしれませんが、と付け加え、俺は土下座をする。えっ!?と船木様がぎょっして声を上げているのが聞こえた。慌ててこちらへ駆け寄る気配もする。だが顔はあげられない。あんなに綺麗な髪だったのに、俺が。
「いつか伸びるよ」
ちがう、そういうことではないのだ。俺が許せない、俺自身が。
船木様が身だしなみに気を使っていたことを知っている。幼い頃、煉獄家に訪れて母と化粧の話をしていたのを知っている。俺は化粧について何もわからないが、彼女が化粧に詳しいことはよくわかった。髪の手入れの仕方、流行りのハイカラな洋服。母と楽しそうに話していたことを知っている。
「顔をあげなさい」
凛とした厳しい声だった。顔を頑なに上げない頑固な俺に痺れを切らしたのだと思う。
俺はゆっくり、船木様の顔色を伺うように頭を上げた。
船木様の表情に怒りの色はない。あるのは困惑と、何処か申し訳なさそうな表情。
「元はと言えば私が悪い。鬼の術に嵌って、柱として不甲斐ない」
そんなことない、という言葉は出なかった。船木様が、泣いておられたからだ。じわり、と瞳を濡らし、ポロリと溢れて落ちたそれは、初めて見る涙だった。父に罵倒されても泣くそぶりすら見せなかった強かな女性が、泣いている。いくら俺でも、髪を斬られたから泣いているのではないとわかる。きっと、鬼のせいだ。鬼が見せた幻のせいだ。
「ごめん、心が安定しなくて、ふとした瞬間に涙が出るの。気にしないで」
「…っな、かないで、ください…」
俺は思わず、彼女の瞳に手を伸ばした。溢れる雫が、悲しくて、悲しくて堪らなくて、胸が苦しくなる。
部屋でずっと休んでいたのは、涙が止まらないからだ。大切な人の死を、身近に感じさせられた。どれほど辛い事だろうか。俺が母の死を、今再び感じさせられたら、それこそ何も喉を通らないかもしれない。悲しみで何も手につかないかもしれない。
船木様は、目を細めて目元を撫でる俺を見つめる。儚いその表情に、ドキリと胸が高鳴った。
「私もごめんね、君を守るといったのに。危険な任務に付き合わせて、本当に申し訳ない…」
「とんでもありません!貴女のお陰で下弦の首が切れました!」
「でも、君に怪我を負わせた。私が、自ら傷つけた…」
ぽろ、とまたガラス玉のような瞳から涙が溢れる。これ程までに弱っている船木様を見るのは初めてだった。何か言わなくては、この人を俺が救わなくては。そんな使命感が俺を駆り立てる。
「俺はこんな傷痛くもかゆくもないので大丈夫です!なにしろ長男なので!男の勲章です!それに、貴女が下弦を切った事で、これ以上苦しむ人がいなくなりました。船木様が、居てくれたからです」
きゅ、と負傷していない右手を優しく握る。手の皮は厚く、皮は剥け、ゴツゴツとした凹凸がある。女性らしさはない。だが、美しい手だ。血の滲むような努力をし、そして俺の想像がつかないほど沢山人を救った手だ。
「船木様が任務前に教えてくださった感情を読ませない術、あれがあったから、俺は血鬼術に嵌められませんでした!貴女が居なければ、俺は今頃、」
「私は」
俺の言葉を遮る船木様の表情は、酷く不安定で、いつもがらんどうな瞳の奥に、複雑な感情が垣間見えた。苦しそうだった。一体何がこの人をこれ程までに追い詰めているのか。何がこの人を蝕んでいるのか、俺には皆目見当も付かない。助けたい、救いたい、頼られたい、支えたい、そう思った。
「いや、何でもない」
揺れる瞳は、フイと逸らされた。己の力不足を暫定された気分になった。
嫌だ、逃げないで欲しい、独りにならないで。視線をもう一度こちらに向いてもらえるよう、手を強く握る。
船木様はうろ、と煮え切らないように瞳を泳がせると、再び弱々しくこちらに意識を向けてくださる。真っ黒な瞳に、俺の
「君は…」
「はい!」
「…、君は私が居なくなったら悲しい?」
それはまるで、幼い子供の問いかけのようだった。何の意味もなさない子供の純粋な疑問。だが、船木様の口から出たそれは、俺の体に重くのしかかった。どういう意味なのか、言葉通りの意味なのか、何か深い意味があるのか。考えたのは一瞬で、俺は即答した。
「悲しいに決まっています!!」
俺の言葉に、船木様の表情は変わらなかった。が、ゆっくりと傾く頭は、俺の肩に預けられた。ふわりと香った女性らしい柔らかな香りに呼吸が止まった。突然の事に下から熱が湧き上がる。女性に対する免疫がないことに、不甲斐なさを感じた。
握っている手から汗が伝わらないだろうか。早まる心臓の音が、聞こえてしまわないだろうか。
「……杏寿郎くんは暖かいね」
「っ、そうでしょうか!?」
「うん、暖かくて、心地良くて……私の、」
炎みたい、船木様はそう続けた。
する、俺の手の間から引き抜かれた右手は、そのまま俺の後頭部へと周り、抱き合う形になる。
俺は緊張と心地良さの狭間で揺れていた。母のようで、母とはやはり違う。心臓はどうにかなりそうな程煩いのに、ずっとこのままでいたいような優しい抱擁。
暫く2人で体温を確かめ合っていると、船木様の方から徐に、「夕飯冷めちゃうね」と。ハッと我に返った俺は慌てて船木様から身を離し、「食べましょう!!」と大声を出した。頰も耳も、首にも熱を持つ。隠しようがない熱を誤魔化すように、俺は膳に余っている食事を書き込んだ。俺の体温と正反対の冷や飯は、内から身体を冷やすのに丁度いいと思った。
翌朝、俺が目が覚めた頃、船木様はすでに出立された後だった。藤の家紋の家主は預かり物がある、と文を一つ俺に寄越した。差出人は船木様だった。
杏寿郎くんへ
置き手紙のようになって申し訳ない。これは直接君に伝えるべきかと迷ったが、君のために文字を通して伝えようと思う。
早速本題に入るが、私の継子にならないか?
君は継子をどのようなものか理解しているだろう。だから、断ってくれても構わない。しかし、継子になるならば、私の屋敷に住み込んでもらい、そこで稽古をつける事になる。
私は炎の呼吸は使えないが、それ以外で君に損はさせない。約束する。
なんて言うと、断り辛いだろうから文で誘う事にした。そう深く考えなくてもいい。いつでも返事を待っている。
では、身体に気を付けて。また、生きて会おう。
船木黎伊那
流行りの万年筆で書かれただろう美しい達筆な字は、俺を継子に、と誘ってくださる内容だった。
海柱から直々の継子の誘い。父と肩を並べていた、船木様からの誘い。俺は歓喜で胸が震えた。手紙を何度も往復して読んだ。嬉しい、嬉しい。
しかし、俺は……、俺はその後五日間程悩んだが、船木様からの誘いを断る手紙を書いた。非常にありがたい誘いだったが、頷くことはどうにも出来なかった。家に父上と千寿郎を置いて、船木様の継子になることは出来なかった。強くはなりたい。父のように、立派な炎柱になりたい。だが、船木様の継子にはなれない。
思いの丈を全て綴り、手紙を出した。多忙であろう中、半月程で返事が来た。近頃の近況に始まり、断った事に対して気にしなくていいと。そして機会が合えば稽古ならいつでもつける、また食事でも一緒にしよう、と綴られていた。
舞い上がった幼稚な俺は、直ぐ様それに対して返事を書き、稽古と食事の約束を取り決めた。数年後、当時を思い出して羞恥で頭を抱える事になるとは夢にも思わない。