小話
◎ウィンクルチャチャ、猿喰
◎チャチャ視点
「ぜえ、ぜえ、ぜえ!」
湿地のようなぬかるんだ地面を、おぼつかない足で何度もけりあげる。きんとひえた冬の空気が容赦なく私の肺を突き刺す。痰の絡んだ喉はもう鉄の味で、鼻を抜ける泥のにおいとまざって執拗にえぐみを含んだ。上等でもない暗いオレンジのドレスの裾(すそ)がどんどん汚れて、重く、重く、重く。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ!」
頭上になみなみとそそがれた夜は、私の髪より暗くねばついている。そこに浮かぶいじのわるい満月は、私の足取りをどこまでも追って、とまらなかった。
災禍は眠らず月を見る
夜露に溺れた並木道が万華鏡のように視界を行き来する。なによりも風が、霧が、影が、私の行く手をはばんでしかたない。不規則に揺れる景色。はじめて足を踏み入れる灰色の薔薇園(ばらぞの)。つんのめってぐしゃぐしゃの安っぽい靴にはたいへんな数の穴があき、とがった砂利を遠慮なく柔い足裏へと突き立てた。
葦原(あしはら)のはじまりは唐突。薔薇園を抜けて鴎(かもめ)がケンケン喚く。こちらへガラスの目玉を向けて声をかけてくる。
「やあ黒髪のお嬢さん。そんなにあくせく走ってどちらへ」
「わからないわ。でも、私、逃げなくちゃいけない気がするの」
「へぇ、それは大変だ。しかしなによりお嬢さん、僕はきみの足が痛そうで見てらんないよ」
ハッとなって足元に視線を移す。足は、靴とはとうてい言えない襤褸(ぼろ)の布でおおわれていて、粒子の粗い地面にじんわり赤い色が滲んでいた。途端それはじくじくと痛みはじめて息ができなくなる。
私の様子を見ていた鴎が、心配そうに近寄ってきて、私の涙をなめた。
「だめ、だめよ、私の涙をなめては!」
「どうして?」
「だって、ああ、そんな…なんで…」
鴎は首を傾げる。ごろりと頭が落ちる。羽が、肌が紫になって、浅黒い血で全身がおおわれる。鴎は泡をふいて倒れ、それきりだった。
私は涙を、毒を流した。逃げなくては。痛む足を叱咤して立ち上がり、どろどろに溶けた鴎を踏み付けて葦原へとからだを押し込む。頭上が妙に騒がしく胸騒ぎを覚える。
「よくも、よくもあのひとを」
「違うの、違うのよ。私はなにもしていない。あの鴎が、私の涙をなめたから」
「その涙が、呪われたからだが憎い。許さない。私たちはお前を許さない」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
無我夢中で進んだ。そうしたら急に視界がひらけて、あるのは波紋ひとつない湖。すすまなきゃ。すすまなきゃ捕まってしまう。またあの狭く冷たい場所で。痛い思いをしなくてはならなくなる。
じゃぼ、じゃぼ、じゃぼ
骨に染みる冷たい水が私を責めたてる。このまま凍え溺れ死んでしまえたらどれだけ幸せなことだろう。
ぷか、ぷか、ぷか
私の血が湖の中にひろがり、魚たちが次々に死んでゆく。進んだあとにはおびただしい数の魚の死骸。月はあいかわらずこの土地を照らし、逃げ場をなくす。ようやく湖からあがり息をはいた。後ろは見ずに再び前へ進む。いまさらね、わかりきったことよ。
「病姫だ、病姫がいるぞ」
「あの子の側にいると死んでしまう。寄るんじゃないよ」
石が、煉瓦が、頭にぶつかる。冷たい目、言葉、視線に胸が張り裂けそうになる。
ふと立ち止まり、考える。
私は誰にも必要とされてない。
私には、なんの価値もないから。
周りを見渡して、とうとう足のちからは抜ける。そのまま地面へとへたりこむ。
コツ コツ
聞き慣れた重い靴の音と、
カチャ カチャ カチャ
銃と鞭のぶつかりあう音。
顔を上げて、涙を流す。
「……………」
「ねぇ…あなたは私を…必要としてくれるの?」
銀色の長い髪と重そうな装備品が視界でくらんで距離感がない。まるでまぼろしみたい。傷だらけの手を伸ばしてみたら、固い靴底で遠慮なく踏まれた。指の骨が折れていやな音がしたけれど、もうなんにも感じなかった。
「必要?自惚れるな。俺が必要としているのはお前の生み出す毒液だけだ。お前自身にはなんの価値も興味もない」
「……………」
「お前の毒さえあれば俺はあの忌ま忌ましい神とやらを屈服させることすらできる。二度と逃げられないよう、国に戻り次第足を切り落としてやろう」
「…………そう」
「道具のくせに手間をかけさせるな」
頬に涙が伝う。忌ま忌ましい、毒の液が伝う。『必要』だからあの国にいるんじゃない。強く、頭の良い者が私を『所有』し『使用』する権利をもつから、だから私はあの国にいるんだ。人格も感情も要らない、ただの毒袋。無様に嬲られ、死なないギリギリの状態で保存されるだけの日々。
でもそれ以外に、存在価値がない。
「ねえ鴎さん」
「なんだいお嬢さん」
「誰かに愛され必要とされるって、どんな気持ち?」
「そうだね、例えて言うなら、干したての暖かい毛布にくるまれるとか。西日のぬくもりを背に浴びて穏やかに眠るとか。極寒の土地で熱いクリームシチューをお腹いっぱい食べるとか…」
「私には一生わからないものかもしれないわね」
「それは、ゴシュウショウサマ」
どこからかはいるすき間風で目が覚める。ここは光のとどかない遥か地下の幽閉施設。不衛生で冷たい、石でできた壁と床。昨夜の拷問で折れた左足が腫れ上がり熱を伴ってずきずきと痛んだ。
途端思い出せなくなる、夢のなかの景色。幼い頃少しだけ居た外の世界。話だけでしかしらない鴎や薔薇の花、葦原と湖、外のものすべて。想像だけでつくられた世界はいびつで、なにもかも私だけのものだった。
コツ コツ コツ
カチャ カチャ カチャ
ガチャリ
(災禍は眠らず月を見る)
目覚めたらそこだけが私の居場所
◎チャチャ視点
「ぜえ、ぜえ、ぜえ!」
湿地のようなぬかるんだ地面を、おぼつかない足で何度もけりあげる。きんとひえた冬の空気が容赦なく私の肺を突き刺す。痰の絡んだ喉はもう鉄の味で、鼻を抜ける泥のにおいとまざって執拗にえぐみを含んだ。上等でもない暗いオレンジのドレスの裾(すそ)がどんどん汚れて、重く、重く、重く。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ!」
頭上になみなみとそそがれた夜は、私の髪より暗くねばついている。そこに浮かぶいじのわるい満月は、私の足取りをどこまでも追って、とまらなかった。
災禍は眠らず月を見る
夜露に溺れた並木道が万華鏡のように視界を行き来する。なによりも風が、霧が、影が、私の行く手をはばんでしかたない。不規則に揺れる景色。はじめて足を踏み入れる灰色の薔薇園(ばらぞの)。つんのめってぐしゃぐしゃの安っぽい靴にはたいへんな数の穴があき、とがった砂利を遠慮なく柔い足裏へと突き立てた。
葦原(あしはら)のはじまりは唐突。薔薇園を抜けて鴎(かもめ)がケンケン喚く。こちらへガラスの目玉を向けて声をかけてくる。
「やあ黒髪のお嬢さん。そんなにあくせく走ってどちらへ」
「わからないわ。でも、私、逃げなくちゃいけない気がするの」
「へぇ、それは大変だ。しかしなによりお嬢さん、僕はきみの足が痛そうで見てらんないよ」
ハッとなって足元に視線を移す。足は、靴とはとうてい言えない襤褸(ぼろ)の布でおおわれていて、粒子の粗い地面にじんわり赤い色が滲んでいた。途端それはじくじくと痛みはじめて息ができなくなる。
私の様子を見ていた鴎が、心配そうに近寄ってきて、私の涙をなめた。
「だめ、だめよ、私の涙をなめては!」
「どうして?」
「だって、ああ、そんな…なんで…」
鴎は首を傾げる。ごろりと頭が落ちる。羽が、肌が紫になって、浅黒い血で全身がおおわれる。鴎は泡をふいて倒れ、それきりだった。
私は涙を、毒を流した。逃げなくては。痛む足を叱咤して立ち上がり、どろどろに溶けた鴎を踏み付けて葦原へとからだを押し込む。頭上が妙に騒がしく胸騒ぎを覚える。
「よくも、よくもあのひとを」
「違うの、違うのよ。私はなにもしていない。あの鴎が、私の涙をなめたから」
「その涙が、呪われたからだが憎い。許さない。私たちはお前を許さない」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
無我夢中で進んだ。そうしたら急に視界がひらけて、あるのは波紋ひとつない湖。すすまなきゃ。すすまなきゃ捕まってしまう。またあの狭く冷たい場所で。痛い思いをしなくてはならなくなる。
じゃぼ、じゃぼ、じゃぼ
骨に染みる冷たい水が私を責めたてる。このまま凍え溺れ死んでしまえたらどれだけ幸せなことだろう。
ぷか、ぷか、ぷか
私の血が湖の中にひろがり、魚たちが次々に死んでゆく。進んだあとにはおびただしい数の魚の死骸。月はあいかわらずこの土地を照らし、逃げ場をなくす。ようやく湖からあがり息をはいた。後ろは見ずに再び前へ進む。いまさらね、わかりきったことよ。
「病姫だ、病姫がいるぞ」
「あの子の側にいると死んでしまう。寄るんじゃないよ」
石が、煉瓦が、頭にぶつかる。冷たい目、言葉、視線に胸が張り裂けそうになる。
ふと立ち止まり、考える。
私は誰にも必要とされてない。
私には、なんの価値もないから。
周りを見渡して、とうとう足のちからは抜ける。そのまま地面へとへたりこむ。
コツ コツ
聞き慣れた重い靴の音と、
カチャ カチャ カチャ
銃と鞭のぶつかりあう音。
顔を上げて、涙を流す。
「……………」
「ねぇ…あなたは私を…必要としてくれるの?」
銀色の長い髪と重そうな装備品が視界でくらんで距離感がない。まるでまぼろしみたい。傷だらけの手を伸ばしてみたら、固い靴底で遠慮なく踏まれた。指の骨が折れていやな音がしたけれど、もうなんにも感じなかった。
「必要?自惚れるな。俺が必要としているのはお前の生み出す毒液だけだ。お前自身にはなんの価値も興味もない」
「……………」
「お前の毒さえあれば俺はあの忌ま忌ましい神とやらを屈服させることすらできる。二度と逃げられないよう、国に戻り次第足を切り落としてやろう」
「…………そう」
「道具のくせに手間をかけさせるな」
頬に涙が伝う。忌ま忌ましい、毒の液が伝う。『必要』だからあの国にいるんじゃない。強く、頭の良い者が私を『所有』し『使用』する権利をもつから、だから私はあの国にいるんだ。人格も感情も要らない、ただの毒袋。無様に嬲られ、死なないギリギリの状態で保存されるだけの日々。
でもそれ以外に、存在価値がない。
「ねえ鴎さん」
「なんだいお嬢さん」
「誰かに愛され必要とされるって、どんな気持ち?」
「そうだね、例えて言うなら、干したての暖かい毛布にくるまれるとか。西日のぬくもりを背に浴びて穏やかに眠るとか。極寒の土地で熱いクリームシチューをお腹いっぱい食べるとか…」
「私には一生わからないものかもしれないわね」
「それは、ゴシュウショウサマ」
どこからかはいるすき間風で目が覚める。ここは光のとどかない遥か地下の幽閉施設。不衛生で冷たい、石でできた壁と床。昨夜の拷問で折れた左足が腫れ上がり熱を伴ってずきずきと痛んだ。
途端思い出せなくなる、夢のなかの景色。幼い頃少しだけ居た外の世界。話だけでしかしらない鴎や薔薇の花、葦原と湖、外のものすべて。想像だけでつくられた世界はいびつで、なにもかも私だけのものだった。
コツ コツ コツ
カチャ カチャ カチャ
ガチャリ
(災禍は眠らず月を見る)
目覚めたらそこだけが私の居場所