最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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船木黎伊那、十五歳。本日をもって『海柱』の御位をお館様より授かる。
「拝命いたします」
日本ではまず見る事のない、金色の髪を一つで結び、少女が頭を下げるとさらりと揺れる。褐色の羽織によく映えるそれは日光に当てられキラキラと輝かしく美しい。ほんの少し垂れた優しげな印象を抱く目元と対照的な暗い瞳は、少女の危うさを演出しており、どこか惹かれる魅力がある。
入隊して二年、齢十五にして早くも柱へと上り詰めた実力は頼もしくもあり、憐れでもある。見目が優れているこの少女なら、きっと良い話だって後を絶たなかっただろう。人並みの幸せを得られない我が子たちを想って、産屋敷家当主は今日も胸を痛める。
曰く、海柱は鬼の様に強いらしい。
曰く、海柱は鬼の様に怖いらしい。
新たに就任した海柱について、鬼殺隊内では様々な噂が飛び交っていた。現柱たちも、水柱の粟嶋と炎柱の煉獄を除いて誰一人として海柱には会ったことがない。
しかし、半年に一度開かれる柱合会議が行われるのは今日。新たに海柱が就任して約二ヶ月後のことだった。
様々な噂が飛び交う海柱について、他の柱たちは一体どんな大男が新たに加わったのかと、どこかソワソワと落ち着きなく会議が始まるのを待っていた。
煉獄槇寿郎は、まさかあの時、間に合わなかった少女が僅か入隊から二年で柱にまで上り詰めるとは、とどこか浮かない顔をしている。会議が始まり、他の柱の前に嘗ての少女が現れても尚、少女に対し憐れむ気持ちが萎むことはなかった。
「お初にお目にかかります。新たに柱に就任いたしました、船木黎伊那に御座います」
現れたのは、他の柱たちが思い描いていた鬼の様に強くて怖い巨漢とは遠く離れていた、まだ十代そこらの少女だった。女の柱は珍しく、また未だ子供であるという事実に驚きを隠せない。前例がないわけではない、しかしここ最近十代の女子が柱まで上り詰めることは極僅かであった。
粟嶋は目を細めて黎伊那の様子を見やる。あの頃より成長した少女は、遂にここまで来てしまった。槇寿郎と粟嶋は共に憂う。柱の地位に就くということは、彼女に死ぬ理由を多く与えてしまう。
鬼殺隊における柱の任務は平隊士に比べて過酷である。また、葵から甲までの隊士と組んだ際、率先して前線に立つのも柱。そして、少し歪んではいるが、強い正義感を持つ黎伊那ならば、恐らく誰かの肉壁にでもなり兼ねない。二人はそれが心配でたまらなかった。
「黎伊那」
「粟嶋さん、お久しぶりです」
「あぁ、久しぶりだな。柱就任、おめでとう」
「ありがとうございます」
「こちらは炎柱の煉獄槇寿郎さんだ」
「あ、はじめまして…あの日、貴方のお陰で、今私はこの場に立てています。その節はどうもありがとうございました」
やけに大人びた黎伊那は、薄く微笑むと煉獄に感謝を伝える。一瞬言葉に詰まる槇寿郎だったが、いつも通り快活に告げる。
「そ、そうか!ここまで来るのは並大抵の努力では不可能!よく頑張ったな!」
「とんでもないです」
「しかし、黎伊那よ、お前に関する妙な噂が隊内に広まっているぞ」
「噂、ですか」
「うむ!なんでも、海柱はとてつもなく強く、そして恐ろしいとか!柱になるのだから強くなくては困るのだかな!」
「恐ろしい…?腰抜け隊士のケツを叩いていただけですよ」
腰抜け…?ケツ…?可憐な見目の少女の口から出てきたとはとても思えない言葉に粟嶋と槇寿郎は目を見張る。
「鬼殺隊はどうも平隊士が使えなくてダメですね。何の功績も残さず犬死するのが多すぎます」
「くっ、口が悪いぞ!?」
違う、そうだけどそうじゃない、槇寿郎は思わず声をあげた粟嶋に対して心の内で突っ込む。
何ということだ…きっとこの少女の性格さえ歪めてしまったのは己の所為、己があの時間に合わなかったからだ…などと槇寿郎は人知れず後ろ向きに捉えてしまうが、黎伊那という女は前世から嫌味で皮肉屋で、高飛車な人間であった。
「何というか…質が悪いですよね、隊士の。柱との実力の差があり過ぎます。何かもっと、全体で訓練などしたほうがいいのでは?」
嘗て軍人として海の治安を守っていた黎伊那の意見は最もだった。鬼殺隊の下級隊士は直ぐに死ぬ。入れ替わりも激しく、人材もなかなか育たないというのが悩みであった。自ずと柱たちとの実力の差も開いてしまう。
「まぁ、所詮柱になったばかりの新参者で、十五そこらの小娘による戯言ですが」
「いや、そんなことはない。船木の意見は最もだ!」
黎伊那の己を皮肉る言葉を真っ向から否定する槇寿郎に黎伊那は驚く。軍人だった頃は傍若無人な祖父と不真面目でサボり癖のある直属の上司に何かと振り回されていた。その二人に比べれば比較的まともだった黎伊那の目に、槇寿郎は珍しいタイプの男に映った。
その後黎伊那は初めての柱合会議を無事に終え、面倒見のいいらしい槇寿郎は自身の屋敷へと黎伊那を誘った。粟嶋は残念ながら己の鎹烏が鳴いた事により任務に行かざるを得なくなったが、上司の誘いを断ったことがない黎伊那は是非、と屋敷へ邪魔する事にした。
黎伊那は思ったより大きな屋敷である煉獄家に呆気にとられたものの、さっさと門を潜る槇寿郎に続いて屋敷の敷地へと進む。
「父上!」
「おお!杏寿郎、ただいま帰った!」
「おかえりなさいませ、父上!!」
二人が敷地を踏んで程なくして少年特有の高い声が辺りに響いた。玄関から父である槇寿郎の元へ駆けてきたのは長男の杏寿郎。黎伊那は屋敷に向かう道中、槇寿郎から息子が二人いること、二人とも母親には余り似ず、容姿の要素はほとんど己だと聞いて、そうなんですね、と軽く流していたのだが余りに煉獄親子がそっくり過ぎて杏寿郎と槇寿郎へ視線を行ったり来たりさせている。似ているどころの話ではなく、クローンと言われたほうがまだ納得できる。
「杏寿郎、今日は客人を連れてきたぞ!」
クローン親子に度肝を抜かれていた黎伊那だったが、槇寿郎の言葉に我に帰る。齢十五にして、既に背丈が五尺二寸(約160㎝)を超えていた黎伊那は幼い杏寿郎の視線に合わせるように膝を折ると顔に微笑みを浮かべ、己が出せる精一杯の優しい声で名を名乗った。
「はじめまして、船木黎伊那です。君のお父上には大恩があり、この度は屋敷にお招きして頂きました」
「は、はい、ようこそおいでくださいました、船木様!私は煉獄杏寿郎と申します!」
「ふふ、君は元気が良くて気持ちがいいわね」
「ありがとうございます!」
誰だこれは、槇寿郎は先程歯に衣着せぬ物言いをしていた黎伊那と本当に同一人物かと黎伊那を凝視する。出会った当初恐ろしく暗い瞳をしていたのはどこの誰だ、腰抜け隊士のケツを叩いていたという恐ろしいと噂の海柱はどこへ行ったのだ、と問いかけそうになるのをすんでのところで飲み込んだ。
「き、杏寿郎、瑠火に客人が来たと伝えてくれ。父上たちは少し任務のことで話があるのでな」
「わかりました!」
杏寿郎は大きく頷くとぺこり、と黎伊那に頭を下げて屋敷の中へと入っていった。
「任務のことで話、とは?」
「立話もなんだ、屋敷に入りなさい」
「えぇ、お邪魔いたします」
「…君、あんな顔もできたんだな」
「子どもに対して柔らかく接するのは当然でしょう。安心してください、ご家族の前では猫くらい被れます」
「いや、君のそれは猫というより……うん、そうだな。そうしてくれ!」
黎伊那にはある程度自覚があった。いや、自覚がないと困るのだが。己の口が悪いことや言葉が厳しいものであるということ、顔の表情が乏しいということ、ーーー表情が乏しいのは主に生気の無い瞳のせいであるーーー自身の心が貧しいことも自覚していた。だからこそ、恩を感じている槇寿郎の家族の前では愛想良くしようと努力しているのだ。同僚として再会した槇寿郎に猫を被ることは叶わなかったが、もし再会が柱としてではなく平隊士であった時ならば愛想良く挨拶していた。
因みに、粟嶋とは鱗滝の元へ行くまでに数日共に過ごしていたこともあり、今更気を使う気になれないので、再会した場合は猫を被るような事はしない。
*
キラキラと眩しい金の髪をした方は、父上の客人として、初めて我が家を訪れた。
「はじめまして、船木黎伊那です。君のお父上には大恩があり、この度は屋敷にお招きして頂きました」
船木黎伊那様と名乗るそのお人は、
美しい
「母上!父上がお客人をお連れてお帰りになられました!」
「あら、父上のお迎えありがとう、杏寿郎。お客様は何人いらしてましたか」
「お一人です!粟嶋様はおられませんでした!恐らく任務が入ったのかと!」
「そうですか。ならば客間にお茶をお出ししないと行けませんね。杏寿郎、お願いできますか」
「勿論です母上!」
盆に湯呑みを二つのせ、お二人がいらっしゃる客間へと向かう。湯呑みの茶が溢れないよう、そーっとそーっと運ぶことを忘れない。客間ではなく、客間の障子を開け放し、縁側に座り込んで何やら話をしている父上と船木様がいらした。己がゆっくりと茶を運んでいる事に気がついたのは船木様だったが、生憎茶を零さないことに集中していたため、お二人が己を見守っていることに気がつかなかった。
「お茶をお持ちしました!」
湯呑みに意識を向けながら、視界に船木様の金色が入った頃、己が持ってきたのだと主張した。
お二人の背後に回り、最後まで油断することなくお茶をお出しすることができたことに達成感を感じていた。
「杏寿郎くん、ありがとう」
船木様に名前を読んで頂き、感謝の言葉まで頂いてしまい、くすぐったく感じてしまう。
ふと、船木様の真横に置かれている刀が気になり、思うがままに問いかける。
「船木様は刀をふた振りお使いになるのですか?」
「えぇ、そうよ。私の刀、見るかしら」
「良いのですか!」
「勿論」
船木様は快く了承してくださり、ふた振りのうち手前に置いてあった刀を手に取ると、柄を握り、危なげなく刀を鞘から抜いた。
鞘から現れた刀身は黒に近い色だが、黒ではなく、藍色にも見える色味をしていた。
「ほう、褐色か」
「ええ、その通りです」
「かちいろ、ですか?」
父上は感心したように船木様の刀を己と一緒にご覧になっていた。父上曰く、褐色。濃い藍色のそれはとても縁起のいい色らしい。
「勝色ですか!すごい!すごいです!」
「流石、とてもお強いと噂の海柱殿だな!」
「炎柱殿はお世辞がお上手ですね」
「船木よ、謙遜するな!」
「う、海柱?」
父上の『海柱』と称した言葉に驚きを隠せず、思わず声を上げてしまった。
きょとん、と和やかに会話を続けていらっしゃった父上と船木様は言葉を止め、己へと視線が集まる。船木様は一度、刀身を鞘に収めて己へと向き直る。
よもや、この美しい人が、船木様が柱だとは思いもしなかった。
「船木はつい二ヶ月程前に柱になった優秀な隊士だ!」
「とんでもないです。鬼を狩っていたらいつの間にやら、というやつですよ」
「普通は鬼を狩っていてもいつの間にやら柱になることはないぞ!」
「失礼ですが、船木様おいくつでいらっしゃるのでしょうか!」
「十五になるわね」
「じゅっ…!?」
己より六つも歳上と言っても、まだ隊士にすらなっていない己の遥か遠くにおられる事実に心底驚いてしまった。
「杏寿郎くんも、いずれ鬼殺隊に?」
「嗚呼、そのつもりだ。既に鍛錬も始めている」
「そうですか、…杏寿郎くん、今おいくつなの?」
「九つです!」
「それはそれは…」
船木様の上がっていた口角は徐々に下がっていき、瞳も伏せられてしまった。先程までしっかり己の目を見て話してくれていたのに、一体どうしたのだろうか。不思議に思い、父上を見上げるが、何やら父上も珍しく難しい表情をしていらした。
「あの…?」
様子のおかしいお二人に声を掛けると、瞳を伏せていた船木様と再び目が合った。ぞくり、得体の知れない何かが背筋に走った。船木様の目は、何者かに乗っ取られたように、まるで別人が乗り移ったように、全く違う表情を見せた。いや、表情などない、感情などない、真っ暗な瞳は、子供ながらに酷く恐ろしいものに見えた。
「…ぁ、」
思わず出てしまった喘ぎは、一瞬で空気中に分散した。
「……杏寿郎くんは偉いわね!」
「え…」
「ははは!杏寿郎は強くなって、弱き人のために刀を振るうものな!」
「は、はい、父上のように立派な柱になってみせます!」
船木様と父上に合わせ、咄嗟にいつもの調子に戻したが、船木様はやはり若くても柱の方だった。視線一つで、己は恐ろしくなり、身体が硬くなってしまったのだ。海柱の船木様は、美しくも恐ろしい人だと、当時はそれしかわからなかった。彼女が本当は、とても悲しい人だというのは、己が入隊してしばらく経ってから知った事だった。
*
良くない事が立て続けに起こったのは、不運としか言いようがなかった。
煉獄から黎伊那宛に手紙が届いたのはつい先日のことだった。煉獄の妻である瑠火が病で亡くなったとのこと。黎伊那宅に機会があれば訪れることもあった黎伊那は、瑠火とも親交があり、体調が芳しくない事も聞き及んでいた。まさか、黎伊那が任務で追われている頃、瑠火が危篤状態であったなど、思いもよらなかった。
鬼殺隊・柱の妻らしく、心の強い人だったが、病には敵わなかったらしい。まだ息子二人も幼いというのに、黎伊那は槇寿郎が気の毒でならなかった。
葬儀の日付も共に綴られて送られてきたが、柱として多忙を極める黎伊那は出席できそうになかった。藤の家紋の屋敷で休息中、瑠火の死を尊ぶ事とした。
そして、瑠火の死を知ってから数日後の今日、任務で負った傷を癒している時、鎹烏が鳴いた。
「水柱ァ!北北西ニテ上弦ト会敵ィ!北北西ェ!北北西二今スグ向カエ!!」
「は、」
上弦と聞き、一瞬呆気に取られるも、痛む身体に鞭を打ち、すぐ様隊服に袖を通す。
黎伊那は十二鬼月には、一度しか会敵した事がない。それも下弦の鬼だった。粟嶋は今、上弦と会敵中。柱を何十人と殺してきた、上弦。未だ包帯の取れない身体でありながらも瞳に宿るのは強い怒り。私が殺さなければならない、その強い気持ちだけで黎伊那は屋敷の外へと向かう。
途中、同じく休息中の隊士と遭遇したが、何か言われる前に間髪入れず、日の出と共に北北西に来い、と告げると返事を聞く事なく姿を消した。
日の出までそれ程時間があるわけではない。あの粟嶋がまさか鬼に殺されるとは思えないが、兎に角急ぐしかなかった。
全集中 海の呼吸 玖ノ型 海風
水の呼吸の派生である海の呼吸は独特な歩法で、水の呼吸より少し踏み込む。『玖ノ型 海風』は海の呼吸最速で移動する事ができ、主に鬼と間合いを一瞬で詰めるために短距離間で使用するが、今回は粟嶋の元へ向かうため、初めて長距離間で使用した。
見聞色紛いで気配を探るが、なかなかたどり着かない。まだ先か、どこまで行けばいいんだ、焦る黎伊那だったがそれでも粟嶋と上弦はまだ見当たらない。
「!?っ粟嶋さん!」
木の陰から豆だらけの片腕が覗いていた。見覚えのある浅葱色の袖は間違いなく粟嶋のもの。慌てて黎伊那は駆け寄ったが、片腕は持ち主を亡くした状態で横たわっていた。
「うそ、」
粟嶋さんの身体は、頭は、なぜ腕だけ、食われ…、恐ろしい考えが頭を過るが、ある事に気がつく。転がっている腕はどうやら千切られただとか、そう言った傷跡ではなかった。傷は綺麗に肉を断っており、恐らく刃物で切られている。まだだ、おそらくまだ、粟嶋さんは生きている、黎伊那はそう言い聞かせると再び走り出した。
黎伊那が思うに、あの片腕は粟嶋が自身で切り落としたか、刀を使う知能を持った鬼に切られたかの二択。あの粟嶋の片腕を取るなど、やはり上弦の鬼というのは恐ろしい。だからこそ、これ以上柱を殺されないためにも、奴らを殺さなければならない。
粟嶋には世話になった。義父母を亡くし、嘗ての記憶を取り戻した黎伊那が、最も不安定な時期に10日にも満たない期間であったが、何かと世話を焼いてくれた。あんなに愛想の無い、可愛げのない子供の相手をさせて、今は非常に申し訳なく思うが、同時にとてもありがたいとも思う。心が貧しいと自覚している黎伊那だったが、黎伊那は元来義理堅く、慈悲深い海兵だった。血の繋がりもない、赤の他人の死すら嘆くことのできる、血の通った立派な海兵だったのだ。
恩は恩で返さなければならない。粟嶋といえども、片腕だけで上弦に敵うのは不可能に近い。
走れ、走れ走れ、疾く、もっと疾く走れるだろう!己を叱責する黎伊那だったが、正直身体は悲鳴を上げていた。先の任務で腹に傷をこさえ、海風を多用することで下半身は今にもはちきれそうだった。
歯を食いしばり、木の間を駆け抜けている時分、男の叫び声が響いた。何かを耐えるような聞いているこちらが苦しくなる痛ましい声は、鬼のものではない。
粟嶋は、黎伊那の目と鼻の先にいたのだ。
「粟嶋さん!!」
空が白んできたお陰で、粟嶋がどんな状態にいるのか黎伊那の目にはよく見えた。
「あ、ああぁっ…!」
粟嶋は生きていた。隊服や浅葱色の羽織を地で汚しながらも、己の足で地の上に立っていた。しかし、黎伊那は目を疑った。そんな、そんな馬鹿な、言葉にはならず、喘ぐことしか出来なかった。
粟嶋は無くしたはずの片腕がしっかりと生えているのだ。隊服の片袖を失い、肌を外気に晒した状態で。
なんと粟嶋は、鬼になってしまった。
「ぐ、ガッ、ガアァ…ッ!」
己の目の前にいるのは、既に粟嶋では無いのだ。粟嶋の皮を被った"鬼"だ。
憐れによだれを垂らし、縦に開ききった瞳孔で、黎伊那を完全に食料としか見ていない捕食者の獣。
誇り高い水柱が、狩るべき存在に成り果てるなんて、やはりこの世は理不尽で出来ているのか、怒りでどうにかなりそうだった。黎伊那は心が折れそうになりながらも、怒りで自身の正気を奇跡的に保っている状態だった。相対している鬼が、恩人だと認識し斬りかかることができないでいた。
「………っ粟嶋さんは、…死んだ、」
己に言い聞かせるように小さく呟く。粟嶋は死に、生き絶えた、そして今目の前にいるのは、不運にも海柱の私と会敵してしまった雑魚鬼だ、余計な感情をそぎ落とすように静かに息を吐き出す黎伊那。怒りで震えた身体から、徐々に余計な力が抜けていく。いきっていた肩も下がり、かちゃかちゃと鬱陶しかった刀の音も鳴り止む。
「全集中 海の呼吸 玖ノ型 海風」
理性をなくし、人間の尊厳すら失った鬼へと、ほんの一瞬で距離を詰める。鬼にはどうすることもできない、黎伊那の為の間合いに入った。
「拾ノ型 朝凪」
風すら起こることなく何一つ無駄のない動きで振られた刃は真っ直ぐ鬼の頸を斬首した。
鬼は未だに己の頸が切られたことに気がついていないのか表情は変わらず獣そのものだった。嗚呼なんと憐れな。朝凪で切られた鬼は、己の頸が切られたことすら分からずに死ぬ。
チカ、と木々の隙間から差し込んだ光が、黎伊那の視界を遮る。
「黎伊那、」
粟嶋の声が聞こえた。己の名を呼ぶ、粟嶋の声が。
頸は既に塵となり、消えている。隊服だけを残し、徐々に体積を失っていく胴体から言葉が続いた。
「ありがとうな」
*
「水柱ァ!北北西ニテ上弦ト会敵ィ!北北西ェ!北北西二今スグ向カエ!!」
私が任務により負傷した体を癒している時、屋敷に鎹烏の鳴き声が響きました。その鎹烏は私の烏ではなく、別の隊士の方の烏でした。私は肋骨を2本ほど折っており、鳴き声に驚き飛び起きたところ、ウッと息がつまる程には痛みがありました。痛みに数秒耐え、すぐに隊服を着込み慌てて部屋の外へと出ると、誰かの足音がこちらに向かっていました。足音は最小限でしたが、酷く慌てていることがわかりました。あぁ、あの人の烏のが鳴いたのだ、と私は思いました。
驚くことになんと、足音の主は、海柱様だったのです。
海柱様は金色の髪を持ち、外国との混血児らしく、彫りの深い美しい顔立ちの方だと私はお聞きしておりました。斯様な珍しい容姿を持つ隊士は二人といません。私はすぐにこの方が海柱様だと思い至ったのです。
「日の出と共に北北西へと来い!」
綺麗な顔をしていらっしゃいましたが、表情は般若のように恐ろしく、海柱様が酷くお怒りなのだということがわかりました。
「お一人で行かれるのですか!?」
海柱様には私の声は届いておらず、既に廊下は無人となっておりました。
『日の出と共に』と仰っておりましたが、もう時期に日の出で御座いました。ですが、今から屋敷を出立したとしても、海柱様に追いつける気は致しませんでした。
海柱様が私にそう言い付けたのはきっと、平隊士の私が行っても、上弦の鬼相手に足手纏いにしからならないからでした。そして、負傷しているかもしれない水柱様を治療する必要があったから、「後から道具を持って来い」ということだ、と私は解釈致しました。
申し訳ない、と思いながらも屋敷の方を起こし、治療器具を借り、急いで北北西の方向へと向かいました。私の烏は非常に寡黙でしたが、先行を飛び、道案内には適しておりました。頭上を飛ぶ烏は、時折私のことを確認しながら水柱様と海柱様の元へと案内してくれました。
道中、隠の方と合流し必死に木の間を駆け抜けました。空が白み始めた頃、胴と切り離された誰かの片腕を見つけたのでした。
その場は致死量の血液で地を汚しており、ここで何方かが亡くなったことは明らかでした。
豆だらけでかちこちに固くなっている掌は、石のように冷たくなっていました。
しかし、何故片腕だけを残して遺体は無いのでしょうか。それから、残った腕にも違和感がありました。傷口と衣類の切り口が、鬼に千切られたというには些か綺麗過ぎました。綺麗な断面だったのです。まるで、刀で圧し切られたような傷口でした。
そして、鬼に食われたとしても、何故片腕だけを残しているのでしょうか。
朝日が昇り、日光に当てられた血液は、残酷でありながら美しくもある光景でした。まだ完璧には乾ききっていない赤は、瑞々しく恐ろしく綺麗でした。何方かが、この場で命の限りを尽くし、命を燃やし切った証でした。
取り敢えずこの場を片さなければならない、そう隠の方は仰ると、血で濡れた自然を、元に戻そうと動き始めました。
私は彼らを背に、上弦と対峙していたであろう水柱様達を探そうと、先に進まんとしました。この腕の持ち主が、誰なのかも知らなければなりませんでした。
パキ、と枯れた小枝を踏んだ音がしました。慌てて音の出先へと体を向け、構えをとりました。
「う、海柱様…!?」
逆光で表情はよく見えませんでしたが、そこには眩しい金の髪をした隊士がおりました。屋敷で見た姿と同じでした。
「水柱ァ粟嶋廉蔵ゥ!死亡!上弦ノ鬼ト会敵シ死亡ゥ!」
私たちが言葉を交わす前に、鎹烏が鳴きました。その報告に、私は驚きで目を見開きました。
水柱様が亡くなった、俄かには信じられないことでした。
「粟嶋さんは、」
覇気の無い海柱様の声に、私は現実を突きつけられたようでした。
「…何があったかわからんが、向こうに隊服だけが残されていた。大凡、夜明けが近いのもあって、鬼の姿はなかった」
感情が全く乗らない静かな声で語った海柱様の腕には、黒い隊服と浅葱色の羽織が抱えられておりました。きちんと畳まれておりましたが、ところどころ破れ、血に濡れているのは明らかでした。
「私はもう行く。怪我が治っていないだろう、君は藤の屋敷で休息しなさい」
立ち竦むしか出来ずにいた私に、海柱様はそう労ってくださいました。肩をぽん、と叩いてくださったと思うと、既に姿は見えなくなっておりました。
*
黎伊那は痛む体を無視して、粟嶋について直接報告に上がるため、産屋敷の邸宅へと急いだ。
「上弦の鬼の血で、鬼となってしまったのかと思います」
「そうか…黎伊那が廉蔵を斬ってくれたんだね」
「はい……」
「気に病むことはないよ。黎伊那は正しいことをした。人を襲う前に、廉蔵を斬ってくれた。廉蔵は人として死ねたんだよ」
「人として…?」
黎伊那の脳裏によだれを垂らし、理性を失った粟嶋だった鬼の姿が浮かぶ。あれが人だったとは到底思えなかった。
「鬼殺隊として、罪を犯す前に黎伊那と出会ったのは幸運だっただろうね」
『ありがとうな』確かに粟嶋の声だった。己に感謝を告げた声は。
「そういえば、黎伊那に伝えなければならないことがあるんだ」
「はい、何でしょうか」
「実はね、槇寿郎が」
鬼殺隊を辞めたんだ、産屋敷が紡いだ言葉に、身体が冷え切って行くのを感じた。
最愛の妻を亡くし、可愛がっていた後輩が任務で死んだ。きっと、槇寿郎は失意の最中にいるのではなかろうか、黎伊那はそう思った。
産屋敷の邸宅を後にした黎伊那は、自身の屋敷に戻ると、よく世話になる医者を呼び、診察と治療を頼んだ。腹の傷は開いており、呼吸で止血していたが包帯には血が滲んでいた。両足は疲労骨折だ、と言われ絶対安静を指示された。物理的に折れてはいないので歩けはするが、痛むのは勿論なので2日ほど屋敷で寝て過ごした。
時間はやたら有り余っている中、黎伊那は空を見つめながら粟嶋の事を考える。
そういえば、粟嶋さんは何故あの場に居たのだろうか。鬼にされたのは恐らく片腕が落ちていたあの地点。だのに、何故あの人は街から離れた彼処に。日を避けるためには、山に身を隠すのが最良だと思うが、山とは別方向に向かっていた。それは何故だ。
『ありがとうな』とは、一体どういう意味だったのか。お館様の仰る通り、『人のまま死なせてくれてありがとう』なのだろうか。じゃあ、私はまだ人だった粟嶋さんを殺したということにならないだろうか。私は、人を殺してしまったのか?もし、粟嶋さんに理性が残っていて、鬼の血に体を侵されながらも、人を襲わない様にあの場へ向かっていたのなら、あの血溜まりの場にいなかったのが頷ける。そうか、あの何だかんだ人の良い粟嶋さんならばあり得る。やはり私は、人を殺してしまったのか。
いや、違う、あれは鬼だった。瞳孔は縦に伸び、牙も生えて爪も伸び、よだれを垂らして私を見ていた。斬られた衣服から素肌が伸びていた。片腕は落ちていた。人間の腕は鬼の様に生えはしない。あれは間違いなく、粟嶋さんの肉体だけで生き永らえた死体だった。人としての尊厳を失っていた。私は柱として、正しい事をしたのだ。
そもそも、粟嶋さんを鬼にした上弦の鬼という、巨悪の根源。其奴を殺せばいい。其奴を殺せたら、粟嶋さんの仇を打てるじゃないか。 其奴を殺せたら、殺したら、
「私も死んでいいかな」
はは、乾笑いを零すと、黎伊那は馬鹿馬鹿しいと頭を振った。死者に命を捧げるのは愚か者のする事だ。己の生まれの罪を償うならば、生者の為に死ななければならない、黎伊那は口元で緩く弧を描く。
「罪人は、生きて罪を償わなければならない」
生まれ変わってしまったのは、弟一人救えなかった『鬼の子』に与えられた贖罪の機会なのかもしれない。己の所為で死んでいった人々、救えなかった一般市民、信頼する部下、最愛の弟、失った彼らと同じだけの命を救い、鬼を殺し尽くせば、ようやっと終わるのかもしれない。
「罪を償うには、それ相応の痛みを伴うことが必要」
義父母が死んだのも、粟嶋が鬼になったのも、私の贖罪の為だったのか、沸沸と込み上げる怒りをどうすることも出来ず、黎伊那は拳を畳に打ち付ける。なんという理不尽か、そして、己の罪の為に人がまた死んでいくのか、それが贖罪なのか、力の限り何度も何度も拳を打ち付ける。
疾く、疾く、
「疾く死なせてくれ」
私怨をたっぷりと含ませたその言葉は、空中で溶けていった。
黎伊那が煉獄家を訪れたのは、医者に診察されてから2日後のことだった。久し振りにゆっくりと体を休めた黎伊那は回復が早く、既に任務に復帰できる状態であったが、産屋敷からの好意であと1日だけ休みを貰った。
「ごめんください」
藍色の着物を着た黎伊那はいつもは一つで括っている髪もおろし、化粧もしており完全に休暇として屋敷を訪れた。
黎伊那の声が聞こえたのか、道場のあたりから稽古着に身を包んだ小さな影が走ってきた。長男の杏寿郎だ。
「はい!どちら様でしょうか!」
「あら、こんにちは、杏寿郎くん」
「…?こんにちは!」
「わからないかな?船木です」
「えっ!?船木様でしたか!?し、失礼致しました!大変お綺麗なので何方かわからず…っ!?」
「ははは、お上手!ありがとう、杏寿郎くん」
「い、いえ…!」
普段は隊服姿のまま煉獄家へと訪れているため、着飾った女性の姿をした黎伊那に杏寿郎は本人だと気がつかなかった。黎伊那だと言われた杏寿郎はそのまま思ったことを口にし、照れからか顔を赤く染めている。失言した、とばかりに口元を両手で慌てて覆った様は黎伊那の目には大変可愛らしく写り、いつもの3倍は明るく声を上げる。
「お父様はいらっしゃ…るわね、お会いできる?」
「あっ、えっと、父は、その…」
杏寿郎の赤い顔から青い顔へと表情が変化する様を見て、黎伊那は何となく悟った。どうやら、調子は良くないらしい。それはそうだろう、と黎伊那は思う。
「瑠火さんにお線香もあげたいし、いいかしら」
「それは勿論!…父上が会ってくださるかわかりませんが、母には是非!」
「ありがとう」
黎伊那は瑠火へ線香をあげた後、無理にでも槇寿郎に会うつもりでいたが、手間が省けたらしかった。槇寿郎は酒を片手に瑠火の仏壇の前に陣取っていたのだ。普段この時間は、杏寿郎は稽古に打ち込んでいるため、仏壇の前に座り込むのが槇寿郎の日課であった。
「………何しに来た」
「何しにって、瑠火さんに会いにですよ。手紙では訪問します、とお伝えしましたが」
「了承していないだろうが」
「瑠火さんにお会いするのに貴方に許可が要りますか」
槇寿郎など気にも留めず、ぐいぐいと図々しく体を押し出し、お鈴を鳴らした。杏寿郎はハラハラと冷や汗をかきながら二人の様子を見ていた。
槇寿郎は黎伊那に体勢を崩されながらも、酒を煽り、黎伊那を横から睨みつける。
「用が済んだら帰れ」
「用はまだ済んでいません」
「なに?」
「あはは、まるで人が変わった様ですけど、如何されたんですか、煉獄さん」
人を喰った様な嫌味たらしく槇寿郎に問いかける黎伊那に、槇寿郎は青筋を浮かべた。そうだ、そうだった、この女は我が家では愛想良く過ごしていたが、元来嫌味な女だった。
「お前も…、」
「はい?」
「お前もどうせ、粟嶋の様に鬼に殺されるのがオチだ…!彼奴は柱にしては凡人だった!それはそうだ、だから死んだ!お前もそうだ船木!海の呼吸など、水の呼吸の派生だろう!?彼奴の劣化版だ!すぐに死ぬ!」
2人の背後に立つ杏寿郎は、涙が出そうだった。槇寿郎が黎伊那を罵る姿も、黎伊那が槇寿郎の言葉で傷付く姿も見たくはなかった。我が家で仲睦まじく言葉を交わす2人を知っているからこそ。そして、亡くなった粟嶋の元へ駆けつけたのは黎伊那だという。粟嶋の死を悔やみ、悲しみが大きいのは黎伊那も同じに違いがなかった。
やはり、屋敷へ上げるべきではなかったかもしれない。あの時の己の対応を悔やむばかりである。
「…自分に言い聞かせてる」
「え?」
小さく呟かれた言葉は、杏寿郎の耳には届かなかった。杏寿郎は思わず小さな声で聞き返した。が、槇寿郎の耳は黎伊那の呟きを拾った。眉を寄せ、険しい顔で黎伊那を睨みつける。
「なんだと」
「自分が弱いことの言い訳に他人を使うのやめてもらえます?」
黎伊那は貼り付けていた余所行きの笑みを剥がし、嘲る様な表情で槇寿郎へ言葉を返す。
「お前…!」
「残念です、煉獄さん。貴方の剣はもう、折れてるらしい。折れた剣は何の役にも立ちません。
黎伊那の口から吐き出される暴言に杏寿郎は耳を疑った。いつも優しく接してくれる、温かい言葉をかけてくれる黎伊那とは似ても似つかない。更にいつも以上に綺麗に着飾っている黎伊那の口から出てくる言葉は恐ろしく汚い。
対して、怒りで顔を赤くし、体を震わせる槇寿郎はいつも以上に酷い暴言に、逆に言葉が出なくなっていた。剣は鋼なのだから糞にはならんだろう、少しばかり残された理性で槇寿郎はそんなことを思った。
「貴方の炎は偽物だったみたいですね。嗚呼、残念、残念だなぁ」
「っ、帰れ!!今すぐ帰れ!」
「言われなくてもそうします」
「二度と顔を見せるな…っ!!」
「ご心配なく、折れた剣は糞の役にも立たないので、一生会いに来ません」
冷たく紡がれた言葉は槇寿郎の耳に厭に残った。激情を露わにしていた槇寿郎と対照的に、悪態は吐いていたが、比較的理性的であった黎伊那は静かに屋敷の外へと向かう。少なからず衝撃を受けていた杏寿郎は我に帰ると慌てて黎伊那の後を追った。
「船木様!」
「……なにかな」
「申し訳ございません、父が…!」
「いや、いい。謝らないで。何となくそうかなとは思ってた」
黎伊那を呼び止めた杏寿郎であったが、黎伊那は後ろは振り向かず、杏寿郎と顔すら合わせようとしない。
「多分、あの調子だと君まで折られるかもしれない」
「折られる、というのは…?」
「何度も何度も罵倒されて『お前に対した才能はない』とか、『どうせすぐ死ぬ』だとか言われると思う。それは別に、愛情の裏返しとかじゃなく、あの人が失意の最中にいるから、心がぽっきり折れてしまって、ただ君の心を傷つけてるだけ」
あんな罵倒に、意味はない。黎伊那にはそう断言できた。嘗て弟を焚き付け、奮い立たせる為に酷い言葉で傷つけていたが、槇寿郎の言葉にそんな意味合いは微塵も感じなかった。
槇寿郎による罵倒は、黎伊那には何一つ効かなかった。粟嶋の件に関しては、何も言えることはない、粟嶋が弱かったとは言わないが、上弦より弱かったのは事実。『すぐ死ぬ』という言葉も、黎伊那にとっては本望だ。
しかし、最も耐えたのは、罵声を浴びせられている間の杏寿郎の存在だった。今にも泣き出してしまいそうな少年の顔は、嘗ての誰かと被った。
「だから」
言葉を続けようとした黎伊那の左手が、暖かい体温で包まれた。驚きで顔を見ない様にしていた杏寿郎へと思わず振り返る黎伊那。幾らか下にある視線へ向けると、涙を堪える様に険しい表情をした幼い少年。
「船木様、」
『姉ちゃん、』
己を呼ぶ声に反応して、黎伊那は思わず膝をついて背後の杏寿郎を抱きしめる。黎伊那は既視感を覚えた。髪色は違う、顔の造形も違う、仕草も声も、何もかも違う、にもかかわらず、杏寿郎にあの時あげられなかった愛情を与えねばと思ってしまった。
違うのに、違うと分かっているのに、抱き締める力は強くなる。あの時出来なかったことは何だ、目頭が熱くなる黎伊那は、必死に頭を巡らせる。後悔はたくさんあった。もっと優しくすればよかった、もっと抱き締めてあげればよかった、もっと愛してあげればよかった。
杏寿郎は、己を包み込む体温に初めは混乱していたものの、心地よさを感じ始めていた。
杏寿郎が黎伊那の左手を握ったのは、黎伊那が酷く哀しんでいるのだと思ったからだ。いつもしっかり屈んで合わせてくれる目線も、向き合ってくれる顔も、己とは真反対に向いていた。言葉には何の感情も乗せられておらず、気持ちを押し殺しているのだと思った。
粟嶋は片腕だけを残し亡くなったと聞いた。そして、その片腕を見つけたのは黎伊那で、粟嶋の最期に黎伊那は間に合わなかったのだとも聞いた。それなのに、槇寿郎はその黎伊那に、一等悔やんでいるであろう黎伊那に酷い言葉を浴びせた。
更に、あれだけ仲の良かった槇寿郎と黎伊那の関係が壊れることが恐ろしくて堪らなかった。稀にであったが、槇寿郎に連れられ煉獄家に訪れていた黎伊那に、杏寿郎は懐いていた。ぐずる千寿郎をあやしてくれていた。瑠火と楽しげに談笑していた。槇寿郎を恩人だと言っていた黎伊那は、彼を人として慕っていた。人として慕ってくれている相手に激情をぶつけている様は、本当に恐ろしかったのだ。
だからこそ、表には出さないが傷ついているであろう黎伊那を想い、咄嗟に手を握ってしまったのだが、抱擁されるのは予想外だったため、成されるがままになってしまっていた。徐々に強まる力に、安心感を覚えてしまうほど。母とは違うが、どこか母にも似ている心地に、ずっとこのままでいたいとさえ思ってしまう。亡き母の温もりを思い出し、変わってしまった父を想い、杏寿郎は少しだけ涙を流した。
数秒足らずか、数分だったか、杏寿郎を抱き締めてしまった黎伊那は、ふと我に帰り、なんてことをしているんだ己は、と顔色を悪くした。なぜこの子は抵抗しない、責任転嫁するような最低なことを考えつつも、どう誤魔化すか只管頭で考える。
そんな折、先に口を開いたのは杏寿郎だった。
「俺は大丈夫です」
「……だいじょうぶ?」
「はい、必ずや炎の呼吸を極め、父の様な立派な柱になるのです」
「そう、前に言ってた通り、夢は変わらないのね」
「俺は有言実行する男です。だから、大丈夫なんです」
ゆっくりと体を離し、今度こそお互いに向き直る二人。黎伊那は膝を降り、杏寿郎に目線を合わせている。
「粟嶋さんの件、お聞きしました…。父の言葉も、本当にすみません。船木様の心は、痛くありませんか」
真剣に問うてくる少年に、黎伊那は思わず目を細める。心が美しく、何と優しい子なのか、嬉しくなって、思わず頭へ手が伸びていく。杏寿郎の目が見開かれるのが分かったが、止めることは出来なかった。
「ありがとう、ありがとうね。君の炎は、本物かしらね」
黎伊那のがらんどうな瞳が、苦手だった杏寿郎だが、その瞳の奥に何か哀しいものを感じ、杏寿郎はじっと黎伊那の目を見つめていた。
その後屋敷を後にした黎伊那は、杏寿郎が鬼殺隊に入隊するまで顔を合わせることはなく、また一度も煉獄の敷地に足を踏み入れることはなかった。