冷めない熱
先輩は完璧な人間だ。少なくとも自分にとっては。この瞳に映る彼の姿はいつもきらきらと眩しくて、どうしようもなく魅力的で、惹きつけられる。
そんなことを心の底で密やかに抱くようになったのはいつからだったろうか。合宿のあの事件以来、先輩たちとの関係は徐々に縮まってきて彼らの態度もやわらかくなってきたのは、自分のそれも含めて自覚している。木藤良先輩も例に漏れず、さらに同じサックスパートということもあってか、気にかけてくれることも増えたような・・・いや、彼はわりと初対面の時からあの調子だったような気もする。
あんな派手な見た目をしておいて、丁寧で穏やかな喋り口調に、どこか気品さも感じる立ち振る舞い。学内の女子という女子が夢中になるのもなるほど、と頷くしかない。
今まで、一つ上の学年の、校内一やんちゃな不良グループの一人で金髪、眉目秀麗成績優秀実家は裕福でスタイルもモデル顔負け・・・という噂ともいえない「周知の事実」という認識の内で彼を知っていた。逆に彼は、一つ下のそこまで目立たない自分のことは目にもとめていなかっただろう。
そんな、どこにも隙の無いような美形を目の前にして、憧れてしまうのは不可抗力ではないだろうか。そうやって「憧れ」とカテゴライズしたこの感情は、すくすくと育っていつの間にか持て余すほどになってきた。
突然部活にやってきて、彼の友人たちも含めてとんだ騒動を持ち込んできたと最初は煙たがっていたが、隣の席でリードをマウスピースにセッティングする彼の横顔を見た時に毒気を抜かれた。
綺麗な人だな。
そう感じた。男に向かって綺麗、なんて感想が自分から発せられるなんて思ってもみなかったが、ただただ単純にそう思ってしまったので仕方が無い。
話す度、話しかけられる度、見つめて、見つめ返されて、彼と関わるようになって彼を知っていく毎に心臓が跳ねるのは、ただ単にこんな人間離れした美形と接すれば老若男女関係なく緊張もするだろう、と誤魔化していた。
少し、先輩に夢を見すぎかもしれない。
同じ人間とは思えないほどの才をいくつも持ち合わせているようなこの人を、どうしたって自分とは違う世界にいるようで遠く感じてしまう。
・・・はずだった。どうやら先輩はちゃんと人間だったようだ。
木藤良先輩が風邪をひいた。
*****
「先輩でも、風邪とかひくんですね」
「・・・いがわ、ぼくのことなんだと思ってるの?」
へんなの、とへにゃりと笑った先輩の表情を見て、ぎょっとした。あまりに普段とのギャップがあり過ぎて、面食らったというか何というか・・・この人、こういう隙を意図的に見せているんじゃないか、と勘繰ってしまうほど、その笑顔には魔法めいた魅力があった。
今夏の暑さがさすがの完璧人をも打ち負かしたのか、木藤良は部活のパート練習中に体調不良を訴えたのだ。その時はサックスパートの面々でコンクール課題曲のパート合わせをしている時だった。直前までいつものように涼しい表情で練習に参加していた木藤良だったが、ふと井川に「ごめん、一旦席外すね」と声をかけてふらりとどこかへ行ってしまったのだ。随分上品なトイレタイムのとり方だなぁ、なんて暢気に待っていたのだが、戻ってくるのが遅いと気付いて後輩に各自個人練をしていてくれと指示をしてから、先輩を捜索に校内を巡った。
すぐに彼は見つかった。いかんせん目立つ髪色をしているので見つけやすいというのもある。
練習をしていた教室からさほど遠くない、手洗い場に彼はいた。蛇口を逆さにして、顔で水を受けている。汗が絶えず噴き出してくるような暑い日だったので、涼んでいるのか、と一瞬声をかけるのをためらったのが、どうやら様子がおかしい。
額に流水を当てて、目を閉じて動かない。さすがにこれは何かあったのかと、「木藤良先輩」と大きめな声で呼びかけた。
こちらに気付いたのか、蛇口を止めずにそのまま横を向くものだから、金髪にざぶざぶと水がかぶっているのも彼は気付かないのか、ぼう、とした表情で、
「いがわ・・・」
とうわごとのように呟いた。
普段の静かで穏やかな彼の喋り方は、同年代の男子と比べると確かに落ち着きすぎているきらいはあり、ずいぶんゆっくり喋りますねなんて指摘したこともあるくらいだったが、その平常のそれと比べても、あどけないような舌ったらずな声にぽかんと口を開けてしまった。
呆けてる場合ではないとすぐ正気に戻り、彼に駆け寄る。
「先輩大丈夫ですか、具合でも悪いんですか・・・って、えっ、」
出しっぱなしの蛇口をひねり、彼の肩に手を触れた瞬間、その体温の高さに驚いた。
彼の体温は平均よりも高いことは知っていた、
いつだったか、練習中に譜面に書込みしていた時だろうか。お互いの手が触れた時があって、意外な彼の熱の高さにどぎまぎしてしまった。
その時の温度よりもこれは一段と高い。熱中症かもしれない、急いで保健室へ連れて行かねば。
「肩貸しますんで、保健室行きましょう・・・歩けますか?」
「うん、あるける」
「・・・ほんとに大丈夫ですか」
「うん、だいじょうぶ」
「・・・・・」
重症だ、これは。本当に珍しいこともあるものだな、と長い腕を自分の肩に回し、腰を手で支えた。普段は意識していなかったが、お互いの体格はそこまで変わらないので意外と苦労せずに移動できそうだ。身長は自分の方が1センチほど高いはずなのだが、彼の持つオーラのせいなのか、そこらへんのモデルよりも均整の取れた肉体を持つ故か、先輩の方が背が大きいと錯覚することがある。
お互い、同年代と比べると背は高めの方なのでよくサックスパート内で「二人が並ぶと威圧感がある」「迫力あるから後輩が近付けない」などと話に上がることもあった。そんなことを思い出しながら、ゆっくりと歩を進める。
やはり体温がかなり高いようで、シャツ越しに肌の熱さが掌へと伝わってきた。右耳に、吐息がかかる。その瞬間、びくりと身体が小さく震えてしまったのだが、幸いなことに彼は気付いていないようだ。苦しそうに息を吐く、彼の横顔を至近距離でちらりと盗み見る。と、ばっちりと目が合ってしまった。
「な、何」「ね、いがわ、あつい」
焦りで声が少し裏返ってしまったが、彼は気にしていないようでそんなことを伝えてきた。まるで、ぐずる幼子のような訴えと甘えたような声色に、眩暈がしそうだ。こんなに距離が近くて、さらに普段とは違う表情の彼が自分に甘えてきてるとなると、身に毒だ。
「あ、熱い・・・?暑い?ですか、すみませんくっついてるし辛いですよね、もうすぐ保健室着くから我慢してください」
「ねつ、あるとおもう・・・うつる、から、いがわ、はなれたほうがいい、よ」
そう言いながらも、彼から離れるような様子はないので、よほど身体が辛いのだろう。
「いいから、掴まっててください。先輩に倒れられると困るので。本番近いんだし、まだパート練習たくさん付き合ってもらわなくちゃいけないし」
可愛げのない、言い訳じみた言葉しか出てこない自分の気質が恨めしくなるが、これ以上距離が近くなると、そろそろまずいことになりそうだったのでなんとか踏み止まった。なんだか、変な事を口走りそうだったから。-----可愛い、なんて、思ってしまったのは、気のせいか、不可抗力か。普段はあんなに完璧で、非の打ち所の無いような先輩が、こんな、俺に、体重を預けて、体温も吐息も熱くて、なんだかいい匂いもするし、それが何故か少し腹立たしくも感じて、心臓の鼓動はさっきからせわしなく響いて・・・
思考がどんどん変な方向に沈んでいくので、振り払うように、一度大きめのため息をついてから、彼の身体を支え直した。
考え込むのは自分の悪い癖だ。今は深く考えないようにした方がいいだろう、と防衛意識がはたらいた。答えに行き着いてしまうと、きっと戻れなくなる。それだけは確信があった。
*****
ピピピ、と無機質な機械音が保健室に響いた。
「38度2分。結構高いわね。木藤良くん、親御さんに連絡入れるわよ。一人で帰れそう?」
「親はたぶん仕事中なので、ぼくがれんらくいれておきます」
「あら、そう・・・でも留守電でも入れておかなきゃ、そういうルールだから。待ってて、今氷枕用意するから。少し横になってなさい」
「はい、ありがとうございます」
「先輩、手伝います」
「ありがと、いがわ」
「べ、別にそんなお礼とかいいですから・・・」
保健室には保健医と、井川と、ぼくの3人。井川は重いだろうに、ぼくをここまで運んでくれて、そのまま保健室に残って先生とぼくの様子を大人しく見守っている。まるで忠実な大型犬みたいだなぁ、と思ったけど本人に言ったらぷりぷり怒りそうなので我慢した。彼は、ぼくが普段どんなに「可愛い」と思っているかなんて知らないだろう。熱に浮かされていても、舌がうまく回らなくても、先輩と後輩という関係性を上回る行動は律した自分を、だれか褒めてほしい。
ただ、井川がぼくを運んでる途中に、耳にかかってしまった吐息に反応したときはかなり困った。なんでそんな可愛いことをするんだろうこの子は。正直、確信犯というかわざとやったことは少しだけ反省するけれど、あんなにわかりやすい反応をされるとは思っていなかった。はあ、息が熱い。というか息苦しい。久々に風邪を、しかも本格的なやつだ。自己管理はしっかりしてるつもりだったけれど、色々とここ最近は留学のことで裕人とぶつかったりなんだりで疲れていたのかもしれない。
可愛い後輩に、かっこわるいところ見せちゃったなぁとぼんやりした思考の中で、自分を寝かせてくれる彼の横顔を見つめていた。
ぼくの視線に気付いたのか、一瞬固まったあとにふい、とそっぽを向いてしまった。可愛いなぁ。熱で息苦しくても、体がひどくだるくて重くても、ニコニコしてしまった。
身体は辛いけど、こうして井川が看病してくれるんだったら儲けものかな。
「先輩でも、風邪とかひくんですね」
ぼくがしみじみと幸福を噛みしめていると、井川がそう語りかけてきた。
彼の中でぼくは、完璧超人か何かだと思っているふしがあるのはなんとなく感じていた。
合宿での一件から、どんどん井川のぼくに対する態度がやわらかく、有り体に言えば「懐いてきた」のは好ましく感じていた。素直じゃない性格も、頑張り屋さんで努力家で、根が真面目でそれ故不器用なところもあって。最初はあんなにぼくたちを敵視して噛み付いてきたのに、一度気を許せばわりと甘えてきてくれるところも。
どんどん井川がぼくに心を許して開いてきてくれるたびに彼が好ましく、可愛くて、愛おしく感じるようになったのはいつからだったか。もう今となっては、そんなことは些細なことで、せっかく懐いてくれた気難しいこの後輩を、「完璧な先輩」として失望させないように。ぼくのこの独占欲を気取られないよう、適度な距離を保ちつつ、可愛がって、見守って、大切に。たまに我慢がきかなくなりそうだけど、彼はこんなぼくの執着と愛情とに、きっと気付いてなんていないだろう。少しそれが寂しくもあるけれど。
「・・・いがわ、僕のことなんだと思ってるの?」
ベッドに仰向けに横たわっているので、自然と井川を見上げるかたちになる。新鮮だな、この角度。大きい目がこちらを見下ろしている。先ほどから、井川と一緒にいるのと、普段よりも彼が世話を焼いてくれようとするので、嬉しくて表情が綻んでしまう。
「へんなの、」
確かに自己管理は普段から徹底しているので風邪など滅多にひいていなかったし、特に井川の前では弱っているところを極力見せないようにしていた。それでも、人間なので弱るときは弱る。
まるで人間じゃないと思ってた、と言わんばかりの彼の言い様が可笑しくて、笑ってしまった。
「木藤良先輩の、こういう姿、初めて見ました。なんか、新鮮です。」
「かっこわるいかな」
「え、いや・・・そういう問題じゃないでしょ。別に熱出して寝込んでるからって綺麗なのに変わりはな、あ・・・・」
「え」
今、彼は何と。何と言ったのか。
「はい、氷枕できたから使って。木藤良くん、親御さんやっぱり連絡つかなかったから留守電だけ入れておいたわよ。」
「あ、ああ・・・ありがとうございます」
絶妙なタイミングで先生が割り込んできたことで、固まっていた二人は再び動き出す。井川は居心地が悪そうに、椅子に座り直した。ぼくは、首と後頭部にひんやりと心地のよい冷たさを感じながら、先ほどの井川の言葉を頭の中で反芻した。
綺麗、と、この子は言ったのか。
それって、どういうことだろう。ねえ井川。
井川は、ぼくと全然目を合わせようとしてくれない。ずっと俯くか、横を向いてしまって明らかにぼくの視線を避けているようだ。耳まで真っ赤になって、大きな目をきょろきょろとさせている姿は、普段クールな彼にしてはあまりにも可愛らしくいじらしい。
「で、木藤良くん、その調子だと一人じゃ帰るの難しそうね・・・親御さんもお迎えに来れないだろうし、どうする?もう少しで、先生保健室閉めちゃうところだったんだけど・・・」
ぼうっと井川に見惚れていたので、先生に声をかけられたことにワンテンポ遅れてから気付いた。
「あ、ああ・・・そうですね、すこしここで休んで、楽になるのまちます、すみません。よかったら鍵は自分でしめて、しょくいんしつ、返しにいきますから。」
「ううん、かなりへろへろじゃない。一人にさせるの心配だし・・・」
「だいじょうぶですよ、せんせ。」
にこり、と他者に有無を言わせぬ笑みで納得させようとしたが、さすがに生徒を保健室に一人置いていくのは忍びないのか、先生は簡単に折れてくれなかった。
・・・忘れかけていたけれど、高熱で意識は普段の二割り増しでふわふわとしているし、起き上がるのも身体が重くて精一杯では、一人で家までなんて無理な話だろう。それくらいの判断はできた。
井川、もう少し一緒にいてくれるかな。なんて淡い期待をしていたら、彼はとんでもない提案をしてきた。
「あの、俺、先輩送るので。大丈夫です。」
「い、がわ?」
「あら、本当?優等生の井川君がついててくれるなら、大丈夫そうね。でも気をつけるのよ。」
「はい。あ、俺、先輩の鞄取ってきます。」
そう言うなり井川はさっと立ち上がり、小走りでドアの向こう側へと消えていった。
ぽかん、と呆気にとられて、しばらくドアを見つめることしかできなかった。
喉がひどく渇いた。熱のせいか、それとも。
ふう、と胸に溜まった空気を吐く。目を閉じた。自分の瞼までもが熱く感じる。全身が燃えるようだ。
ーーーーー井川、期待させるような真似なんかして、だめだよ。
今まで我慢してたけど、そっちが、そう来るのなら。
あんな可愛い反応して、真っ赤な顔、いつもはきりっとした眉毛がすこし下がってた。
ああ、ひとりじめできたらなぁ。
惚けた思考で、身体に篭る熱に浮かされて、ただ荒い息を吐くことしかできずに。もどかしくて、額の汗を掌で拭った。
しばらくして、足音が近づいてきた。井川が戻ってきたんだろう。
少し汗ばんだ彼は、息を弾ませながらぼくの楽器ケースも回収してきてくれたようだ。とことん、真面目で気の利くよくできた後輩だ。
「すみません時間かかって。楽器戻してました。あ、先輩のサックス、ちゃんと家に帰ってからメンテしてくださいね。簡単にしか掃除できてないんで」
「あ、井川くん、これ持っていって。熱さましシート。よかったら、木藤良くんに水分も摂らせてあげてね。」
「はい、ありがとうございます。」
「木藤良くん、こんなに後輩くんに慕われて幸せ者ねー。お大事に!」
あれよあれよという間に、二人で準備をてきぱきと進めてしまう様は見事だった。
井川はこちらにやって来て、ぼくの顔を覗き込む。
「先輩、行きましょうか。無理は禁物なんで、しんどくなったら言って下さい。」
む、なんだか通常運転の態度に戻ってる。さっきまであんなに真っ赤になったり震えたりして兎みたいだったのに。さては。この子、
(さっきのこと、なかったことにしてるな)
澄ました顔をしている後輩が可愛いやら憎らしいやら、いつもならきっとその選択に乗ってあげるけれど、今のぼくは熱で正常な判断ができない、という言い訳を準備してあるし、なによりもう確信してしまっているから。
ごめんね井川、ぼくは君が思うほど完璧な先輩じゃないよ。
「・・・いがわ、おこして?」
両手を差し出して、ほら、引っ張って?と目で訴えてみた。
「い、いいですけど。」
おや、ずいぶん素直だな。ちょっと拍子抜けしたけれど、真面目なこの子のことなので、病人を介抱するくらいはあっさりと引き受けてくれるのかもしれない。
ぎゅ、とこちらの手を掴んで、「よいしょ、」と造作も無く半身を起こしてくれた。目の前に顔が来たので、いっそこの頬にキスしてやろうかな、なんて考えがよぎったけれど、流石にそれは怒られるだろうなと諦めた。
「せ、せんぱい」
「ん?なに?」
「近いです・・・えっと、手も、もう離しても、大丈夫・・・っていうか、その・・・」
「ああ、ごめんね。」
ぱ、と手を離した。名残惜しさが胸を詰まらせる。大きい、楽器を扱うのに適した手だった。井川の手、大きくてきれいで、すごく良い。僕のお気に入りだ。たくさんあるうちのひとつだけれど。
ゆっくりと、ベッドから身を起こす。靴をさっと足元に置いてくれたりなんかするから、甲斐甲斐しく僕のお世話をしてくれる姿に愛おしさがつのるばかり。しゃがんだ井川の頭が、ちょうどいい位置にあったのでぽん、と手を置いてみた。
「なっ」
「よしよし、えらいねいがわ。いいこいいこ。」
「・・・・・っ、先輩、ほんと今日おかしいです」
もっと嫌がられるかと構えていたけど、そのままされるがままに僕に撫でられている。どうして?そうやって従順な態度をとられると、もっと欲しくなってしまうんだけどな。
ゆっくりと立ち上がり、若干の立ちくらみをやり過ごして、ひとつため息を吐いた。よし、多分歩ける。流石に外で井川にしがみついて移動するわけにもいかないし。
心配そうにこちらを見つめる彼の大きな黒目がちの瞳が、まっすぐでくすぐったかった。
保健室を出て二人きり、玄関までの道をゆっくり進む。まだ外は明るい。運動部の練習している声がグラウンドの方から聞こえてきた。それに重なる、様々な楽器の音。
耳に様々な響きが飛び込んでくる。元々耳はいい方で、小さい頃から波の音や虫の声などの自然の中にある音楽はもちろんだが、街や学校の喧騒の中にある様々な音を聞き分けて、自分の好きな音を探すのが好きだった。
今は熱の所為もあってか、いつもより音が遠く聞こえる。大きな音はより頭に響き、小さな音はぼやけて霞の中のよう。
少し音酔いしたかもしれない。靴を履こうと下を向くと、頭ががくんと落ちそうな錯覚に陥った。
「いがわ・・・」
彼の名前を無意識に呼んでいた。助けを求めているのか、甘えたいのか、自分ではもうそれがどちらかだなんて、考える余裕も無かったしもはやどうでもいいことだった。
だが、呼びかけた相手は隣にいなかった。一瞬、寂しさが針のように胸を刺したが、考えてみれば学年が違う彼は靴箱の場所も離れているので当たり前のことである。それでも迷子の子供のような気分になり、それと共に弱った己の思考に呆れた。
こんなにも、何かに、誰かに執着するような部分が自分の中に在ったなんて、僕自身気付かなかったな。
ゆっくりと膝を折り、つま先を靴に滑らせる。踵をしまいこんだところで、彼は僕の隣に戻ってきた。
「立たせて?」
「はい」
当たり前のように、差し伸べた手。当然です、とでも言いたげな表情で、僕の手を引き上げる。力強い腕だ。腕っ節の喧嘩とはあまり縁がなさそうだけれど、スポーツはきっと得意なのだろうな。丁度よく日焼けした肌に滲んでいる汗を横目で見た。
-----我慢、できるかな。
熱い息と、肌と、茹ってしまいそうなこの頭と、すべてが夏に浮かれてしまいそうだった。
井川に支えられながら立ち上がり、彼の顔をじ、と見つめる。
「ち、近いですからっ」
「だめ?」
「ダメです!」
「ふふ、だめかぁ」
すぐに顔を赤くして、目をそらす仕草は彼の癖だ。ただし、他の部員の前では滅多に見せない顔だというのは、自惚れかもしれないけれど、知っているつもりだ。
「家まで、おくってくれるんでしょ?」
額を、彼の肩に乗せた。柄にも無く心臓は忙しなく動き、喉が渇いていた。熱の所為だけではないことは自覚している。
「たよりにしてるよ、いがわ」
見えないけれど、彼がどんな顔をしているのか、わかる気がする。唾を飲む音が聞こえた。
*****
木藤良先輩の家は、電車で3つ駅を過ぎたところの、地元の人間なら誰でも知っている高級住宅地にあった。
先輩が学校の最寄り駅あたりで、「たくしー」とぼやいたので電車は使わず、家まで真っ直ぐタクシーを使った。会計の時、先輩がポケットから出した財布は、自分は知らないがおそらくハイブランドのものだ。つくづく、高校生離れしている人だなと随所で思い知らされる。
坂の上にある豪邸に萎縮しながらも、横でふらふらとしている先輩をなんとか無事に部屋まで連行しなければ、という使命感で立派な門をくぐった。
本当に、上品なお家柄なんだろうなぁ、とつくづく実感する。何でこの人不良なんだか、と呆れるくらいにはこの家と本人の振る舞いとが、いつもつるんでいるあの先輩たちとイメージがかけ離れている。
玄関から吹き抜けで、螺旋階段があり、どうやら先輩の部屋は2階(おそらく3階建てだろう、地下もあるかもしれない)なようだ。
家具などの調度品も、豪奢過ぎずシックな雰囲気でまとめられていて、いたるところに間接照明が備えられている。ご両親はデザイナーか何かだろうか、と思うほど、端的に言うとお洒落なインテリアだ。あまり人様の家をじろじろ見るのは失礼なので良くないとはわかっているものの、ついつい目を奪われてしまう。
「先輩、部屋どこですか?広くてたくさんドアあるし言ってくれないとわからないですよ」
「ん、こっち・・・、一番奥のとこ。」
タクシーに揺られて気分でも悪くなったのか先ほどから先輩の口数は極端に少なくなり、こちらに身体を預けてもたれ掛かることもあってその度に面食らっていた。
早めに休ませてやらないと本当に辛そうだ。
彼が指差したほうの、長い廊下を進んで一番奥のドア。
「お、お邪魔します。」
また緊張がぶり返してきた。俺、先輩の家で、先輩の部屋に、入るんだ。クラスの女子が知ったらどんな追求を受けて絞られることか。
中に入るとまず思ったのは、やはりイメージ通りの「木藤良蓮」らしい部屋だ、ということ。
モノクロ調でまとめられた家具に、本棚には音楽雑誌。自分の知らない、海外の雑誌もいくつか。ベッドはきっと高級な誂えで、ハイクラスのホテルのような内装に驚きはしたものの、同時に納得もいった。
広い部屋だ。譜面台が仕舞われずそのまま立ててある横に、先輩の楽器ケースを静かに置いた。楽譜をちらっと盗み見ると、コンクール曲ではなかった。……難易度の高そうな連符が連なる譜面に、所々走り書きでチェックが入っている。完璧な彼の、普段知らない見えなかった部分が垣間見えた気がして、なんだか落ち着かない気分だ。
息の荒い先輩を、ベッドに寝かせた。
背中に手を当てた時、汗と熱とを掌に感じて、かなり熱が上がってきているとわかった。
まず水分を摂らせないと。それから身体を拭いて、いや、熱を測って……看病を任された身として、先輩の助けにならなければ。使命感が強く先に立ち、緊張と浮ついた心を奥に押しやった。
「すみません、洗面所とか、色々勝手に借りますね」
声をかけて部屋を出る。うぅん、と呻き声の返事を背中で聞いた。弱った先輩の姿は本当に珍しいので、もっと目に焼き付けておきたかったがぐっと堪えて、再び2階の広いリビングに向かう。
慣れない家の、広すぎる部屋は居心地があまりいいものとは言えない。キョロキョロと洗面所はどこか、と歩き回り探した。
先輩の部屋がある廊下から正反対の、キッチンの横にまた廊下がある。そこを進むとどうやら正解のようだ。これまた広い空間に圧倒される。奥には浴室が見えた。「ガ、ガラス戸……」広い浴槽が磨りガラス越しに分かるほど、素晴らしい調度だ。このお風呂に先輩は入っているのか、なんて想像をするとあまりにもぴったりで、本当に絵になる人だと1人で感心してしまった。
ラックには綺麗に畳まれたタオルが並べられており、それを2枚拝借した。冷たい水で濡らし、固く絞る。
タオルを持って先輩の部屋に戻ると、布団も被らず寝てしまったようだ。静かだが、少しだけ苦しそうな寝息を立てている。
起こすのは忍びないが、汗を拭かなければ。
「……先輩、身体、拭きますよ」
声をかけると、ゆっくりと瞼をあけてこちらを見つめてきた。長い睫毛だ。本当に綺麗な人だな、と胸の内で独りごちる。
「うん……」
ゆっくりと起き上がろうとする先輩の背中に手を当てて、手伝ってやると「ありがとう」と囁くような声で礼を言われた。
「シャツ、前開けますね」
正直心臓が爆発しそうだったが、つとめて冷静を装って振る舞う。
シャツのボタンをひとつひとつ、外していく。指先が震えそうなのをなんとか堪えた。距離が近いせいで、先輩の熱、吐息が感じられてこちらまで脳が茹で上がりそうだ。
なんだか、いけないことをしているようで。ベッドの上で、彼の服を脱がしている、という事実はあまりにも刺激が過ぎる。
やっとの思いでシャツを脱がすと、中にタンクトップを着ているので内心ほっとした。
「冷たかったら言ってください」
まず、額にタオルを当てた。目を閉じて、されるがままになっている彼の頬を、高い鼻筋を、形の良い唇を至近距離で見つめていると緊張で身体が強ばる。目の上にやさしく押し当てると、向こうから顔を押し付けてきた。冷たくて心地よいのだろう、ふぅ、とため息が自分の腕にかかった。
首筋の汗を拭い、耳裏も丁寧に拭き取る。
タオルが温くなってしまったので、もう1枚に取り替えようとサイドテーブルに置いておいたタオルに手を伸ばすために身体の向きを変えると、視界の外で何やら先輩がもぞもぞと動いている。どうしたのかと振り返ると、タンクトップを脱ごうとしてまごついている。
ぎょっとして、声も出ず彼が服を脱ぐ様子を見守るしかなかった。何もこちらを気にする風でもなく、顕になった上半身は彫刻のように整っている。鍛えられた肉体に、艶かしい肌に、目の前の人間が男であるとか、同じ部活の先輩だとか、憧れているだとか、憧れだけではない自分の気持ちだとかが、すべて吹っ飛んでしまった。
当の本人は、さぁ脱いだよ、綺麗にしてくれるんでしょ?とでも言いたげな顔をして、こちらを見つめている。
人の気も知らないで、と若干の苛立ちさえ覚えながら、タオルを持ち替えて、こっそりとため息をついた。
「後ろ向いてください」
「うん」
素直に指示に従い、こちらに背中を向ける先輩。広い背中だ。普段筋トレとかしてるんだろうな、とわかる均整の取れた身体だ。
背中を拭き終わり、また正面を向かせる。直視するのがいけないことのようで、中々に難しかった。平常心、平常心……と己に言い聞かせて、胸元から腹筋、肩から腕とあくまで冷静を装い丁寧に。
ふと、先輩と目が合った。
ーーーーー熱のせいなのか、いつもよりもとろんと蕩けた表情は、先程からだったが。それとはまた違う性質の熱を、ぎらぎらと獲物を狙う獣のような、灼けつくような視線が、自分の瞳を捕らえている。
目が離せなかった。逸らすことは許されないような気すらしていたのだ。
汗がこめかみを伝って流れ落ちるのを感じたその時、「いがわ」と先輩の唇が動いて、手首を掴まれ、彼に覆い被さるような体勢になってしまって、顔が、近くて。
お互いの息がかかる距離で、こんなに近くにいることが、自分が今どんな顔をしているのかわならないが、それを見られるのが恥ずかしくて、それでも目が離せない。
「せ、先輩……?」
なんとか絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。
「……井川の瞳、黒くて綺麗だね」
吐息が唇にかかって、びくりと肩が動く。
熱くて少し濡れた唇が、ふれて、重なった。
顔を逸らすことも、それをされた瞬間に突き飛ばすことも、できないわけではなかった。でも。そうしなかった。
「……拒まないんだね」
「……はい」
「期待しちゃうよ、そんな顔されたら」
「………はい」
答えに行き着いてしまうと、戻れなくなる。
その自覚はあったのだ。だから、気づかないふりをしていた。
自分とは違う世界にいる人だと思っていた。髪の色も、着ているものも、周りにいる人間も、自分とは何もかも違う。完璧で、近寄り難いかと思えば向こうから歩み寄ってくれることもあって。
少しずつ、惹かれていった。目が離せなかった。こんなに綺麗で、才能にあふれた人を、木藤良先輩以外に知らない。
こんなに、自分の胸が高鳴って。そばにいさせてほしいと、想う人は、今までいなかったのだ。
「木藤良先輩」
覆いかぶさったまま、彼の瞳を真正面に見据えて。言葉の続きを言おうとしたけれど、胸につかえてなかなか出てこなかった。自分も熱があるのではないか、と思うくらい頬は熱いし、心臓はいつもの倍忙しなく脈打っている。
「いがわ」
先手を打たれてしまった。
頬を手のひらで包まれ、愛おしげに撫でられながら。気付けば強く抱きしめられていた。こちらは先輩に覆いかぶさったまま。
耳元で、何やら凄い殺し文句を囁かれたのだが、あまりの衝撃に何も言えず、ただぎゅう、と抱きしめられることを受け入れるしかできなかった。
汗と、先輩の香水の香りがまじって、目眩がした。
しばらくそのままにされていると、彼が大人しく黙っているので、また気分が悪くなってしまったのか、と不審に思いそろそろと身体を起こし顔を覗き込むと、静かに寝息を立てていた。
「え、えぇ……」
こんなことしておいて、この人、有り得ない、いや、具合が悪いのだから仕方がないのか、いやでもこの状態で寝るなんてどれだけ自由人なのか……とぐるぐるとまだ混乱している思考の中で、どこか幸せそうな穏やかな顔で寝ている彼を、すこし恨めしく思いながら。
「こっちだって、期待、しちゃいますよ」
恐る恐る、顔を近付けて、彼の額に音もなく唇を落とした。
すっかり温くなったタオルを回収して、洗面所へと向かって部屋を出る時、木藤良が井川の後ろ姿を蕩けた顔で見つめていたことは、誰も知る由もない。
***
「……なんてことが、高校の時にあったの、覚えてる?コウ。」
「……はい、覚えてますよ。蓮さんが俺に風邪うつそうとした時のことですよね」
「もう、ロマンがないなぁ」
「あれはあんたが悪いでしょ、コンクール前に熱出した人がキスしてくるとか、普通に考えて常識な……っくちゅん、」
「はいはい、悪かったよ可愛い子猫ちゃん、ほんとにあの時は僕も熱に浮かされてたんだよ……ほら熱計るからね」
「……はい、……でも別に嫌だったわけじゃないですからね」
「ん、そう言ってくれると思ってたよ」
「というか、俺別に大丈夫ですから、蓮さん来週公演でしょ!こんなとこにいる場合じゃないですって!」
「こんなとこにいる場合だよ。大事な人が風邪をひいたなら、そばにいなくちゃね。ほら、安静に安静に……」
「だからキスはだめですって!うつる!うつるから!」
「ふふ、だめ?」
「……そんな顔してもだめなものはだめです」
「はいはい、コウも大事なお仕事あるんでしょ、ゆっくり休んで治してね……」
「わっ、だ、だめって言ったのに」
「ここじゃなければいいでしょ?おまじないみたいなものだから」
唇にとんとん、と指を当てて、悪戯っ子のような笑みを浮かべる木藤良に、敵わないなと諦めてため息をついた。
軽いリップ音と共に額に落とされた口付けに、何年か前の夏の日を思い出しながら、井川は気恥しさを隠すように布団に潜り込み、木藤良は鼻歌を歌いながら楽器ケースを持って出かける支度をした。
「今日早めに帰ってくるからね。いってきます、コウ」
「……いってらしゃい、蓮さん」
バタン、とドアが閉まる音を目を閉じて聞いた。
きっと、あの時の熱が伝染ったのだ。
額に残る唇の感触がくすぐったくて、あたたかくて、身体からふっと力が抜けた。キングサイズのベッドに沈み込む身体は熱く、重い。熱でぼやけた思考の中で、きっと今夜は彼が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだろう、と夢うつつになりながら。悪くないな、と楽しみにしながら眠りに落ちた。
そんなことを心の底で密やかに抱くようになったのはいつからだったろうか。合宿のあの事件以来、先輩たちとの関係は徐々に縮まってきて彼らの態度もやわらかくなってきたのは、自分のそれも含めて自覚している。木藤良先輩も例に漏れず、さらに同じサックスパートということもあってか、気にかけてくれることも増えたような・・・いや、彼はわりと初対面の時からあの調子だったような気もする。
あんな派手な見た目をしておいて、丁寧で穏やかな喋り口調に、どこか気品さも感じる立ち振る舞い。学内の女子という女子が夢中になるのもなるほど、と頷くしかない。
今まで、一つ上の学年の、校内一やんちゃな不良グループの一人で金髪、眉目秀麗成績優秀実家は裕福でスタイルもモデル顔負け・・・という噂ともいえない「周知の事実」という認識の内で彼を知っていた。逆に彼は、一つ下のそこまで目立たない自分のことは目にもとめていなかっただろう。
そんな、どこにも隙の無いような美形を目の前にして、憧れてしまうのは不可抗力ではないだろうか。そうやって「憧れ」とカテゴライズしたこの感情は、すくすくと育っていつの間にか持て余すほどになってきた。
突然部活にやってきて、彼の友人たちも含めてとんだ騒動を持ち込んできたと最初は煙たがっていたが、隣の席でリードをマウスピースにセッティングする彼の横顔を見た時に毒気を抜かれた。
綺麗な人だな。
そう感じた。男に向かって綺麗、なんて感想が自分から発せられるなんて思ってもみなかったが、ただただ単純にそう思ってしまったので仕方が無い。
話す度、話しかけられる度、見つめて、見つめ返されて、彼と関わるようになって彼を知っていく毎に心臓が跳ねるのは、ただ単にこんな人間離れした美形と接すれば老若男女関係なく緊張もするだろう、と誤魔化していた。
少し、先輩に夢を見すぎかもしれない。
同じ人間とは思えないほどの才をいくつも持ち合わせているようなこの人を、どうしたって自分とは違う世界にいるようで遠く感じてしまう。
・・・はずだった。どうやら先輩はちゃんと人間だったようだ。
木藤良先輩が風邪をひいた。
*****
「先輩でも、風邪とかひくんですね」
「・・・いがわ、ぼくのことなんだと思ってるの?」
へんなの、とへにゃりと笑った先輩の表情を見て、ぎょっとした。あまりに普段とのギャップがあり過ぎて、面食らったというか何というか・・・この人、こういう隙を意図的に見せているんじゃないか、と勘繰ってしまうほど、その笑顔には魔法めいた魅力があった。
今夏の暑さがさすがの完璧人をも打ち負かしたのか、木藤良は部活のパート練習中に体調不良を訴えたのだ。その時はサックスパートの面々でコンクール課題曲のパート合わせをしている時だった。直前までいつものように涼しい表情で練習に参加していた木藤良だったが、ふと井川に「ごめん、一旦席外すね」と声をかけてふらりとどこかへ行ってしまったのだ。随分上品なトイレタイムのとり方だなぁ、なんて暢気に待っていたのだが、戻ってくるのが遅いと気付いて後輩に各自個人練をしていてくれと指示をしてから、先輩を捜索に校内を巡った。
すぐに彼は見つかった。いかんせん目立つ髪色をしているので見つけやすいというのもある。
練習をしていた教室からさほど遠くない、手洗い場に彼はいた。蛇口を逆さにして、顔で水を受けている。汗が絶えず噴き出してくるような暑い日だったので、涼んでいるのか、と一瞬声をかけるのをためらったのが、どうやら様子がおかしい。
額に流水を当てて、目を閉じて動かない。さすがにこれは何かあったのかと、「木藤良先輩」と大きめな声で呼びかけた。
こちらに気付いたのか、蛇口を止めずにそのまま横を向くものだから、金髪にざぶざぶと水がかぶっているのも彼は気付かないのか、ぼう、とした表情で、
「いがわ・・・」
とうわごとのように呟いた。
普段の静かで穏やかな彼の喋り方は、同年代の男子と比べると確かに落ち着きすぎているきらいはあり、ずいぶんゆっくり喋りますねなんて指摘したこともあるくらいだったが、その平常のそれと比べても、あどけないような舌ったらずな声にぽかんと口を開けてしまった。
呆けてる場合ではないとすぐ正気に戻り、彼に駆け寄る。
「先輩大丈夫ですか、具合でも悪いんですか・・・って、えっ、」
出しっぱなしの蛇口をひねり、彼の肩に手を触れた瞬間、その体温の高さに驚いた。
彼の体温は平均よりも高いことは知っていた、
いつだったか、練習中に譜面に書込みしていた時だろうか。お互いの手が触れた時があって、意外な彼の熱の高さにどぎまぎしてしまった。
その時の温度よりもこれは一段と高い。熱中症かもしれない、急いで保健室へ連れて行かねば。
「肩貸しますんで、保健室行きましょう・・・歩けますか?」
「うん、あるける」
「・・・ほんとに大丈夫ですか」
「うん、だいじょうぶ」
「・・・・・」
重症だ、これは。本当に珍しいこともあるものだな、と長い腕を自分の肩に回し、腰を手で支えた。普段は意識していなかったが、お互いの体格はそこまで変わらないので意外と苦労せずに移動できそうだ。身長は自分の方が1センチほど高いはずなのだが、彼の持つオーラのせいなのか、そこらへんのモデルよりも均整の取れた肉体を持つ故か、先輩の方が背が大きいと錯覚することがある。
お互い、同年代と比べると背は高めの方なのでよくサックスパート内で「二人が並ぶと威圧感がある」「迫力あるから後輩が近付けない」などと話に上がることもあった。そんなことを思い出しながら、ゆっくりと歩を進める。
やはり体温がかなり高いようで、シャツ越しに肌の熱さが掌へと伝わってきた。右耳に、吐息がかかる。その瞬間、びくりと身体が小さく震えてしまったのだが、幸いなことに彼は気付いていないようだ。苦しそうに息を吐く、彼の横顔を至近距離でちらりと盗み見る。と、ばっちりと目が合ってしまった。
「な、何」「ね、いがわ、あつい」
焦りで声が少し裏返ってしまったが、彼は気にしていないようでそんなことを伝えてきた。まるで、ぐずる幼子のような訴えと甘えたような声色に、眩暈がしそうだ。こんなに距離が近くて、さらに普段とは違う表情の彼が自分に甘えてきてるとなると、身に毒だ。
「あ、熱い・・・?暑い?ですか、すみませんくっついてるし辛いですよね、もうすぐ保健室着くから我慢してください」
「ねつ、あるとおもう・・・うつる、から、いがわ、はなれたほうがいい、よ」
そう言いながらも、彼から離れるような様子はないので、よほど身体が辛いのだろう。
「いいから、掴まっててください。先輩に倒れられると困るので。本番近いんだし、まだパート練習たくさん付き合ってもらわなくちゃいけないし」
可愛げのない、言い訳じみた言葉しか出てこない自分の気質が恨めしくなるが、これ以上距離が近くなると、そろそろまずいことになりそうだったのでなんとか踏み止まった。なんだか、変な事を口走りそうだったから。-----可愛い、なんて、思ってしまったのは、気のせいか、不可抗力か。普段はあんなに完璧で、非の打ち所の無いような先輩が、こんな、俺に、体重を預けて、体温も吐息も熱くて、なんだかいい匂いもするし、それが何故か少し腹立たしくも感じて、心臓の鼓動はさっきからせわしなく響いて・・・
思考がどんどん変な方向に沈んでいくので、振り払うように、一度大きめのため息をついてから、彼の身体を支え直した。
考え込むのは自分の悪い癖だ。今は深く考えないようにした方がいいだろう、と防衛意識がはたらいた。答えに行き着いてしまうと、きっと戻れなくなる。それだけは確信があった。
*****
ピピピ、と無機質な機械音が保健室に響いた。
「38度2分。結構高いわね。木藤良くん、親御さんに連絡入れるわよ。一人で帰れそう?」
「親はたぶん仕事中なので、ぼくがれんらくいれておきます」
「あら、そう・・・でも留守電でも入れておかなきゃ、そういうルールだから。待ってて、今氷枕用意するから。少し横になってなさい」
「はい、ありがとうございます」
「先輩、手伝います」
「ありがと、いがわ」
「べ、別にそんなお礼とかいいですから・・・」
保健室には保健医と、井川と、ぼくの3人。井川は重いだろうに、ぼくをここまで運んでくれて、そのまま保健室に残って先生とぼくの様子を大人しく見守っている。まるで忠実な大型犬みたいだなぁ、と思ったけど本人に言ったらぷりぷり怒りそうなので我慢した。彼は、ぼくが普段どんなに「可愛い」と思っているかなんて知らないだろう。熱に浮かされていても、舌がうまく回らなくても、先輩と後輩という関係性を上回る行動は律した自分を、だれか褒めてほしい。
ただ、井川がぼくを運んでる途中に、耳にかかってしまった吐息に反応したときはかなり困った。なんでそんな可愛いことをするんだろうこの子は。正直、確信犯というかわざとやったことは少しだけ反省するけれど、あんなにわかりやすい反応をされるとは思っていなかった。はあ、息が熱い。というか息苦しい。久々に風邪を、しかも本格的なやつだ。自己管理はしっかりしてるつもりだったけれど、色々とここ最近は留学のことで裕人とぶつかったりなんだりで疲れていたのかもしれない。
可愛い後輩に、かっこわるいところ見せちゃったなぁとぼんやりした思考の中で、自分を寝かせてくれる彼の横顔を見つめていた。
ぼくの視線に気付いたのか、一瞬固まったあとにふい、とそっぽを向いてしまった。可愛いなぁ。熱で息苦しくても、体がひどくだるくて重くても、ニコニコしてしまった。
身体は辛いけど、こうして井川が看病してくれるんだったら儲けものかな。
「先輩でも、風邪とかひくんですね」
ぼくがしみじみと幸福を噛みしめていると、井川がそう語りかけてきた。
彼の中でぼくは、完璧超人か何かだと思っているふしがあるのはなんとなく感じていた。
合宿での一件から、どんどん井川のぼくに対する態度がやわらかく、有り体に言えば「懐いてきた」のは好ましく感じていた。素直じゃない性格も、頑張り屋さんで努力家で、根が真面目でそれ故不器用なところもあって。最初はあんなにぼくたちを敵視して噛み付いてきたのに、一度気を許せばわりと甘えてきてくれるところも。
どんどん井川がぼくに心を許して開いてきてくれるたびに彼が好ましく、可愛くて、愛おしく感じるようになったのはいつからだったか。もう今となっては、そんなことは些細なことで、せっかく懐いてくれた気難しいこの後輩を、「完璧な先輩」として失望させないように。ぼくのこの独占欲を気取られないよう、適度な距離を保ちつつ、可愛がって、見守って、大切に。たまに我慢がきかなくなりそうだけど、彼はこんなぼくの執着と愛情とに、きっと気付いてなんていないだろう。少しそれが寂しくもあるけれど。
「・・・いがわ、僕のことなんだと思ってるの?」
ベッドに仰向けに横たわっているので、自然と井川を見上げるかたちになる。新鮮だな、この角度。大きい目がこちらを見下ろしている。先ほどから、井川と一緒にいるのと、普段よりも彼が世話を焼いてくれようとするので、嬉しくて表情が綻んでしまう。
「へんなの、」
確かに自己管理は普段から徹底しているので風邪など滅多にひいていなかったし、特に井川の前では弱っているところを極力見せないようにしていた。それでも、人間なので弱るときは弱る。
まるで人間じゃないと思ってた、と言わんばかりの彼の言い様が可笑しくて、笑ってしまった。
「木藤良先輩の、こういう姿、初めて見ました。なんか、新鮮です。」
「かっこわるいかな」
「え、いや・・・そういう問題じゃないでしょ。別に熱出して寝込んでるからって綺麗なのに変わりはな、あ・・・・」
「え」
今、彼は何と。何と言ったのか。
「はい、氷枕できたから使って。木藤良くん、親御さんやっぱり連絡つかなかったから留守電だけ入れておいたわよ。」
「あ、ああ・・・ありがとうございます」
絶妙なタイミングで先生が割り込んできたことで、固まっていた二人は再び動き出す。井川は居心地が悪そうに、椅子に座り直した。ぼくは、首と後頭部にひんやりと心地のよい冷たさを感じながら、先ほどの井川の言葉を頭の中で反芻した。
綺麗、と、この子は言ったのか。
それって、どういうことだろう。ねえ井川。
井川は、ぼくと全然目を合わせようとしてくれない。ずっと俯くか、横を向いてしまって明らかにぼくの視線を避けているようだ。耳まで真っ赤になって、大きな目をきょろきょろとさせている姿は、普段クールな彼にしてはあまりにも可愛らしくいじらしい。
「で、木藤良くん、その調子だと一人じゃ帰るの難しそうね・・・親御さんもお迎えに来れないだろうし、どうする?もう少しで、先生保健室閉めちゃうところだったんだけど・・・」
ぼうっと井川に見惚れていたので、先生に声をかけられたことにワンテンポ遅れてから気付いた。
「あ、ああ・・・そうですね、すこしここで休んで、楽になるのまちます、すみません。よかったら鍵は自分でしめて、しょくいんしつ、返しにいきますから。」
「ううん、かなりへろへろじゃない。一人にさせるの心配だし・・・」
「だいじょうぶですよ、せんせ。」
にこり、と他者に有無を言わせぬ笑みで納得させようとしたが、さすがに生徒を保健室に一人置いていくのは忍びないのか、先生は簡単に折れてくれなかった。
・・・忘れかけていたけれど、高熱で意識は普段の二割り増しでふわふわとしているし、起き上がるのも身体が重くて精一杯では、一人で家までなんて無理な話だろう。それくらいの判断はできた。
井川、もう少し一緒にいてくれるかな。なんて淡い期待をしていたら、彼はとんでもない提案をしてきた。
「あの、俺、先輩送るので。大丈夫です。」
「い、がわ?」
「あら、本当?優等生の井川君がついててくれるなら、大丈夫そうね。でも気をつけるのよ。」
「はい。あ、俺、先輩の鞄取ってきます。」
そう言うなり井川はさっと立ち上がり、小走りでドアの向こう側へと消えていった。
ぽかん、と呆気にとられて、しばらくドアを見つめることしかできなかった。
喉がひどく渇いた。熱のせいか、それとも。
ふう、と胸に溜まった空気を吐く。目を閉じた。自分の瞼までもが熱く感じる。全身が燃えるようだ。
ーーーーー井川、期待させるような真似なんかして、だめだよ。
今まで我慢してたけど、そっちが、そう来るのなら。
あんな可愛い反応して、真っ赤な顔、いつもはきりっとした眉毛がすこし下がってた。
ああ、ひとりじめできたらなぁ。
惚けた思考で、身体に篭る熱に浮かされて、ただ荒い息を吐くことしかできずに。もどかしくて、額の汗を掌で拭った。
しばらくして、足音が近づいてきた。井川が戻ってきたんだろう。
少し汗ばんだ彼は、息を弾ませながらぼくの楽器ケースも回収してきてくれたようだ。とことん、真面目で気の利くよくできた後輩だ。
「すみません時間かかって。楽器戻してました。あ、先輩のサックス、ちゃんと家に帰ってからメンテしてくださいね。簡単にしか掃除できてないんで」
「あ、井川くん、これ持っていって。熱さましシート。よかったら、木藤良くんに水分も摂らせてあげてね。」
「はい、ありがとうございます。」
「木藤良くん、こんなに後輩くんに慕われて幸せ者ねー。お大事に!」
あれよあれよという間に、二人で準備をてきぱきと進めてしまう様は見事だった。
井川はこちらにやって来て、ぼくの顔を覗き込む。
「先輩、行きましょうか。無理は禁物なんで、しんどくなったら言って下さい。」
む、なんだか通常運転の態度に戻ってる。さっきまであんなに真っ赤になったり震えたりして兎みたいだったのに。さては。この子、
(さっきのこと、なかったことにしてるな)
澄ました顔をしている後輩が可愛いやら憎らしいやら、いつもならきっとその選択に乗ってあげるけれど、今のぼくは熱で正常な判断ができない、という言い訳を準備してあるし、なによりもう確信してしまっているから。
ごめんね井川、ぼくは君が思うほど完璧な先輩じゃないよ。
「・・・いがわ、おこして?」
両手を差し出して、ほら、引っ張って?と目で訴えてみた。
「い、いいですけど。」
おや、ずいぶん素直だな。ちょっと拍子抜けしたけれど、真面目なこの子のことなので、病人を介抱するくらいはあっさりと引き受けてくれるのかもしれない。
ぎゅ、とこちらの手を掴んで、「よいしょ、」と造作も無く半身を起こしてくれた。目の前に顔が来たので、いっそこの頬にキスしてやろうかな、なんて考えがよぎったけれど、流石にそれは怒られるだろうなと諦めた。
「せ、せんぱい」
「ん?なに?」
「近いです・・・えっと、手も、もう離しても、大丈夫・・・っていうか、その・・・」
「ああ、ごめんね。」
ぱ、と手を離した。名残惜しさが胸を詰まらせる。大きい、楽器を扱うのに適した手だった。井川の手、大きくてきれいで、すごく良い。僕のお気に入りだ。たくさんあるうちのひとつだけれど。
ゆっくりと、ベッドから身を起こす。靴をさっと足元に置いてくれたりなんかするから、甲斐甲斐しく僕のお世話をしてくれる姿に愛おしさがつのるばかり。しゃがんだ井川の頭が、ちょうどいい位置にあったのでぽん、と手を置いてみた。
「なっ」
「よしよし、えらいねいがわ。いいこいいこ。」
「・・・・・っ、先輩、ほんと今日おかしいです」
もっと嫌がられるかと構えていたけど、そのままされるがままに僕に撫でられている。どうして?そうやって従順な態度をとられると、もっと欲しくなってしまうんだけどな。
ゆっくりと立ち上がり、若干の立ちくらみをやり過ごして、ひとつため息を吐いた。よし、多分歩ける。流石に外で井川にしがみついて移動するわけにもいかないし。
心配そうにこちらを見つめる彼の大きな黒目がちの瞳が、まっすぐでくすぐったかった。
保健室を出て二人きり、玄関までの道をゆっくり進む。まだ外は明るい。運動部の練習している声がグラウンドの方から聞こえてきた。それに重なる、様々な楽器の音。
耳に様々な響きが飛び込んでくる。元々耳はいい方で、小さい頃から波の音や虫の声などの自然の中にある音楽はもちろんだが、街や学校の喧騒の中にある様々な音を聞き分けて、自分の好きな音を探すのが好きだった。
今は熱の所為もあってか、いつもより音が遠く聞こえる。大きな音はより頭に響き、小さな音はぼやけて霞の中のよう。
少し音酔いしたかもしれない。靴を履こうと下を向くと、頭ががくんと落ちそうな錯覚に陥った。
「いがわ・・・」
彼の名前を無意識に呼んでいた。助けを求めているのか、甘えたいのか、自分ではもうそれがどちらかだなんて、考える余裕も無かったしもはやどうでもいいことだった。
だが、呼びかけた相手は隣にいなかった。一瞬、寂しさが針のように胸を刺したが、考えてみれば学年が違う彼は靴箱の場所も離れているので当たり前のことである。それでも迷子の子供のような気分になり、それと共に弱った己の思考に呆れた。
こんなにも、何かに、誰かに執着するような部分が自分の中に在ったなんて、僕自身気付かなかったな。
ゆっくりと膝を折り、つま先を靴に滑らせる。踵をしまいこんだところで、彼は僕の隣に戻ってきた。
「立たせて?」
「はい」
当たり前のように、差し伸べた手。当然です、とでも言いたげな表情で、僕の手を引き上げる。力強い腕だ。腕っ節の喧嘩とはあまり縁がなさそうだけれど、スポーツはきっと得意なのだろうな。丁度よく日焼けした肌に滲んでいる汗を横目で見た。
-----我慢、できるかな。
熱い息と、肌と、茹ってしまいそうなこの頭と、すべてが夏に浮かれてしまいそうだった。
井川に支えられながら立ち上がり、彼の顔をじ、と見つめる。
「ち、近いですからっ」
「だめ?」
「ダメです!」
「ふふ、だめかぁ」
すぐに顔を赤くして、目をそらす仕草は彼の癖だ。ただし、他の部員の前では滅多に見せない顔だというのは、自惚れかもしれないけれど、知っているつもりだ。
「家まで、おくってくれるんでしょ?」
額を、彼の肩に乗せた。柄にも無く心臓は忙しなく動き、喉が渇いていた。熱の所為だけではないことは自覚している。
「たよりにしてるよ、いがわ」
見えないけれど、彼がどんな顔をしているのか、わかる気がする。唾を飲む音が聞こえた。
*****
木藤良先輩の家は、電車で3つ駅を過ぎたところの、地元の人間なら誰でも知っている高級住宅地にあった。
先輩が学校の最寄り駅あたりで、「たくしー」とぼやいたので電車は使わず、家まで真っ直ぐタクシーを使った。会計の時、先輩がポケットから出した財布は、自分は知らないがおそらくハイブランドのものだ。つくづく、高校生離れしている人だなと随所で思い知らされる。
坂の上にある豪邸に萎縮しながらも、横でふらふらとしている先輩をなんとか無事に部屋まで連行しなければ、という使命感で立派な門をくぐった。
本当に、上品なお家柄なんだろうなぁ、とつくづく実感する。何でこの人不良なんだか、と呆れるくらいにはこの家と本人の振る舞いとが、いつもつるんでいるあの先輩たちとイメージがかけ離れている。
玄関から吹き抜けで、螺旋階段があり、どうやら先輩の部屋は2階(おそらく3階建てだろう、地下もあるかもしれない)なようだ。
家具などの調度品も、豪奢過ぎずシックな雰囲気でまとめられていて、いたるところに間接照明が備えられている。ご両親はデザイナーか何かだろうか、と思うほど、端的に言うとお洒落なインテリアだ。あまり人様の家をじろじろ見るのは失礼なので良くないとはわかっているものの、ついつい目を奪われてしまう。
「先輩、部屋どこですか?広くてたくさんドアあるし言ってくれないとわからないですよ」
「ん、こっち・・・、一番奥のとこ。」
タクシーに揺られて気分でも悪くなったのか先ほどから先輩の口数は極端に少なくなり、こちらに身体を預けてもたれ掛かることもあってその度に面食らっていた。
早めに休ませてやらないと本当に辛そうだ。
彼が指差したほうの、長い廊下を進んで一番奥のドア。
「お、お邪魔します。」
また緊張がぶり返してきた。俺、先輩の家で、先輩の部屋に、入るんだ。クラスの女子が知ったらどんな追求を受けて絞られることか。
中に入るとまず思ったのは、やはりイメージ通りの「木藤良蓮」らしい部屋だ、ということ。
モノクロ調でまとめられた家具に、本棚には音楽雑誌。自分の知らない、海外の雑誌もいくつか。ベッドはきっと高級な誂えで、ハイクラスのホテルのような内装に驚きはしたものの、同時に納得もいった。
広い部屋だ。譜面台が仕舞われずそのまま立ててある横に、先輩の楽器ケースを静かに置いた。楽譜をちらっと盗み見ると、コンクール曲ではなかった。……難易度の高そうな連符が連なる譜面に、所々走り書きでチェックが入っている。完璧な彼の、普段知らない見えなかった部分が垣間見えた気がして、なんだか落ち着かない気分だ。
息の荒い先輩を、ベッドに寝かせた。
背中に手を当てた時、汗と熱とを掌に感じて、かなり熱が上がってきているとわかった。
まず水分を摂らせないと。それから身体を拭いて、いや、熱を測って……看病を任された身として、先輩の助けにならなければ。使命感が強く先に立ち、緊張と浮ついた心を奥に押しやった。
「すみません、洗面所とか、色々勝手に借りますね」
声をかけて部屋を出る。うぅん、と呻き声の返事を背中で聞いた。弱った先輩の姿は本当に珍しいので、もっと目に焼き付けておきたかったがぐっと堪えて、再び2階の広いリビングに向かう。
慣れない家の、広すぎる部屋は居心地があまりいいものとは言えない。キョロキョロと洗面所はどこか、と歩き回り探した。
先輩の部屋がある廊下から正反対の、キッチンの横にまた廊下がある。そこを進むとどうやら正解のようだ。これまた広い空間に圧倒される。奥には浴室が見えた。「ガ、ガラス戸……」広い浴槽が磨りガラス越しに分かるほど、素晴らしい調度だ。このお風呂に先輩は入っているのか、なんて想像をするとあまりにもぴったりで、本当に絵になる人だと1人で感心してしまった。
ラックには綺麗に畳まれたタオルが並べられており、それを2枚拝借した。冷たい水で濡らし、固く絞る。
タオルを持って先輩の部屋に戻ると、布団も被らず寝てしまったようだ。静かだが、少しだけ苦しそうな寝息を立てている。
起こすのは忍びないが、汗を拭かなければ。
「……先輩、身体、拭きますよ」
声をかけると、ゆっくりと瞼をあけてこちらを見つめてきた。長い睫毛だ。本当に綺麗な人だな、と胸の内で独りごちる。
「うん……」
ゆっくりと起き上がろうとする先輩の背中に手を当てて、手伝ってやると「ありがとう」と囁くような声で礼を言われた。
「シャツ、前開けますね」
正直心臓が爆発しそうだったが、つとめて冷静を装って振る舞う。
シャツのボタンをひとつひとつ、外していく。指先が震えそうなのをなんとか堪えた。距離が近いせいで、先輩の熱、吐息が感じられてこちらまで脳が茹で上がりそうだ。
なんだか、いけないことをしているようで。ベッドの上で、彼の服を脱がしている、という事実はあまりにも刺激が過ぎる。
やっとの思いでシャツを脱がすと、中にタンクトップを着ているので内心ほっとした。
「冷たかったら言ってください」
まず、額にタオルを当てた。目を閉じて、されるがままになっている彼の頬を、高い鼻筋を、形の良い唇を至近距離で見つめていると緊張で身体が強ばる。目の上にやさしく押し当てると、向こうから顔を押し付けてきた。冷たくて心地よいのだろう、ふぅ、とため息が自分の腕にかかった。
首筋の汗を拭い、耳裏も丁寧に拭き取る。
タオルが温くなってしまったので、もう1枚に取り替えようとサイドテーブルに置いておいたタオルに手を伸ばすために身体の向きを変えると、視界の外で何やら先輩がもぞもぞと動いている。どうしたのかと振り返ると、タンクトップを脱ごうとしてまごついている。
ぎょっとして、声も出ず彼が服を脱ぐ様子を見守るしかなかった。何もこちらを気にする風でもなく、顕になった上半身は彫刻のように整っている。鍛えられた肉体に、艶かしい肌に、目の前の人間が男であるとか、同じ部活の先輩だとか、憧れているだとか、憧れだけではない自分の気持ちだとかが、すべて吹っ飛んでしまった。
当の本人は、さぁ脱いだよ、綺麗にしてくれるんでしょ?とでも言いたげな顔をして、こちらを見つめている。
人の気も知らないで、と若干の苛立ちさえ覚えながら、タオルを持ち替えて、こっそりとため息をついた。
「後ろ向いてください」
「うん」
素直に指示に従い、こちらに背中を向ける先輩。広い背中だ。普段筋トレとかしてるんだろうな、とわかる均整の取れた身体だ。
背中を拭き終わり、また正面を向かせる。直視するのがいけないことのようで、中々に難しかった。平常心、平常心……と己に言い聞かせて、胸元から腹筋、肩から腕とあくまで冷静を装い丁寧に。
ふと、先輩と目が合った。
ーーーーー熱のせいなのか、いつもよりもとろんと蕩けた表情は、先程からだったが。それとはまた違う性質の熱を、ぎらぎらと獲物を狙う獣のような、灼けつくような視線が、自分の瞳を捕らえている。
目が離せなかった。逸らすことは許されないような気すらしていたのだ。
汗がこめかみを伝って流れ落ちるのを感じたその時、「いがわ」と先輩の唇が動いて、手首を掴まれ、彼に覆い被さるような体勢になってしまって、顔が、近くて。
お互いの息がかかる距離で、こんなに近くにいることが、自分が今どんな顔をしているのかわならないが、それを見られるのが恥ずかしくて、それでも目が離せない。
「せ、先輩……?」
なんとか絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。
「……井川の瞳、黒くて綺麗だね」
吐息が唇にかかって、びくりと肩が動く。
熱くて少し濡れた唇が、ふれて、重なった。
顔を逸らすことも、それをされた瞬間に突き飛ばすことも、できないわけではなかった。でも。そうしなかった。
「……拒まないんだね」
「……はい」
「期待しちゃうよ、そんな顔されたら」
「………はい」
答えに行き着いてしまうと、戻れなくなる。
その自覚はあったのだ。だから、気づかないふりをしていた。
自分とは違う世界にいる人だと思っていた。髪の色も、着ているものも、周りにいる人間も、自分とは何もかも違う。完璧で、近寄り難いかと思えば向こうから歩み寄ってくれることもあって。
少しずつ、惹かれていった。目が離せなかった。こんなに綺麗で、才能にあふれた人を、木藤良先輩以外に知らない。
こんなに、自分の胸が高鳴って。そばにいさせてほしいと、想う人は、今までいなかったのだ。
「木藤良先輩」
覆いかぶさったまま、彼の瞳を真正面に見据えて。言葉の続きを言おうとしたけれど、胸につかえてなかなか出てこなかった。自分も熱があるのではないか、と思うくらい頬は熱いし、心臓はいつもの倍忙しなく脈打っている。
「いがわ」
先手を打たれてしまった。
頬を手のひらで包まれ、愛おしげに撫でられながら。気付けば強く抱きしめられていた。こちらは先輩に覆いかぶさったまま。
耳元で、何やら凄い殺し文句を囁かれたのだが、あまりの衝撃に何も言えず、ただぎゅう、と抱きしめられることを受け入れるしかできなかった。
汗と、先輩の香水の香りがまじって、目眩がした。
しばらくそのままにされていると、彼が大人しく黙っているので、また気分が悪くなってしまったのか、と不審に思いそろそろと身体を起こし顔を覗き込むと、静かに寝息を立てていた。
「え、えぇ……」
こんなことしておいて、この人、有り得ない、いや、具合が悪いのだから仕方がないのか、いやでもこの状態で寝るなんてどれだけ自由人なのか……とぐるぐるとまだ混乱している思考の中で、どこか幸せそうな穏やかな顔で寝ている彼を、すこし恨めしく思いながら。
「こっちだって、期待、しちゃいますよ」
恐る恐る、顔を近付けて、彼の額に音もなく唇を落とした。
すっかり温くなったタオルを回収して、洗面所へと向かって部屋を出る時、木藤良が井川の後ろ姿を蕩けた顔で見つめていたことは、誰も知る由もない。
***
「……なんてことが、高校の時にあったの、覚えてる?コウ。」
「……はい、覚えてますよ。蓮さんが俺に風邪うつそうとした時のことですよね」
「もう、ロマンがないなぁ」
「あれはあんたが悪いでしょ、コンクール前に熱出した人がキスしてくるとか、普通に考えて常識な……っくちゅん、」
「はいはい、悪かったよ可愛い子猫ちゃん、ほんとにあの時は僕も熱に浮かされてたんだよ……ほら熱計るからね」
「……はい、……でも別に嫌だったわけじゃないですからね」
「ん、そう言ってくれると思ってたよ」
「というか、俺別に大丈夫ですから、蓮さん来週公演でしょ!こんなとこにいる場合じゃないですって!」
「こんなとこにいる場合だよ。大事な人が風邪をひいたなら、そばにいなくちゃね。ほら、安静に安静に……」
「だからキスはだめですって!うつる!うつるから!」
「ふふ、だめ?」
「……そんな顔してもだめなものはだめです」
「はいはい、コウも大事なお仕事あるんでしょ、ゆっくり休んで治してね……」
「わっ、だ、だめって言ったのに」
「ここじゃなければいいでしょ?おまじないみたいなものだから」
唇にとんとん、と指を当てて、悪戯っ子のような笑みを浮かべる木藤良に、敵わないなと諦めてため息をついた。
軽いリップ音と共に額に落とされた口付けに、何年か前の夏の日を思い出しながら、井川は気恥しさを隠すように布団に潜り込み、木藤良は鼻歌を歌いながら楽器ケースを持って出かける支度をした。
「今日早めに帰ってくるからね。いってきます、コウ」
「……いってらしゃい、蓮さん」
バタン、とドアが閉まる音を目を閉じて聞いた。
きっと、あの時の熱が伝染ったのだ。
額に残る唇の感触がくすぐったくて、あたたかくて、身体からふっと力が抜けた。キングサイズのベッドに沈み込む身体は熱く、重い。熱でぼやけた思考の中で、きっと今夜は彼が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだろう、と夢うつつになりながら。悪くないな、と楽しみにしながら眠りに落ちた。
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