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短編

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さあさあと雨が降りしきる中、軍服を身に纏った男が一人。男がいる場所は遊郭、大阪の松島遊郭であった。男一人、別段珍しいことはなく特に軍人は男所帯であるのでここでは多く見受けられる。だが他の客とは何かが違った。色を売る悲しきこの町には似つかわしくない何かただならぬ雰囲気を軍服と一緒に纏っていた。男の足つきはしっかりと意思を持っていた。ただのどの見世も目に入っていないようであった。

そして男は一軒の見世の前でピタリと足を留めるとおもむろに懐から一片いっぺんの紙切れを出し、見世と紙切れとを交互に見やった後中へと足を進めていった。

中には見世の主だろうか、還暦が迫ったような女一人、あとは奥座敷に遊女二人。きょろきょろと中を見回すが見える限りにこれ以上人はいない

「あら、お客さん、こんな雨の中よういらっしゃいました。ささ、こちらへ羽織ものを」

濃い化粧を施した老女が歯が欠けた笑顔で男を迎え入れる。この雨のせいで今日はもう客は来ないと踏んでいたのだろうか、奥の遊女達は身なりを再度整える

「……竜胆りんどうという遊女はいるか」

男は老女の手を払いのけ問うた。女は少し狼狽した様子を見せ答える

「確かに居りますが……」

その言葉に男は目を見開き息をヒュッと吐いた。そして今にも襲い掛からんというような勢いで女に詰め寄る

「どこだ」

あまりの迫力に老女は二、三歩後ろに退き身を強ばらせ、廊下の奥の部屋に……、と小さく言った。聞くや否や男は金の入った袋をその場に放り言われた場所へとはじかれたように向かった。後ろから何か聞こえてくるが何者も今の彼には干渉し得なかった。

廊下一番奥、ヤニで黄ばんだ襖を勢いよく開けた。

外の静かに地を打ち付ける雨の音と匂い、布団に横たえている女の浅い息の音、薄暗く布団と女以外ない寂々たるこの部屋を見て男は一瞬たじろいだ。

「……はっ、はっ、お諒さん、ですか?それとも、花菊ちゃん?」

女はもう、目が見えなかった。

「いや、違う。」
「!……ぁ、お客様、こりゃ失礼してしまいました……。ここは、なんにもないです。そやさかい、他の部屋へお移りになってくだせえ……」

虫の息になりながらひび割れた唇で精一杯に言葉を紡ぐ女をただじっと見ていた。そして女の横に男は見下ろす形で座る。

「病なのか」

短い純粋な問いを投げかける

「……はい」

女のやせ細った白い首の喉が苦し気に動く

「何のだ、医者は」
「梅毒です。もうこうなっちゃあ手はつけられやしないとのことで……」
「何故」
「あたしは、遊女です。何も珍しいことはありゃしません、ぅ、」
「いつからだ……」
「覚えちゃおりやせん……、お客様、こんな、病人の相手などせずにどうぞ他の遊女と…………」

それだけ言うと女は酷く咳き込み更に呼吸を荒くさせた。もう女の命の灯はあと少しというのは明白であった。

「……。あんた、望みはあるのか」
「……は、は、ぇ……望み?……そう、ですね。あたしの……あたしの故郷に帰って、……あの子に、あの子と鍋を、、」
「っ……。」

男は女を見、黙った。表情は変わらない。

「いや、鍋なんか、どうでもいいや……、あの子が、幸せなら…………それで……、」

男は女を目に焼き付けるがの如く見入る。

「そうか、例えば、そのガキの名前は尾形百之助──だったりしてな」

その名を聞いた途端、今まで虫の息だった女は起き上がろうかという勢いで声をあげる。

「知っているのですか!ぅ、ごほっごほっ、げほっ……はぁ、すみません。ふ、そうですか、……尾形百之助は息災ですか?」

女の問いに男は呆れをにじませたように口端だけを上げて笑った。

「ああ、勿論。……あんたの目の前で元気にしてるさ…………**おねえちゃん」

「………今、……なんと?」
「俺が、愛がないまま生まれたガキの尾形百之助だ。**、ずっとあんたを探してここまで来た」

部屋を静寂が包む、尾形百之助という男は昔に思いを巡らせながら目を伏せていた。少しの間の後に荒い息と共に涙に侵された声が返って来た。

「ほ、本当に、百之助くんなの…?ほんとのほんとに?」
「ああ。今は軍にいる」

再度肯定すれば女はわっと先ほどの弱りようが嘘のようにまくしたてる。全然わからなかった、またあえて嬉しい、軍人さんになっただなんてすごい!など、そう嬉しそうに喋っている様は昔を彷彿とさせた。

「百之助、くんがこんなに、立派になってるなんて!……よかったあ……」
「……大したことじゃない。それより、**、あんたをここから水揚げする」
「っえ!て……いくら、あたしが、死にかけの病人で安くなってるって言っても冗談、きつい、よ」

はは、と笑われてしまう

「あんたをこんなクソみてえな檻から出して、ヤブじゃねぇ医者に診せに行くんだよ。……あんたの幸せがこんなとこで終わると思うな」

それだけ言っても未だに女は笑んでいる。その態度に男は苛立ちを募らせる。女は口元に笑みを讃えてはいるが顔色がどんどんと悪くなり始めていた。

「もういい。少し安静にしてろ。医者は連れてくることにする」
「……」

立ち上がり部屋を急ぎ出ようとする、振り返ると未だに女は笑みを絶やさずにいた

「何笑ってんだよ。もう寝ろ」
「ひゃ、くのすけくん……、私はねひゃくのすけくんが幸せになってくれればそれでいいの、」

「あのね、私の幸せはねひゃくのすけ、くんが、幸せになることなのよ、、でも、だめね、わたし……馬鹿でドジだから、、ひゃくのすけくんに最期、会えて、、驚いて、嬉しくて、………」

「何を言っている?ガキの頃からどうしようもない親に嬲られて、遊郭に売られて、毎日毎日クソみてえな盛った男共に足広げて、最後は梅毒で目も見えず……ふざけるなっ!!何が幸せだ!こんなのの何処が!!」

男の怒号が見世に広がる。普段の無表情から一変激しい情動を示していた。それでも女はふっと笑みを深めながら小さくされども確かに言葉を紡いだ


わたし、しあわせ





深い深い漆黒の夜に満月がぽっかりと浮かんでいる。湖のほとり、蝋のような肌の穏やかな笑みの女を横に抱きかかえ男はふらりふらりと月光に照らされながら緩慢な動きで歩いていた。

そして膝のあたりまで湖に入り、彼の人を水へ離す。いつかの笑顔は水月の湖に静かにのみこまれていった。しばらく、ずっとそこにそうしていた。

そうして一言ポツリ、と


「あんたが、」


**おねえちゃんだけが、俺の何にも代えがたい、愛してくれる人間だったんだぜ………」


孤独な月だけがかなしい二人の子の別れを知っている
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