小話

▼過去隙(ひま)/過去エミリー/モブお姉さん
▼隙視点




どこにでもあるような無機質なアパートの二階に座っている。短針はもう、深夜0時を過ぎてから三回程似た光景を繰り返していた。
僕がこの時間帯、家にいることはない。






愛人の他人と他人の愛人の諸事情





女に取り付かれた父親は、毎日のように違う女を連れ込んで、狂ったようにそのからだを貪った。僕はそれを見るのが嫌で、女がやってくるきっかり30分前に家を出ては、廊下に設置されている消火器の影に隠れた。

友達のエミリーはふたつとなりの部屋に住んでいて、僕がここで膝をかかえながらじっとしていると、よく家のなかにいれてくれる。エミリーの両親はまるでドラマの家族のようにあたたかく優しかったが、反面、朝自分の家へ戻るたび、その境遇の違いと現実に僕はしょっちゅう打ちのめされた。



今夜はエミリーがいない。
家族で北区に出かけているのだ。
誰も通らないがらんどうの廊下。薄いコンクリートの壁からは、住民の安らかな寝息ではなく、聞きたくもない男女の淫靡(いんび)な喘ぎ声が響き続けている。断続的な女の高い声がやたら耳について、冷たい初冬(しょとう)の風にさらされた全身が一気に凍りついた。気持ち悪い。

「誰か助けてよ…」

すがる相手がたったひとりしかない僕にとって、今夜は特に過酷な8時間になりそうだ。
不安で全身が押し潰される。安心が欲しい。いつでも僕をあたためてくれる、そんな安心が。

可能な限り外界から感覚を遮断したくて、爪が白くなるほど腕をきつくだきしめる。音も、ひかりも、においも、痛みも、ぜんぶ嫌いだ。五感は僕に考えることを強いる。僕が一体どういう人間なのか、それをよりクリアに突き付けてくる。

なにも考えちゃだめだと、ぎゅっと目を瞑った。
血に似た、鉄サビのにおいが鼻を掠める。脳裏に浮かんだのは、僕の使っていたシーツにこびりついていた鮮血。いつだっただろう。父親が連れた女と、僕のベッドで事に及んだのは。その後片付けをしたのは僕だ。
怖くて怖くてたまらなかった。僕のまわりにいつでもいるのは、男でも女でもない、人間ともちがう別の生き物のような気がして恐ろしかった。


「ねぇ、きみ、今日はひとりなの?」


突然、頭上から声がした。聞いたことのない、女の声だった。少し低くて掠れた、心地好い声だ。僕はその声の主を確かめるために、閉ざされた腕のすき間からちらりと上を見る。そこに居たのは、よく見知った人間だった。

僕の家からよっつとなり、エミリーのひとつとなりの家に、たまに来るお姉さん。決まって深夜0時を回る頃、赤い派手なパンプスを履いてやって来る。あの家に招かれ、からだを滑り込ませる瞬間しか見たことがなかったけれど、こんな顔だったのか。

「きみ、あの家に夜、たまにいれてもらってるわよね。フフ、私あなたのこと知ってるのよ」

どうやらお姉さんも同様の理由で僕のことを知っていたらしい。
胸まであるチョコレート色の髪は、さらさら音をたてて弱い風になびいている。お姉さんから立ち上る甘い香水のかおりは、肺にためると不思議とこころが落ち着いた。ヒトを食ったように赤く肉厚な唇。とろんと垂れた目尻と、そこにのせられたエメラルドのシャドウはまるでアオスジアゲハのようだ。

「お姉さん、ウワキアイテでしょ」

僕が特に感情のこもっていない声でそう言うと、お姉さんはおおきな目を更に見開き、そして何がおかしいのかクスクス口元に手をあて笑った。

「きみ思っていたより面白い子ね」





それから数ヶ月のうち、僕とお姉さんは4回この場所で鉢合わせて言葉を交わした。
なんの感情も思い入れもない、単純な応酬(おうしゅう)。後腐れもなく出会っては別れて。"次はいつ会えるんだろう"なんて、考えることすらしない軽薄なつながりを保つ。

そんな僕達の不思議な関係に終わりが来たのは、年明け二度目の1日のことだった。

あれから何度も朝を迎え、ヒトひとりが貧乏人から億万長者になったり、男が女になったり、はたまた裏街の厳しい寒さに誰かが倒れ、そのままかえらぬひとになっても、父親は相変わらず家に女を呼んでは阿呆みたく痴態を晒しつづけている。

そして僕も同じように、その現実から逃げるために、エミリーの家に厄介になっていた。

「じゃあ、もう帰るね」

僕の家と同じ間取りの、手狭な玄関で靴を履きながら言った。エミリーは「またいつでも来てね」と、聖母のような笑みを浮かべ僕の手を握る。

ガチャン

錆びた扉を閉めた。重いような、軽いような、なんともいえない中途半端な金属音が廊下に響く。
まだ家には女が居るだろうから、少し散歩でもしようかな。朝日が昇るまで1時間もないだろう、きんと冷えた街の空気を肺に吸い込んで、階段に向けからだを動かした。

「あ」

つい声をあげてしまった。
そこに居たのは髪の長い女の人。家のすぐそば、いつも僕がちいさくなりながら隠れている消火器の横に、お姉さんが、いつもの僕と同じような格好でうずくまっていたのだ。

強い冬の風にあおられた髪はぐしゃぐしゃで、人目もはばからず泣いていたのか、高級そうなトレンチコートの裾はまるでレジャーシートのように広がって真っ黒になっている。

しばらく声をかけるべきかどうか悩んでいると、お姉さんが僕に気がついたのか、ゆっくり顔をあげた。
涙でぐしゃぐしゃの顔。丁寧にひいていたであろうアイラインも落ちて、黒く頬に軌跡を残している。

でも、それでもお姉さんは綺麗だった。
悲哀(ひあい)に充ちた顔を見ているだけで、とにかく優しい言葉をかけてあげたくなった。安心させてあげたい。今この瞬間だけでも。

「出ていけって、言われちゃった」

弱々しい声でお姉さんはつぶやいた。まるでうわごとのように。
僕は返事ができないでいた。いや、返事をしなかったといったほうが正しいだろうか。僕の中にも確かに流れている色情(しきじょう)狂いの男の血が、無意識にそうさせたのかもしれない。
僕はただ黙ってお姉さんの目を見つめた。『なにがあっても受け入れるよ。あなたのこころの叫びを聞いてあげるよ』。

「都合が悪くなったのよ。奥さんにばれそうになったから。あの人は私より家庭を取ったの」

ぐずぐずと鼻を啜りながら、お姉さんは喋りつづける。

「私は本気であの人を愛していたのに。家もお金も自分のからだもぜんふ捨てて、あの人に尽くしてきたのに。こんな…こんなことってないわ。ひどすぎる」

ガチャン

静寂を破るように、鈍い音が響いた。僕の家から女が出てきたのだ。奇抜で派手な女だった。女は厚いまつげの奥から僕をみとめたが、気にすることなく肩に提げたショルダーバッグからタバコを出して、それに火をつけこの場所を去った。

「…お家、戻らなくていいの?」

僕は微笑む。

「今はお姉さんと一緒にいたいから」

"お姉さんが僕と一緒にいたいんでしょう?"
そんな野暮なこと聞かない。そうやって誰に教わるでもなく、僕は大人の常套句(じょうとうく)の上で決められたルートを辿る。踏み込んでいい場所とそうじゃない場所。絶妙な距離感を保ちながら、僕らは互いに弱さを見せあった。

「ねぇ、私醜いでしょう」

「そんなことないよ」

「見たことある?これが女。女はたったひとりの男のために全てを捨てられるの。無様に、意地汚く生きられるのよ」

お姉さんはそう言うと、ふらりと立ち上がって僕に向き直った。お姉さんは思っていたよりちいさい。抱きしめれば今にも壊れてしまいそうで、少しだけ怖くなる。
そんなことを考えていたら、お姉さんの腕が伸びて、僕のからだを捕らえた。冷たい。

「…もう、あんたでもいい。もう誰でもいいからあたしを抱いて、慰めてよ…!」

お姉さんのからだが震えている。そして僕は、今度こそためらいなくそのからだを優しく抱きしめた。はじめて腕に抱いた大人の女性のからだは、冷たくてちいさくて細い。幾つも歳下の僕が抱きしめても、弱そうで、儚くて、慈しみを感じた。

「いいよ」

そのたった三文字が、彼女を静穏の渦に突き落とす。今夜だけだとしても、この替えのきかない感情は、彼女を僕にすがらせる。僕だけを求めさせる。

別段緊張もなくはいったラブホテル。
そこで僕らは時間を無視して互いに慰めあった。僕はお姉さんの境遇に、お姉さんは僕の境遇に。これが自分のからっぽのこころを充たすためだけの手段だったとしても、僕を狂わせるには充分な時間だった。父親の血はあまりにも濃すぎる。僕は胸の内でそう自嘲しながら、汗をかき身もだえる目の前のケモノに舌を這わせた。



朝日の届かない遮光カーテン。ひとつのベッドの上で、僕は布団にくるまりお姉さんを見ている。お姉さんはベッドの端に腰掛けてタバコを吸っていた。お姉さんの細い腰に、許可もとらず腕を回す。

「きみって意外と甘えん坊なの?」

「お姉さんが好きなら、甘えん坊にでもなんにでもなるよ」

「子供ね」

「まだ16歳だからね」

お姉さんの吸っているタバコのにおいが鼻をくすぐる。女の人が吸うタバコは好きだった。からだにけむりのにおいが染みつけば、その人の所有物になったような気がした。

「馬鹿みたいね、あたし。まだ18もいかない子供にこんなことさせて」

何をいまさらとは思った。それに、西区でもそういうのを生業(なりわい)にしている子供は結構いる。みんな知らないだけだ。
お姉さんがタバコを灰皿に押し付けて立ち上がる。床に散らばった下着を拾い、身につけていく。なんだかその光景が妙に無様でおかしかった。まるで落ちた小銭を必死に拾う貧乏人みたいだ。

「でも嬉しかったでしょ?」

「そうね。きみのおかげで楽になった」

「よかった」

胸がすうっとする。自分でももうわかっていた。誰かの役に立てたからとかそんな崇高な理由じゃなく、男として求められ、この身ひとつで目の前の女を支配した快感。一夜でも、愛される悦びは天にも昇る思いだった。

「僕は、求めてくれるならなんだってするよ。どんな形でも愛してあげるよ。一番欲しい言葉をかけて安心させてあげる。慰めてあげる」

下着を身につけて、着ていた衣服に袖を通したお姉さんは、出会ったあの夜と同じ顔でこちらを振り向いた。

「天性のジゴロだわ、きみ」

そして先程とは違う、大人が子供にするのと同じように僕の頭を撫でて、額にちゅっとキスをした。

「悪いけどあたし、誰にでも優しいヒトって嫌いなの」

僕はちょっとだけ傷ついて、ふて腐れるように枕へと顔をうずめた。くぐもった声で反論する。こういうところがきっとまだ子供なんだろうな。

「でも、さっきは"誰でもいいから慰めて"って言ってた…」

「人間はこころに幾つも別の人格を飼っているのよ?それがわからないうちは、まだ子供ってこと」

お姉さんが口元に手をあててクスクス笑う。多分ああやって笑うのが癖なんだなと、僕の中の妙に冷静な部分が思う。…ああ、これが"別の人格"か。

「今日はありがとう。もう会うことはないでしょうけれど、元気でね」

お姉さんは再び僕の髪を撫でた。
お姉さんが身支度を整えて部屋から出ていくまで、僕は一度も顔をあげなかった。





室内に静寂が充ちる。
残るのは、お姉さんのタバコのにおいと、甘い香水のかおり。乱れたシーツ。全身を包むけだるさ。
こころにあふれていた喜悦がガリガリ減っていく。孤独が、纏うもののない素肌を遠慮なく引っ掻きながら、首を絞める。

足りない。あんなんじゃ足りない。僕は寂しいんだ。誰か助けて。僕を愛して。

ぐいと、先程までお姉さんが寝ていたシーツを掴んで抱きしめた。今はただこの寂しさから逃れるため眠りにつきたかった。
彼女のかおりが、体温が消えるまで、その瞬間まで、彼女は僕のもので、僕は彼女ものであってほしい。

麻薬より質(たち)の悪い自分勝手な独占欲は、今まさに消えない炎となって、誠実さを巻き込み一途を灰にした。

僕はとうとう、不実に頭(こうべ)を垂れたのだ。






















(愛人の他人と他人の愛人の諸事情)

互いの名前も知らないの。


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