小エビとウツボとウミヘビと、時々怪奇

先程のとは比べ物にならないほどの不快感に胃から熱いものが迫り上がってくる。反射的に口元を押さえた監督生の頭の中にグルグルと前の世界の記憶が流れ出した。

柔らかい身体から香るミルクとお日様の匂いは、決してこんなドブのような臭いじゃなかった。
赤ん坊は可愛いと、守りたいと思ったことしかない。けれどその、まるで魚類の出来損ないのような見た目は、気持ち悪くて、おぞましくて、グチャグチャにして拒絶したいほど本能から排除したいものだった。

「監督生?」

様子のおかしさに気づいたジャミルが声をかける。
監督生は声を出すことなく、震える指でライトが照らすそれを指した。

「…、なんだ、あれ…。」

ジャミルが言葉を失う。
死んではいるのだろう。でも水を含んで膨張したそれはまるで呼吸しているかのような膨らみを保っている。別に襲って来るわけでもないのに、ジャミルは濡れた身体だけのせいではない悪寒を感じた。

「…あれ、まだ腹ん中いるやつじゃん……。」

フロイドの言葉に絶句する2人。
ならあれは、そんな…。
惨い考えに顔を青くした3人の間に静寂が走る。軽いショックを受けながら、けれど悠長にもしていられないため、監督生は何とか胎児から目を逸らしチラリとトイレの出口を見た。
壁で廊下は見えない。だからこそ嫌な想像が頭を過ぎる。
それはフロイドとジャミルも同じで、2人とも苦い顔をしている。

「…作戦を立てよう。」

ジャミルの静かな声にフロイドと監督生もゆっくりと頷く。
濡れた足よりも頭と胸の方が酷く重かった。



「現時点での問題は廊下にいる『あれ』だな。」

思い出すのは出刃包丁を持って襲ってきた人間擬きの怪物。それがここを出てすぐの廊下で徘徊しているのかと思うとジャミルの額に冷や汗が出てくる。

「行動範囲は限定されんじゃね?1階を探査してる時来なかったし。結構オレら大きな音とか立ててたのに。」
「教室を開ける音もしないしトイレにも入って来ないですよね。なら2階の、主に別館の廊下が範囲でしょうか。」
「それなら放送が指定する教室も納得だな。別館に行くには2階の渡り廊下しかない。そこに行けば必ず『あれ』とぶち当たるようになってるんだろう。」
「なら…、」

監督生はその先を言えなかった。
信じていたわけではないが少し希望を持っていた。けれどやはりあの放送の主は味方ではないらしい。このまま進んで大丈夫だろうかと不安になる監督生は、その考えを打ち払うべく何か策はないかと先程の『あれ』の行動を思い出そうとした。

「戦うっつっても、頼みの綱の理科室へは武器持ったアイツがいるし、かと言ってここにある武器になりそうなもんはモップと箒だけで勝負にならねぇし。」
「素手は何があるか分からないしな。どうにかバレずに移動出来れば…。『あれ』はあまり足が早くないからそこを突くか。」
「でもそれやるなら囮いるじゃん。」

フロイドとジャミルが話し合うも現状を打破する方法は浮かばない。眉の皺を寄せ時間だけが過ぎていく中、監督生がもしかして、と口を開いた。

「『あれ』が私達を襲ったのって、侵入者だからじゃなくて、欲しかったから…?」
「どう言うこと?」

首を傾げたフロイドは監督生の言葉に耳を潜めた。頭の中の考えをまとめるように監督生がポツリポツリと言う。

「『あれ』がなんで足遅かったか覚えてますか?」
「自分の足に人間の指をつけていてバランスが取れなかったからだろう。」
「私、覚えてるんです。足についてた指。薬指にはネイルがついてたのに他の指は何もついてなかったんです。」
「は?」
「眼球も左右で大きさが違って見えました。」

監督生の脳裏にあの『あれ』の身体が駆け巡る。頭皮を被り、皮膚を張り付け、腕をくっつけたあの姿。隠しきれないあばら骨の間から覗く配置も数も可笑しい内蔵たち。そしてあれは紛れもない人骨標本だった。

「…つまり、『あれ』が俺達を襲ったのは俺達の身体を欲していたから?」
「恐らく…。」

シン、と静まり返る。あまりの不気味な事実に誰一人として言葉を繋げられなかった。
自分達はそんな狂気を固めたような奴と戦わなければいけないのか。喉が渇いて仕方ない誰かの喉がゴクリと鳴った。
そんな中、監督生はおずおずと手を上げる。4つの目玉が降り注ぐのに居心地悪そうにしながら監督生は口を開いた。

「あの、私、今から最低なこと提案するですけど…、」

チラリと監督生は床を見た。
フロイドとジャミルも目で追いそれを見留める。
そして成程、と頷いた。

確かに胎児も人間だ。




ラバーカップの先から青黒く所々ピンク色が見える紐がぶらぶらと揺れる。
収まりきらずはみ出した胎児の身体を成る可く見えないように前方に突き出すフロイドに、前のジャミルから声がかかった。

「準備はいいな?」
「はい。」
「おっけー。」

力強く頷く2人にジャミルも目線を戻す。
出口を出たら左の奥に3階の別館へと続く階段がある。前か後ろか分からないが『あれ』が来たらこのラバーカップを投げ囮に使う。雑ではあるがこれ以外に方法は見つからなかった。
ジャミルは手をぐっと握り締める。監督生の言ったことはあくまで仮説であり、本当に人間を狙っているかは分からない。立証する事も出来なかった。もし違っていたら戦うことは避けらないだろう。そうなれば誰かが足止めをしなければならない。
誰かが、『あれ』と戦わなければいけない。

「ウミヘビくん。」

はっ、と意識が戻る。
ジャミルは何ともない顔をして視線を向けた。

「どうしたフロイド。」
「大丈夫?」

怪訝に、しかし心配そうなフロイドに隣の監督生もジャミルを見上げていた。
ジャミルは考えを散らすように首を振る。よそう。俺がフロイドに言ったばかりじゃないか、たらればを言っていたらキリがないって。今は信じよう。それ以外に何もない。

「大丈夫だ。行こう。」

今度こそジャミルはしっかりと眼前を見据えた。
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