小話

◎廿(にじゅう)/ヨルド
◎廿視点



ギチギチギチギチとセミがやかましい。
太陽はジリジリ俺の全身を焼く。まるで、熱い鉄板の上で調理されている豚の気分だった。

しおれた朝顔に水をやる老婆の側をすぎて、暗い路地裏へ。今日はほんとうに暑い。薄着になったとは言え、それでも俺の服装は明らかに浮いていた。だが、それは仕事の都合上仕方がないことでもある。

わずかなゴミと育たない雑草の上で身なりを正す。真っ黒いマントと同じ、足にフィットした黒いパンツ。おおきなフードを頭にかぶり、ふところからおおぶりのナイフを取り出した。

水やりを終えた老婆が、杖をつきながらこちらへやってくる。

あの無害そうな老婆が、今回の標的だった。

一歩、また一歩。集中しろ。こころを乱すな。まぶかにかぶったフード。せばまった視界に、老婆の枝のような足だけがうつる。握ったナイフにちからをこめた。一瞬で仕留める。抵抗して、声すらあげられないうちに。

さあ、今だ!

渾身(こんしん)の一振りで、老婆の喉をまっぷたつに掻き切ろうとした時だった。

突然老婆の首が、俺の目の前でゴロンと地面に落ちたのである。






策略愛慕(さくりゃくあいぼ)






「………?」

突然の事態に動きが止まる。落ち着いて状況を確認。フードの、視界の外にだれかがいる。緊張はピークに達し、俺はただひたすらこの場所から立ち去り、あわよくば視界の外にいる人物を殺す術はないだろうかと模索した。
そうこうしているうちに、地面に落ちた自分の頭をおいかけるよう、派手な音を立てて老婆の残ったからだが石畳にたたきつけられる。真新しい血液が体内から得ていた圧を失い、あらゆる場所を染める。嗅ぎ慣れたにおい。先程までとは打って変わって、周囲は地獄絵図へと様変わりしていた。





何分。いや、何時間経ったか。
人通りの多い路地からわずかばかり奥にはいったこの場所では、まるで別世界にいるかの如く時間が進まない。喧噪(けんそう)も、視線もなにもない。錯覚だけが生まれる異空間。

ざり

視界の隅にいた人物が動いた。一気に緊張感が増し、からだにちからがはいる。

ざり、ざり

また一歩。見えたのは、几帳面に磨かれたベージュのレザーブーツと汚れひとつないダークブラウンのパンツ。血にぬれた剣。石畳に描かれた赤い軌跡。腿の中頃まで広がる、装飾の少ない暗い色のマント。そして――

「やあ、廿。偶然だね」

聞き慣れた男の声。

ハッとして顔をあげる。そこにあったのは、クリームがかったあまり癖のない金髪と、暗闇に燈された蝋燭の色によく似た切れ長の瞳。長さの違う左右の毛先は、浅くかぶったフードの奥でゆらゆら揺れている。そして仮面のような、うそ寒い笑み。確認できるであろう特徴のすべてが、俺の知っているたったひとりの人間に当てはまっていた。

世界でいちばん大嫌いな人間。でも、世界でいちばん俺に執着している人間。

「………ヨルド」





そう呼ばれた男は、ゆっくりとこちらへ近づきながらフードをあげた。"老婆だったモノ"をあいだに挟み対峙する。一方は甘い霧のような口許(くちもと)で。一方は眼窩(がんか)を貫かんばかりの冷たい眼差しで。

「なんでお前がここにいる」

「たまたまだよ、たまたま」

毎回繰り返される、変わることのない問答(もんどう)。そのたびに、怒りや不快感、苛立ちや焦りなど様々な感情がふつふつと沸き上がって嫌になった。行き場のない両腕と目線。おぼつかない頭で、一旦持ったままのナイフを鞘におさめる。

「どうしてお前はいつもそうやって俺の邪魔ばかりするんだ」

「邪魔なんてしていないよ。ただそこに老婆が居たから退けただけさ」

「なんだそれ」

「さあ。なんだろうね」

「真面目に答えろよ」

ヨルドはなにを言ってもヘラヘラと笑っていた。この顔が、態度が嫌いだ。見下されているような気がして。『お前は俺より弱くてなにもできない奴だ』と言われているような気がして。

―暑い。

もうなんでもいい。こいつとふたりきりで居たくない。俺はこの場から早く離れるために、身支度を整え、屋敷の人間に死体回収の連絡をしようとした。だがヨルドは目敏く、急に近づいたと思うと、ふところから携帯電話を取り出そうとした俺の腕を軽く掴んだ。

「…なんだよ」

「せっかく久しぶりに会えたんだし、もう少しゆっくりお話しようよ」

「俺はお前と違って忙しいんだ。離せ」

「忙しいって、変だね。いつも俺が先回りして廿と会うための舞台をセッティングしているのに」

「……先、回り」

「そう。先回り」

ニッコリ言って、気の抜けた手から携帯電話が奪われる。あせって奪い返そうとしたら、背に腕を回され抱きすくめられた。
一体どこから最高機密の情報がコイツの元へと流れているのか。それを突き止める術もなく、モヤモヤとした気持ちばかりが募った。

「っ、離せ!!返せ!」

「わかったわかった。でもまだ一緒に居たいから、電話はそのうち返すよ」

パッと腕を離され、からだが自由になる。暑い。暑い。暑い。くらくら、気分が悪い。もうなにもかもが最悪だ。遠くで鐘の音が聞こえたが、今が何時なのかすらよくわからなかった。





笑顔のヨルドと、どれだけ長く対峙しつづけただろう。どちらともなにも話さない。動きもしない。ただ地面から立ちのぼる熱気にあぶられて、なまぬるい呼吸を繰り返すだけ。
永遠とも思える無言の責め苦に耐え切れず、もう携帯電話は捨てて路地から抜けようか。なんとなくそう思った時だった。

「ねえ廿」

ぽつり、感情の読み取れない声でヨルドがつぶやいた。チラと視線だけで返事をする。そんな俺をわずかに高い位置で眺めながら、ヨルドはまるで歌劇俳優のようにうららかにしゃべりだした。

「このままふたりでどこかへ逃げようよ」

「………は?」

あまりにロマンチックで意味不明なセリフに、すっとんきょうな声がでる。こいつは、一体なにを言っているんだ。もともと気味の悪い奴だと思ってはいたが、今日は群を抜いて異常だった。だがヨルドは、そんな俺に構わずくちを動かす。

「安心して。きみを遠くでいつも監視している屋敷の使いは全員殺したし、携帯電話もホラ」

そう言って手に握っていた携帯電話を遠慮なく地面にたたき付けると、サプレッサーのついた銃で奴はリズムよく機械に穴を空けた。携帯電話は穴だらけ。液晶は真っ白にひび割れて、あたりに細かな破片が飛び散る。

うずまく疑問は解決されないまま、観客のない独白は続く。

「必要なものは逃げながらかえばいい。痛いかもしれないけれど、腕と首にはいっているちいさな板切れも俺が取り出してあげる」

「……っ」

「綿密に、失敗のないように、丁寧に計画したんだ。今日のために、どれだけ邪魔な人間の命を奪ってきたと思う?」

そっと長い腕を伸ばして、俺の髪を撫でる。逃げないように。逃げてもすぐに見つけられるようにと、生まれてすぐに埋め込まれたちいさな基板。その存在をなぜコイツが知っている?なまめかしい手つきが、沸き上がる不安な気持ちをどんどん加速させた。背中は壁で身動きが取れない。

「俺は廿のためならなんだって捨てられるよ。もちろん奪うことだって。廿を、きみを自由にできるなら、俺はどんなことだってやってみせるよ」

さっきまでやかましく動いていた脳みそがピタリと止まる。俺のまわりからいっせいに音が消える。息がし辛くて、呼吸が荒く小刻みになった。大気はぐるぐると硝煙(しょうえん)や熱気を取り込みながら、この狭い路地を循環しつづけている。

警告だ。逃げろ。理解するな。否定しろ。たわごとだ。違う。奪われる。居場所を。すべて。こいつに。ぜんぶ!!!!こいつを信じることは、今の自分を裏切るということ。ああそれでも手を取りたい。いや、ちがう。愛してほしい。やめろ。手を伸ばせ。いやだ、こわい!

「きみを自由にしたいんだ」

プツン。頭のどこかで線が切れた。感情の波が沸き上がって、視界が揺れる。制御できない。

「っ……!!なんだよ、自由って!!俺は今のままで充分しあわせなんだよ!お前の勝手な自己満足で俺の人生をめちゃくちゃにしようとするな!」

「でもきみは、それを望んでいるようにみえるよ」

「なんで?俺が?俺はこのままでいいんだ!お前にどうこうされなくたって、俺は『廿』としてこの場所で生きていく!お前には邪魔させない!!!」

「俺はきみを自由にできるなら、きみに嫌われて殺されたってかまわない」

「黙れ偽善者!」

「否定はしないさ」

「俺はあの屋敷に居続けることを自分で選んだんだ。自分自身で!」

「それは違うよ。きみはあの屋敷に居ることしか選べなかった。だから、ぜんぶ諦めて受け入れる道だけを選んだんだ」

息がつまる。言いたいことが山ほど浮かび、ひしめいては沈む。そのなかからようやく絞りだしたちいさな言葉は、自分ですら驚くほど稚拙でまっさらだった。

「…っ、しかたないじゃないか…!なにも知らなかったあの頃の俺に、来やしないお前を信じて待ち続けることなんて、できるわけがないだろ…!」

ヨルドは一瞬、傷ついたような表情になったが、後戻りできないのはどちらも同じ。声にほんのすこし、感情がまざりだす。

「だから俺はいま、きみを迎えにきたんだ!もう俺はちからのない子供じゃない。勉強もした、戦う術も学んだ。きみを、あの家から救い出すために」

「俺だってお前と同じで、昔の俺とはちがう!俺はあの家のために生きると決めたんだ。自分で望んで、そうありたいと願って……っ」

俺の言葉を聞いたヨルドは、鼻で笑った。そして一言だけ小さく「ウソつき」と呟いた。
頭に血が上る。気づいたら俺は、男の胸倉を掴み壁に押し付けていた。だがヨルドは少し苦しそうに目を細めながらも反論しつづける。

「きみは人一倍優しくて臆病だから。自分以外誰も傷つかないこの状態で満足しようとしているだけじゃないのか。武器であれば、武器だけであり続ければ、少なくとも屋敷の人間からは必要とされると」

「黙れ!!!!」

「でも屋敷のやつらはきみを人間としては必要としていない。武器は手入れをしつづけても突然壊れてしまうもの。きみはいつ切り捨てられるかわからない恐怖に怯えながらも、オスカーくん達から与えられる対局的な幸福でこころを中和させて、気づかないふりをしているんだ。」

「~~~!!」

「きみはオスカーくん達を自分のために利用して、まるで往来からの友人であったかのような演技でこころの安定を保っている。でも、そんな偽物の関係でありつづけることを、きみは望んでいるのか?ちがうだろ。彼らとはなんの引け目もない、対等な友人関係でありたいと、ほんとうはそう願っているんだろ?」

「うるさい!くちを閉じろ!!」

「閉じない。もう俺は、あんな顔で人を殺す廿を見ていられない。きみは武器じゃない。たったひとりしかいない、廿という人間だ」

「ーーーっ!!!」

もうわけがわからず剣を振り下ろした。コイツのことだから、ヒョイと避けてしまうんだろう。なにも考えず振り下ろした剣先が、かたいレンガに当たり、思い切り跳ね返る感触を想像して無意識に息を飲む。

――だが

振り下ろした剣先は、思っていたよりアッサリ、深く、目の前の男の肩に飲まれた。「なぜ?」なにひとつ理解できないヨルドの行動にはらわたが煮え繰り返る。あせりより先に自分を制御できないまま、感情にまみれたイバラのつるが勝手に体から溢れてくる。

「なんで避けない!!とめない!!お前は一体なにがしたいんだよ!!」

「…避ける必要は、ないと思ったから。っ…避けなかった、だけ、さ」

「避けずに、何でもかんでも全部受け入れれば、俺のなにかが変わるとでも思ったか!?ハッ!馬鹿が!」

ヨルドは脂汗を浮かべ、それでも一切身じろぎしなかった。「こいつにだけは、こんな無様な姿を見せてはいけない」。頭の隅で、遠く激しく警告が鳴る。でももうなにもかも手遅れだ。

「俺は自分で自分の居場所を見つけたんだ!いつもいつも、心を殺しながら、死ねと誰からも言われながら、それでもやっとこの場所を見つけた…!捨てるもんか、捨ててたまるか!他人が用意した場所なんかに、縋り付くもんか!」

意識せず、涙が目の端から伝い落ちた。吐き気も頭痛もおさまらない。柄(つか)を握る両手が汗と血でぬめる。

「廿、俺、は…それでも、君が好きだ、よ」

全身からサッと一気に血の気が引いた。見開いた目がヨルドの顔を捉える。苦痛に歪んだ瞳の奥、そこに見えるのは、俺がちいさな頃からずっと欲しかった『特別な感情』。慈しみ、敬愛、真心?いいや、そんなちいさく暖かいものじゃない。
それは『廿』というただひとつの命を欲する、業(ごう)にまみれた執着。どす黒く粘ついた、呼吸すらできない独占欲。それだけだった。

こわい。この男の手に落ちてしまったら、どうしても自分が自分でなくなってしまうような気がして。今まで必死に守ってきた自分が消えて、別の自分になってしまうような気がして。自分で自分自身を否定することがどれだけ恐ろしいものか、目の前の男はわかってないんだ。
人目も気にせず叫ぶ、わめく。今の俺にはただひたすら、目の前の事実を否定して逃げるために、奴を突き放すためだけに罵りつづけることしかできなかった。

「軽々しく、そういう事を言うな!」

刺さったままの剣先から、まだ新しい、温かい赤が床へみずたまりをつくっていく。継続的な痛みになれてきたのか、ヨルドは先程よりわずかに流暢な口調でくちを開いた。

「軽々…しく?俺はいつだって、君に対する気持ちに、言葉に嘘はないよ。」

「うるさい!!わかったようなクチを聞くな!!」

「わからないからわかりたいんだ。…いつもそう。俺は…君を知りたいのに、君に近づきたいのに、…拒絶して、距離をとるのは、廿、いつだって君のほうなんだよ」

柄から、手を離す。ダラリと垂れた腕は小刻みにふるえて、安寧を求めている。ヨルドが左手で柄を握った。そして、黙ったまま涙を流し後ずさる俺から視線を外すことなく、ふぅ、ふぅと、何度か息を整え、腕にちからを込めて、右肩に刺さった剣を一気に引き抜いた。

「…く、」

カラン。冷たい音を立てて、真っ赤に濡れた剣が石畳に投げ捨てられた。だくだくと、肩から血が流れている。
一歩後ずさると、一歩前へ。一歩後ずさると、また一歩前へ。何度も何度もふたりでそれを繰り返す。

頭がおかしくなりそうだった。いや、もうおかしくなってるのかもしれない。どうすればいいのか。どう生きていけばいいのか。自分は正しいのか、正しかったのか。間違っていたのか。
存在理由が奪われる。たった一本しかなかった自分の人生の選択を、真っ向から否定されている。

この、一本しかない道を捨てたらどうなる?逸れたらもう二度と、元の道には戻れないのに。せまくちいさなこの道には、何年も命を削りながら歩いたこの道には、俺の全部が詰まっているのに。『そのすべてを捨てろ』と、ヨルドは微笑みながら手を伸ばしてくる。

「……っ、くそっ……なんだよ……お前、お前は俺の、なにを………!もう嫌だ…やめてくれ…このままがいいんだよ、俺は、このまま。近寄るな、俺の中にはいってくるな…!」

「廿…」

「俺には今以上必要なものなんてない!特別な気持ちなんて、はじめから手元になけりゃ知る事も、なくした時に痛みを味わう事も、それ以上求めたくなる事もない。だから俺はなにもいらない…!わがままになりたくない……!!」

「それは違う!!!」

「なにがだよ!!!」

血を流しながら、ヨルドは俺の肩を掴んだ。思っていたより弱いちからだったが、振りほどけなかった。鉄の強いにおいが鼻を突く距離。遠くで馬車が石ころを踏み潰す音が聞こえる。

「違う……違うんだよ………!廿、どうして君はそんなに…」

ヨルドは泣いていた。青白い頬に涙が伝い、顎からぽたりと落ちる。

「……どう、して」

思うより先にくちからこぼれた言葉にハッとなった。

どうしてお前が泣くんだ。それは誰のためのなみだなんだ。なんのための、どんな意味が。言え。教えろ。それは――


『誰のためのなみだ?』





ふたりして路地裏で泣いている。馬鹿みたいだ。大のおとなの男ふたりが、掴み合ってさめざめと泣いているなんて。

それなのに妙に頭は冷静で、ためしに声をだしてみるといやに冷たいトーンだった。でも、言わないといけない。俺の生きている道は、お前の思うより囲いがうず高いことを。手が届かなかったんだよ、きっと。お前の歩いている場所から、ここは遠すぎたんだ。だからもう、仕方ないことなんだよ。

「…なあ、ヨルド。俺のことを俺以上に大切に思わないでくれよ」

「……っ」

「俺は自分のことなんてぜんぜん大切なんかじゃないんだ。大切になんてしたくないんだよ」

「…廿、違う、それは間違ってる…廿は、廿は俺より、」

「やめろよ」

「……………」

「嫌なんだよ…俺自身が大切にしたくない俺を、俺以上に大切に想うやつがいるなんて。お前自身より俺のほうが大切だって、やめてくれよ、どうすればいいんだよ。俺はお前のために自分を大切になんてできない」

ひたすら自分に言い聞かせるようにつぶやき続けた。手の震えはおさまっている。もうわかってるよ。俺は、本当の俺は、どうするのがいちばんしあわせなのか。
でもだめなんだ。捨てられないんだ。だって俺には、今以上を求める資格も、不変から逃れる勇気もない。

「そんなのしあわせなんて言うもんか!廿はそれ以外のしあわせをまだ知らないから、そうおもうだけで…」

「お前の物差しで俺のしあわせを測るな」

悲愴な顔で俯き、目を伏せるヨルド。そう、これでいい。これでいいんだ。
弱々しくふるえるヨルドのからだを抱(いだ)き、自分を捨てそうになる両腕にちからを込める。『後悔』という言葉だけは感じないように、唇を噛み締めて。

ちからの抜けたヨルドの手から抜け出す。ヨルドはうつむいて身じろぎひとつしない。逆上したこいつに、これ以上なにかされたらたまったものじゃない。壊れた携帯電話の破片を踏みながらきびすを返し、表通りに戻ろうと一歩踏み出した時だった。





俺はまだ気がついていない。うつむいた奴の口許に浮かんでいた笑みにも、暗闇にともされたあかりが、いっそうギラギラ強くなったことにも。





「廿」

そのたったひとことで、背筋が凍る。いつもの声だ。ヨルドの、いつもの声。腕を、また、そっと捕まれる。そのままうしろから、強く抱きしめられる。

「ヨル、」

「なんて素晴らしい悲劇だろう」

徐々に、ゆっくりと、確かに。感じてはいけない感情のピントが合っていく。

「廿はやっぱり、ずる賢い、悪い子だね」

優しい声色だった。安心と慈愛に充ちた声。心拍が上がる。動けない。振り向くことさえできない。これは喜劇なのか、それとも悲劇だったのか。なにもわからないまま、抱きしめられたからだが熱くなっていく。

「ねえ、いますぐ後悔しなよ。本当はこうやって、呼び止められて、無理矢理連れ去ってほしかったんでしょう?」

耳元で低音が、静かに、うららかに囁いた。
景色がぐにゃぐにゃとひずんでいく。

「自分が傷つかないように。逆上した俺が、無理矢理きみをどこかへと連れ去ってしまえば、それだけできみにはこの場を離れる理由ができる」

自己嫌悪に陥るほどのどす黒い愉悦に、足先から頭の上まで溺れる。それは俺にとってあまりに優しく、残酷な言葉だった。

「――…」

「後悔しなよ。俺が悪者になってあげる」

「だって俺は、はじめてきみに出会ったあの日から今まで、きみのためだけに生きてきた。昔言ったよね。きみを自由にするって。邪魔者はなにがあっても排除するって」

「ヨ、ルド」

「あの頃からなにひとつ俺は変わってないよ。ねえ廿、俺を愛せなんて言わない。だけど今だけは、手をとって一緒に逃げさせて。」

馬車がレンガを削る音。新しい、冷たい風が路地を勢いよく抜ける音。胸が痛くて切なくて、涙がとまらない音。うれしいのにくるしい。もうどうすればいいのかわからない。

ああ神様。突き放しても立ち上がり戻ってくるコイツを、殺しても腕を離さないコイツを、どれだけ傷ついても俺のためだけに生きてきたコイツを、確かに待ち望んでいたコイツを、愛すなというほうが無理です。
ヨルドが優しく俺の両手を取る。


「独りよがりでいいんだ。ねぇ」


「きみを愛させてはくれないか」


その一言で、はじめてヨルドと会ったあの日の情景が息を吹き返す。幼い無邪気な笑みが、目の前の顔と重なって嗚咽がとまらなかった。






どこまでも深い沼に沈んでいく。星も光りも、わずかな命さえない、悪のみどろ。鉄壁の牙城は傷つけば脆く崩れ落ちて、チリさえ残すこともせず、大地になる。
それは何度太陽が沈み月が昇っても再び作り直されることはなく、やがて人と人のくち伝いに朦朧としたありさまで、世界から完全にその全体を溶かし消えてゆく。





気がついたら、ヨルドに手を取られ、見知らぬ道を歩いていた。『街を出て落ち着いたら、オスカーくんたちに手紙を書いてあげるといい』。そう言われて俺は故郷を捨てた。
じくじくと痛む首と腕。色のないけむりが頭の中いっぱいに詰まっている。

追われる身。いや、もしかしたら既に捨てられた身なのかもしれない。中途半端に自分を愛していた武器は、これ以上壊れてしまうのを恐れて持ち主の手を離れた。でも持ち主にはまだ、何万もの新しい武器がある。たとえ血が繋がっていようがなかろうが、あの人にとって結局俺は、欠陥品以外のなにものでもなかったのだ。

でも今、俺の手を握りゆっくりと歩いているコイツは、生まれながらに欠陥品の自分を欲した。見知らぬ誰かを殺すためじゃなく、ただ側に置いておくために。たったひとつしかないこの命と、いつまでも寄り添うために。

「ねえ廿。廿はこれからどこにいきたい?」

「しらない」

「そうか。じゃあとりあえず隣街までゆっくり歩いていこう。そこで宿を探して、また別の街まで歩いていこう」

「気が遠くなりそうだ」

「はは、確かにそうだね。でも大丈夫。もう廿は、誰も殺さなくていいんだ。命令されることも、功績を残す必要もない。時間は無限だよ」

「………そうだな」

「大丈夫。いつかまた一緒に、この街へ戻ってこよう。そして必ず、きみの大切な人と共に、こころから笑える人生を歩もう」

「…………………」

「それまでは何度でも後悔すればいい。俺の手をとったことを、悔やめばいい」

「…………………」

「それが生きるってことなんだよ」



























もう「あなたしかいない」と声に出す
だれもが「間違った選択だ」と指をさす
「強くあれ」世界がぼくにそう囁く
それでも生きたいと、愛されたいと願う

「欲張りになってもいいの?」

「いいさ。一緒に歩こう」


策略愛慕

叶うのならば、命尽きるまで愛慕いと。

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