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女体化稀咲の仕合わせな一生 【完】

入店音と共に軽やかな子供の足音と重たい革靴の音が聞こえた。千冬の明るい声と聞き知った幼子の声に場地圭介は机から顔を上げた。

「こんにちは!」
「よー。」
「いらっしゃいマオちゃん。半間。」

ストライプのスーツを着た半間と手を繋ぎニコニコと笑う真央に場地もいらっしゃいと声をかけた。



千冬が代表を務めるペットショップに半間親子が来たのはつい先日だった。前から犬が欲しいと言ってはいたがしっかりと世話が出来るようになるまで半間が許可を出さず、この前やっと説得出来たのだと嬉しそうに話してくれた。

『獅音くんもいいけど、やっぱり本物のワンチャンは可愛いね!』

そう続いた言葉は聞かなかったことにしたが。

「真央、今から色々話すっからあっちで待ってられっか。」
「うん。」
「おー、ならこっち来るか。」
「バジ!」
「バジさん、な。」

元気よく場地の名前を言う真央に手招きすれば店内だからか、歩くより少し速いだけのペースで近寄ってくる。それにちゃんと躾られてんなと感心したが、呼び捨てにされている事を思い出しやはりあの毎日が戦場のような所で育っただけあるわ、と思い直した。こんだけ可愛い顔してんのにいい性格してるしな。ホント稀咲と半間の子供って感じだわと必死に背伸びをする真央の後ろに回り込む。小さい身体では椅子に座るのも一苦労なのだろう、脇に手を入れそのまま場地が座っていた対面の椅子に下ろした。

「ありがとうバジ!」
「だからさんを付けろさんを。ったくケーゴ習ってねぇのかよ。今何年生だ?」
「もうすぐ2年だよ。あ、ねぇアタシね、自分のお名前漢字で書けるようになったよ!」
「マジか、すげぇじゃん。」

ちょっと書いてみろとペンを渡しそこら辺にあったいらない紙を広げた。小さい手で握りしめたボールペンがツルツルとした広告の上を流れていく。それを場地はどこか懐かしく感じながら頬杖をついて眺めていた。

「できた!」
「見してみ。…って、字違うじゃねぇか。」
「あれ?」

真央の書いた所々歪んでバランスの悪い"半間真央"の文字は、真の字だけ間違っていた。真ん中が目ではなく田になっている。間違って書かれた横に場地が正しい文字を書くと真央は自信満々の顔をシュンとさせた。

「書けたと思ったのにぃ。」
「惜しかったな。まぁキューダイテンじゃねぇの?俺はお前と同じ歳の頃漢字書けなかったし。」
「バジ、バカだもんねぇ。」
「いい加減にしろよクソガキ。」

少し乱暴に真央の髪をかき混ぜると、キャーと言い足をバタつかせ楽しそうにする姿にイラつきも落ち着いていった。一通り乱して満足した場地はそう言えば、と自分の手で髪を整える真央に口を開いた。

「真って字は昔、オマエのかーちゃんから教わったんだ。」
「ママから?」
「あぁ。オマエのかーちゃんすげぇ奴だったんだぜ?俺の勉強だけじゃなくてパーまで見て高校に受からせちまうんだからよ。能ある鷹は尻隠すだっけか。インケンなんて言って悪かったなぁ。」

スパルタだし優しくねぇしおっかねぇし、辛かった記憶の方が多いがセンコーでさえ匙を投げた場地達を見放すことなく根気強く丁寧に稀咲は付き合ってくれた。しかもハロウィンの時はタケミチ達と協力して命も救ってくれた。
少し悲しそうに遠くを見つめ場地は稀咲の顔を思い出す。いつも眉を寄せ舌を打っている不機嫌な顔しか見たことなかったが、それでも今の自分があるのは稀咲のおかげだと感謝している。出来ることならその恩を返したかったなと場地は静かに目を伏せた。
そんな場地に気づいているのか気づいていないかは分からないが、真央はいつもと変わらない調子で口を尖らせる。

「なんか言葉も意味合いも色々違うよー。でも、ねー、インケンってどんな字?」

真央がペンを渡してくる。それを受け取り、暫し悩んでから真の横に書いていった。

「あ?あー、確かこんな字だったか。」
「これインゲンだよ。」




風呂から上がり真央と自分の髪を乾かした半間はそのまま寝室へと向かった。ベッドには既に真央が横になっており隣に来た半間の胸に擦り寄る。同じシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。

「ワンチャン可愛かったなぁ。ちっちゃかった。」
「ばはっ。もう少しの我慢な。」
「はやくお迎えに行きたいなぁ。あ!今日ね、ママの話聞いた!ママ凄い人だったんだね。」

枕元にある淡いナイトライトの光の中で真央の声が高くなる。写真でしか見た事のない自分の母親の事を知れて嬉しかったのだろう。犬より場地から聞いた話を楽しそうに話し始め、それに半間も優しく頷く。途中途中で自分の知る稀咲の話を挟みながら、半間は胸が次第に苦しくなっていくのを感じた。

「母親いなくてつらくねぇ?」

一息ついた真央の頭を撫でながら問う。新しい嫁を貰うなど有り得ないが、我が子に無理を強いている自覚もあった。なんと返ってくるだろうかと少し気持ちが締め付けられる。

「アタシね、ちっちゃい頃の記憶あるの。」

はたと半間は瞬きをする。予想外の言葉に内心首を傾げながら自分と同じ琥珀色で似ても似つかない澄んだ瞳を見つめた。

「今もちっちゃいだろ。」
「もー、そうじゃなくて赤ちゃんの時!
アタシって夜泣きあんまりしなかったでしょ?あのね、いつもね、ママがそばにいたの。」

半間の喉がヒュッ、と鳴る。
何故だろうか、心臓がとてつもなく強く脈打った。

「ママは白くて柔らかくて、形はないんだけど、ママって分かるんだ。そんでね、夜とか皆がいない時はママが遊んでくれたの。でもね、お父さんがね、仕事に行く時は必ずママはお父さんについて行ったの。それがね、ママもお父さんも私を置いてっちゃうんだと思ってね、怖くてね泣いてたの。」

私が初めて立った時消えちゃったけど、ママはね、いつもね、私達と一緒にいたよ。

そう言って笑った真央の顔は稀咲にそっくりだった。



じわじわと熱くなる目頭に視界がぼやけ始めた。歯を食いしばり必死に声を殺す。
静かに寝息を立てる娘を起こさぬよう抱きしめる腕に力を込めた。

「…会いてぇなぁ〜っ……。」

しゃくりあげながら言う半間の涙が枕に染み込んでいく。手の中から落ちていった命と腕の中にある宝を想って、嗚咽が響く夜をただただ耐え続けた。
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