小話

◎プロプス



半透明の歯ブラシを、プラスチックのスタンドから抜き出す。スタンドに穴は四つ空いているが、そこへは錆びた青いカミソリと、湿った麺棒しか差し込まれていない。
遮光カーテンのすき間から、街灯の遠いあかりがもれている。シトラスの歯磨き粉。俺は泡立ちの悪いそれをくちに含んだまま、気温のよくわからない十月の夜を確かめるように、ぬくもったてのひらを汚れたガラスへとそっと誘(いざな)った。






衰夢(すいむ)






ひんやりしたガラスの手触りは、寝起きでほてったまゝのからだに優しい。しゃこ、しゃこ。何度か無造作に口内の歯ブラシを動かしながら、俺は窓を開け、スウ、スウ、夜の空気をちいさく吸った。

「みかんのにおいだ」

懐かしいキンモクセイのかおりが、ほのかに鼻腔をくすぐる。りゝ…りゝ…。すずむしの鳴き声も、緑の少ないこの街のどこからか、ふいに聞こえてくる。

充分みがかれたであろう。窓は開けたまゝで、俺は洗面所へと向かう。くちを濯(ゆす)ぐためだ。真っ白いシンクへくちの中のものをぺっぺと吐き出し、何度か水を含んではぺっぺと吐き出し、それを繰り返す。栄養が足りていないのか?吐き出した泡には歯茎からでたであろう血液がまざり、桃色になっていた。

俺は、鉄くさゝの充満した感じがどうにも嫌で、冷蔵庫から冷やした炭酸水をすぐさま取り出しくちに含む。ごくん。しゅわしゅわした甘い液体が、舌のうえではじけて咽を通る。鼻に抜ける、キンモクセイと炭酸の爽やかで甘いかおりが、全身に充ちる。

マフラーは必要か?『いゝや、そこまで寒くはないであろう』。時代遅れのブラウン管に映った、見知らぬ誰かが助言して、『サア!』と、天気の移り変わりを説く。

窓をピシャリと閉めたら、タンスをひらいて上着を取り出すのが先決だ。「オウイ、猫が逃げたぞ!追え追え!」。外から子供の悲痛な叫び声が聞こえる。カリカリ。窓を引っ掻く爪の音。もしや、これは、

「なんだいお前(まい)さん。助けてくれってか」

そこにはちいさな猫が、イッピキニヒキとサンビキヨンヒキ、シノゴノ飛んで…ココノツ、トォ!

「バカヤロウ、多過ぎだァ」

ぴりゝぴりゝ。携帯が鳴る。客からか。
ふと視線を窓に。同じツラした猫共が、同じ目をしてこちらを睨む。

「恨むなら猫に生まれっちまったことを恨むんだな」

カーテンを閉めて、携帯を開く。通話ボタンを軽く叩いたら、なにより愛想好くオ返事。ずしりと手になじむ仕事道具は、染み付いた"アノ"においでいっぱい。


くぅ

腹が鳴る。

にゃあ

猫が泣く。


長考。


「………………ハア」

ため息をついて、俺はカーテンを開ける。しかしその決心はアッサリと裏切られ、遠目に見えた光景とやるせなさで、ついついぼさぼさの頭を掻いてしまう。

「……なんだ、拾ってやろうと思ったのに。バカ猫共め、恨んでやるぞ」

数メートル。涙からがら子供の懐で咽を鳴らす猫。そのうちのイッピキが、こちらをふりむいて、そんな俺に向けてちいさく鳴いた。

『居場所がないのはオマエのホウダッタネェ!』

ぬるり尻尾がおゝきく揺れたら、猫はテテテと去ってゆく。

あっかんべ!

若人(わこうど)は今夜も世界に翻弄される。頼りない『ヒツヨウ』を求めて、今夜も世界を翻弄させる。

家の鍵をかけて見上げた空。どうしても変わらず月は綺麗で。ふりむいた猫の目に見えた記憶の中の夜の星が、ひとりきりの俺をなぐさめるように、一等強くかゞやいた。
























(衰夢)

そいでもオイラは死体稼業。


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