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香檻

「 いいにおい……」

すり、と僕の胸元に顔を擦り寄せてそう呟く井川。寝惚けているのか、可愛い後輩は寝起きにぐずる子供のように、起こしに来た僕に抱きついてきた。

寝起きが悪いタイプだったんだな、井川。ふふ、と笑みがこぼれる。なんと愛おしいことか。

普段クールで、甘え下手な井川は人前で絶対僕に寄りかかってこようとしないのに。ましてやこんな。「井川、起きて?ここ、部室だよ」

人前で甘えられるなんてご褒美を貰ったお返しに、せめて早くこの状態から彼を目覚めさせるだけの慈悲を与える。本音はもう少しくっついていてほしかったけれど。

「……ぶしつ?」

僕の腰に腕を回したまま、だんだんと井川は意識を覚醒させている。ここは部室で、今は昼休みがあと五分で終わる、という頃。僕は置き忘れた楽譜を取りに来た桑田たちに付き合って部室に入った瞬間、机に突っ伏して寝ている井川を見つけるなり隣に陣取って寝顔を観察していたのだ。

裕人も後で加わり、いつもの仲間内で寝たままの井川を面白がりながら部室で楽譜を探したり駄弁っている間も井川は起きなかった。そして、昼休みもそろそろ終わる頃。このまま寝かせておいてあげたいけど、きっとこの子は授業をすっぽかすことになったら困るだろうから、起こそうとして、今に至る。

周りでは桑田と安保、高杢がニヤニヤと意地の悪い笑みで見守っていて、裕人が興味無さそうな顔をしつつ、じ、とこちらを観察している。井川は彼らの姿を確認すると、数秒固まったのちに、ふるふると震えながら俯いてしまった。腰に回されていた腕がゆるゆると外される。「井川、起きたかな?」

「……はい……すみません……俺、寝起き悪くて……ちょっと寝ぼけてました」低くか細い声で、そう告げた井川の耳が真っ赤なことに気がついた。思わず吹き出してしまいそうになったけれど、追い打ちをかけてしまうことになるのでなんとか堪えた。「うん、そうみたいだね。おはよ、井川」

井川は急に椅子から立ち上がり、「あ、あの、起こしてくれてありがとうございましたっ」と僕にぺこりと礼をしてから、桑田たちに向かって「先輩たち、今のこと記憶から消してください。じゃないと数々の悪事を教頭先生に訴えますから」と言い捨てて、走って部室を出ていった。

「んだよ、ほんっとに可愛くねー奴!」「でも寝顔は子供みたいだったし!」「あいつあんな穏やかな顔できるのなー」3人が走り去る井川の背中に向かって野次を飛ばしつつ、思い思いに喋りだした。「蓮、お前らしくねぇ顔してるじゃねぇか。」裕人がそう指摘した僕の顔は、きっととろとろに惚けている。



※後日談 その日の放課後、2人きりの音楽準備室※

「…ほんっとに、恥ずかしかったです」

「ふふ、見事に寝ぼけてたね。」

「消えてしまいたい…よりにもよってあの人たちの目の前で…」

「僕は井川が甘えてきてくれて嬉しかったけどね。ああでも、寝顔を独り占めできなかったのは少し妬けたかな」

「…はぁ、よくそういうことさらっと言えますね」

「ほんとのことだから。ね、井川、今なら誰もいないけど?」

「……」

「おいで、僕が『 いいにおい』なのかどうか、確かめてみてよ」

「なっ……ここ学校ですよ!」

「ほら、いいからいいから」

「むぐっ」

「……どう?」

「……いいにおいです。先輩のにおいです」

「覚えて」

「え……?」

「僕のにおい。覚えてね、井川」

「い、犬じゃないんですから」

「可愛いわんちゃん?」

「やめてくださいよ」

「ふふ、可愛いよ。可愛い。」

「……楽しそうですね」

「井川もいいにおい、するよ?僕の好きなにおい。」

「えっ、俺香水とか何も付けてな……ちょっ、なに、」 

「ん、首筋のとことか、耳の裏……とか、美味しそうなにおいするから」

「な、舐め……な、う、耳、噛むの反則っ、せんぱっ」

「僕も井川のにおい、覚えたいから……もっと近くにいさせて?」

息を切らしながら、耳まで真っ赤な顔で、少し恨めしげに見上げてくる黒く透き通った瞳が綺麗で、吸い込まれそうだった。音楽準備室の鍵はかけてある。どちらからともなく重ねられた唇は熱かった。無言の同意のサインに、木藤良はぞくぞくと背筋の痺れを感じつつ、強く抱きしめて首筋に鼻梁を押し付けた。

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