小エビとウツボとウミヘビと、時々怪奇

とある男の話



『おめでとう。』

そう言って卒業証書を渡す初老の男性に、男の胸は張り裂けそうになる。
僕も先生のように、立派で皆に慕われる人になりたい。
男はそう思い生徒に囲まれ幸せそうな恩師を目に焼き付けた。




『何度言ったら分かるんだ。』

先輩教師の言葉にぐっと唇を噛み締める。

『どうなってるんですか、ここの教師は。』

生徒の親に下げたくもない頭を下げながら男は拳を握りしめる。

『ウッザ。』

幾分か下にある生徒の頭をかち割りたくなる。

教師になって早数年。いざなってみたら思っていたより辛くて、苦しくて、腹正しくて。毎日苛立ちの中過ごしていた。
だからちょっと魔が差した。
クラスの後ろにいる、目立たない大人しい女生徒。好きだと言う音楽を語らい、鍵盤に指を重ね、放課後の秘密を紡いで行った。甘い手つきと優しい目付きで耳障りのいい言葉を囁いた。
純潔を奪い、暴き、快楽と言い様のない高揚を感じた。僕を見下すガキ共も親も同僚も、この行為が全てを払拭した。

でも時に子供とは残酷で悪魔にもなる。

女生徒は妊娠した。
避妊具に穴を開け、男の種を子宮へと誘った。
ただ離れたくないその一心でしたそれは、男を奈落へと落として行く。
恍惚な顔に脅えた男は女になった生徒を置いて、逃げた。




『やばっ!超悲惨じゃん。こんなんだったら私生きていけないわぁ〜。』
『え?なら◾︎◾︎セン死ぬ?飛び降りちゃう?』

楽しげに言う生徒がニヤニヤと男を見下す。男の命はその時、空気のように軽かった。


男は熱血と言うほど生徒に向き合うタイプではなかった。しかし自身のクラスの問題にはそこそこ気を配る教師だった。だから自分のクラスの生徒が虐められているのを見て見ぬふりはしなかった。
校舎裏、たまたま見かけたそれに咄嗟に声をかける。止めに入り生徒を逃がしたところで男は気づいた。
生徒を虐めていたのは、理事長の娘だった。


それから男の生活は一変した。
標的が変わり、男は毎日を地獄にされた。男が諌めた生徒には誰も逆らえない。だから男を助ける者はいない。
例え男の授業には人体模型が立ち、存在を無視されようと、虫やネズミを食わされ男が吐こうと、指示された言葉を放送で言わされ学校中に恥を晒そうと、男を助ける者はいなかった。

怖かった。逃げたかった。でもあの日の恩師の姿が羨ましくて、男は逃げ出すことが出来なかった。
誰でもよかった。
ただ泣いても許される場所が欲しかった。
男は慣れた手つきで番号を入力すると耳に携帯を当てる。女になったあの子は学校に来ていない。そんな事も忘れて男は祈るように身体を丸めた。
1、2、3。長いコールが耳に響く。はやく、はやくと心が急く。

ブツリ、とコールが切れた。
女生徒は男をとうの昔に捨てていた。


虐めていた生徒が卒業しても男に笑顔が戻ることはなかった。
覇気のない顔と活力のない声で、死んだように教壇に立つ。いてもいなくても気づかれない。そんな存在に男は成った。けれど男は教師を辞めなかった。憧れと、執着の入り交じる思いだけが、男を立たせる理由だった。




『ぁっ、』

男は階段を下っていた。
卒業式まであと僅か。理想のクラスとの関係ではないけれど、やっと問題なく卒業証書を渡せる。男は中途半端な夢に自身を嘲笑いながら、それでも少し気持ちが晴れていた。
これが終われば休みを取ろう。親にも暫く会っていない。孫の顔は無理だが、親孝行でもしなければ。明るい未来を思い浮かべ久しぶりに口角が上がった。
と、
男の足がもつれる。
何が起きたか理解出来ぬまま男の身体はゴロゴロと転がっていく。鈍い音を立てながら落ちた男はピクリとも身体が動かなかった。

呼吸が出来ない。苦しい。痛い。身体中が痛い。
カヒュー、カヒュー、
変な音がする。僕の喉からだ。
嫌だ。痛い。なんで僕が。ここまで頑張ったのに。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

憎い。



血で染る視界に夢を見る。
感涙する生徒。認められた僕。祝福の卒業式。



どこかでピアノが聞こえた。
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