小エビとウツボとウミヘビと、時々怪奇

「状況分かってんのかよ小エビ!!」
「フロイド落ち着け!」

今にも監督生に掴みかかろうとするフロイドを必死に襲えながらジャミルは監督生に声をかけた。

「相手は武器を持ってるんだぞ。どれだけ危険か分かってるのか。」
「はい、それは十二分に分かってます。でももう限界です。私はこのまま卒業式を続けます。…例え刺されようとも、もうこんな所にいたくない。」

振り絞った声だった。
握った両の拳は力が入り過ぎているのか、はたまた恐怖なのか分からないがカタカタと震えている。けれどステージを睨みつけるその瞳は固く、覚悟を決めていた。
死んでも帰る。そう言われているような気がして、フロイドから力が抜ける。それと同時にジャミルも手を下ろし目頭を押さえた。
フロイドかジャミルが刺され動けなくなるよりはまだ2人より小柄な監督生が負傷した方が逃げる時も楽だ。そう考えて自分の思考が嫌になった。けれどジャミルとて帰りたい。もう限界はとうに超えていた。
ぐっ、と喉をつめ監督生を見る。監督生もステージから視線を外しジャミルを見つめた。

「攻撃されそうだと思ったらあのモヤが動いてなくとも俺達のところまで走って来い。…もし、刺されたらステージから転がって落ちろ。受け止める。」
「はい。」

チッと頭上で舌打ちが鳴る。フロイドはもう何も言わなかった。
監督生は1度強く目を瞑って、今度こそステージへと向かっていく。両端にある階段からステージに上がるのだろう。その足取りは確かなものだった。そんな監督生の姿をジャミルはじっと見つめる。やっと見つけた脱出方法がこんな綱渡りみたいなものだとは…。まるで蜘蛛の糸のような細さのその希望に、ジャミルはただただ祈るしかなかった。



数段しかない階段を音があまりならないよう注意して上がる。記憶にあった知識を引っ張り出しながら、監督生は背筋を正してステージに足をつけた。確か、中央に向かってお辞儀をするんだったか…。国旗も何も無い、不気味なほど綺麗な緞帳がただただ垂れ下がっている壁に向かい監督生は頭を下げた。しっかり1.2.3.と数えてから、監督生は演台へと向かう。冷や汗は止まらず心臓は異常なほど音を立てているが、そんな様子をおくびにも出さず監督生は静かに歩いた。
中央に着き、順番通りの足運びで監督生はついに黒いモヤと顔を合わせる。と言っても、モヤは人型であって顔などない。ただそこにいるだけだ。それなのに…。監督生はぐっ、と歯を噛み締める。
怖い。とてつもなく怖い。今まで会ったものの比ではないくらいそのモヤが恐ろしい。ただのモヤだ。それなのに、涙すら出てこないほど怖くて仕方ない。隣に刃物が刺さっているからとか人ではないからとか、そんなものではない。純粋にこのモヤが恐ろしいのだ。
何がここまでこのモヤに対して恐怖を煽るのかは分からないが、監督生は何とか己を鼓舞し、しかし成る可くそれの顔であろう位置を見ないようにしてお辞儀をした。

モヤがゆらりと揺らめく。そして監督生とモヤの間に黄ばんでボロボロになった卒業証書が現れた。
悲鳴を上げそうになるのを何とか抑え監督生は右手を伸ばす。掌に伝わる感覚は普通の紙のようだった。しかし油断はならないと警戒しながら左手も同じように紙を掴み、そのまま両手を上げようとした。

「ギッ、ギッギィ」
「え、」

なんの音、と顔を上げた瞬間監督生の右手に激痛が走る。

「い"っっっ!!」
「監督生!!」
「小エビちゃん!!」

刺された。
いつの間にか抜けていた刃物が、監督生の右手を貫通していた。あまりの痛みに声すら出せずにいると、モヤが手のような形をとり刃物を一気に引き抜いた。

「っっっつ??!!」

飛び散る鮮血がボタボタと演台や床を汚していった。
痛い痛い痛い痛い!!!
今まで感じたことのない激痛に歯がガチガチと鳴る。今すぐにでも叫び出しそうになるのを何とか堪え、震える足を
踏ん張り必死に我慢する。監督生の血で汚れた刃物はモヤが持ったままだが動くことはなかった。それを確認して監督生は最後の一礼を終えると、来た時とは反対の階段から下りていき、ふらふらになりながら何とか2人の元まで戻った。

「監督生!」
「っ痛い、痛いっっ!!」
「貫通してんじゃん…!もう卒業式とか言ってらんねーって!保健室行こう?」

傷口をハンカチで押さえるジャミルと背を撫でるフロイドに撓垂れ掛かりながら監督生はボロボロと涙を零しながら首を降った。
こんなの覚悟の上だ。帰るためなら腕の1本や2本くれてやる。
そう泣きながら言う監督生に2人は言葉を詰まらせた。止まらない血がハンカチから滴り落ちる。ポタ、ポタと床に落ちていくそれを見つめ、フロイドが立ち上がった。

「次、オレね。」
「フロイド!危険だ!!」
「分かってる。だからオレが行く。ウミヘビくんは小エビちゃんの処置よろしく。…なんかあったら迷わず行け。」

フロイドはそう言うと必死に痛みに耐え涙を流す監督生の頭を一度撫で付けステージへと向かっていった。
やり方は監督生の見ていたため差程難しくはなかった。難なく演台の前まで来たフロイドは恐怖と警戒心で汗だくになった手を伸ばそうとしてふと、モヤの様子がおかしいことに気づいた。
揺らいでいる?いや、小刻みに上下に動いている。…まるで怒り狂っているかのように。

「ギッギギィィィァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ア"!!!!」
「?!」

突如顔の部分のモヤが裂けたかと思うと男の大絶叫が響き渡った。咄嗟に距離を取ろうとして後ろに下がるフロイドにギラギラと光る刃が振り下ろされる。

「ぐっっ!!」
「フロイド!」
「先輩!!」
「掠っただけ!早く走れ!!」

庇うために出した左腕が切りつけられ血が舞う。痛みで目を細めるもフロイドは力を振り絞りモヤを蹴った。気体なのに確かに人を蹴る感触を感じフロイドは顔を歪める。気持ち悪ぃ。ギッギャッ、と掠れた甲高い声を上げながら吹き飛んだそれに見向きもせず直ぐにフロイドはステージを飛び降り、走り出していたジャミル達と合流した。

「どこに行くの!」
「取り敢えず保健室に避難する!そのまま様子を見て音楽室だ!!」
「ま「ギィヤァァァァァァ!!!」

監督生が何か言おうとするとそれを咆哮が遮った。体育館から出る直前、走りながら振り向くと、フロイドに蹴られ倒れていたモヤがバキ、ゴキ、と鈍い音を立てながら身体を無理やり動かしていた。それは最早モヤではなく立派な人型の何かで、監督生達を追いかけようとしているのは明白だった。


『卒業生、退場。卒業証書を持って下校して下さい。来賓の方は職員玄関よりお帰り下さい。』

「あーもー!放送もしっかり聞こえるしよー!!」
「卒業証書、私持ってます!!」
「クソっ、時間はないが一度試すか!」

3人が渡り廊下を抜けガラス戸を閉めると直ぐにいつもの放送が鳴る。しかし今回は監督生が通訳するまでもなく2人にも内容が理解でき、3人は急いで正面玄関へと向かった。

「やっぱり開かねーじゃん!!」

乱暴に扉を揺するも全く微動だにしない扉にフロイドとジャミルは苛立ちを募らせる。
しかしそこで監督生があっ、と大声を出し2人の名前を呼んだ。

「フロイド先輩、ジャミル先輩!開きました!!」
「は?なんで、そこさっき開かなかったのに…。」


半身を外に出す監督生とは違い、2人はまるで透明な壁が阻んでいるかのように外に出ることは出来なかった。

「…もしかして、卒業証書を受け取れたのが監督生だけだからか?」
「なら小エビちゃんだけでも行って。」
「そんな!先輩達を残して行けません!」
「頼む。それで先生か誰かに助けを求めてきてくれ。なに、心配ないさ。俺達はなかなかしぶといからな。」
「ドカーンされても生き残ったしね。」
「黙れフロイド。」

軽口を叩いてはいるものの2人の顔色は悪い。消してこの真っ赤な空のせいではないだろう。監督生は泣きそうになりながらどうにかならないのか考える。何かないか。3人揃ってここから出る方法は。痛む右手が思考を妨害する。何か…、それこそ先の放送に…、

「…そうだ、来賓!職員玄関!!先輩、職員玄関の方に大きな鏡ありましたよね!!」
「…っまさか!!」

ハッとしたようにジャミルが目を見開いた瞬間、体育館の方から男の絶叫が聞こえてきた。

「くっそ!もう来やがった!!」
「兎に角走るぞ!!」

慌てて走り出した3人は暗い廊下の奥に蠢く何かを見た。それは滅茶苦茶に身体を動かしながら物凄いスピードでこちらに迫って来ている。
ここから職員玄関までものの数十秒ほどだが3人の体力はもう殆ど残っていない。だからもし駄目だったなら、そこで全員おしまいだろう。
そうならないでくれ、と祈りながら必死に3人は足を動かす。後ろから聞こえる叫び声はどんどんと大きくなっていく。死にたくない。ただその想いだけで鉛のように感じる足を必死に前に出した。

「見えた!!」

やっと見えてきた職員玄関。その横にある鏡が3人の姿を写す。

「フロイド先輩!!」

1番後ろを走っていたフロイドの背後にピッタリと張り付いていたそれ。どす黒く、もう人の形も保っていない大きな肉塊が断末魔を叫びながら刃物を振り下ろす。
迫る切っ先から目を逸らすことも出来ず、フロイドは死を覚悟した。

その時、刃がキラリと光り、それが鏡に反射して3人の目を眩ませた。

「いたっ!」
「いっ!」
「っ!」

チクリとした痛みに咄嗟に目を瞑る3人。
何が、
必死に目を開けようとする監督生が最後に見たものは、眩いばかりに光り輝く鏡に飲み込まれる自分達の身体と、床にのたうち回る肉塊の姿だった。
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