最愛の弟を守れずに自分も死んでしまった誰かの姉。煉獄杏寿郎にその誰かを重ねて見ている。
溟渤に沈む【完結】
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「忌々しいロジャーの娘が……!お前らの存在こそが罪…!!!それ以外理由など無い!!」
外は大雨だった。
白い正義のコートを汚すのは赤。倒れ込んだ先は血と雨で濡れる甲板。
痛む身体に鞭を打って立ち上がり、駆け出そうとする。が、何かに足を取られ今一度膝をつく。足元のそれは、部下だった海兵の事切れた姿。
悪天候のせいか、既に冷たい部下の体温のせいか、自身の心も身体も冷え切っていく。
嗚呼、また誰かが死んだ。
「死ねっ!!!」
怒気の含まれる力強い声に我に返り、立ち上がって刀で迫る拳を受け止める。
嵐が直撃しているらしく、波は荒れ、豪雨と強風で頑丈な軍艦が揺れる。雨と血で濡れた甲板に足を取られ床に倒れ込む。
愛刀で首を狙うも、海軍最高戦力となる男の首を、この程度の覇気で取れるはずがない。
カウンターとばかりに灼熱は襲いかかり、此方の左腕を飲み込んだ。慌てて覇気を纏うも、左半身は完全に大火傷、飛び散った熱気で頰の肉は爛れ始めた。全身を飲み込まれる前に熱さと痛さで意識が朦朧とする中、右手で持つもう一振りの愛刀で自らの腕を切り落とす。
距離を取ろうと縺れる足で、バックステップを踏む。
満身創痍、どころでは無い。どうやら軍艦の端にまで追いやられているらしく、デッキの欄干が背に当たった。
ここからだと甲板の様子がよく見渡せる。沢山倒れてる。此方の部下も、彼方の部下も。
また死んだ。誰も彼もが死んだ。
流石にこれは無理だ、勝てない。どうやっても勝てない。後ろは大荒れの海、前は海軍大将。
「中将ッ…!!!」
視界の端で、生意気だった部下が駆け寄ってくるのが見えた。息のある者が、まだ居たことに少しだけ安堵する。
迫り来る熱に、最後の悪あがきとばかりに刀を構える。
刀を媒介に、強い衝撃が身体を襲う。
壊れた欄干と共に海に投げ出され、荒れ狂う波に攫われ、飲み込まれる。
身体が一瞬で重くなった。握力も無くなり、右手に握っていた愛刀を手放す。
喧しい雨音も、銃声も、何も聴こえなくなった。瞳に焼き付いた赤色も、海が洗い流してくれた。光は遠くなり、暗闇に沈む。
嗚呼、なんと無様な。なんと情けない最期か。こんな人生に、なんの意味があったんだか。
幼い頃から、海を見ているのが好きだった。果てしなく続く広大な海原を眺めていると、何故だか母に抱かれているような温かな気持ちになる。髪色が可笑しい、余所者、そう言って同じ歳の頃の子供に虐められた時は、1人海を眺めて己を慰めた。潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。寛容な香りが心も体も満たしてくれる。
「黎伊那、」
柔らかくて穏やかな声色は母のもの。折り畳んで短い腕で抱え込んでいた膝を伸ばし、背後からこちらに歩み寄る母の胸へと飛び込む。誰のものとも異なる色彩を持つ髪を梳くように撫でる母。暖かく、柔らかい。まるで海に抱かれているようだった。
「またここに居たのか」
低いが、よく通る声色は父のもの。仕方がない、と少し眉を下げる表情にすっかり見慣れた。母よりも大きな掌は、皮が厚く、骨でゴツゴツしていて凹凸があって、少し固くて安心できる。頭を撫でる手つきは母より少し乱暴で、だけどどんな脅威からも守ってくれそうな力強さ。母ごと抱き抱える父は大きくて、海に守られているようだった。
己を優しく抱きしめるこの温もりの持ち主たちが、本当の両親ではないということには気がついていた。それでも、己を無条件に受け入れ、愛し、慈しんでくれる彼らには、多大な恩を感じていた。
黎伊那は今の時代では珍しい外人との混血児らしかった。髪は艶やかな金色、鼻筋はスッと通っており肌の色も白く、彫りも深い。純粋な日本人である父と母とは明らかに異なる造形であった。
父方と母方、どちらの血のせいなのか、何処の国の血なのか、何もわからない。誰も知らない。浜辺に打ち上げられるように捨てられていた幼い黎伊那を保護したのはまだ年若い夫婦だった。
「黎伊那、お前さんそろそろ帰れ」
黎伊那の住む港町で、今日は豊漁を願う祭りが行われていた。田舎の小さな祭りのため、それほど長時間のものではなかった。日が暮れる頃、近所の大人から解散を告げられ、小さく頷く。
「最近子供や若い女が拐われてる。気を付けてな」
言葉を背へと投げかけられる。今度は声に出してわかった、と返事をすると父と母が待つべく家への帰路へ着いた。
何故子供の黎伊那だけが祭りに出席したかというと、義母が体調を崩し、漁師の義父が看病をしているのである。2人は気を使って「年に一度の機会なんだから、祭りに参加して来なさい」と黎伊那を送り出した。
見慣れた帰り道、涼しさを感じさせてくれる鈴虫の鳴き声。今日は雲ひとつなく、月が綺麗な日だった。祭りにぴったりな日だった。
住み慣れた我が家の扉を引くと、噎せ返るような鉄の匂いに黎伊那は全身を包まれた。うっ、と鼻腔が刺激され思わず鼻を片手で摘み、匂いを遮断するように塞ぐ。次いでくちゃり、くちゃり、という粘着質な音。今夜は月が綺麗だった、雲に隠れる事なく顔を出している。暗い室内を照らした月明かりが、黎伊那の瞳の中に地獄のような光景を写した。
赤黒く濡れた室内、力なく投げ出させる誰かの四肢。白かったであろう誰かの着物は別の色で染め上げられている。部屋の中心で、肉片に囲まれた生き物がモゾモゾと動いている。
何だ、何だこれは。受け入れ難い目の前の光景に黎伊那は瞬き一つ出来なかった。不意にもぞもぞと動いていた生き物が黎伊那の存在に気が付いた。顔を上げ、黎伊那を見つめる眼光は鋭い。縦に伸びた瞳孔が浮かぶ妖しく光る瞳。黎伊那は身体を硬直させた。生き物の口元がテラテラと視界にちらついた。
「あぁ……?何ダァ、子供がいたのかァ…」
「あ、あ…」
貪り付いていた肉から意識を逸らした生き物はにったりと薄気味悪く口角を持ち上げた。小さく喘ぐ黎伊那の様子は酷く哀れだった。
「可哀想に、可哀想に…父ちゃんと母ちゃんはオレが喰っちまったから…寂しいよなァ、オレが今、2人の所に送ってあげようなァ…」
「ふ、2人を、お前が…」
「そうだよォ?喰っちまった…オレが喰っちまったァ…あは、アハハハハ!女はちょっとまずかったなァ、病持ちか?折角の女なのに喰い損だ」
「…な、んで」
「男の方も不味い不味い、肉が固くてかなわん…質の悪い筋肉だ、不味い夫婦だった…お前はどうかなァ」
そういえば、と黎伊那の脳内にあることが過ぎる。『最近子供や若い女が拐われてる。気を付けてな』確かにそう声をかけてくれた大人がいた。
黎伊那も両親から確かにくれぐれも人攫いには気をつけるように、と口酸っぱく言われていた。
「女の子供だからなァ、きっときっと、きっと、美味いだろうなァ!」
「…ぁっ、」
こいつだ、こいつが犯人だ、黎伊那は確信した。この化け物が、拐われたという人たちを皆、両親と同じように。
意味のない母音が黎伊那の喉を震わせた。
「命乞いかァ?いいよォ、聞いてやるよォ…大きな声で、そォら、言ってごらん…?」
煽るような化け物の様子にカッと頭に血が上った黎伊那は、台所に置きっ放しになっていた義父の刺身包丁を手に取った。
「殺してやる!!!」
「ぎゃっ!?」
怒りに任せて化け物に飛びかかった黎伊那は真っ直ぐと刃を振るう。良く研がれたそれは化け物の腕をまるで豆腐を切るかのように簡単に肉を断った。
黎伊那は戸惑わない。化け物を殺すことに何の迷いもない。何の罪もない、ただ普通に過ごして来た少女たちの未来を、こいつが奪ったのだ。それに加えて、己の大切な人たちを喰ったのだ、なるべく沢山苦しめて、泣かせて、甚振って、憐れに命を乞った末にぶっ殺してやろうと、そればかりが黎伊那の脳内を占めていた。
まさかその化け物が切った腕を再生したのには酷く驚いたが。
「痛ェ…!いくら再生するって言っても、痛ェもんは痛ェんだよ……!ムカつくなァ…すぐに喰ってやろうと思ったけど、やめたァ…指一本一本千切って、耳と鼻を削いで、ゆっくりゆっくり喰ってやろうなァ…」
青筋を浮かべた化け物に黎伊那は気付く事なく、更に再生するという事実に己の口角が緩く持ち上がってしまうことにも気が付かなかった。
ああ、そうか、この化け物は、沢山痛め付けても、そんな簡単には死なないんだ。
罪人が犯した罪を償うには、それ相応の痛みを伴うことが重要だ。だから、この化け物は喰らった人たちの苦しみ、痛みを死ぬまで味わう必要がある。
誰か別人の思考が黎伊那自身に乗り移ったように感じた。自分ではない誰かが、勝手に黎伊那の口を動かしているかのようだった。
「許して、許してくれェ…」
「誰に許しを乞うているんだ?」
「痛い、痛い、痛い…!もう、もう、……死にたい…」
無心で只管化け物を嬲っていた黎伊那は、弱々しく放たれたその言葉に動きを止める。
死にたい?死にたいと言ったのかこいつは。死にたくない、ときっと恐怖に涙を流して死んでいった人を、自分が喰っておいて、自分は死にたいと?
「安心しろ、お前に明日が来ることはない」
「……ぁ…、」
「お前みたいな化け物は、さっさと死ぬのがこの世のためだ」
静かにそう告げると、何度も何度も化け物の心臓に刃を振り下ろした。旭日が昇るまで、何度も、何度も。太陽が黎伊那を照らした時、呻くだけで抵抗すらしなくなっていた化け物は、塵となってまるで浄化でもされるように消えていた。その表情はまるで、苦行から解放されることに安堵するように、緩く持ち上がった口角はまるで微笑みを浮かべていたようにも見えた。
あの時見た、弟の死に顔のように、
「……ぁ、」
脳天に雷が直撃したような衝撃が黎伊那に襲いかかった。
悔いは無い、と言いたげに穏やかな死に顔を浮かべていた遺体。身体には大きな風穴を開け、内臓を焼いていた。既に冷たくなった額を、慈しむように撫で、一つ唇を落とした。『大好きよ』と、呟いた言葉は、潮風に拐われて消える。
『生まれてきたことが罪』『鬼の子』『危険因子』悪意と殺意、そして憎悪が含まれたその言葉は、全て2人の姉弟に向けられた言葉だった。世界で最も恐れられた犯罪者の実の子供として生まれた私たちは、世界で最も死を望まれた存在だった。
近所のあの黒髪が綺麗な人が死んだ。一緒に遊んでくれた、綺麗な青色の瞳を持つ男の子も死んだ。私と、私の母、これから生まれてくる弟の身代わりとなって死んだのだ。
どうして?あの人たちは、ただ幸せに生きていただけなのに。港に停泊している『正義の味方』たちは、私たち親子を探してた。それこそ、疑わしい親子を片っ端から殺していく位には、血眼になって探していた。この世で最も恐れられ、嫌われ、恨まれて蔑まれるべき血筋の私は、生まれてきてはいけないらしかった。
命を懸けて弟を守り、愛した母は、私に弟を託すと静かに眠りについた。世界を憎んだ、血筋を恨んだ、何よりも、理不尽が許せなかった。まだ小さくて、何も出来ない弟が生きやすい世の中を作りたくて、血筋を偽り、私も『正義の味方』になると決めた。
愛する弟のためなら何だってできた。誰にも殺されないように、強く生きられるようにと、手元から離れる最愛の弟を何度も傷つけた。鍛錬と称した激しい暴力に訳もわからず泣いて謝る幼い弟を、突き放し、手を差し伸べることもせずに冷たく見下ろしていた。嫌われたって、恨まれたっていい。ただ弟が、生きているだけでよかったのだ。
世界に見つかって、血筋のことがバレて、鎖に繋がれ項垂れる弟にみっともなく縋りたくなった。どうして、生きて欲しいだけなのに、なんで私の言うことが聞けないの、こんなに愛しているのに、そう言ってしまいそうになった。なんて自分勝手な人間なんだろうか。
弟の最期は、末の義弟を庇うように身体を貫かれ、焼かれ、死んだ。手を伸ばせば触れられた。立場も野望も未来も、全部捨てて無理にでも駆け出せばよかった。なんのために生きていたのか、弟のために人生を捧げるつもりだったのに、全て両の手から零れ落ちてしまった。
冷たくなった身体に、浮かべた表情は『悔いは無い』と言いたげな、満足げな笑み。穏やかなそれは、私を絶望の淵に立たせた。
弟の仇の上司は、酷く苛烈な男だった。正義を名乗るクセに、悪を滅ぼすためなら犠牲を厭わない人間だった。奴の正義が許せなかった。罪の無い人の命を軽視する奴を、『鬼の子』だからとそれだけで私たちの生を否定した奴を。一矢報いたかった、私の部下諸共海に沈めようとしたあの男を殺してやりたかった。
嗚呼、なんて無様で哀れな人生か。私の人生に、一体なんの意味があったのか。沢山の人を死なせた。最愛の弟を死なせた。慕ってくれた部下を死なせた。終いには、抵抗虚しく殺された。
それが、一体何故また生まれてきてしまったのか。
*
煉獄槇寿郎は早朝に驚くべき光景を目にした。
血だまりの中に座り込み、項垂れるまだ幼い少女。右手には同じく血に濡れた刃物。程近い場所に位置する民家には、原型を留めない肉片が。恐らく少女の家族であろうと思われた。
鬼は確かにいたらしい。この少女が、日が昇るまで鬼に抵抗していたおいうのだろうか。
その事実に槇寿郎は背中に冷たい汗が伝った。まだ10歳前後の少女が、たった包丁一本で鬼と一晩格闘したというのか。
「君、」
意を決して槇寿郎が話しかけるも、反応がない。眠っているのか、気絶しているのか。項垂れる少女の顔を覗き込むように表情を窺い見る。朝日に照らされる金色の髪に対して、黒い瞳に生気はまるでなく、がらんどうであった。無理もない、愛する家族を亡くし、一晩も悍ましい鬼と対峙していたのだ。心を壊してもおかしくない。
「……よく、頑張った」
槇寿郎は努めて優しい声色で少女を励まし、労わるように肩に手を置いた。ぴく、と小さく身体を揺らした少女はようやっと槇寿郎の存在に気がついたらしかった。しかし、槇寿郎に視線をやることなく、瞳は相変わらず何も映さない。
カシャン、と手に握ったままだった刺身包丁を手放す。柄まで赤黒い血がこびり付いて、包丁を握っていた掌は皮がずるりと剥けおり、槇寿郎は痛ましそうに顔を顰める。
少女は自由になった手を持ち上げ、ゆっくりと両手を首元へ向かい入れる。まるで自身の首を絞めるような動作に、槇寿郎が止めに入ろうとした時だった。
「死んでしまいたい」
恨めしげに吐き出された言葉は少女のがらんどうな瞳とは対照的で、複雑に感情が混ざり合った言葉だった。
己がもっと早くこの町に付いていれば、少女の両親は死ななかったかもしれない、少女と鬼が対峙することもなかったかもしれない、少女が心を壊すこともなかったかもしれない。
*
「おに」
「そう、鬼だ」
黎伊那は眼が覚めると、知らない天井がまず始めに目に入った。黎伊那が数年間過ごしてきた家にはない、上質な布団の上に寝かされていた。
化け物から浴びた返り血はすべてきれいに拭き取られ、一晩中刺身包丁の柄を握っていたことでずる剥けになった手にはご丁寧に包帯が巻かれ治療の跡がうかがえる。
黎伊那が眼が覚めたことに気がついた屋敷の住人は誰かを呼びに行き、黎伊那の元へやってきたのはまだ十代の青年だった。茫然自失になり、ほぼ意識を失っていた黎伊那をここまで運んでくれた煉獄槇寿郎という男で、槇寿郎は多忙の為黎伊那をこの屋敷へ預けると直ぐに出立したとか。
黎伊那はあの悪夢のような夜から3日程熱に浮かされ生死を彷徨っていたらしい。外傷はないのに、高熱は中々下がらず大凡精神的なものであろうと診断されていた。
そして話は冒頭に戻る。黎伊那たち家族を襲った化け物について。
「俺たちはその鬼を倒す鬼殺隊だ。政府からは非公認だが、唯一奴らを殺す術を持っている」
「唯一…」
「君は刺身包丁で対応していたようだが、何度切っても奴らは再生していたろう?奴らを殺すには『日輪刀』という特殊な刀が必要だ」
それから鬼殺隊とはなんたるかを聞き、この屋敷、藤の家紋を掲げた家についても話を聞いた。
「君には2つの選択肢がある」
そう言うと、青年は指を二本立て何やら意味深長に強調した。瞳はまっすぐに黎伊那を射抜いており、思わず背筋が伸びた。
「1つは、ご両親が亡くなった君には居場所がない。だからこの藤の家紋の屋敷で奉公に出る。この屋敷にはそういった境遇の人も少なくない」
「2つ目は?」
間髪入れずに黎伊那は尋ねる。正直にいうと黎伊那の中でその案は即却下されていた。嘗ての生を思い出し、鬼という理不尽な存在に出会ってしまったことで、黎伊那は記憶のない数日前までの幼い無垢な少女ではいられなくなってしまった。内に燻る怒りを鎮める方法は存在しない。
その後黎伊那の即答に一瞬面食らった青年だったが、2つ目を間を置くことなく提示した。
「2つ目は、鬼殺隊に入って戦うこと。少なくとも煉獄さんは君に剣の才を感じていた。君ならきっといい剣士になれるだろう」
「わかりました。で、その鬼殺隊に入るには?」
続きを促す黎伊那に、流石の青年も一度口を閉ざした。言葉を続けない青年に黎伊那は怪訝な顔をする。
「君、本当にそれでいいのか?いや、別に止めてるわけじゃないんだが…死ぬほど厳しい道のりだぞ。脅しじゃない、言葉通り血反吐を吐くような鍛錬を積まなければならない」
「構いません」
青年を見つめる暗く濁った瞳は今更人並みの幸せを求めるものではなかった。少なくとも、10歳そこらの子供がしていい瞳ではなかった。黎伊那の黒い目に二の句を継げなくなった青年は小さく息を吐くと仕切り直すように名を名乗った。それに応えるように、義父母から貰った和名を名乗る。
「俺は鬼殺隊階級申、粟嶋廉蔵だ。君に知り合いの育手を紹介しよう。君の名前を教えてくれ」
「船木黎伊那です」
よろしくお願いします、布団から身を起こし、頭を下げる黎伊那を痛ましげに見つめる粟嶋。
粟嶋の脳裏に過ぎる煉獄の『死にたがっていた。もしかしたら心を壊しているのかもしれない、気に掛けてやってくれ』という言葉。暗く何も映さない瞳は、確かに黎伊那の心の傷を表している。死にたがっているのなら、死に場所を探しているのかもしれない。あの厳しくも優しい育手の元ならば…という一縷の望みを掛けて、己の師匠の兄弟子に当たる鱗滝左近次に黎伊那を紹介するのだった。
粟嶋は鱗滝の元へ黎伊那を連れて行く道中、様々なことを話した。彼女の出自、趣味趣向、死に向かう彼女を止めることができれば、と黎伊那の本質を探っていたのだ。
「君は鬼を憎んでいるか」
「別段憎くはありません」
「え、そうなのか?」
予想だにしない返答に驚きを隠せない粟嶋。てっきり自身の両親を殺した鬼を憎んでいるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「あの鬼は、両親を食いましたが、仇は私が取りました。『死にたい』と、そう思わせるほど甚振ることが出来ました。私が憎むべき鬼は既に死んでいる」
己より低い位置にある黎伊那の背丈により、粟嶋は黎伊那の表情を伺い見ることが出来なかった。言葉を続ける黎伊那を遮ることはせず、粟嶋は沈黙して耳を傾けていた。
「けれど、奴は輝く未来が待っている若人を食いました。何の罪もない、これから幸せが待ち受けていた両親 を、鬼は戸惑う事なく食らった。私はその理不尽が許せない、絶対に」
怒りを押し殺したような黎伊那の声色に粟嶋は目を伏せる。そうか、この少女は、
「鬼は肉体だけで生き永らえてる死体です。どんな形であれ、理性も記憶も失って、食欲を満たす為だけに人を食らう鬼たち に存在意義なんて無い。理不尽の塊みたいな鬼らを、私が全部殺してやる」
私怨と正義感が混ざり合った黎伊那という少女は、酷く歪であった。本来、真っ直ぐで誠実な人柄であったのだろう黎伊那は、鬼と出会った事で歪められてしまったらしい。恐らく彼女は鬼殺隊に入る事が出来る。きっと強くなる。そして、沢山の鬼を狩り、いつか任務で命を落すだろう。死ねることに安堵しながら、鬼と相討ちする。
「粟嶋さん」
「なんだ?」
「私、まだ死ぬつもりありませんから」
粟嶋は思わず視線を黎伊那へと落とす。此方を見上げるように顔を上げていた黎伊那の瞳を見つめた粟嶋は、彼女の暗い瞳から力強い何かを感じ取った。
「弱いままの今の私じゃ、死に方すら選べない」
ポツリ、と零された言葉は矢張り不穏で。
自ら修羅の道へと飛び込む黎伊那の人生に、心を癒す何かがあればと、粟嶋は心の内で人知れず願った。
粟嶋と黎伊那が共に行動し始めて数日たったある日、太陽が沈み始めた頃、見晴らしのいい畦道で粟嶋が足を止めた。不思議に思った黎伊那が粟嶋を見上げると、彼は真っ直ぐに前を向いたまま小さく告げた。
「俺の案内はここまで。鱗滝さんには文を出しておいた。暫く進めば、きっと迎えに来た鱗滝さんと鉢合わせる」
「そうですか、ありがとうございました」
「いや……」
何か言いたげだった粟嶋を気にも留めず、黎伊那は再び歩き出した。口を閉ざした粟嶋であったが、黎伊那と数メートルの距離ができてから、彼女の背中に向かって言葉を投げかける。
「死ぬな」
たった数日過ごした仲だったが、粟嶋は黎伊那が心配でならなかった。恐らく、粟嶋のこの情に深い性格を見越して、槇寿郎は彼に黎伊那を任せたのだろう。小さな背中に、大きな決意を背負った少女。きっと強くなって、また粟嶋と再会するだろう少女。美しい金色の御髪を翻し、振り返った黎伊那の瞳はやはり暗い。粟嶋に対し目礼すると、再び歩を進め出した。再び相見える時、彼女の瞳に別の色が灯ることを信じて。
*
拝啓
茹だるような暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。私はやはり暑さがどうも苦手で、故郷の雪国を恋しく思っております。
ところで、黎伊那の様子は如何でしょうか。貴方にあの子を紹介して、そろそろ1年が経つ頃です。剣の才能はある、と私は確信しておりましたが、呼吸の方は如何でしょう。そして何より、あの子の心の傷は癒えているでしょうか。私は未だにあの暗い瞳が頭から離れません。あの年の頃の子供がするべき目では無い。鬼の存在が、あの子を歪めてしまったと思うと、遣る瀬無くて堪りません。
受け答えはきっとしっかりしていると思いますが、所詮それはあの子の上辺にしか過ぎません。私は数日間しか、あの子と共に過ごしませんでしたから、心の奥底、ずっと深いところでついた傷に気付けませんでした。どうか、あの子の心に寄り添ってあげてください。
それから、私事で大変恐縮ですが先日、水柱の位を授かりました。これからも日々精進して参ります。
敬具
粟嶋廉蔵
鱗滝左近次様
鱗滝は自身の兄弟弟子の教え子である粟嶋からの手紙を一通り読むと文筆箱へとしまった。
黎伊那が鱗滝の元へ来て約一年。剣術は申し分無い、寧ろ恐ろしいほどの才覚を秘めている。女という性別でありながら、その年の子供にしては身体も大きく力も強い。それに対して、呼吸の方はどうも芳しくない。黎伊那の少し癖のある足運びにより、鱗滝の師事する水の呼吸とは少し異なっている。全く違う訳ではないが、鱗滝の使ってきた呼吸とはやはり何処か違う。
そして、黎伊那の負った心の傷だが、こればかりは根深いようで鱗滝も頭を悩ませていた。手紙に書いてあるように受け答えははっきりしている。闘志も向上心もある。だが、笑わないのだ。厳しい修行を受ける中で笑顔を見せない弟子も少なくないが、それにしたって一度も笑っていない。何かに取り憑かれたように一心不乱に剣を握る姿は、心を守るためなのかもしれない。
ふ、と一息ついた鱗滝は立ち上がると小屋の外へと向かった。
黎伊那は焦っていた。嘗て海の治安を守っていた頃の剣術の勘を取り戻しつつあるものの、肝心の呼吸が一向に使えるようにならないのだ。会得していた覇気は、生まれ変わった弊害か身体の造りが変わってしまったからなのかあの頃の様に使える事はなかった。辛うじて見聞色の覇気紛いのものは使えるようになったが、正直言って覇気と呼んでいい代物ではなかった。呼吸は師匠の鱗滝の様に巧みな足捌きが出来ずどうしても踏み込んでしまう。力んでいるからか威力は申し分無いのだが、残念ながら『水の呼吸』とは少し異なっているらしい。鱗滝は毎回の様に「…違うな、」と小さく指摘すると事細かに指南してくれる。が、黎伊那は一向に正しい水の呼吸を使用することができていなかった。
「黎伊那」
「先生、…すみません、まだどうしても呼吸がうまく使えなくて…」
「その事だが、恐らくお前は『水の呼吸』ではなく、己に合った『独自の呼吸』を使っているのでは無いか?」
「独自の呼吸、ですか?」
「お前の繰り出す技は『水の呼吸』にしてはやや威力が大きい。勿論、『水の呼吸』を極めたらそれ相応の洗練された技が繰り出されるが、お前のは所謂『力押し』な部分が大きい」
「力押し…それが『水の呼吸』から私が派生させて『独自の呼吸』に作り上げているという事ですか?」
「そうだ」
一を聞いて十を知る、鱗滝の憶測から答えを導き出した黎伊那は以前までの鍛錬を思い出す。確かに黎伊那のそれは鱗滝の指南する『水の呼吸』よりもやや力技という印象がある。言い方は悪いが、どの様な形にもなれる水の流れる様とは異なっている。どちらかというと土台を作ろうと踏み込み、力強い印象を受ける黎伊那の斬撃は『水』というよりも『海』の様だと思った。
己の呼吸について少し考え込んでいた黎伊那は、何かに気が付いた様に顔を上げると鱗滝へと向き直る。
「先生から時間をかけて教えて頂いた『水の呼吸』をものにすることができず、申し訳ありません。ですがどうか、この先も、私が『独自の呼吸』を完成させるまで、ご指導をお願いしたく」
「勿論だ。それが完成するまで、最終選別には行かせられない」
「ありがとうございます」
鱗滝から了承を得た黎伊那は深く頭を下げると、ほっと息をついた。鱗滝の鼻には黎伊那がから心底安堵した匂いが掠めた。日頃、黎伊那からは何かに対しての憎しみ、怒りの匂いがごく僅かだがしている。恐らく心の中で押し殺しているであろうそれはとても薄く、黎伊那が激情を秘めているのは明らかだった。そんな黎伊那が、初めて憎悪と憤怒以外の匂いがして、鱗滝は胸を撫で下ろした。厳しい修行に対して黎伊那は今まで泣き言一つ溢さなかった。修行の最中に負った傷の痛みに顔を顰めることはあっても、それ以外の感情を表に出したことはなかった。どんなことでも飲み込んできたであろう黎伊那の小さな安堵は鱗滝を安心させた。
黎伊那はまだ心を壊したわけでは無い。壊れかけた心を守るために、胸の内に全て隠しているのだ。これ以上柔い部分に触れさせない様に、頑丈に、頑丈に施錠している。
まだ黎伊那は笑うことができる。鱗滝は未だ見ぬ弟子の笑顔に思いを馳せた。
それから約1年かけ、『水の呼吸』から派生させ『海の呼吸』を完成させた黎伊那。嘗ての最盛期より遥かに劣る幼い身体は少しずつ筋力をつけ、剣術も少しずつ磨き上げた。あの頃には遠く及ばないが、鱗滝が育てた弟子の中で最も優秀であると言っても過言ではなかった。「もう教えることはない」と鱗滝に大岩を斬れと指示された際は僅か1日で課題をクリアした。
「黎伊那、お前を最終選別へ送り出す」
「はい」
いつもの様に淡々と返事をした黎伊那は静かに鱗滝を見つめ返す。鱗滝は天狗の面の下で僅かに眉を寄せると、黎伊那の肩を軽く叩いた。
「よく、修行に耐えた。よく、これほどの技術を身につけた」
「は、はい…ありがとうございます」
戸惑った様子を見せる黎伊那に鱗滝はおや、と思う。
そのまま2人は下山すると、鱗滝は夕食の支度へ取り掛かった。対して黎伊那は体の汚れを落とし、真新しい着物に着替えると鱗滝と向かい合う様に腰を下ろした。
2人で鍋をつつきながら、鱗滝は修行を全て終えた際の黎伊那の様子を思い出していた。鱗滝の言葉に居心地悪そうにしていた黎伊那は新鮮で、2年をの時を共に過ごしていたが初めて見る姿だった。現に今も黎伊那からは何か戸惑っている匂いがする。
「黎伊那、お前に厳しい修行をつけたのは、お前を死なせないためだ」
「は、はい」
「しかし、お前は本当によくやった」
「それは…先程も聞きましたが、ありがとうございます」
やはり戸惑っている様子の黎伊那に鱗滝は、なるべく優しい声色を意識して語りかける。
「……何か、思うところがあるなら、話してみなさい」
僅かに動きを止めた黎伊那は視線を泳がせると、自分の手元一点を見つめ、言葉を探す様にゆっくりと紡いでいく。
「私は、まだ、何かを為せる程の力は持っていません。なので、先生にその様な言葉をかけて頂くのは…」
「謙遜するな」
「いえ、謙遜ではなく…」
煮え切らない態度の黎伊那は口を閉ざすと、再び食事に意識を移した。
黎伊那は誰かに己の存在を肯定される行為に不慣れであった。鱗滝が黎伊那の修行で身につけた技術について認めることは、黎伊那の力を認めることと同義であった。嘗て己の出生に振り回された黎伊那は、鱗滝の言葉に覚えのない感情に見舞われていた。
その後、最終選別の日まで鍛錬を続け、ようやくその日を迎えた。鱗滝は左頬に藍色の流水紋を配わせた厄除の面を持たせ、黎伊那を藤襲山へと送り出した。無事に彼女がこの家に戻ってくるのを願った。
鬼殺隊の一員になるには、藤襲山で行われる最終選別で7日間生き残ること。
黎伊那は流れるように鬼の頸を取り、未だ無傷の状態で生き残っていた。
度々出くわす鬼に恐怖し立ち上がれなくなった子供を叱責し、鬼を狩る。鬼に襲われ血に濡れた衣服だけになってしまった子供を静かに弔う。最終選別とは、なんとも恐ろしく、無情で厳しいものだろうか。子供たちをこの選別へ送り出す育手たちは、一体どんな気持ちだったのか。
嫌悪感が渦巻く心を落ち着かせるように、黎伊那は深く息を吸う。この世が理不尽で出来ていることを知っている、だからこそ、戦いに身を投じたのだ、そう言い聞かせると、再び駆け出した。
日は既に沈んだ闇夜の中、少し見晴らしのいい場所で、黎伊那は小さな地獄を見た。下半身が無く、臓腑が引き摺り出され、惨い遺体として胴を投げ出している少女の元で、座り込み震えている少年。
嗚呼、可哀想に、きっと少年は、彼にとって大切な存在だったであろう少女の変わり果てた姿に、打ちひしがれている。刀を投げ捨て駆け寄ったのであろう、抜き身の刃が少年の背後で転がっている。
絶望しているのか、憤っているのか。出来れば後者であってほしいと思いながら黎伊那は少年に近寄った。
「…刀が落ちていた」
「……」
「此処は血の匂いが濃い。早く離れた方がいい」
「……」
少年は黎伊那の言葉に何か返すこともせず、膝の上で血が出るくらい拳を強く握っていた。
「その子の遺体を持ち帰りたいのなら、何かで止血した方がいい」
「……」
「若しくは刀を握って肉を求める鬼を返り討ちにすればいい」
「……」
黎伊那からの言葉にやはり一言も返さない少年に、目を細める。拾った少年の刀をガシャン、と足元へ投げ捨てると黎伊那は煽るように問いかける。
「情けない…勝手に絶望してろ。お前もその子みたいに襲われるのがオチだ」
黎伊那の心無い言葉で少年は素早く刀を握った。怒りで目の前が真っ赤に染まった少年は背後に立つ黎伊那へ下段から上段へ向かうように斬りかかった。ピクリとも動かなかった黎伊那へ向かった刃は厄除の面だけを綺麗に真っ二つにした。カランと軽い音を立てて落下した面。
怒りのあまり荒い息を繰り返す少年が口を開くより先に、黎伊那が動いた。
「先に手を出したのはお前だ」
そう小さく零すと足を一歩踏み出し、右手に握る刀の柄で思いっきり少年の額を殴り飛ばした。ゴッと鈍い音がしたと思ったら少年はほんの数秒間、意識を飛ばした。
「ぇ…………え?」
なぜ急に思い切り殴られたのか、然も柄で、師範の拳の数倍は痛かったぞ、と怒りより驚きが勝った少年は唖然とした表情で黎伊那を見上げる。いや、確かに斬りかかったけど本気で殺そうとしたわけではないし、むしろ刃は彼女にかすりもしなかったのに、切った面が大切だったにしてもそんな冷静に人を殴るか、と言ってしまいたかったが、少年はただ黎伊那を見上げるしかなかった。徐に黎伊那は動いたかと思うと、少年の胸倉を掴み、距離を縮めた。
「お前は此処で死ぬのか?」
「っ、なんなんだよお前…!」
「死ぬのか、と聞いている。大切な刀を投げ捨て、丸腰で、何も果たさないまま、死ぬのか」
「うるさいっ!!俺の、…俺の大切な妹が死んだこの世に、何の意味もない!!生きていても、何の意味もない!!!」
妹、という言葉にピクリと黎伊那の眉が動いた。
「そう…、確かに意味がない。刀を握れないお前は、生きていても何の役にも立たないから、さっさと死んだ方がいい。このまま生きていても意味が無いから。死んでも特に意味はないだろうけど」
「はぁ!?」
「意味のない短い人生、お疲れ様」
黎伊那はそう言い放つと、パッと少年の胸倉から手を離した。冷たく己を見下ろす黎伊那に対し、少年は驚きで吹き飛んだ怒りを沸々と再び蘇らせていた。
「妹の仇すら討てないお前じゃ、死んだ妹も浮かばれないな」
「お前に、…何が分かるっ!!!」
再び刀を振るった少年の手を、今度は捻り上げるように掴んだ黎伊那。怒りに任せた単調な動きを止めることは、黎伊那にとって造作も無い事だった。
「戦う事を放棄した弱虫の気持ちなんて分かるかっ!刀を持ったなら、最後まで足掻け!並大抵の覚悟で此処に来たんじゃ無いだろうが!」
力強い黒い瞳は、仄暗く薄気味悪くさえあった。なのに、目が離せなかった。それ以上に強い何かを感じた。消えることの無い、燃え続ける怒りが、確かに黎伊那の瞳の奥には灯っていた。
「怒れよ、憎めよ、恨めよ。お前の妹は何故死んだ?鬼に襲われたからだ。何故お前達兄妹は鬼狩りを目指した?何か理不尽がお前達を襲ったんだろうが。お前はその理不尽を許せるのか?」
少年とその妹は捨て子だったが、世話をしてくれた親切な人がいた。しかし、その人は鬼に食われた。嗚呼、そうさ、許せない、俺たちをこんな目に遭わせた理不尽を許せない、歯を食いしばって思わず黎伊那の瞳から顔を逸らした少年。黎伊那はその様子に掴んでいた腕を話すと足元に落ちた面を拾って懐へとしまう。
「それでもまだ死にたいのなら、山から降りてひとりで勝手に死ね」
そう言葉を連ねると、黎伊那は踵を返し、再び闇の中へ身を投じた。
黎伊那は少年の気持ちが痛いほどわかった。大切な肉親が死に、この世に何の意味もないと、絶望したのをいまだに憶えている。泣いて墓に縋ったって、弟は帰ってこない。もっと愛してあげればよかった、もっと抱きしめてあげればよかった。後悔先に立たず、生まれ変わっても尚、黎伊那の心を蝕み続ける。
あの日ーーー義父母を襲った鬼を殺した日、記憶が戻った日ーーー心の底から死んでしまいたいと思った。弟は死なせ、仇も討てずに殺された。何のために己は生きていたのかわからなくなった。しかし、踏み留まれたのは、義父母が己を愛してくれたからだ。嘗て世界中から死を望まれた存在であっても、誰かに愛されることがあったからだ。誰かの為に、この命を使いたかった。最愛の弟の為に死ねなかった後悔を、今世ではどうしても果たしたかった。
レギーナのそれは、自己犠牲よりも、ずっとタチの悪いものだった。彼女は死ぬ事を望んでいるわけではない、誰かの為に死ねる事を望んでいる。その誰かがまだ現れていないことが唯一の幸いだった。彼女がまだ生きているのは、いつか現れる誰かの死に際が、訪れていないからである。
黎伊那は無事に最終選別を7日間、無傷で乗り切ることに成功した。山の入り口へ戻ると、7日前よりも人数は減っているが、十数人は生き残っていた。案内人の少女達に従い、日輪刀の素となる玉鋼を直感で選び、隊服の採寸をすると我先にと山を降りていく。背後から誰かに声をかけられた気がするが、それよりも早く、7日間で疲れた身体を休めたかった。
狭霧山の麓、鱗滝の小屋へ戻り扉を引くも、中に人の気配はなかった。出掛けているのだろうか、そう思い振り返った折、足元に斧で切った薪が転がってきた。転がってきたであろう先を辿ると、たった7日間だったが懐かしく感じる赤い天狗の面。抱えていた薪を鱗滝が落としたらしい。
「先生、ただいま戻り、」
ただいま戻りました、そう言い切る前に、黎伊那は鱗滝に抱きしめられた。突然の師範からの抱擁に目を白黒させる黎伊那。久し振りの他人の温度に思わず頰が赤く染まる。
「せ、せんせい、あの…」
「よく、よく生きて帰ってきた…!」
震えている声に黎伊那は目を見開いた。この人は、己の生を喜んでくれている。その事実が、黎伊那にとって最も尊い事だった。恐る恐る己よりも大きな背中へと手を伸ばす。暖かい体温は、生きている証。震える声は、己の生還を喜んでいる証。この抱擁という行為は、2人の信頼関係の証。
「はい、ただいま、かえりました…」
鱗滝の温もりを感じるように目を瞑り、小さく言葉を返す黎伊那。嘗て義父母が与えてくれた温もりに似ている。安心できて、暖かくて、眠くなる。
黎伊那は最終選別での疲れもあり、そのまま鱗滝の腕の中で意識を落とした。
丸一日泥のように眠った黎伊那は、日輪刀と隊服が支給されるまで、鱗滝の家でゆっくりと過ごした。鍛錬をし、食事の手伝い、家業の手伝い、それを繰り返す数日間は、黎伊那にとって何処か物足りなく感じる日々だった。ソワソワと落ち着かない黎伊那の為に、鱗滝は積極的に仕事を与えた。
そして、待ちに待った日輪刀が黎伊那の元へと届けられた。愉快なひょっとこのお面を付けた男はそれなりに年を召しているらしく、嗄れた声をしていた。
「要望通り、二振り打ってきたぞ」
「ありがとうございます」
「では、早速抜いてみろ、それ、疾く」
嘗て振るっていた二振りの妖刀と同じ長さの物を頼んでいた黎伊那。懐かしい鉄の重さに目を細める。感傷に浸っている間もなく、せっかちらしい刀鍛冶に急かされ、ひと振りずつ鞘から抜いてみる。
柄の方から先端にかけてゆっくりと色の変わる刀。それは濃い藍色、所謂褐色 であった。
「褐色たぁ、縁起がいい!」
「そうなんですか?」
「褐色、勝色とも言って、武家の人間なんかは褐色の着物を好んで身につけていたという」
「へぇ…」
黒色にも見えるそれは、まるで深海のようだった。光が差さない海底は、きっとこんな色だ。黎伊那の瞳によく似た色の刀は、黎伊那の手によく馴染んだ。
その後、隊服も無事に届き久方振りの洋装に身を包んだレギーナは身が引き締まる思いだった。あの頃着ていたスーツでも、正義を背負ったコートでもない。黎伊那の身を守る為の特殊な隊服。意味もなく生地を撫で付けていると、鱗滝から声がかかった。
「どうされました」
「黎伊那、お前にこれを」
黎伊那が鱗滝から受け取ったのは羽織だった。ちら、と鱗滝へ視線をやると天狗のお面越しに目が合い、小さく頷かれる。
「頂戴します」
ゆっくりと包装を解くと、羽織の色が露わになる。黎伊那の持つ日輪刀と同じ、褐色の着物だった。膝の上からゆっくりと持ち上げると、裾と袖口に黄で模様が入れられていた。曰く、荒磯模様。荒磯の波間を縫ってあしらわれているのは鯉である。
「お前の刀がまさかあの色に染まるとは思わなかったが、何かの縁だ。隊服の上に羽織なさい。街に出るとき、背中に刀を隠すこともできる」
港町で育った黎伊那にとって、思入れ深い柄だったそれ。漁師だった義父の一張羅と、同じ模様。
ぎゅ、と抱え込むように羽織を抱きしめる黎伊那に、鱗滝は面の下で頰を緩める。
「先生、ありがとう、ございます」
噛みしめるように言葉を絞り出す黎伊那に近づくと、鱗滝は優しく頭を撫でた。この子ならばきっと大丈夫、剣術の才覚は恐ろしいものを秘めている、新たに生み出した呼吸は彼女をもっと強くする、あの選別で生き残ったこの子はきっと柱に登り詰める、と鱗滝はそう確信する。
隊服に身を包み、鱗滝から贈られた羽織を着こなし、腰のベルトへふた振りの愛刀を差す。
「行って参ります」
「気をつけてな」
深く頭を下げた黎伊那は今日、この日を迎えるまでの日々を思い出していた。鱗滝には感謝してもしきれない、大恩人で、敬愛すべき恩師である。
頭を上げ、鱗滝と目を合わせると今度は目礼し、師範に背を向けて走り出した。
優しい人だった、確かに厳しい修行であったけれど、生まれ変わったことで身体の構造が変わった黎伊那に戦う術を教えてくださった。
ふと頭を過ぎった、先生は私が死んだら泣いてくれるだろうか、と。首を横に振ると、馬鹿な考えはよせ、と自戒する。
黎伊那のやることは一つだった。憎悪で心を燃やし、1人でも多くの人を理不尽から救い出すこと。その為に、肉体だけ残し生きる屍となった鬼共を殺し尽くさねばならない。
外は大雨だった。
白い正義のコートを汚すのは赤。倒れ込んだ先は血と雨で濡れる甲板。
痛む身体に鞭を打って立ち上がり、駆け出そうとする。が、何かに足を取られ今一度膝をつく。足元のそれは、部下だった海兵の事切れた姿。
悪天候のせいか、既に冷たい部下の体温のせいか、自身の心も身体も冷え切っていく。
嗚呼、また誰かが死んだ。
「死ねっ!!!」
怒気の含まれる力強い声に我に返り、立ち上がって刀で迫る拳を受け止める。
嵐が直撃しているらしく、波は荒れ、豪雨と強風で頑丈な軍艦が揺れる。雨と血で濡れた甲板に足を取られ床に倒れ込む。
愛刀で首を狙うも、海軍最高戦力となる男の首を、この程度の覇気で取れるはずがない。
カウンターとばかりに灼熱は襲いかかり、此方の左腕を飲み込んだ。慌てて覇気を纏うも、左半身は完全に大火傷、飛び散った熱気で頰の肉は爛れ始めた。全身を飲み込まれる前に熱さと痛さで意識が朦朧とする中、右手で持つもう一振りの愛刀で自らの腕を切り落とす。
距離を取ろうと縺れる足で、バックステップを踏む。
満身創痍、どころでは無い。どうやら軍艦の端にまで追いやられているらしく、デッキの欄干が背に当たった。
ここからだと甲板の様子がよく見渡せる。沢山倒れてる。此方の部下も、彼方の部下も。
また死んだ。誰も彼もが死んだ。
流石にこれは無理だ、勝てない。どうやっても勝てない。後ろは大荒れの海、前は海軍大将。
「中将ッ…!!!」
視界の端で、生意気だった部下が駆け寄ってくるのが見えた。息のある者が、まだ居たことに少しだけ安堵する。
迫り来る熱に、最後の悪あがきとばかりに刀を構える。
刀を媒介に、強い衝撃が身体を襲う。
壊れた欄干と共に海に投げ出され、荒れ狂う波に攫われ、飲み込まれる。
身体が一瞬で重くなった。握力も無くなり、右手に握っていた愛刀を手放す。
喧しい雨音も、銃声も、何も聴こえなくなった。瞳に焼き付いた赤色も、海が洗い流してくれた。光は遠くなり、暗闇に沈む。
嗚呼、なんと無様な。なんと情けない最期か。こんな人生に、なんの意味があったんだか。
幼い頃から、海を見ているのが好きだった。果てしなく続く広大な海原を眺めていると、何故だか母に抱かれているような温かな気持ちになる。髪色が可笑しい、余所者、そう言って同じ歳の頃の子供に虐められた時は、1人海を眺めて己を慰めた。潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。寛容な香りが心も体も満たしてくれる。
「黎伊那、」
柔らかくて穏やかな声色は母のもの。折り畳んで短い腕で抱え込んでいた膝を伸ばし、背後からこちらに歩み寄る母の胸へと飛び込む。誰のものとも異なる色彩を持つ髪を梳くように撫でる母。暖かく、柔らかい。まるで海に抱かれているようだった。
「またここに居たのか」
低いが、よく通る声色は父のもの。仕方がない、と少し眉を下げる表情にすっかり見慣れた。母よりも大きな掌は、皮が厚く、骨でゴツゴツしていて凹凸があって、少し固くて安心できる。頭を撫でる手つきは母より少し乱暴で、だけどどんな脅威からも守ってくれそうな力強さ。母ごと抱き抱える父は大きくて、海に守られているようだった。
己を優しく抱きしめるこの温もりの持ち主たちが、本当の両親ではないということには気がついていた。それでも、己を無条件に受け入れ、愛し、慈しんでくれる彼らには、多大な恩を感じていた。
黎伊那は今の時代では珍しい外人との混血児らしかった。髪は艶やかな金色、鼻筋はスッと通っており肌の色も白く、彫りも深い。純粋な日本人である父と母とは明らかに異なる造形であった。
父方と母方、どちらの血のせいなのか、何処の国の血なのか、何もわからない。誰も知らない。浜辺に打ち上げられるように捨てられていた幼い黎伊那を保護したのはまだ年若い夫婦だった。
「黎伊那、お前さんそろそろ帰れ」
黎伊那の住む港町で、今日は豊漁を願う祭りが行われていた。田舎の小さな祭りのため、それほど長時間のものではなかった。日が暮れる頃、近所の大人から解散を告げられ、小さく頷く。
「最近子供や若い女が拐われてる。気を付けてな」
言葉を背へと投げかけられる。今度は声に出してわかった、と返事をすると父と母が待つべく家への帰路へ着いた。
何故子供の黎伊那だけが祭りに出席したかというと、義母が体調を崩し、漁師の義父が看病をしているのである。2人は気を使って「年に一度の機会なんだから、祭りに参加して来なさい」と黎伊那を送り出した。
見慣れた帰り道、涼しさを感じさせてくれる鈴虫の鳴き声。今日は雲ひとつなく、月が綺麗な日だった。祭りにぴったりな日だった。
住み慣れた我が家の扉を引くと、噎せ返るような鉄の匂いに黎伊那は全身を包まれた。うっ、と鼻腔が刺激され思わず鼻を片手で摘み、匂いを遮断するように塞ぐ。次いでくちゃり、くちゃり、という粘着質な音。今夜は月が綺麗だった、雲に隠れる事なく顔を出している。暗い室内を照らした月明かりが、黎伊那の瞳の中に地獄のような光景を写した。
赤黒く濡れた室内、力なく投げ出させる誰かの四肢。白かったであろう誰かの着物は別の色で染め上げられている。部屋の中心で、肉片に囲まれた生き物がモゾモゾと動いている。
何だ、何だこれは。受け入れ難い目の前の光景に黎伊那は瞬き一つ出来なかった。不意にもぞもぞと動いていた生き物が黎伊那の存在に気が付いた。顔を上げ、黎伊那を見つめる眼光は鋭い。縦に伸びた瞳孔が浮かぶ妖しく光る瞳。黎伊那は身体を硬直させた。生き物の口元がテラテラと視界にちらついた。
「あぁ……?何ダァ、子供がいたのかァ…」
「あ、あ…」
貪り付いていた肉から意識を逸らした生き物はにったりと薄気味悪く口角を持ち上げた。小さく喘ぐ黎伊那の様子は酷く哀れだった。
「可哀想に、可哀想に…父ちゃんと母ちゃんはオレが喰っちまったから…寂しいよなァ、オレが今、2人の所に送ってあげようなァ…」
「ふ、2人を、お前が…」
「そうだよォ?喰っちまった…オレが喰っちまったァ…あは、アハハハハ!女はちょっとまずかったなァ、病持ちか?折角の女なのに喰い損だ」
「…な、んで」
「男の方も不味い不味い、肉が固くてかなわん…質の悪い筋肉だ、不味い夫婦だった…お前はどうかなァ」
そういえば、と黎伊那の脳内にあることが過ぎる。『最近子供や若い女が拐われてる。気を付けてな』確かにそう声をかけてくれた大人がいた。
黎伊那も両親から確かにくれぐれも人攫いには気をつけるように、と口酸っぱく言われていた。
「女の子供だからなァ、きっときっと、きっと、美味いだろうなァ!」
「…ぁっ、」
こいつだ、こいつが犯人だ、黎伊那は確信した。この化け物が、拐われたという人たちを皆、両親と同じように。
意味のない母音が黎伊那の喉を震わせた。
「命乞いかァ?いいよォ、聞いてやるよォ…大きな声で、そォら、言ってごらん…?」
煽るような化け物の様子にカッと頭に血が上った黎伊那は、台所に置きっ放しになっていた義父の刺身包丁を手に取った。
「殺してやる!!!」
「ぎゃっ!?」
怒りに任せて化け物に飛びかかった黎伊那は真っ直ぐと刃を振るう。良く研がれたそれは化け物の腕をまるで豆腐を切るかのように簡単に肉を断った。
黎伊那は戸惑わない。化け物を殺すことに何の迷いもない。何の罪もない、ただ普通に過ごして来た少女たちの未来を、こいつが奪ったのだ。それに加えて、己の大切な人たちを喰ったのだ、なるべく沢山苦しめて、泣かせて、甚振って、憐れに命を乞った末にぶっ殺してやろうと、そればかりが黎伊那の脳内を占めていた。
まさかその化け物が切った腕を再生したのには酷く驚いたが。
「痛ェ…!いくら再生するって言っても、痛ェもんは痛ェんだよ……!ムカつくなァ…すぐに喰ってやろうと思ったけど、やめたァ…指一本一本千切って、耳と鼻を削いで、ゆっくりゆっくり喰ってやろうなァ…」
青筋を浮かべた化け物に黎伊那は気付く事なく、更に再生するという事実に己の口角が緩く持ち上がってしまうことにも気が付かなかった。
ああ、そうか、この化け物は、沢山痛め付けても、そんな簡単には死なないんだ。
罪人が犯した罪を償うには、それ相応の痛みを伴うことが重要だ。だから、この化け物は喰らった人たちの苦しみ、痛みを死ぬまで味わう必要がある。
誰か別人の思考が黎伊那自身に乗り移ったように感じた。自分ではない誰かが、勝手に黎伊那の口を動かしているかのようだった。
「許して、許してくれェ…」
「誰に許しを乞うているんだ?」
「痛い、痛い、痛い…!もう、もう、……死にたい…」
無心で只管化け物を嬲っていた黎伊那は、弱々しく放たれたその言葉に動きを止める。
死にたい?死にたいと言ったのかこいつは。死にたくない、ときっと恐怖に涙を流して死んでいった人を、自分が喰っておいて、自分は死にたいと?
「安心しろ、お前に明日が来ることはない」
「……ぁ…、」
「お前みたいな化け物は、さっさと死ぬのがこの世のためだ」
静かにそう告げると、何度も何度も化け物の心臓に刃を振り下ろした。旭日が昇るまで、何度も、何度も。太陽が黎伊那を照らした時、呻くだけで抵抗すらしなくなっていた化け物は、塵となってまるで浄化でもされるように消えていた。その表情はまるで、苦行から解放されることに安堵するように、緩く持ち上がった口角はまるで微笑みを浮かべていたようにも見えた。
あの時見た、弟の死に顔のように、
「……ぁ、」
脳天に雷が直撃したような衝撃が黎伊那に襲いかかった。
悔いは無い、と言いたげに穏やかな死に顔を浮かべていた遺体。身体には大きな風穴を開け、内臓を焼いていた。既に冷たくなった額を、慈しむように撫で、一つ唇を落とした。『大好きよ』と、呟いた言葉は、潮風に拐われて消える。
『生まれてきたことが罪』『鬼の子』『危険因子』悪意と殺意、そして憎悪が含まれたその言葉は、全て2人の姉弟に向けられた言葉だった。世界で最も恐れられた犯罪者の実の子供として生まれた私たちは、世界で最も死を望まれた存在だった。
近所のあの黒髪が綺麗な人が死んだ。一緒に遊んでくれた、綺麗な青色の瞳を持つ男の子も死んだ。私と、私の母、これから生まれてくる弟の身代わりとなって死んだのだ。
どうして?あの人たちは、ただ幸せに生きていただけなのに。港に停泊している『正義の味方』たちは、私たち親子を探してた。それこそ、疑わしい親子を片っ端から殺していく位には、血眼になって探していた。この世で最も恐れられ、嫌われ、恨まれて蔑まれるべき血筋の私は、生まれてきてはいけないらしかった。
命を懸けて弟を守り、愛した母は、私に弟を託すと静かに眠りについた。世界を憎んだ、血筋を恨んだ、何よりも、理不尽が許せなかった。まだ小さくて、何も出来ない弟が生きやすい世の中を作りたくて、血筋を偽り、私も『正義の味方』になると決めた。
愛する弟のためなら何だってできた。誰にも殺されないように、強く生きられるようにと、手元から離れる最愛の弟を何度も傷つけた。鍛錬と称した激しい暴力に訳もわからず泣いて謝る幼い弟を、突き放し、手を差し伸べることもせずに冷たく見下ろしていた。嫌われたって、恨まれたっていい。ただ弟が、生きているだけでよかったのだ。
世界に見つかって、血筋のことがバレて、鎖に繋がれ項垂れる弟にみっともなく縋りたくなった。どうして、生きて欲しいだけなのに、なんで私の言うことが聞けないの、こんなに愛しているのに、そう言ってしまいそうになった。なんて自分勝手な人間なんだろうか。
弟の最期は、末の義弟を庇うように身体を貫かれ、焼かれ、死んだ。手を伸ばせば触れられた。立場も野望も未来も、全部捨てて無理にでも駆け出せばよかった。なんのために生きていたのか、弟のために人生を捧げるつもりだったのに、全て両の手から零れ落ちてしまった。
冷たくなった身体に、浮かべた表情は『悔いは無い』と言いたげな、満足げな笑み。穏やかなそれは、私を絶望の淵に立たせた。
弟の仇の上司は、酷く苛烈な男だった。正義を名乗るクセに、悪を滅ぼすためなら犠牲を厭わない人間だった。奴の正義が許せなかった。罪の無い人の命を軽視する奴を、『鬼の子』だからとそれだけで私たちの生を否定した奴を。一矢報いたかった、私の部下諸共海に沈めようとしたあの男を殺してやりたかった。
嗚呼、なんて無様で哀れな人生か。私の人生に、一体なんの意味があったのか。沢山の人を死なせた。最愛の弟を死なせた。慕ってくれた部下を死なせた。終いには、抵抗虚しく殺された。
それが、一体何故また生まれてきてしまったのか。
*
煉獄槇寿郎は早朝に驚くべき光景を目にした。
血だまりの中に座り込み、項垂れるまだ幼い少女。右手には同じく血に濡れた刃物。程近い場所に位置する民家には、原型を留めない肉片が。恐らく少女の家族であろうと思われた。
鬼は確かにいたらしい。この少女が、日が昇るまで鬼に抵抗していたおいうのだろうか。
その事実に槇寿郎は背中に冷たい汗が伝った。まだ10歳前後の少女が、たった包丁一本で鬼と一晩格闘したというのか。
「君、」
意を決して槇寿郎が話しかけるも、反応がない。眠っているのか、気絶しているのか。項垂れる少女の顔を覗き込むように表情を窺い見る。朝日に照らされる金色の髪に対して、黒い瞳に生気はまるでなく、がらんどうであった。無理もない、愛する家族を亡くし、一晩も悍ましい鬼と対峙していたのだ。心を壊してもおかしくない。
「……よく、頑張った」
槇寿郎は努めて優しい声色で少女を励まし、労わるように肩に手を置いた。ぴく、と小さく身体を揺らした少女はようやっと槇寿郎の存在に気がついたらしかった。しかし、槇寿郎に視線をやることなく、瞳は相変わらず何も映さない。
カシャン、と手に握ったままだった刺身包丁を手放す。柄まで赤黒い血がこびり付いて、包丁を握っていた掌は皮がずるりと剥けおり、槇寿郎は痛ましそうに顔を顰める。
少女は自由になった手を持ち上げ、ゆっくりと両手を首元へ向かい入れる。まるで自身の首を絞めるような動作に、槇寿郎が止めに入ろうとした時だった。
「死んでしまいたい」
恨めしげに吐き出された言葉は少女のがらんどうな瞳とは対照的で、複雑に感情が混ざり合った言葉だった。
己がもっと早くこの町に付いていれば、少女の両親は死ななかったかもしれない、少女と鬼が対峙することもなかったかもしれない、少女が心を壊すこともなかったかもしれない。
*
「おに」
「そう、鬼だ」
黎伊那は眼が覚めると、知らない天井がまず始めに目に入った。黎伊那が数年間過ごしてきた家にはない、上質な布団の上に寝かされていた。
化け物から浴びた返り血はすべてきれいに拭き取られ、一晩中刺身包丁の柄を握っていたことでずる剥けになった手にはご丁寧に包帯が巻かれ治療の跡がうかがえる。
黎伊那が眼が覚めたことに気がついた屋敷の住人は誰かを呼びに行き、黎伊那の元へやってきたのはまだ十代の青年だった。茫然自失になり、ほぼ意識を失っていた黎伊那をここまで運んでくれた煉獄槇寿郎という男で、槇寿郎は多忙の為黎伊那をこの屋敷へ預けると直ぐに出立したとか。
黎伊那はあの悪夢のような夜から3日程熱に浮かされ生死を彷徨っていたらしい。外傷はないのに、高熱は中々下がらず大凡精神的なものであろうと診断されていた。
そして話は冒頭に戻る。黎伊那たち家族を襲った化け物について。
「俺たちはその鬼を倒す鬼殺隊だ。政府からは非公認だが、唯一奴らを殺す術を持っている」
「唯一…」
「君は刺身包丁で対応していたようだが、何度切っても奴らは再生していたろう?奴らを殺すには『日輪刀』という特殊な刀が必要だ」
それから鬼殺隊とはなんたるかを聞き、この屋敷、藤の家紋を掲げた家についても話を聞いた。
「君には2つの選択肢がある」
そう言うと、青年は指を二本立て何やら意味深長に強調した。瞳はまっすぐに黎伊那を射抜いており、思わず背筋が伸びた。
「1つは、ご両親が亡くなった君には居場所がない。だからこの藤の家紋の屋敷で奉公に出る。この屋敷にはそういった境遇の人も少なくない」
「2つ目は?」
間髪入れずに黎伊那は尋ねる。正直にいうと黎伊那の中でその案は即却下されていた。嘗ての生を思い出し、鬼という理不尽な存在に出会ってしまったことで、黎伊那は記憶のない数日前までの幼い無垢な少女ではいられなくなってしまった。内に燻る怒りを鎮める方法は存在しない。
その後黎伊那の即答に一瞬面食らった青年だったが、2つ目を間を置くことなく提示した。
「2つ目は、鬼殺隊に入って戦うこと。少なくとも煉獄さんは君に剣の才を感じていた。君ならきっといい剣士になれるだろう」
「わかりました。で、その鬼殺隊に入るには?」
続きを促す黎伊那に、流石の青年も一度口を閉ざした。言葉を続けない青年に黎伊那は怪訝な顔をする。
「君、本当にそれでいいのか?いや、別に止めてるわけじゃないんだが…死ぬほど厳しい道のりだぞ。脅しじゃない、言葉通り血反吐を吐くような鍛錬を積まなければならない」
「構いません」
青年を見つめる暗く濁った瞳は今更人並みの幸せを求めるものではなかった。少なくとも、10歳そこらの子供がしていい瞳ではなかった。黎伊那の黒い目に二の句を継げなくなった青年は小さく息を吐くと仕切り直すように名を名乗った。それに応えるように、義父母から貰った和名を名乗る。
「俺は鬼殺隊階級申、粟嶋廉蔵だ。君に知り合いの育手を紹介しよう。君の名前を教えてくれ」
「船木黎伊那です」
よろしくお願いします、布団から身を起こし、頭を下げる黎伊那を痛ましげに見つめる粟嶋。
粟嶋の脳裏に過ぎる煉獄の『死にたがっていた。もしかしたら心を壊しているのかもしれない、気に掛けてやってくれ』という言葉。暗く何も映さない瞳は、確かに黎伊那の心の傷を表している。死にたがっているのなら、死に場所を探しているのかもしれない。あの厳しくも優しい育手の元ならば…という一縷の望みを掛けて、己の師匠の兄弟子に当たる鱗滝左近次に黎伊那を紹介するのだった。
粟嶋は鱗滝の元へ黎伊那を連れて行く道中、様々なことを話した。彼女の出自、趣味趣向、死に向かう彼女を止めることができれば、と黎伊那の本質を探っていたのだ。
「君は鬼を憎んでいるか」
「別段憎くはありません」
「え、そうなのか?」
予想だにしない返答に驚きを隠せない粟嶋。てっきり自身の両親を殺した鬼を憎んでいるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「あの鬼は、両親を食いましたが、仇は私が取りました。『死にたい』と、そう思わせるほど甚振ることが出来ました。私が憎むべき鬼は既に死んでいる」
己より低い位置にある黎伊那の背丈により、粟嶋は黎伊那の表情を伺い見ることが出来なかった。言葉を続ける黎伊那を遮ることはせず、粟嶋は沈黙して耳を傾けていた。
「けれど、奴は輝く未来が待っている若人を食いました。何の罪もない、これから幸せが待ち受けていた
怒りを押し殺したような黎伊那の声色に粟嶋は目を伏せる。そうか、この少女は、
「鬼は肉体だけで生き永らえてる死体です。どんな形であれ、理性も記憶も失って、食欲を満たす為だけに人を食らう
私怨と正義感が混ざり合った黎伊那という少女は、酷く歪であった。本来、真っ直ぐで誠実な人柄であったのだろう黎伊那は、鬼と出会った事で歪められてしまったらしい。恐らく彼女は鬼殺隊に入る事が出来る。きっと強くなる。そして、沢山の鬼を狩り、いつか任務で命を落すだろう。死ねることに安堵しながら、鬼と相討ちする。
「粟嶋さん」
「なんだ?」
「私、まだ死ぬつもりありませんから」
粟嶋は思わず視線を黎伊那へと落とす。此方を見上げるように顔を上げていた黎伊那の瞳を見つめた粟嶋は、彼女の暗い瞳から力強い何かを感じ取った。
「弱いままの今の私じゃ、死に方すら選べない」
ポツリ、と零された言葉は矢張り不穏で。
自ら修羅の道へと飛び込む黎伊那の人生に、心を癒す何かがあればと、粟嶋は心の内で人知れず願った。
粟嶋と黎伊那が共に行動し始めて数日たったある日、太陽が沈み始めた頃、見晴らしのいい畦道で粟嶋が足を止めた。不思議に思った黎伊那が粟嶋を見上げると、彼は真っ直ぐに前を向いたまま小さく告げた。
「俺の案内はここまで。鱗滝さんには文を出しておいた。暫く進めば、きっと迎えに来た鱗滝さんと鉢合わせる」
「そうですか、ありがとうございました」
「いや……」
何か言いたげだった粟嶋を気にも留めず、黎伊那は再び歩き出した。口を閉ざした粟嶋であったが、黎伊那と数メートルの距離ができてから、彼女の背中に向かって言葉を投げかける。
「死ぬな」
たった数日過ごした仲だったが、粟嶋は黎伊那が心配でならなかった。恐らく、粟嶋のこの情に深い性格を見越して、槇寿郎は彼に黎伊那を任せたのだろう。小さな背中に、大きな決意を背負った少女。きっと強くなって、また粟嶋と再会するだろう少女。美しい金色の御髪を翻し、振り返った黎伊那の瞳はやはり暗い。粟嶋に対し目礼すると、再び歩を進め出した。再び相見える時、彼女の瞳に別の色が灯ることを信じて。
*
拝啓
茹だるような暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。私はやはり暑さがどうも苦手で、故郷の雪国を恋しく思っております。
ところで、黎伊那の様子は如何でしょうか。貴方にあの子を紹介して、そろそろ1年が経つ頃です。剣の才能はある、と私は確信しておりましたが、呼吸の方は如何でしょう。そして何より、あの子の心の傷は癒えているでしょうか。私は未だにあの暗い瞳が頭から離れません。あの年の頃の子供がするべき目では無い。鬼の存在が、あの子を歪めてしまったと思うと、遣る瀬無くて堪りません。
受け答えはきっとしっかりしていると思いますが、所詮それはあの子の上辺にしか過ぎません。私は数日間しか、あの子と共に過ごしませんでしたから、心の奥底、ずっと深いところでついた傷に気付けませんでした。どうか、あの子の心に寄り添ってあげてください。
それから、私事で大変恐縮ですが先日、水柱の位を授かりました。これからも日々精進して参ります。
敬具
粟嶋廉蔵
鱗滝左近次様
鱗滝は自身の兄弟弟子の教え子である粟嶋からの手紙を一通り読むと文筆箱へとしまった。
黎伊那が鱗滝の元へ来て約一年。剣術は申し分無い、寧ろ恐ろしいほどの才覚を秘めている。女という性別でありながら、その年の子供にしては身体も大きく力も強い。それに対して、呼吸の方はどうも芳しくない。黎伊那の少し癖のある足運びにより、鱗滝の師事する水の呼吸とは少し異なっている。全く違う訳ではないが、鱗滝の使ってきた呼吸とはやはり何処か違う。
そして、黎伊那の負った心の傷だが、こればかりは根深いようで鱗滝も頭を悩ませていた。手紙に書いてあるように受け答えははっきりしている。闘志も向上心もある。だが、笑わないのだ。厳しい修行を受ける中で笑顔を見せない弟子も少なくないが、それにしたって一度も笑っていない。何かに取り憑かれたように一心不乱に剣を握る姿は、心を守るためなのかもしれない。
ふ、と一息ついた鱗滝は立ち上がると小屋の外へと向かった。
黎伊那は焦っていた。嘗て海の治安を守っていた頃の剣術の勘を取り戻しつつあるものの、肝心の呼吸が一向に使えるようにならないのだ。会得していた覇気は、生まれ変わった弊害か身体の造りが変わってしまったからなのかあの頃の様に使える事はなかった。辛うじて見聞色の覇気紛いのものは使えるようになったが、正直言って覇気と呼んでいい代物ではなかった。呼吸は師匠の鱗滝の様に巧みな足捌きが出来ずどうしても踏み込んでしまう。力んでいるからか威力は申し分無いのだが、残念ながら『水の呼吸』とは少し異なっているらしい。鱗滝は毎回の様に「…違うな、」と小さく指摘すると事細かに指南してくれる。が、黎伊那は一向に正しい水の呼吸を使用することができていなかった。
「黎伊那」
「先生、…すみません、まだどうしても呼吸がうまく使えなくて…」
「その事だが、恐らくお前は『水の呼吸』ではなく、己に合った『独自の呼吸』を使っているのでは無いか?」
「独自の呼吸、ですか?」
「お前の繰り出す技は『水の呼吸』にしてはやや威力が大きい。勿論、『水の呼吸』を極めたらそれ相応の洗練された技が繰り出されるが、お前のは所謂『力押し』な部分が大きい」
「力押し…それが『水の呼吸』から私が派生させて『独自の呼吸』に作り上げているという事ですか?」
「そうだ」
一を聞いて十を知る、鱗滝の憶測から答えを導き出した黎伊那は以前までの鍛錬を思い出す。確かに黎伊那のそれは鱗滝の指南する『水の呼吸』よりもやや力技という印象がある。言い方は悪いが、どの様な形にもなれる水の流れる様とは異なっている。どちらかというと土台を作ろうと踏み込み、力強い印象を受ける黎伊那の斬撃は『水』というよりも『海』の様だと思った。
己の呼吸について少し考え込んでいた黎伊那は、何かに気が付いた様に顔を上げると鱗滝へと向き直る。
「先生から時間をかけて教えて頂いた『水の呼吸』をものにすることができず、申し訳ありません。ですがどうか、この先も、私が『独自の呼吸』を完成させるまで、ご指導をお願いしたく」
「勿論だ。それが完成するまで、最終選別には行かせられない」
「ありがとうございます」
鱗滝から了承を得た黎伊那は深く頭を下げると、ほっと息をついた。鱗滝の鼻には黎伊那がから心底安堵した匂いが掠めた。日頃、黎伊那からは何かに対しての憎しみ、怒りの匂いがごく僅かだがしている。恐らく心の中で押し殺しているであろうそれはとても薄く、黎伊那が激情を秘めているのは明らかだった。そんな黎伊那が、初めて憎悪と憤怒以外の匂いがして、鱗滝は胸を撫で下ろした。厳しい修行に対して黎伊那は今まで泣き言一つ溢さなかった。修行の最中に負った傷の痛みに顔を顰めることはあっても、それ以外の感情を表に出したことはなかった。どんなことでも飲み込んできたであろう黎伊那の小さな安堵は鱗滝を安心させた。
黎伊那はまだ心を壊したわけでは無い。壊れかけた心を守るために、胸の内に全て隠しているのだ。これ以上柔い部分に触れさせない様に、頑丈に、頑丈に施錠している。
まだ黎伊那は笑うことができる。鱗滝は未だ見ぬ弟子の笑顔に思いを馳せた。
それから約1年かけ、『水の呼吸』から派生させ『海の呼吸』を完成させた黎伊那。嘗ての最盛期より遥かに劣る幼い身体は少しずつ筋力をつけ、剣術も少しずつ磨き上げた。あの頃には遠く及ばないが、鱗滝が育てた弟子の中で最も優秀であると言っても過言ではなかった。「もう教えることはない」と鱗滝に大岩を斬れと指示された際は僅か1日で課題をクリアした。
「黎伊那、お前を最終選別へ送り出す」
「はい」
いつもの様に淡々と返事をした黎伊那は静かに鱗滝を見つめ返す。鱗滝は天狗の面の下で僅かに眉を寄せると、黎伊那の肩を軽く叩いた。
「よく、修行に耐えた。よく、これほどの技術を身につけた」
「は、はい…ありがとうございます」
戸惑った様子を見せる黎伊那に鱗滝はおや、と思う。
そのまま2人は下山すると、鱗滝は夕食の支度へ取り掛かった。対して黎伊那は体の汚れを落とし、真新しい着物に着替えると鱗滝と向かい合う様に腰を下ろした。
2人で鍋をつつきながら、鱗滝は修行を全て終えた際の黎伊那の様子を思い出していた。鱗滝の言葉に居心地悪そうにしていた黎伊那は新鮮で、2年をの時を共に過ごしていたが初めて見る姿だった。現に今も黎伊那からは何か戸惑っている匂いがする。
「黎伊那、お前に厳しい修行をつけたのは、お前を死なせないためだ」
「は、はい」
「しかし、お前は本当によくやった」
「それは…先程も聞きましたが、ありがとうございます」
やはり戸惑っている様子の黎伊那に鱗滝は、なるべく優しい声色を意識して語りかける。
「……何か、思うところがあるなら、話してみなさい」
僅かに動きを止めた黎伊那は視線を泳がせると、自分の手元一点を見つめ、言葉を探す様にゆっくりと紡いでいく。
「私は、まだ、何かを為せる程の力は持っていません。なので、先生にその様な言葉をかけて頂くのは…」
「謙遜するな」
「いえ、謙遜ではなく…」
煮え切らない態度の黎伊那は口を閉ざすと、再び食事に意識を移した。
黎伊那は誰かに己の存在を肯定される行為に不慣れであった。鱗滝が黎伊那の修行で身につけた技術について認めることは、黎伊那の力を認めることと同義であった。嘗て己の出生に振り回された黎伊那は、鱗滝の言葉に覚えのない感情に見舞われていた。
その後、最終選別の日まで鍛錬を続け、ようやくその日を迎えた。鱗滝は左頬に藍色の流水紋を配わせた厄除の面を持たせ、黎伊那を藤襲山へと送り出した。無事に彼女がこの家に戻ってくるのを願った。
鬼殺隊の一員になるには、藤襲山で行われる最終選別で7日間生き残ること。
黎伊那は流れるように鬼の頸を取り、未だ無傷の状態で生き残っていた。
度々出くわす鬼に恐怖し立ち上がれなくなった子供を叱責し、鬼を狩る。鬼に襲われ血に濡れた衣服だけになってしまった子供を静かに弔う。最終選別とは、なんとも恐ろしく、無情で厳しいものだろうか。子供たちをこの選別へ送り出す育手たちは、一体どんな気持ちだったのか。
嫌悪感が渦巻く心を落ち着かせるように、黎伊那は深く息を吸う。この世が理不尽で出来ていることを知っている、だからこそ、戦いに身を投じたのだ、そう言い聞かせると、再び駆け出した。
日は既に沈んだ闇夜の中、少し見晴らしのいい場所で、黎伊那は小さな地獄を見た。下半身が無く、臓腑が引き摺り出され、惨い遺体として胴を投げ出している少女の元で、座り込み震えている少年。
嗚呼、可哀想に、きっと少年は、彼にとって大切な存在だったであろう少女の変わり果てた姿に、打ちひしがれている。刀を投げ捨て駆け寄ったのであろう、抜き身の刃が少年の背後で転がっている。
絶望しているのか、憤っているのか。出来れば後者であってほしいと思いながら黎伊那は少年に近寄った。
「…刀が落ちていた」
「……」
「此処は血の匂いが濃い。早く離れた方がいい」
「……」
少年は黎伊那の言葉に何か返すこともせず、膝の上で血が出るくらい拳を強く握っていた。
「その子の遺体を持ち帰りたいのなら、何かで止血した方がいい」
「……」
「若しくは刀を握って肉を求める鬼を返り討ちにすればいい」
「……」
黎伊那からの言葉にやはり一言も返さない少年に、目を細める。拾った少年の刀をガシャン、と足元へ投げ捨てると黎伊那は煽るように問いかける。
「情けない…勝手に絶望してろ。お前もその子みたいに襲われるのがオチだ」
黎伊那の心無い言葉で少年は素早く刀を握った。怒りで目の前が真っ赤に染まった少年は背後に立つ黎伊那へ下段から上段へ向かうように斬りかかった。ピクリとも動かなかった黎伊那へ向かった刃は厄除の面だけを綺麗に真っ二つにした。カランと軽い音を立てて落下した面。
怒りのあまり荒い息を繰り返す少年が口を開くより先に、黎伊那が動いた。
「先に手を出したのはお前だ」
そう小さく零すと足を一歩踏み出し、右手に握る刀の柄で思いっきり少年の額を殴り飛ばした。ゴッと鈍い音がしたと思ったら少年はほんの数秒間、意識を飛ばした。
「ぇ…………え?」
なぜ急に思い切り殴られたのか、然も柄で、師範の拳の数倍は痛かったぞ、と怒りより驚きが勝った少年は唖然とした表情で黎伊那を見上げる。いや、確かに斬りかかったけど本気で殺そうとしたわけではないし、むしろ刃は彼女にかすりもしなかったのに、切った面が大切だったにしてもそんな冷静に人を殴るか、と言ってしまいたかったが、少年はただ黎伊那を見上げるしかなかった。徐に黎伊那は動いたかと思うと、少年の胸倉を掴み、距離を縮めた。
「お前は此処で死ぬのか?」
「っ、なんなんだよお前…!」
「死ぬのか、と聞いている。大切な刀を投げ捨て、丸腰で、何も果たさないまま、死ぬのか」
「うるさいっ!!俺の、…俺の大切な妹が死んだこの世に、何の意味もない!!生きていても、何の意味もない!!!」
妹、という言葉にピクリと黎伊那の眉が動いた。
「そう…、確かに意味がない。刀を握れないお前は、生きていても何の役にも立たないから、さっさと死んだ方がいい。このまま生きていても意味が無いから。死んでも特に意味はないだろうけど」
「はぁ!?」
「意味のない短い人生、お疲れ様」
黎伊那はそう言い放つと、パッと少年の胸倉から手を離した。冷たく己を見下ろす黎伊那に対し、少年は驚きで吹き飛んだ怒りを沸々と再び蘇らせていた。
「妹の仇すら討てないお前じゃ、死んだ妹も浮かばれないな」
「お前に、…何が分かるっ!!!」
再び刀を振るった少年の手を、今度は捻り上げるように掴んだ黎伊那。怒りに任せた単調な動きを止めることは、黎伊那にとって造作も無い事だった。
「戦う事を放棄した弱虫の気持ちなんて分かるかっ!刀を持ったなら、最後まで足掻け!並大抵の覚悟で此処に来たんじゃ無いだろうが!」
力強い黒い瞳は、仄暗く薄気味悪くさえあった。なのに、目が離せなかった。それ以上に強い何かを感じた。消えることの無い、燃え続ける怒りが、確かに黎伊那の瞳の奥には灯っていた。
「怒れよ、憎めよ、恨めよ。お前の妹は何故死んだ?鬼に襲われたからだ。何故お前達兄妹は鬼狩りを目指した?何か理不尽がお前達を襲ったんだろうが。お前はその理不尽を許せるのか?」
少年とその妹は捨て子だったが、世話をしてくれた親切な人がいた。しかし、その人は鬼に食われた。嗚呼、そうさ、許せない、俺たちをこんな目に遭わせた理不尽を許せない、歯を食いしばって思わず黎伊那の瞳から顔を逸らした少年。黎伊那はその様子に掴んでいた腕を話すと足元に落ちた面を拾って懐へとしまう。
「それでもまだ死にたいのなら、山から降りてひとりで勝手に死ね」
そう言葉を連ねると、黎伊那は踵を返し、再び闇の中へ身を投じた。
黎伊那は少年の気持ちが痛いほどわかった。大切な肉親が死に、この世に何の意味もないと、絶望したのをいまだに憶えている。泣いて墓に縋ったって、弟は帰ってこない。もっと愛してあげればよかった、もっと抱きしめてあげればよかった。後悔先に立たず、生まれ変わっても尚、黎伊那の心を蝕み続ける。
あの日ーーー義父母を襲った鬼を殺した日、記憶が戻った日ーーー心の底から死んでしまいたいと思った。弟は死なせ、仇も討てずに殺された。何のために己は生きていたのかわからなくなった。しかし、踏み留まれたのは、義父母が己を愛してくれたからだ。嘗て世界中から死を望まれた存在であっても、誰かに愛されることがあったからだ。誰かの為に、この命を使いたかった。最愛の弟の為に死ねなかった後悔を、今世ではどうしても果たしたかった。
レギーナのそれは、自己犠牲よりも、ずっとタチの悪いものだった。彼女は死ぬ事を望んでいるわけではない、誰かの為に死ねる事を望んでいる。その誰かがまだ現れていないことが唯一の幸いだった。彼女がまだ生きているのは、いつか現れる誰かの死に際が、訪れていないからである。
黎伊那は無事に最終選別を7日間、無傷で乗り切ることに成功した。山の入り口へ戻ると、7日前よりも人数は減っているが、十数人は生き残っていた。案内人の少女達に従い、日輪刀の素となる玉鋼を直感で選び、隊服の採寸をすると我先にと山を降りていく。背後から誰かに声をかけられた気がするが、それよりも早く、7日間で疲れた身体を休めたかった。
狭霧山の麓、鱗滝の小屋へ戻り扉を引くも、中に人の気配はなかった。出掛けているのだろうか、そう思い振り返った折、足元に斧で切った薪が転がってきた。転がってきたであろう先を辿ると、たった7日間だったが懐かしく感じる赤い天狗の面。抱えていた薪を鱗滝が落としたらしい。
「先生、ただいま戻り、」
ただいま戻りました、そう言い切る前に、黎伊那は鱗滝に抱きしめられた。突然の師範からの抱擁に目を白黒させる黎伊那。久し振りの他人の温度に思わず頰が赤く染まる。
「せ、せんせい、あの…」
「よく、よく生きて帰ってきた…!」
震えている声に黎伊那は目を見開いた。この人は、己の生を喜んでくれている。その事実が、黎伊那にとって最も尊い事だった。恐る恐る己よりも大きな背中へと手を伸ばす。暖かい体温は、生きている証。震える声は、己の生還を喜んでいる証。この抱擁という行為は、2人の信頼関係の証。
「はい、ただいま、かえりました…」
鱗滝の温もりを感じるように目を瞑り、小さく言葉を返す黎伊那。嘗て義父母が与えてくれた温もりに似ている。安心できて、暖かくて、眠くなる。
黎伊那は最終選別での疲れもあり、そのまま鱗滝の腕の中で意識を落とした。
丸一日泥のように眠った黎伊那は、日輪刀と隊服が支給されるまで、鱗滝の家でゆっくりと過ごした。鍛錬をし、食事の手伝い、家業の手伝い、それを繰り返す数日間は、黎伊那にとって何処か物足りなく感じる日々だった。ソワソワと落ち着かない黎伊那の為に、鱗滝は積極的に仕事を与えた。
そして、待ちに待った日輪刀が黎伊那の元へと届けられた。愉快なひょっとこのお面を付けた男はそれなりに年を召しているらしく、嗄れた声をしていた。
「要望通り、二振り打ってきたぞ」
「ありがとうございます」
「では、早速抜いてみろ、それ、疾く」
嘗て振るっていた二振りの妖刀と同じ長さの物を頼んでいた黎伊那。懐かしい鉄の重さに目を細める。感傷に浸っている間もなく、せっかちらしい刀鍛冶に急かされ、ひと振りずつ鞘から抜いてみる。
柄の方から先端にかけてゆっくりと色の変わる刀。それは濃い藍色、所謂
「褐色たぁ、縁起がいい!」
「そうなんですか?」
「褐色、勝色とも言って、武家の人間なんかは褐色の着物を好んで身につけていたという」
「へぇ…」
黒色にも見えるそれは、まるで深海のようだった。光が差さない海底は、きっとこんな色だ。黎伊那の瞳によく似た色の刀は、黎伊那の手によく馴染んだ。
その後、隊服も無事に届き久方振りの洋装に身を包んだレギーナは身が引き締まる思いだった。あの頃着ていたスーツでも、正義を背負ったコートでもない。黎伊那の身を守る為の特殊な隊服。意味もなく生地を撫で付けていると、鱗滝から声がかかった。
「どうされました」
「黎伊那、お前にこれを」
黎伊那が鱗滝から受け取ったのは羽織だった。ちら、と鱗滝へ視線をやると天狗のお面越しに目が合い、小さく頷かれる。
「頂戴します」
ゆっくりと包装を解くと、羽織の色が露わになる。黎伊那の持つ日輪刀と同じ、褐色の着物だった。膝の上からゆっくりと持ち上げると、裾と袖口に黄で模様が入れられていた。曰く、荒磯模様。荒磯の波間を縫ってあしらわれているのは鯉である。
「お前の刀がまさかあの色に染まるとは思わなかったが、何かの縁だ。隊服の上に羽織なさい。街に出るとき、背中に刀を隠すこともできる」
港町で育った黎伊那にとって、思入れ深い柄だったそれ。漁師だった義父の一張羅と、同じ模様。
ぎゅ、と抱え込むように羽織を抱きしめる黎伊那に、鱗滝は面の下で頰を緩める。
「先生、ありがとう、ございます」
噛みしめるように言葉を絞り出す黎伊那に近づくと、鱗滝は優しく頭を撫でた。この子ならばきっと大丈夫、剣術の才覚は恐ろしいものを秘めている、新たに生み出した呼吸は彼女をもっと強くする、あの選別で生き残ったこの子はきっと柱に登り詰める、と鱗滝はそう確信する。
隊服に身を包み、鱗滝から贈られた羽織を着こなし、腰のベルトへふた振りの愛刀を差す。
「行って参ります」
「気をつけてな」
深く頭を下げた黎伊那は今日、この日を迎えるまでの日々を思い出していた。鱗滝には感謝してもしきれない、大恩人で、敬愛すべき恩師である。
頭を上げ、鱗滝と目を合わせると今度は目礼し、師範に背を向けて走り出した。
優しい人だった、確かに厳しい修行であったけれど、生まれ変わったことで身体の構造が変わった黎伊那に戦う術を教えてくださった。
ふと頭を過ぎった、先生は私が死んだら泣いてくれるだろうか、と。首を横に振ると、馬鹿な考えはよせ、と自戒する。
黎伊那のやることは一つだった。憎悪で心を燃やし、1人でも多くの人を理不尽から救い出すこと。その為に、肉体だけ残し生きる屍となった鬼共を殺し尽くさねばならない。