最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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つい先日の最終選別で、無事に鬼殺隊員の一員となった杏寿郎。まだ数回しか任務に就いていない度が付く新人だが、今この瞬間が、己の人生において絶体絶命の危機であることはわかった。
「終わり?終わりかしら、ねぇ、坊や、終わりなの?」
「ぐっ…!」
「痛そう、えぇ、痛そうだわ。腕も脚も、私の爪で付いた傷、血が流れてるもの、痛いわよね」
よく喋る女の鬼は伸縮自在の爪を使って杏寿郎の体に傷をつけていた。爪を躱したとしてもよく伸びる爪は杏寿郎の皮膚を切り裂いた。丈夫な筈の隊服をも割いてしまう。刀で受けても、力の強い鬼に押され身体のあちこちを何度も打ち付けられた。最早何処の骨が折れているのかもわからない。動きも早く、此方が呼吸を使い技を繰り出す暇も与えない、厄介な鬼だった。十二鬼月には届かないが、相当人間を食っているには違いない。
「可愛い坊や、痛いのは辛いわよね、苦しいわよね、今私が殺してあげる。そうしたら坊やも楽になれるわ。えぇ、それがいい、それがいいわよね?」
にったりと不気味に笑う女の鬼。杏寿郎は恐怖は感じなかった。ただ胸にあるのは、深い後悔だけ。
己が弱く、不甲斐ないばかりに今にも鬼に食われそうになっている。弟と父を残して死んでしまうことへの後悔。
刀を持つ右手に力が入らなかった。己の命を絶たんとする鋭利な爪を、受け入れるように目を瞑った。
海の呼吸 弐ノ型 大津波
大きな波が岩に打ち付けられたような騒音が轟いたように思えた。
甲高い鬼の悲鳴が聞こえたことにより、閉じた瞼を押し上げた杏寿郎の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある褐色の羽織だった。
「アアァ…ッ!!何だ貴様は!?お呼びじゃない、お呼びじゃない!女なぞお呼びじゃない!!私はそこの坊やを…!!よくも邪魔したな!」
「身体が真っ二つになったというのに、よく喋る鬼だな」
「こんなものすぐ治る!!私は鬼だぞ!?こんな傷こんな傷…、すぐにくっついて、くっついて……?」
「はは、滑稽だな。先程までは余裕すらあったというのに」
「貴様、貴様貴様貴様…!」
「見苦しい……。年増が、何時迄もはしゃぐものじゃあないな」
杏寿郎の目の前に現れたのは現柱である船木黎伊那。鬼の力押しに負けることなく、一撃で身体を半分に切断した。
怒れる鬼を嘲笑い、地面にみっともなくジタバタと暴れる様を楽しげに見つめている。
『弐ノ型 大津波』は、傷口を海水で覆われたように傷から流れる血液で膜をつくりだし、鬼の再生を妨害する。身体を再生させることのできない鬼は恐ろしい形相で黎伊那を睨みつけている。
黎伊那は嘲る表情を剥がし、静かに鬼へと告げる。
「貴様、人を沢山食ってきたな。……死んで詫びろ」
怒りを押し殺す声で言葉を紡いだ黎伊那。未だに喚き散らかす鬼の存在など無視し、何ともあっさりと頸を刎ねた。
一方的な黎伊那の斬殺に、見ていることしか出来なかった杏寿郎。鬼の頸が刎ねられた様子を見て気が抜けたのか、張り詰めていた糸が切れた杏寿郎はぷつりと意識を失った。
目が覚めた杏寿郎は藤の家紋の家で治療されていた。
診察してくれた医者曰く、左腕の骨には皹が入っていたが、他の四肢は打撲で済んだらしい。残念なことに肋骨は2本ほど折れていたが。
回復のため、暇を持て余していた杏寿郎だったが、ふと気を失う前のことを思い出した。恐らく己をこの藤の家紋の家に運んでくれたのは黎伊那だろうと検討はついていたが、屋敷に本人は不在だと家主に言われていた。多忙を極める柱が、一隊員のために駆けつけてくれたのだ、礼を伝えなければならない、という使命に駆られた。
杏寿郎は、槇寿郎と黎伊那が絶縁状態になったあの日から黎伊那と一度も会っていなかった。隊士となっても、柱と会うことなど稀である。
命に瀕した杏寿郎の前に現れた黎伊那。杏寿郎の目にはその背中が何よりも大きく見えた。
眠る気にもなれず、回復後の鍛錬について考えていると、廊下を踏み締める足音が1つ。極めて小さい足音だったが、迷うことなく杏寿郎の休む部屋の前でそれは止まった。一体誰だろうか、杏寿郎は黙って障子が開くのを待っていた。
少しの間を置いて、すっと開かれた障子の向こうにいたのは、杏寿郎が会うことを望んでいた人物、黎伊那だった。
数年ぶりに黎伊那と顔を合わせた杏寿郎は一瞬その美貌に目を奪われた。杏寿郎が黎伊那と最後に会ったのは約二、三年前。少女としての愛らしさを残していた黎伊那だったが、今杏寿郎の目の前にいる黎伊那は大人の女性だった。金色の髪はあの頃より更に伸び、相変わらず後頭部で1つに結ばれている。白い肌に傷1つなく、すっと通った鼻筋と形の良い唇は芸術品のようだった。神仏の類とすら思ってしまう美しさに、杏寿郎は言葉を失った。
黎伊那のがらんどうな瞳と目が合った杏寿郎は我に帰り、慌てて挨拶を述べようとしたが、それは叶わなかった。黎伊那が目も止まらぬ速さで杏寿郎に近づくと、胸ぐらを掴み上げ、布団に横たわる杏寿郎を床に押さえつけたのだ。
圧迫感で息が詰まり、肋も傷んだ杏寿郎は思わず呻き声をあげる。見上げた黎伊那の表情は怒りに染まっていた。
「お前、諦めたな」
「うっ…、なに、を……!」
「命をだ、愚か者」
黎伊那の口から出る低い声を、杏寿郎は今まで聞いたことがなかった。穏やかに笑みを浮かべていた己の知る黎伊那など、見る影もない。
「あの時お前の手元には刀があった。まだ振れたはずだ、何故目を閉じた?何故死を受け入れた?」
「よ、わい、己では…勝てないと、判断しました、」
「だからといって命を諦めるやつがあるかっ!!!」
ビリビリと耳、身体、空気を震わせる怒号。杏寿郎は思わず体を強張らせた。
「剣を握ったのなら最後まで足掻け!!」
叱責する黎伊那の声に、杏寿郎は思わず涙が溢れた。堰を切ったように流れる出るそれ。
流石にそんな杏寿郎の様子にギョッとした黎伊那は胸倉から手を離し、伸し掛かっていた身体も退けた。泣いた、泣かせた、あの杏寿郎くんを泣かせてしまった、バツの悪そうな表情だけで動揺を押し隠す黎伊那。大きな瞳から止め処なく流れる雫に僅かに残っていた長女としての秩序が悲鳴を上げた。
対する杏寿郎は、何故己は泣いているのか解らず軽く混乱していた。何故突然涙が、この人が恐ろしくてか、いやそんな事ではない、では何故、脳内では考えを巡らせていたが、それが言葉として音になることはなかった。
「わ、悪い、傷に触ったな」
「ち、ちが、います。俺も、何故泣いているのか…」
慌てて身を起こし、胡座をかいて座る黎伊那と目線を合わせる杏寿郎。何故己は涙を流しているのか、杏寿郎本人にすらわからない。だが、戦闘中どこか霧掛かっていた思考が晴れた気がした。
「船木様のお言葉で、何だが気が晴れました。お恥ずかしながら、戦闘中、どんどん戦意が削がれていたようで、確かに命を諦めたあの時の俺は愚か者で…」
「ちょっと待ちなさい」
「えっ、はい、」
「戦闘中に戦意が削がれていった、と?」
「は、はい。気持ちも萎んでいって、刀を握る力も入らなくなっていったような…」
「それ、血鬼術じゃないのか」
黎伊那の言葉で目が点になった杏寿郎。そういえば、とあの危機的状況を思い出す。血が流れる度に、地面に転がされる度に、鬼に敵わないのではないかと愚かにも思ってしまっていた。己の信念となる母の言葉でさえ、忘れてしまっていた。今思うとそれはとても恐ろしい。
杏寿郎の言葉に黎伊那は、はぁ、と長い溜息を一つこぼすと掌で額を抑えた。
「なら、今ので恐らく解けたな」
「おお!ありがとうございます!」
どこか疲れた様子の黎伊那に対して、逆に何時もの元気を取り戻していく杏寿郎。
女の鬼の血鬼術は、伸縮自在の爪で対象を傷つける毎に戦意や闘志を削いでいくもの。爪に毒があるのか何なのかわからないが、精神に影響を及ぼす部類の血鬼術だと考えられる。
鎹烏が鳴いた示す方向へととんでもない速さで駆けていた黎伊那の目に映ったのは懐かしく感じる燃える炎のような黄と赤の髪色。記憶の中より少し成長した杏寿郎の、士気が感じられない背中だった。
黎伊那はあの槇寿郎と瑠火の息子である杏寿郎が戦う事を諦めていた事にひどく腹が立っていた。『必ず立派な炎柱になる』と決意を滲ませていた少年が、死を受け入れていた様は黎伊那にとって信じられない光景でもあった。最愛の弟と似ても似つかないのに、あの頃与えられなかったものを全て捧げてあげたくなる様な少年。この子の炎まで偽物だと言うのか、と杏寿郎の元へと突撃した次第である。
「あの、船木様、」
「ん、なんだ」
「改めまして、煉獄杏寿郎、鬼殺隊に入隊致しました」
「あぁ、おめでとう」
「ありがとうございます。いつか、貴女と肩を並べられる立派な炎柱に成りますので、これからも宜しくお願い致します」
深々と頭を下げた杏寿郎のつむじをじっと見つめる黎伊那。無意識に伸ばした手は、自然と其処へと吸い込まれ、ゆるりと形の良い頭を撫でる。
怒鳴られた時とは違った意味で、杏寿郎は身体を強張らせる。どこか懐かしい心地に、杏寿郎は行き場の無い気持ちを抱いた。
「煉獄隊士、鬼殺隊は身体が資本だ。まずは怪我を治すことに専念しなさい」
「も、勿論です!」
「それと、私は公私混同はしない。間抜けな隊士を殴る事も怒鳴りつける事も厭わない。私の手を煩わせないように精進する事」
「はい!お時間があれば、是非御指南頂きたく!」
「そうだな…」
杏寿郎の言葉に、黎伊那は少し何かを考えるそぶりを見せる。
「君はいつからまた任務に出るつもりだ」
「医者には数日は安静にと言われておりますが、俺は明日にでも任務に出て、」
「馬鹿者、さっき私の言ったことをもう忘れたのか。まずは怪我を直せ」
「し、失礼致しました」
杏寿郎の頭に手刀を入れるように振り下ろされた黎伊那の左手。そうだった、と杏寿郎ははっとして、恥ずかしげに謝罪を一つ。
「ここは私の管轄から近い。4日後、またこの藤の家紋の家に立ち寄ろう。それまでに呼吸で怪我の回復を促進させなさい。やり方はわかるな」
「はい!父上から聞いたことがあります!」
「よし、では4日後に」
黎伊那はそう杏寿郎に告げると、またも頭をゆるりと撫で、部屋を後にした。
黎伊那が再び杏寿郎のもとを訪れたのは約束より1日遅れてのことだった。杏寿郎が治療の為休息を取っている間、柱として任務に駆け回っていた黎伊那は左腕を吊るして現れた。
「大事ない」
右手で杏寿郎の心配を制し、2人は藤の家紋の家を立った。
「今から行く任務には恐らく十二鬼月がいる」
「え!?」
「本当は君に稽古でもつけられれば良かったんだが、間が悪いことにこの任務が入った。何人もの隊士が派遣され死んでる」
黎伊那曰く、町外れにある宿舎に鬼が潜伏しているとのこと。旅人が訪ねては姿を消している。町人たちは旅人が既に街を立ったものだと思っているらしい。決して街のものは食わず、外からやって来る人間を食う鬼。
「君にはこの任務を拒否する権利がある。これは私への指令だ。今の君はたまたま私に同行しているだけ。どうする?」
「俺も行きます!」
「わかった」
小さく頷くと、黎伊那は町へと向かう速度を上げた。杏寿郎が決して引き離されない絶妙な加速。しかし、決して遅いわけではないし、むしろ杏寿郎は黎伊那の速さについていくことで精一杯だった。
片腕を吊るしている状態での速度にしては恐ろしく速い、杏寿郎はそう感じていた。
「杏寿郎くん、」
「っ、はっ、はいっ!」
「柱の任務は危険なものが多い」
「存じております!」
「そう、…私は君を死なせたりはない」
「!」
「だから安心して任務に臨みなさい」
息を乱すことなく杏寿郎の前を駆ける黎伊那の言葉に、杏寿郎は目を見張った。
柱、父である槇寿郎も同じ階級についていた。鬼殺隊の要。安心感と同時に、己への不甲斐なさも感じた。まだ足りない、この人の背中はずっとずっと先にある、海柱という遠い存在に改めて偉大さを実感した。
町についてからは宿舎に関しての情報を集めに徹した。
町人が言うには、4人家族で夫婦が経営していたが、2人とも病に倒れ今は息子2人が看病をしながら運営している。兄の方はよく薬をもらいに町にやって来る。夫婦の姿はもうずっと見ていない。弟の姿も見ていない。町人が居なくなる、という話は聞いたことがない。
以上のことから、夫婦は既に死んでおり、弟は鬼となっている可能性が高いということが考えられた。昼間も町を歩いているという兄の方だが、此方は人間で間違いないと黎伊那は確信していた。鬼となってしまった弟可愛さ故か、殺されたくないが為に弟に協力しているかはわからないが。どちらにしろ黎伊那にとって許し難い仕業だった。弟を鬼として生かし、人を食わせているなど同じ弟が居た立場として赦せるものでは決してなかった。
器用に町の外からやって来た人を喰らう小癪な屍を、一刻も早く殺さなければならない。
黎伊那と杏寿郎は日が暮れた頃、例の宿舎へとやって来た。一見普通の宿舎に見える外見。この奥で、沢山の一般市民、鬼殺隊の同士達が殺されたと思うと底知れぬ怒りが沸くのを感じる。杏寿郎はぐっと拳を握りしめ、深く呼吸を繰り返した。
そんな杏寿郎の様子に黎伊那は思案する。真っ直ぐなこの少年は少し分かり易すぎる。表情と感情が一致しているのだ。決して悪いことではないのだが、これから鬼殺隊として様々な任務に就くとなるといずれ壁にぶつかる事となる。人を食った鬼ほど一度亡くした知性を身に付ける。人を欺くことが出来る。
それから、怒りは動きを単調にしてしまう。
黎伊那は杏寿郎の肩に触れると、穏やかに話しかけた。
「感情を制御できない者は愚か者よ」
「!」
「怒るな、とは言わない。もちろん私だって怒ってる。鬼の頸は必ず斬る」
「…はい、」
「感情を心の中に押し留める。それから、相手に此方の考えを読ませない様に視線を合わせないこと。眉間や鼻筋、目に近い位置に焦点を置くことで誤魔化せる」
「はい」
「表情はなるべく変えない方がいい。穏やかに笑みを浮かべるも良し、私の様に仏頂面でも構わない。己の面に皮を被せるんだ」
「はい!」
では行こうか、黎伊那の一言で2人は鬼の経営する宿舎へ一歩踏み出した。
宿舎の敷地内は、藤の家紋の家の様に綺麗に手入れされており、本当に人だけで営んでいる様に見える。
黎伊那の視界の端に黄色がチラついた。目を向けると、まるで藤の様に下に垂れ下がる知らない花。綺麗な筈のそれに、黎伊那は形容し難い嫌悪感を覚えた。
「ごめんください」
戸を引き玄関に足を踏み入れる2人。おかしな所は見当たらない普通の宿舎。得体の知れなさに杏寿郎はゾワリ、と肌が栗立つのを感じた。
「はいはい、いらっしゃいませ」
宿の奥から出て来たのは二十代の男。瞳孔も丸みがあり、牙もない。人間だった。
杏寿郎を男から隠す様に、黎伊那は一歩前に出て尋ねる。
「二人泊まりたいんですが、お部屋は空いてますでしょうか」
「お二人ですね、えぇ、空いておりますよ。どうぞ此方へ」
「ありがとうございます」
「お食事はどうされますか?」
「済ませて来たので結構です」
「では朝餉は如何しましょう」
「あぁ…ではお願いします」
「畏まりました」
内心では男への違和感を払拭しきれない黎伊那だったが、表情は変えず淡々と男を観察する。
「お二人はご姉弟ですか?」
「いえ、違います」
「おや、そうでしたか。同じ様な格好をしてらっしゃるもんで」
「いい歳した姉弟はお揃いなどしないと思いますが?」
「へぇ、そりゃあそうですね」
ははは、恥ずかしげに笑う男に黎伊那は違和感の正体に気がついた。この男、外見年齢に対して仕草や話し方が妙に爺臭いのだ。
「あぁ、そうだ。お部屋は別々にしておきましたので」
「はぁ、…"しておきましたので"?」
男の言葉に目を見開き、バッと背後を振り返る。後ろからついて来ていた筈の杏寿郎の姿はない。気が付かなかった事実に顔を歪める黎伊那。刀に手を掛け、男に詰め寄ろうと再び正面に向き直るが、いつの間に消えたのか姿は見えなくなっていた。
「くそッ、」
覇気紛いの能力も今は当てにならない。杏寿郎の気配が消えた事、男も見失った事、全く気が付かなかった。
誰の気配も探ることのできない宿舎。姿を消した少年とまずは合流しなければ。
黎伊那は刀を鞘から抜き、駆け出した。
一方、黎伊那と逸れてしまった杏寿郎は宿舎を一人駆けずり回っていた。
「違った!」
「ここも違う!」
「むぅ、違うな!」
障子を見つけては開け、襖を見つけては開け、を繰り返しながら駆け回っている。
上手く社会の中に擬態しているこの宿舎には、きっと鬼の狩場となる部屋がある筈。が、開ける部屋は全て清潔に綺麗に掃除されており、血の匂いもしない。
そも、杏寿郎と黎伊那が逸れたのは、恐らく鬼の血鬼術によるものだと思われる。男と黎伊那の姿が瞬き一つの内に消えたのである。「船木様!?」慌てて声を上げた杏寿郎だったが、杏寿郎の声が響いただけで誰の返答も返ってこなかった。手負いといえど、黎伊那は柱だ。杏寿郎の心配など無用、ならば己は鬼を見つけ出すしかない。と、思い至り宿を走り回っている次第である。
知らぬ内に宿の端に来てしまった杏寿郎は硝子戸の向こう、すっかり暗くなった外を見る。外からも一度周ってみるか、杏寿郎の勘が冴えているのかどうなのか分からないが、外に出ると鼻を刺激する鉄の匂いが仄かに掠った。
風上から流れているであろうその匂いの元へ杏寿郎はすぐ様駆け出す。日輪刀は既に杏寿郎の右手に収まっている。有事の際、反応ができるようにしっかりと柄を強く握り込んだ。
「見つかるのはやぁい」
整えられた庭の石畳の上に胡座をかいて座っていた鬼。彼を取り囲む様に黄色い花が頭を垂れる様に咲いている。外見年齢は杏寿郎とそれほど変わらない。少年の姿をした鬼は、口元を赤く濡らして杏寿郎の登場に目を細めた。
杏寿郎の中で激情が駆け巡る。怒りのまま頸に斬りかかろうとした杏寿郎だったが、任務前の黎伊那言葉が脳裏で繰り返される。
『感情を制御できない者は愚か者よ』
柱である黎伊那と杏寿郎を一瞬で分担した鬼だ。きっと厄介な血鬼術に違いない。杏寿郎は表情を無くし、鬼の鼻筋へと焦点を当て、刀を構える。
「貴様、十二鬼月だな」
「わぁ、目が合わないのにばれちゃった」
視界に映る瞳には黒い文字が刻まれている。杏寿郎は十二鬼月と会敵したことはない。が、十二鬼月は皆瞳に漢数字が刻まれている、という話は有名だ。
「すごいね、きみ。鬼狩りの人たちはみんな一瞬で僕の血鬼術にハマっちゃったのに」
「なに?」
「みんなすぐ斬りかかって来てさ」
きゃらきゃらと、幼い少年の姿をした鬼は笑う。でも、残念、口を尖らせる鬼は全く残念そうには見えない。
「僕の血鬼術は汎用性が高いんだ」
鬼はゆっくりと杏寿郎の後ろを指差して笑う。ハッとなって慌てて背後を振り向くと、抜き身の刀身を持った黎伊那の姿が。
「船木様!十二鬼月です!恐らく目が合うと鬼の術中に…っ!」
杏寿郎が叫ぶや否や、黎伊那は杏寿郎に斬りかかった。
「っ!?」
反射で現柱による早い太刀筋を躱した杏寿郎だったが、突然の事に目を白黒させる。
隊士同士の斬り合いは隊律違反に当たる。それを知らない筈のない黎伊那が、己に斬りかかったことに杏寿郎は驚きを隠せなかった。そも、黎伊那が杏寿郎に斬りかかる理由にも思い至らない。
刀を振り下ろしたままの体制から、黎伊那はゆっくりと面を開ける。黎伊那は額に汗を滲ませ、歯を食いしばり、表情からは焦燥が感じられた。しかし眼光は鋭く、杏寿郎を睨みつけている。
「船木様…!なぜ突然っ、……まさか!?」
「おぉ!気がついた?勘がいいねぇ君」
無邪気な笑顔で手を叩いて喜ぶ鬼の姿は無垢な少年そのもの。黎伊那が鬼の血鬼術に嵌ってしまった事にいち早く気づいた杏寿郎に対して機嫌をよくした鬼は、己の実績を親に自慢するように語り始める。
「僕の血鬼術は『幻影を見せる事』。ただの幻影じゃないよ、その人間が『最も強い感情を向ける相手』を僕に置き換えさせて、『最も強い感情を持っている出来事』を再現させてるんだ」
術にかかった人間の脳内は覗けないけど、この柱にとって僕は今『命に代えても守りたい存在』で、『その存在の生死を分ける出来事』を見てるみたい、運がいいなあ。
きゃらきゃらと楽しそうに話す鬼。杏寿郎は黎伊那の過去をほじくり回す様な下劣な血鬼術に怒りが煮え立つのを感じた。僅かに残っている理性で、鬼と視線を合わせないようにしながらも睨みつける。
「…血鬼術の発動条件は視線を合わせる事だろう。船木様は俺より後にここに来た」
「あは、血鬼術ってどういうものか知ってる?鬼の血が大事なんだよ」
「どういう意味だ」
杏寿郎は刀を構え、黎伊那からの斬撃に備えながらも鬼へと聞き返す。黎伊那は何かを耐えるように浅い呼吸を繰り返しつつ、未だに杏寿郎を睨みつけている。
そして、少年の鬼は何が嬉しいのか明るい声色で種を明かすように血鬼術の全貌を語った。
「僕の周りに咲いてるこの花…屋敷を取り囲むように点在してるんだよ。僕の血を与えて育てた花、その花の香りが充満してるこの敷地に足を踏み入れた時点で、既に僕の術中なんだよねぇ」
「なっ、」
「特に屋敷内は締め切ってて匂いが濃いから、僕の術に深く掛かりやすい。それに、汎用性が高いって言ったでしょ?ここに本物の僕がずっと座っているように"思わせる"事なんて簡単なんだよ!」
鬼が声を張り上げると同時に、黎伊那が再び杏寿郎へと斬りかかる。呼吸を使っていない純粋な剣術、そして片腕は使えない状態であったが、一般隊士の杏寿郎にとっては柱の一撃はひどく重い。
恐らく船木様の見せられている幻影は、鬼殺隊になる前の出来事、だから呼吸を使わず攻撃してくる、杏寿郎はそう推測して、隙を見て鬼の頸へ刃を向けようとするが、剣術だけでも隙のない柱をそう簡単に潜り抜けられる訳がない。
黎伊那からの斬撃をなんとか躱していると、杏寿郎は黎伊那の顔色がどんどん悪くなっている事に気がついた。鬼の血鬼術がどのようなものかはわかったが、人体に、そして精神にどれほどの影響を及ぼしているのかは分からない。黎伊那の表情はどんどん険しく歪んでいき、ついには地面に片膝をついてしまった。杏寿郎は黎伊那との攻防が止んだ一瞬の好機を逃さない。黎伊那の為にも、早く血鬼術を解かねば、と鬼へと駆け出す。
全集中 炎の呼吸 壱ノ型 不知火
強い踏み込みと共に一気に鬼との距離を詰めた杏寿郎は鬼の頸目掛けて刃を振り下ろす。
が、杏寿郎の背後で片膝をついていたはずの黎伊那が素早く鬼と杏寿郎の間に体を滑り込ませ、左腕の包帯を紐解、杏寿郎の視界を遮る。咄嗟に体を引こうとした杏寿郎だったが、靡いた黎伊那の金色の髪が宙を舞う。解けた紙紐とザンバラに斬られた金が、杏寿郎の動揺へと繋がった。黎伊那は隙だらけになった杏寿郎の鳩尾へ革靴の爪先をめり込ませる。蹴り飛ばされた杏寿郎は五メートル程吹き飛ばされ、受け身を取るように転がる。一瞬意識が飛びかけた杏寿郎だったが、数度咳き込むと黎伊那に向かって声を張り上げる。
「ゴホッ、…っ目を、覚ましてください!!貴女が守っているのはっ、鬼です…!!」
「鬼じゃない!!!」
杏寿郎の言葉を一蹴する黎伊那に、杏寿郎は情けなくも肩を震わせた。
黎伊那は包帯が解けかかっている左手を力無く垂らしているのに対し、刀を握る右手は力が入り過ぎて小さく震えている。
「この子は…っ私たちは、鬼なんかじゃない…!!」
顔色が白く染められていながらも、いつもガラス玉の様ながらんどうな瞳に燃え滾る怒りを杏寿郎は見た。数日前、血鬼術にかかってしまった杏寿郎を一喝した時など、比べ物にならない程の強い感情。怒り、憎しみ、哀しみ、負の感情の全てを煮詰めて、それを杏寿郎は向けられている。恐ろしい眼光に、杏寿郎は黎伊那を畏怖した。それと同時に、あの暖かく優しい人が、こんなにも哀しい感情を持ってしまう様な過去がある事に目頭が熱くなった。
黎伊那は再び杏寿郎へと容赦なく刃を振るう。呼吸はやはり使わない、研ぎ澄まされた剣術は少しずつ威力は落ち、単調になり、黎伊那の身体が限界であることを告げていた。
一体、過去の黎伊那は『命に代えても大切な人』を守るために何と戦っているのか、杏寿郎は皆目検討もつかない。顔色を失っていく黎伊那が、酷く追い込まれていることだけはわかる。
己がなんとかせねば、杏寿郎は痛む身体に鞭打って、再び立ち上がる。
どこにそんな力が有り余っているのか、黎伊那は杏寿郎と何度か撃ち合うと燃える様な赤い日輪刀を弾き飛ばし、海底を思わせる暗い藍色の日輪刀が杏寿郎へ迫る。しかし、またも身体がふらついた黎伊那の刃は間一髪で逸れ、杏寿郎を巻き込んで2人同時に倒れこむ。
そんな二人の姿を見て、嘲笑う声が庭に響いた。
「あっははははは!!バカみたい!どれだけ守ろうとしても、全部偽物なのに!過去に死んだ人間のために必死になっても、全く意味ないのに!このまま目覚めず幻影の中で死んじゃったら廃人みたいになっちゃうのに!」
杏寿郎は鬼の言葉に目を見張り、己の上に乗り上げている黎伊那に視線を向ける。刀を地面に刺し、それを支えに身体を起こしている黎伊那。冷や汗なのか、長い前髪は額と頰に張り付いて、相変わらず顔色も無い。何時ものがらんどうな瞳は、焦点が定まらずどこか虚ろだった。
「船木様!!起きてください!船木様…っ、黎伊那さん!!起きてくれ!!」
「無駄だってばぁ!僕が死ぬか、幻影の中でその鬼狩りが死ぬかしないと術は解けない!君もその人置いて逃げれちゃえばこんな痛い思いしなくて済んだのに。僕に仇を成さない限り、その人君をどうこうしないよ」
「黙れ!人の心を土足で踏み荒らしておいて……!お前の様な鬼を生かしておくわけにはいかない!俺は決して、決して逃げない!!」
かちゃり、支えにしていた刀を握り直した黎伊那に、杏寿郎と鬼は気がつかない。
「終わり?終わりかしら、ねぇ、坊や、終わりなの?」
「ぐっ…!」
「痛そう、えぇ、痛そうだわ。腕も脚も、私の爪で付いた傷、血が流れてるもの、痛いわよね」
よく喋る女の鬼は伸縮自在の爪を使って杏寿郎の体に傷をつけていた。爪を躱したとしてもよく伸びる爪は杏寿郎の皮膚を切り裂いた。丈夫な筈の隊服をも割いてしまう。刀で受けても、力の強い鬼に押され身体のあちこちを何度も打ち付けられた。最早何処の骨が折れているのかもわからない。動きも早く、此方が呼吸を使い技を繰り出す暇も与えない、厄介な鬼だった。十二鬼月には届かないが、相当人間を食っているには違いない。
「可愛い坊や、痛いのは辛いわよね、苦しいわよね、今私が殺してあげる。そうしたら坊やも楽になれるわ。えぇ、それがいい、それがいいわよね?」
にったりと不気味に笑う女の鬼。杏寿郎は恐怖は感じなかった。ただ胸にあるのは、深い後悔だけ。
己が弱く、不甲斐ないばかりに今にも鬼に食われそうになっている。弟と父を残して死んでしまうことへの後悔。
刀を持つ右手に力が入らなかった。己の命を絶たんとする鋭利な爪を、受け入れるように目を瞑った。
海の呼吸 弐ノ型 大津波
大きな波が岩に打ち付けられたような騒音が轟いたように思えた。
甲高い鬼の悲鳴が聞こえたことにより、閉じた瞼を押し上げた杏寿郎の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある褐色の羽織だった。
「アアァ…ッ!!何だ貴様は!?お呼びじゃない、お呼びじゃない!女なぞお呼びじゃない!!私はそこの坊やを…!!よくも邪魔したな!」
「身体が真っ二つになったというのに、よく喋る鬼だな」
「こんなものすぐ治る!!私は鬼だぞ!?こんな傷こんな傷…、すぐにくっついて、くっついて……?」
「はは、滑稽だな。先程までは余裕すらあったというのに」
「貴様、貴様貴様貴様…!」
「見苦しい……。年増が、何時迄もはしゃぐものじゃあないな」
杏寿郎の目の前に現れたのは現柱である船木黎伊那。鬼の力押しに負けることなく、一撃で身体を半分に切断した。
怒れる鬼を嘲笑い、地面にみっともなくジタバタと暴れる様を楽しげに見つめている。
『弐ノ型 大津波』は、傷口を海水で覆われたように傷から流れる血液で膜をつくりだし、鬼の再生を妨害する。身体を再生させることのできない鬼は恐ろしい形相で黎伊那を睨みつけている。
黎伊那は嘲る表情を剥がし、静かに鬼へと告げる。
「貴様、人を沢山食ってきたな。……死んで詫びろ」
怒りを押し殺す声で言葉を紡いだ黎伊那。未だに喚き散らかす鬼の存在など無視し、何ともあっさりと頸を刎ねた。
一方的な黎伊那の斬殺に、見ていることしか出来なかった杏寿郎。鬼の頸が刎ねられた様子を見て気が抜けたのか、張り詰めていた糸が切れた杏寿郎はぷつりと意識を失った。
目が覚めた杏寿郎は藤の家紋の家で治療されていた。
診察してくれた医者曰く、左腕の骨には皹が入っていたが、他の四肢は打撲で済んだらしい。残念なことに肋骨は2本ほど折れていたが。
回復のため、暇を持て余していた杏寿郎だったが、ふと気を失う前のことを思い出した。恐らく己をこの藤の家紋の家に運んでくれたのは黎伊那だろうと検討はついていたが、屋敷に本人は不在だと家主に言われていた。多忙を極める柱が、一隊員のために駆けつけてくれたのだ、礼を伝えなければならない、という使命に駆られた。
杏寿郎は、槇寿郎と黎伊那が絶縁状態になったあの日から黎伊那と一度も会っていなかった。隊士となっても、柱と会うことなど稀である。
命に瀕した杏寿郎の前に現れた黎伊那。杏寿郎の目にはその背中が何よりも大きく見えた。
眠る気にもなれず、回復後の鍛錬について考えていると、廊下を踏み締める足音が1つ。極めて小さい足音だったが、迷うことなく杏寿郎の休む部屋の前でそれは止まった。一体誰だろうか、杏寿郎は黙って障子が開くのを待っていた。
少しの間を置いて、すっと開かれた障子の向こうにいたのは、杏寿郎が会うことを望んでいた人物、黎伊那だった。
数年ぶりに黎伊那と顔を合わせた杏寿郎は一瞬その美貌に目を奪われた。杏寿郎が黎伊那と最後に会ったのは約二、三年前。少女としての愛らしさを残していた黎伊那だったが、今杏寿郎の目の前にいる黎伊那は大人の女性だった。金色の髪はあの頃より更に伸び、相変わらず後頭部で1つに結ばれている。白い肌に傷1つなく、すっと通った鼻筋と形の良い唇は芸術品のようだった。神仏の類とすら思ってしまう美しさに、杏寿郎は言葉を失った。
黎伊那のがらんどうな瞳と目が合った杏寿郎は我に帰り、慌てて挨拶を述べようとしたが、それは叶わなかった。黎伊那が目も止まらぬ速さで杏寿郎に近づくと、胸ぐらを掴み上げ、布団に横たわる杏寿郎を床に押さえつけたのだ。
圧迫感で息が詰まり、肋も傷んだ杏寿郎は思わず呻き声をあげる。見上げた黎伊那の表情は怒りに染まっていた。
「お前、諦めたな」
「うっ…、なに、を……!」
「命をだ、愚か者」
黎伊那の口から出る低い声を、杏寿郎は今まで聞いたことがなかった。穏やかに笑みを浮かべていた己の知る黎伊那など、見る影もない。
「あの時お前の手元には刀があった。まだ振れたはずだ、何故目を閉じた?何故死を受け入れた?」
「よ、わい、己では…勝てないと、判断しました、」
「だからといって命を諦めるやつがあるかっ!!!」
ビリビリと耳、身体、空気を震わせる怒号。杏寿郎は思わず体を強張らせた。
「剣を握ったのなら最後まで足掻け!!」
叱責する黎伊那の声に、杏寿郎は思わず涙が溢れた。堰を切ったように流れる出るそれ。
流石にそんな杏寿郎の様子にギョッとした黎伊那は胸倉から手を離し、伸し掛かっていた身体も退けた。泣いた、泣かせた、あの杏寿郎くんを泣かせてしまった、バツの悪そうな表情だけで動揺を押し隠す黎伊那。大きな瞳から止め処なく流れる雫に僅かに残っていた長女としての秩序が悲鳴を上げた。
対する杏寿郎は、何故己は泣いているのか解らず軽く混乱していた。何故突然涙が、この人が恐ろしくてか、いやそんな事ではない、では何故、脳内では考えを巡らせていたが、それが言葉として音になることはなかった。
「わ、悪い、傷に触ったな」
「ち、ちが、います。俺も、何故泣いているのか…」
慌てて身を起こし、胡座をかいて座る黎伊那と目線を合わせる杏寿郎。何故己は涙を流しているのか、杏寿郎本人にすらわからない。だが、戦闘中どこか霧掛かっていた思考が晴れた気がした。
「船木様のお言葉で、何だが気が晴れました。お恥ずかしながら、戦闘中、どんどん戦意が削がれていたようで、確かに命を諦めたあの時の俺は愚か者で…」
「ちょっと待ちなさい」
「えっ、はい、」
「戦闘中に戦意が削がれていった、と?」
「は、はい。気持ちも萎んでいって、刀を握る力も入らなくなっていったような…」
「それ、血鬼術じゃないのか」
黎伊那の言葉で目が点になった杏寿郎。そういえば、とあの危機的状況を思い出す。血が流れる度に、地面に転がされる度に、鬼に敵わないのではないかと愚かにも思ってしまっていた。己の信念となる母の言葉でさえ、忘れてしまっていた。今思うとそれはとても恐ろしい。
杏寿郎の言葉に黎伊那は、はぁ、と長い溜息を一つこぼすと掌で額を抑えた。
「なら、今ので恐らく解けたな」
「おお!ありがとうございます!」
どこか疲れた様子の黎伊那に対して、逆に何時もの元気を取り戻していく杏寿郎。
女の鬼の血鬼術は、伸縮自在の爪で対象を傷つける毎に戦意や闘志を削いでいくもの。爪に毒があるのか何なのかわからないが、精神に影響を及ぼす部類の血鬼術だと考えられる。
鎹烏が鳴いた示す方向へととんでもない速さで駆けていた黎伊那の目に映ったのは懐かしく感じる燃える炎のような黄と赤の髪色。記憶の中より少し成長した杏寿郎の、士気が感じられない背中だった。
黎伊那はあの槇寿郎と瑠火の息子である杏寿郎が戦う事を諦めていた事にひどく腹が立っていた。『必ず立派な炎柱になる』と決意を滲ませていた少年が、死を受け入れていた様は黎伊那にとって信じられない光景でもあった。最愛の弟と似ても似つかないのに、あの頃与えられなかったものを全て捧げてあげたくなる様な少年。この子の炎まで偽物だと言うのか、と杏寿郎の元へと突撃した次第である。
「あの、船木様、」
「ん、なんだ」
「改めまして、煉獄杏寿郎、鬼殺隊に入隊致しました」
「あぁ、おめでとう」
「ありがとうございます。いつか、貴女と肩を並べられる立派な炎柱に成りますので、これからも宜しくお願い致します」
深々と頭を下げた杏寿郎のつむじをじっと見つめる黎伊那。無意識に伸ばした手は、自然と其処へと吸い込まれ、ゆるりと形の良い頭を撫でる。
怒鳴られた時とは違った意味で、杏寿郎は身体を強張らせる。どこか懐かしい心地に、杏寿郎は行き場の無い気持ちを抱いた。
「煉獄隊士、鬼殺隊は身体が資本だ。まずは怪我を治すことに専念しなさい」
「も、勿論です!」
「それと、私は公私混同はしない。間抜けな隊士を殴る事も怒鳴りつける事も厭わない。私の手を煩わせないように精進する事」
「はい!お時間があれば、是非御指南頂きたく!」
「そうだな…」
杏寿郎の言葉に、黎伊那は少し何かを考えるそぶりを見せる。
「君はいつからまた任務に出るつもりだ」
「医者には数日は安静にと言われておりますが、俺は明日にでも任務に出て、」
「馬鹿者、さっき私の言ったことをもう忘れたのか。まずは怪我を直せ」
「し、失礼致しました」
杏寿郎の頭に手刀を入れるように振り下ろされた黎伊那の左手。そうだった、と杏寿郎ははっとして、恥ずかしげに謝罪を一つ。
「ここは私の管轄から近い。4日後、またこの藤の家紋の家に立ち寄ろう。それまでに呼吸で怪我の回復を促進させなさい。やり方はわかるな」
「はい!父上から聞いたことがあります!」
「よし、では4日後に」
黎伊那はそう杏寿郎に告げると、またも頭をゆるりと撫で、部屋を後にした。
黎伊那が再び杏寿郎のもとを訪れたのは約束より1日遅れてのことだった。杏寿郎が治療の為休息を取っている間、柱として任務に駆け回っていた黎伊那は左腕を吊るして現れた。
「大事ない」
右手で杏寿郎の心配を制し、2人は藤の家紋の家を立った。
「今から行く任務には恐らく十二鬼月がいる」
「え!?」
「本当は君に稽古でもつけられれば良かったんだが、間が悪いことにこの任務が入った。何人もの隊士が派遣され死んでる」
黎伊那曰く、町外れにある宿舎に鬼が潜伏しているとのこと。旅人が訪ねては姿を消している。町人たちは旅人が既に街を立ったものだと思っているらしい。決して街のものは食わず、外からやって来る人間を食う鬼。
「君にはこの任務を拒否する権利がある。これは私への指令だ。今の君はたまたま私に同行しているだけ。どうする?」
「俺も行きます!」
「わかった」
小さく頷くと、黎伊那は町へと向かう速度を上げた。杏寿郎が決して引き離されない絶妙な加速。しかし、決して遅いわけではないし、むしろ杏寿郎は黎伊那の速さについていくことで精一杯だった。
片腕を吊るしている状態での速度にしては恐ろしく速い、杏寿郎はそう感じていた。
「杏寿郎くん、」
「っ、はっ、はいっ!」
「柱の任務は危険なものが多い」
「存じております!」
「そう、…私は君を死なせたりはない」
「!」
「だから安心して任務に臨みなさい」
息を乱すことなく杏寿郎の前を駆ける黎伊那の言葉に、杏寿郎は目を見張った。
柱、父である槇寿郎も同じ階級についていた。鬼殺隊の要。安心感と同時に、己への不甲斐なさも感じた。まだ足りない、この人の背中はずっとずっと先にある、海柱という遠い存在に改めて偉大さを実感した。
町についてからは宿舎に関しての情報を集めに徹した。
町人が言うには、4人家族で夫婦が経営していたが、2人とも病に倒れ今は息子2人が看病をしながら運営している。兄の方はよく薬をもらいに町にやって来る。夫婦の姿はもうずっと見ていない。弟の姿も見ていない。町人が居なくなる、という話は聞いたことがない。
以上のことから、夫婦は既に死んでおり、弟は鬼となっている可能性が高いということが考えられた。昼間も町を歩いているという兄の方だが、此方は人間で間違いないと黎伊那は確信していた。鬼となってしまった弟可愛さ故か、殺されたくないが為に弟に協力しているかはわからないが。どちらにしろ黎伊那にとって許し難い仕業だった。弟を鬼として生かし、人を食わせているなど同じ弟が居た立場として赦せるものでは決してなかった。
器用に町の外からやって来た人を喰らう小癪な屍を、一刻も早く殺さなければならない。
黎伊那と杏寿郎は日が暮れた頃、例の宿舎へとやって来た。一見普通の宿舎に見える外見。この奥で、沢山の一般市民、鬼殺隊の同士達が殺されたと思うと底知れぬ怒りが沸くのを感じる。杏寿郎はぐっと拳を握りしめ、深く呼吸を繰り返した。
そんな杏寿郎の様子に黎伊那は思案する。真っ直ぐなこの少年は少し分かり易すぎる。表情と感情が一致しているのだ。決して悪いことではないのだが、これから鬼殺隊として様々な任務に就くとなるといずれ壁にぶつかる事となる。人を食った鬼ほど一度亡くした知性を身に付ける。人を欺くことが出来る。
それから、怒りは動きを単調にしてしまう。
黎伊那は杏寿郎の肩に触れると、穏やかに話しかけた。
「感情を制御できない者は愚か者よ」
「!」
「怒るな、とは言わない。もちろん私だって怒ってる。鬼の頸は必ず斬る」
「…はい、」
「感情を心の中に押し留める。それから、相手に此方の考えを読ませない様に視線を合わせないこと。眉間や鼻筋、目に近い位置に焦点を置くことで誤魔化せる」
「はい」
「表情はなるべく変えない方がいい。穏やかに笑みを浮かべるも良し、私の様に仏頂面でも構わない。己の面に皮を被せるんだ」
「はい!」
では行こうか、黎伊那の一言で2人は鬼の経営する宿舎へ一歩踏み出した。
宿舎の敷地内は、藤の家紋の家の様に綺麗に手入れされており、本当に人だけで営んでいる様に見える。
黎伊那の視界の端に黄色がチラついた。目を向けると、まるで藤の様に下に垂れ下がる知らない花。綺麗な筈のそれに、黎伊那は形容し難い嫌悪感を覚えた。
「ごめんください」
戸を引き玄関に足を踏み入れる2人。おかしな所は見当たらない普通の宿舎。得体の知れなさに杏寿郎はゾワリ、と肌が栗立つのを感じた。
「はいはい、いらっしゃいませ」
宿の奥から出て来たのは二十代の男。瞳孔も丸みがあり、牙もない。人間だった。
杏寿郎を男から隠す様に、黎伊那は一歩前に出て尋ねる。
「二人泊まりたいんですが、お部屋は空いてますでしょうか」
「お二人ですね、えぇ、空いておりますよ。どうぞ此方へ」
「ありがとうございます」
「お食事はどうされますか?」
「済ませて来たので結構です」
「では朝餉は如何しましょう」
「あぁ…ではお願いします」
「畏まりました」
内心では男への違和感を払拭しきれない黎伊那だったが、表情は変えず淡々と男を観察する。
「お二人はご姉弟ですか?」
「いえ、違います」
「おや、そうでしたか。同じ様な格好をしてらっしゃるもんで」
「いい歳した姉弟はお揃いなどしないと思いますが?」
「へぇ、そりゃあそうですね」
ははは、恥ずかしげに笑う男に黎伊那は違和感の正体に気がついた。この男、外見年齢に対して仕草や話し方が妙に爺臭いのだ。
「あぁ、そうだ。お部屋は別々にしておきましたので」
「はぁ、…"しておきましたので"?」
男の言葉に目を見開き、バッと背後を振り返る。後ろからついて来ていた筈の杏寿郎の姿はない。気が付かなかった事実に顔を歪める黎伊那。刀に手を掛け、男に詰め寄ろうと再び正面に向き直るが、いつの間に消えたのか姿は見えなくなっていた。
「くそッ、」
覇気紛いの能力も今は当てにならない。杏寿郎の気配が消えた事、男も見失った事、全く気が付かなかった。
誰の気配も探ることのできない宿舎。姿を消した少年とまずは合流しなければ。
黎伊那は刀を鞘から抜き、駆け出した。
一方、黎伊那と逸れてしまった杏寿郎は宿舎を一人駆けずり回っていた。
「違った!」
「ここも違う!」
「むぅ、違うな!」
障子を見つけては開け、襖を見つけては開け、を繰り返しながら駆け回っている。
上手く社会の中に擬態しているこの宿舎には、きっと鬼の狩場となる部屋がある筈。が、開ける部屋は全て清潔に綺麗に掃除されており、血の匂いもしない。
そも、杏寿郎と黎伊那が逸れたのは、恐らく鬼の血鬼術によるものだと思われる。男と黎伊那の姿が瞬き一つの内に消えたのである。「船木様!?」慌てて声を上げた杏寿郎だったが、杏寿郎の声が響いただけで誰の返答も返ってこなかった。手負いといえど、黎伊那は柱だ。杏寿郎の心配など無用、ならば己は鬼を見つけ出すしかない。と、思い至り宿を走り回っている次第である。
知らぬ内に宿の端に来てしまった杏寿郎は硝子戸の向こう、すっかり暗くなった外を見る。外からも一度周ってみるか、杏寿郎の勘が冴えているのかどうなのか分からないが、外に出ると鼻を刺激する鉄の匂いが仄かに掠った。
風上から流れているであろうその匂いの元へ杏寿郎はすぐ様駆け出す。日輪刀は既に杏寿郎の右手に収まっている。有事の際、反応ができるようにしっかりと柄を強く握り込んだ。
「見つかるのはやぁい」
整えられた庭の石畳の上に胡座をかいて座っていた鬼。彼を取り囲む様に黄色い花が頭を垂れる様に咲いている。外見年齢は杏寿郎とそれほど変わらない。少年の姿をした鬼は、口元を赤く濡らして杏寿郎の登場に目を細めた。
杏寿郎の中で激情が駆け巡る。怒りのまま頸に斬りかかろうとした杏寿郎だったが、任務前の黎伊那言葉が脳裏で繰り返される。
『感情を制御できない者は愚か者よ』
柱である黎伊那と杏寿郎を一瞬で分担した鬼だ。きっと厄介な血鬼術に違いない。杏寿郎は表情を無くし、鬼の鼻筋へと焦点を当て、刀を構える。
「貴様、十二鬼月だな」
「わぁ、目が合わないのにばれちゃった」
視界に映る瞳には黒い文字が刻まれている。杏寿郎は十二鬼月と会敵したことはない。が、十二鬼月は皆瞳に漢数字が刻まれている、という話は有名だ。
「すごいね、きみ。鬼狩りの人たちはみんな一瞬で僕の血鬼術にハマっちゃったのに」
「なに?」
「みんなすぐ斬りかかって来てさ」
きゃらきゃらと、幼い少年の姿をした鬼は笑う。でも、残念、口を尖らせる鬼は全く残念そうには見えない。
「僕の血鬼術は汎用性が高いんだ」
鬼はゆっくりと杏寿郎の後ろを指差して笑う。ハッとなって慌てて背後を振り向くと、抜き身の刀身を持った黎伊那の姿が。
「船木様!十二鬼月です!恐らく目が合うと鬼の術中に…っ!」
杏寿郎が叫ぶや否や、黎伊那は杏寿郎に斬りかかった。
「っ!?」
反射で現柱による早い太刀筋を躱した杏寿郎だったが、突然の事に目を白黒させる。
隊士同士の斬り合いは隊律違反に当たる。それを知らない筈のない黎伊那が、己に斬りかかったことに杏寿郎は驚きを隠せなかった。そも、黎伊那が杏寿郎に斬りかかる理由にも思い至らない。
刀を振り下ろしたままの体制から、黎伊那はゆっくりと面を開ける。黎伊那は額に汗を滲ませ、歯を食いしばり、表情からは焦燥が感じられた。しかし眼光は鋭く、杏寿郎を睨みつけている。
「船木様…!なぜ突然っ、……まさか!?」
「おぉ!気がついた?勘がいいねぇ君」
無邪気な笑顔で手を叩いて喜ぶ鬼の姿は無垢な少年そのもの。黎伊那が鬼の血鬼術に嵌ってしまった事にいち早く気づいた杏寿郎に対して機嫌をよくした鬼は、己の実績を親に自慢するように語り始める。
「僕の血鬼術は『幻影を見せる事』。ただの幻影じゃないよ、その人間が『最も強い感情を向ける相手』を僕に置き換えさせて、『最も強い感情を持っている出来事』を再現させてるんだ」
術にかかった人間の脳内は覗けないけど、この柱にとって僕は今『命に代えても守りたい存在』で、『その存在の生死を分ける出来事』を見てるみたい、運がいいなあ。
きゃらきゃらと楽しそうに話す鬼。杏寿郎は黎伊那の過去をほじくり回す様な下劣な血鬼術に怒りが煮え立つのを感じた。僅かに残っている理性で、鬼と視線を合わせないようにしながらも睨みつける。
「…血鬼術の発動条件は視線を合わせる事だろう。船木様は俺より後にここに来た」
「あは、血鬼術ってどういうものか知ってる?鬼の血が大事なんだよ」
「どういう意味だ」
杏寿郎は刀を構え、黎伊那からの斬撃に備えながらも鬼へと聞き返す。黎伊那は何かを耐えるように浅い呼吸を繰り返しつつ、未だに杏寿郎を睨みつけている。
そして、少年の鬼は何が嬉しいのか明るい声色で種を明かすように血鬼術の全貌を語った。
「僕の周りに咲いてるこの花…屋敷を取り囲むように点在してるんだよ。僕の血を与えて育てた花、その花の香りが充満してるこの敷地に足を踏み入れた時点で、既に僕の術中なんだよねぇ」
「なっ、」
「特に屋敷内は締め切ってて匂いが濃いから、僕の術に深く掛かりやすい。それに、汎用性が高いって言ったでしょ?ここに本物の僕がずっと座っているように"思わせる"事なんて簡単なんだよ!」
鬼が声を張り上げると同時に、黎伊那が再び杏寿郎へと斬りかかる。呼吸を使っていない純粋な剣術、そして片腕は使えない状態であったが、一般隊士の杏寿郎にとっては柱の一撃はひどく重い。
恐らく船木様の見せられている幻影は、鬼殺隊になる前の出来事、だから呼吸を使わず攻撃してくる、杏寿郎はそう推測して、隙を見て鬼の頸へ刃を向けようとするが、剣術だけでも隙のない柱をそう簡単に潜り抜けられる訳がない。
黎伊那からの斬撃をなんとか躱していると、杏寿郎は黎伊那の顔色がどんどん悪くなっている事に気がついた。鬼の血鬼術がどのようなものかはわかったが、人体に、そして精神にどれほどの影響を及ぼしているのかは分からない。黎伊那の表情はどんどん険しく歪んでいき、ついには地面に片膝をついてしまった。杏寿郎は黎伊那との攻防が止んだ一瞬の好機を逃さない。黎伊那の為にも、早く血鬼術を解かねば、と鬼へと駆け出す。
全集中 炎の呼吸 壱ノ型 不知火
強い踏み込みと共に一気に鬼との距離を詰めた杏寿郎は鬼の頸目掛けて刃を振り下ろす。
が、杏寿郎の背後で片膝をついていたはずの黎伊那が素早く鬼と杏寿郎の間に体を滑り込ませ、左腕の包帯を紐解、杏寿郎の視界を遮る。咄嗟に体を引こうとした杏寿郎だったが、靡いた黎伊那の金色の髪が宙を舞う。解けた紙紐とザンバラに斬られた金が、杏寿郎の動揺へと繋がった。黎伊那は隙だらけになった杏寿郎の鳩尾へ革靴の爪先をめり込ませる。蹴り飛ばされた杏寿郎は五メートル程吹き飛ばされ、受け身を取るように転がる。一瞬意識が飛びかけた杏寿郎だったが、数度咳き込むと黎伊那に向かって声を張り上げる。
「ゴホッ、…っ目を、覚ましてください!!貴女が守っているのはっ、鬼です…!!」
「鬼じゃない!!!」
杏寿郎の言葉を一蹴する黎伊那に、杏寿郎は情けなくも肩を震わせた。
黎伊那は包帯が解けかかっている左手を力無く垂らしているのに対し、刀を握る右手は力が入り過ぎて小さく震えている。
「この子は…っ私たちは、鬼なんかじゃない…!!」
顔色が白く染められていながらも、いつもガラス玉の様ながらんどうな瞳に燃え滾る怒りを杏寿郎は見た。数日前、血鬼術にかかってしまった杏寿郎を一喝した時など、比べ物にならない程の強い感情。怒り、憎しみ、哀しみ、負の感情の全てを煮詰めて、それを杏寿郎は向けられている。恐ろしい眼光に、杏寿郎は黎伊那を畏怖した。それと同時に、あの暖かく優しい人が、こんなにも哀しい感情を持ってしまう様な過去がある事に目頭が熱くなった。
黎伊那は再び杏寿郎へと容赦なく刃を振るう。呼吸はやはり使わない、研ぎ澄まされた剣術は少しずつ威力は落ち、単調になり、黎伊那の身体が限界であることを告げていた。
一体、過去の黎伊那は『命に代えても大切な人』を守るために何と戦っているのか、杏寿郎は皆目検討もつかない。顔色を失っていく黎伊那が、酷く追い込まれていることだけはわかる。
己がなんとかせねば、杏寿郎は痛む身体に鞭打って、再び立ち上がる。
どこにそんな力が有り余っているのか、黎伊那は杏寿郎と何度か撃ち合うと燃える様な赤い日輪刀を弾き飛ばし、海底を思わせる暗い藍色の日輪刀が杏寿郎へ迫る。しかし、またも身体がふらついた黎伊那の刃は間一髪で逸れ、杏寿郎を巻き込んで2人同時に倒れこむ。
そんな二人の姿を見て、嘲笑う声が庭に響いた。
「あっははははは!!バカみたい!どれだけ守ろうとしても、全部偽物なのに!過去に死んだ人間のために必死になっても、全く意味ないのに!このまま目覚めず幻影の中で死んじゃったら廃人みたいになっちゃうのに!」
杏寿郎は鬼の言葉に目を見張り、己の上に乗り上げている黎伊那に視線を向ける。刀を地面に刺し、それを支えに身体を起こしている黎伊那。冷や汗なのか、長い前髪は額と頰に張り付いて、相変わらず顔色も無い。何時ものがらんどうな瞳は、焦点が定まらずどこか虚ろだった。
「船木様!!起きてください!船木様…っ、黎伊那さん!!起きてくれ!!」
「無駄だってばぁ!僕が死ぬか、幻影の中でその鬼狩りが死ぬかしないと術は解けない!君もその人置いて逃げれちゃえばこんな痛い思いしなくて済んだのに。僕に仇を成さない限り、その人君をどうこうしないよ」
「黙れ!人の心を土足で踏み荒らしておいて……!お前の様な鬼を生かしておくわけにはいかない!俺は決して、決して逃げない!!」
かちゃり、支えにしていた刀を握り直した黎伊那に、杏寿郎と鬼は気がつかない。