小話

◎ニニ、レグルス、アナナス、夜取、奈津、ツンベルギア、ショパン、志閃、埋畄
◎ニニ視点
◎ニニ過去~現在まで


それは中間世界で始まった、井戸端の種にもならない、ちいさなちいさな歴史の話。






蛾黙(がもく)の綾(あや)







私の住む村は、中間世界のうち『白寄り』の農村だった。温暖な気候に恵まれ、年中作物はたわわに実り、貯蔵に関してはどの村より潤沢(じゅんたく)していた。灰色の境界の審査を経て、黒の大陸からこちらへやって来る商人、反対に白の大陸から黒の大陸へと出稼ぎにでる旅芸人達。彼らの主な休息場所としても、この村は重宝されており、毎日働きアリのようにやって来る商人達との貿易に関しても、お互いがお互いの利益を考えやりとりし、そうして何代にも渡る信頼をこの村は勝ち取り続けてきた。




「こんにちは!」

渇いた土を蹴りあげ、だだっ広い通りを駆ける。通りの端では、オレンジの花を一絡げ(ひとからげ)にしたおおきなかたまりがいくつも並び、しばしば甘い匂いを肺いっぱいためる事ができた。二日にいっぺんはお母さんと訪れている、快活な夫婦が商う青物屋。「そんなに走ると転んじまうよ!」と、恰幅の良い奥さんの張りのある声。私は「はあい」と、面映(おもは)ゆい気持ちで多少駆け足のスピードを緩め、歩き馴れた坂を駆け上がった。



框(かまち)を抜けてキッチンまで一目散。おおきな足音に気がついたのか、ひとり分の影がゆらりとこちらへ近づく。

「お母さん、ただいま!」

「あら、ニニ。お帰りなさい」

私の事を『ニニ』と呼ぶ目の前の女性は、私の大好きなお母さん。私はごく平凡にこの村で大好きなお母さんとお父さんと一緒に暮らしていた。
お父さんは仕事で木を伐(き)って、毎日たくさんのスプーンとフォークを作っている。お父さんの作るスプーンとフォークは、どれも飴色にきらきら輝いてステキ。その飴細工のような一匙は、今でもたくさんのひとに使われ愛されている。私は、11歳の誕生日にお父さんがプレゼントしてくれた自慢のスプーンとフォークを食器棚から取り出し、キッチンにあるテーブルへと並べた。

「パンケーキを食べようと思って」

「だから急いで帰ってきたの?」

「だってはやく食べたかったんだもの!お母さんのパンケーキ、私とっても大好き!」

「あらあら」

お母さんは村で一番料理がじょうず。お母さんのお母さん…つまり私のおばあちゃんも村で一番料理がじょうずだったんだって。もちろんお母さんのお母さんのお母さんも。
そんなお母さんが作ってくれる料理でも一番好きなのは、ヨーグルトパンケーキ。ふんわりもちもちのパンケーキの上に、真っ白いヨーグルトをたくさんかけて、メイプルシロップとブルーベリーをのせれば完成。

お母さんがキッチンの戸棚から紅茶の缶を取り出す。ちいさなテトラパックをふたつ。お母さんのお母さんのそのまたお母さんから代々受け継がれてきた、なんの変哲もない白いティーカップが目の前に置かれて、やわらかい湯気をもうもうとあげながら、テトラパックのいれられたカップにお湯が注がれる。発色のいいピンク。大好きなピーチティー!

「角砂糖はみっつ」

とろける甘い匂い。私の大切な午後をいろどる愛すべき材料。

今日はお父さんの誕生日。お父さんは夜に帰ってくるから、それまでお母さんとパンケーキをつくる。お父さんも私と同じで、ヨーグルトパンケーキが大好きなのだ。




それは一体何時だっただろう。大好きなお父さんの帰りをいまかいまかと待っているうち、いつの間に私は眠ってしまったらしい。たぶんお母さんがベッドまで運んでくれたのかもしれない。夜は、どこかしこも冷たい闇で充ちている。しかし今日は、やけにその闇が身体にまとわりついてうそ寒かった。

ちいさなランプの明かりだけを頼りに、廊下を歩く。外がやけに騒がしい。意味もなく胸がどきどきした。行けども行けどもキッチンに辿り着かないような気がしたのは、それだけ気持ちが急いでいたからかもしれない。

「お母さん、お父さん?」

そう、ふたりの名前を呼んで、ようやくキッチンの明かりをつける。瞬間―

「ニニだめっ!!消しなさい!!」

怒号。聞いたこともないお母さんの怒号が、左耳をつらぬく。途端、まばゆい閃光と、強い、熱い風が、ガラスを何十枚も叩き割ったような音と共に、私をおもいきり後ろへ吹き飛ばした。

わけがわからない。ただわけがわからなかった。さっきまで家の中に居たはずなのに、気づけば硬い瓦礫に埋もれて呆然としている。考える間もなく、なにかが爆発する音と、悲鳴。つんざく阿鼻叫喚。メラメラと視界を掠める赤いものはたぶん炎だろう。
ボロボロになった体をゆっくりと起こすが、一瞬で左腕に激しい痛みと熱が襲ってくる。全身が熱くて痛くて、自然と涙がでた。

「お母さん…お父さん…どこぉ?」

えんえんと泣きながら見渡した町並みは瓦礫の山で、木でできた家屋(かおく)が多いせいか、火のまわりはとても早かった。夜の空を赤く照らすほどの炎、道端にはたくさんの人が倒れてぐちゃぐちゃになっている。くさい。生焼けになった人間のにおいは到底私には堪えられず、何度も何度も嘔吐した。

「ニ……ニ」

吐瀉物まみれになるのも構わずひたすら嘔吐していた私の後ろで、お父さんの声がした。痛む体を叱咤しながら振り向く。

「お父さん…!!」

お父さんは真っ赤だった。あるはずの脚はズボンごと両方腿の中央部分から削ぎ落とされ、背中や腕にはガラスの破片がいくつも突き刺さっている。頭からも滝のように血が噴き出し、右の目は潰れてしまったのか見たこともないような色に変色していた。あの優しかった笑顔、今ではひたすら苦痛にゆがめられ、私はただ言葉を失う。駆け寄ることすらできない。―お父さんが怖かった。

「ニニ……無事で、よか………」

「お、父さん…!お父さん、やだ死なないで!やだよぉ!」

「今すぐ、村から…逃げるん…だ……お前だけでも、生き延び………」

「お父さん!!お父さん!!やだやだやだ!目をあけて、死なないで!置いていかないでよぉ!!やだぁ…やだよぉ…」

私の嗚咽は村が燃える音であっさり掻き消える。なんてちっぽけなんだろう。

よく見れば、お母さんはお父さんのすぐ側にいた。頭がなかった。そして燃え盛り熱風にあおられた木が私達のほうへ倒れてきたので、私はそこからまろび出てひたすら走った。最初から選択の余地などないのだ。

もうなにも考えられなかった。




「ねえ、きみ、この村の子?」

村からあと数歩で脱出できる。その時ふいに背後から幼い女の子の声がした。立ち止まり振り向くが、目が熱に焼かれてうまく見えない。

代わりに、すませた耳で聞き取ったその声は、今まで聞いたことがないもので、村の人間ではないことをうかがわせる。しかしなにより恐ろしかったのは、女の子の話し方が、明らかにこの場所にはそぐわない無邪気で楽しげなものだったことだ。

「みんなね、アルカリと遊んでくれないの。アルカリつまんないからね、もう帰ろうと思うんだけど」

「遊んで…くれない?」

しこたま煙を吸った喉は、ひりついて水を求める。

「うん!きっときみも、アルカリがさわっただけでパーンてなっちゃうから、アルカリもう帰るね」

「アルカリお嬢様。このような卑賎(ひせん)な者の相手はあまりなさらないようにしてください。さ、帰りましょう」

奥からやってきたスラリとした女性と手を繋ぎ、アルカリと名乗る女の子は熱風と共に姿を消した。アルカリという名には聞き覚えがある。私はがくりとその場に膝をつき、やっと状況を理解して、また泣いた。

他の街では話の種にすらならないであろう一夜の悪夢は、朝になっても依然として悪夢のままだった。この村は、黒の境界の支配者である魔女『ウンナナクール』の愛玩物『アルカリ』の遊び場にされたのだ。家屋は全壊し、あちこちに燃えた跡が見受けられる。深夜だったこともあり、逃げ遅れた人々も多数いたため、生存者は確認できる限りでは私ひとりしかいなかった。
大多数の死体は火災によって中途半端に燃やされていたが、そうでない者のそれは痛々しくて直視できなかった。たぶんアルカリにおもちゃにされたんだろう。頭がない死体、体があらぬ方向へねじれた死体、鋭利なパイプなどで串刺しにされた死体。どれも誰だか判別のつきようがない。

耳が痛くなるほど静かなこの村。死体は腐り、蛆が涌き、蝿がたかる音と、なんともいえない饐(す)えたにおいに幾度も嗚咽したが、もう胃液しかでてこなかった。

私も私で、消毒してない傷口は早速化膿しかけヒリヒリと痛みばかりともなう。左腕は折れて感覚すらなかった。ああ、喉が渇いた。水が欲しい。

ふらふらと村を後にして、当てもなく道を歩く。10分もしないうちに村の給水所になっていた泉にたどり着き、貪るように水を飲んだ。焼けただれた喉が水で刺激され痛い。あまりの痛さにしばらくのたうちまわるが、水を飲まなければ死んでしまう。―まるで生き地獄だ。




地面に寝転んで私は長考する。

この先どうすればいいんだろう。

白の国に行って、チェリー様に助けを求める?でも、最近チェリー様のちからは弱まりつつあるのに、行ったってまたいつかは同じようなことが繰り返されるかもしれない。なによりこの村から白の国まで距離がありすぎる。早くて一週間。重傷の私が生きて辿りつける可能性はゼロに等しい。
じゃあ灰色の国は…だめだ、場所がわからないし、灰色の境界線は近づけば近づくほど危険。たどり着く前に盗賊にでも襲われたらひとたまりもない。


ああ…私はなんて意気地がないのだろう。


もう私には、ここに留まって死ぬ以外、一抹の希望に賭けて歩きだすしか方法はないのに。まだどこかで、誰かが偶然私を見つけて助けてくれるかもしれないなんて、甘い考えすら振り払えない。大人にならなきゃいけないのに。だって私はもうひとり。

"誰も私を助けてなんてくれない"

"世界は誰も助けてなんてくれない"

一筋、水が頬を伝って地面に落ちた。堰(せき)を切ったように涙が溢れる。嗚咽が誰もいない泉に響く。




「この世界に絶望するなら、お前が世界を創ればいい」




お父さんより若い、けれどどこか落ち着いた、冷たい男性の声。驚いて跳ね起きて辺りを見回す。その人は私のすぐ前で、私と同じように地面に座ってこちらを見ていた。

明るい茶色の髪。この辺では見慣れない、生地の厚そうなしっかりした洋服には、こまごました綺麗な装飾品がちりばめられている。首に巻かれた特徴的なおおきなマフラーは、風もないのに男性の後ろでちいさくひらひらはためいていた。

私は突然のことに言葉を失う。男性の言っている言葉の本質がわからない。

「あなた…は……つっ」

「痛むか」

声を発しただけで刺すような痛みが喉に走る。目尻に涙を溜めてうつむく私に男性が近寄る。後ずさろうともがいてみるが、痛みでうまく動けない。男性の顔が目と鼻の先にきて、仕方なく目を合わせた瞬間、時間が止まった。髪の色より澄んだ深い茶色の瞳。命のある、人間の瞳とは違った、もっと別の…

「…お前は敏(さと)い女だ。この薬を飲め、すぐに傷は治る」

男性は黙ったままの私の手をとり、そこにちいさな袋を乗せた。

「…………」

「早く飲め。会話が成り立たなければこちらにやって来た意味がないだろう。あまり俺を待たせるな」

突然目の前に現れた男性に、なにもわからぬまま手渡された謎の薬を飲むべきか否か。けれどどうせ死ぬ運命にあったのだ。私には試す他、選択肢はそれほど多く残されていない。
泉に這って、袋をあける。中味は黒い粉だった。それを勢いよく口に含み、泉の水で流し込む。

刹那、激痛。

脊髄を叩き割られたような、全身の皮膚に釘を打ちつけられたような、形容しがたいあまりの痛みに、私の意識はあっさりブラックアウトした。




「………ん、お父さん、お母さん…」

どれくらい眠っていたのだろう。目を覚まし辺りを見回すと、陽は当の昔に暮れていた。暗い森の中で上体を起こし、霞んだ目をこする。喉の痛みは完全になく、左腕も完治していた。しばらくその場で呆然とし、そして改めて、現実の惨たらしさに打ちのめされる。

大好きだった村はもうない。友達も、お母さんもお父さんも、思い出がつまったあのちいさな家も、もうないのだ。考えたが最後、涙は涸れることなく溢れてくる。

「…っ、ひっく、ひぐ、ぅえ……」

「あ、起きたよ!ねえレグルス!レグルスったら!」

嗚咽の合間に聞こえる、可愛らしい少女の声。誰?意識を失う前に見たのは、あの不思議な男の人だけだったはずなのに。泣きながら顔を上げると、あの人だ。でもさっきと違う場所がある。肩に、ちいさな女の子の人形を乗せている。うさぎのような赤いカチューシャが特徴的な、水色の長い髪と同じ色のエプロンドレスを着た、ちいさな人形。

「起きたか」

「あ………」

「ハッキリ喋りなさいよこのグズ!」

「に…人形が……」

驚いた。肩に乗ったちいさな人形が、動いて喋っている。まるで人間のように短い腕を伸ばして、声をあげている。私のせりふを聞いて、人形の眉間に皺が寄った。

「なによ人形が喋っちゃ悪いわけ!!?」

「え…い、いえ、そういう意味じゃ…」

「アナナス少し黙れ」

「はあーい」

アナナスと呼ばれた人形の声を遮り、男性が近寄ってくる。もう後ずさりはしない。覚悟はできた。

「俺の名前はレグルス。この人形はアナナスだ」

レグルスと名乗る男性は、依然として声に感情がないので、多少の威圧感を感じる。こちらもおずおずと自己紹介をするが、反応はない。あまり興味がないようだ。そして私が落ち着いたのを見計らい、レグルスさんは再度口をひらいた。

「簡潔に話そう。大抵の人間は信じないが、この世界の外側は無限に広がる次元で充ちている」

「……じ…げん?」

「そうだ。ここは"別世界"と"都市世界"と呼ばれる場所の丁度中間に存在している。お前ら卑賎な人間共は、どうしてこの世界が"中間世界"と呼ばれるのか考えたことはあるか?」

そう問われてハッキリした返事ができないのが、なによりの証拠だった。この世界の名称について学校ではなにも習ってこなかったし、誰ひとりとして"中間"という名前の理由を説明できる人間などいなかった。勿論文献なども一切ない。

「見たところ、お前はこの世界の軋轢(あつれき)に対し非常に強い嫌悪感をもっている。しかしいくら嫌悪感に身を焼かれようが、お前にはこの場所で生きるしか選択肢はない」

「……………」

「なぜならお前はまだ幼いからだ」

ぐ、と、こぶしにちからがこもる。

「欠点だらけの腐った世界。なりゆきに身を任せ、いさかいからはすぐさま乖離(かいり)する。だがお前は幼いながらなかなか利発のようだ」

「レグルス褒めすぎ!」

「本題にはいろう」

レグルスさんが立ち上がり、冷たい瞳で私を見下ろした。ややこしい言葉で言われなくてもわかる。『生きたいか死にたいか』つまりはそういうことだ。

「こんな腐った世界など捨てて、新しい、お前の目指す理想の楽園を創りたくはないか?」

「らく………えん……」

絵本の中でしか見たことのない、夢のような世界。そこは愛と幸福に溢れ、飢餓や苦痛など一切ない。目の前の男はそれを創ることができるという。私の憧れた、素晴らしい世界を、目の前の男は創ることができるという。

「どのみち無様(ぶざま)に腐りゆく命だ、さあ、今すぐ答えをだせ。生きたいのか、死にたいのか」

頭の中がぐるぐると渦巻く。詭弁者には到底見えないレグルスさんの目。そして思い出すたびずくずくと心臓を刺す、お母さんやお父さんの顔。いまでは夢のように思えた、あの穏やかで暖かい豊かな村。オレンジの花が咲き誇る美しい場所。私の愛した故郷。

「………わ、私、…生きたい、」


「生きたい、です」


それを皮切りに、レグルスさんは私を連れてどこかへ歩きだした。不思議。いくら歩いても疲れない。見慣れた景色から見たこともない景色へと、走馬灯のようにびゅんびゅん変化していく世界。おおきな樹木ですら私達を遮らず、まるで誰にも見えない風になったよう。

「ついたぞ」

そう言われて見上げると、目の前には朽ちた長い塔が建っていた。錆びた鉄柵にぐるりと囲まれ、草花は生い茂り見るに堪えない。私は恐る恐るバリケードの意味を成していない門を越え、いざなわれるがまま塔の扉へと足を踏み入れる。

ギギギ…軋む扉の音が不気味に背中を撫でた。中はとても暗く、目が慣れていない状態では一歩踏み出すことすらままならない。その先は奈落の底かも知れない。本当はレグルスさんは死神で、悲惨な歴史の生き残りの、死に損ないの私を迎えにきたのかもしれない。お父さんの書斎で一度だけ見た本の言葉を思い出す。

『死に神は、怨嗟(えんさ)に侵された、死に最も近い人間を好む』




中にはいって、私は息をのんだ。冷たいリノリウムの床、高い高い天井、閉められたカーテン。ささやかに飾られた花瓶と絵画たち。一見すると華美に聞こえるかもしれないが、もの悲しいさびれた雰囲気でこの塔は充ちているのだ。まるで目の前を歩くこの男のように。

入口を抜けてすぐに広がる空間を立ち止まることなく通り過ぎ、両端の壁に沿って天井へと伸びる階段を私たちはのぼっていく。固い床を踏み締めるたび、あの独特な心地好い靴の音が響く。
一般的な建物の平均して4階分ほどあがったところで、ようやく扉らしいものが見えた。泥のようなくすんだ茶色の扉。何十にもされた錠は、レグルスさんが触れただけで硬質な音をあげいっぺんにはずされる。

「魔法みたい」

「お前もじき、同じような存在にかわる」

「どういうこと?私もレグルスさんみたいに魔法がつかえるようになるの?そうすれば楽園でまたお母さんやお父さんと暮らせるようになるの?」

「恣意的な解釈でオウムのようにべらべらと喋るな」

「………ごめんなさい」

私はまた泣きそうになりながら俯くが、レグルスさんは気にもとめずゆっくりと扉を開いた。ギギ…と、入口の扉と同じような音が響く。ざりざりざり。砂をすり潰す音。ヒュウヒュウ。風が抜ける細い音。ツンとしたホコリの、くすぐったいにおい。誰が触れたでもなく、室内に鈍いあかりが燈される。

そこにはふたつの扉があった。

左の扉の前には、薄い緑の髪をした小さな男の子。右の扉の前には、オレンジの髪をしたウツロな瞳の男の子。ふたりとも、私が今まで見たことのない服装や髪型をしていて、まるで私ひとり外国に取り残されたような気分になる。

最初に口を開いたのは、薄い緑の髪の男の子だった。

「レグルス様お帰りなさい!」

「奈津(なつ)か」

奈津と呼ばれた男の子。可愛らしい声でこちらへ駆け寄ってくる様はどこからどうみても女の子のソレで、腰まで届く長い髪は、歩みを進めるたびまるで子犬の尾のようにユラユラと揺れる。

「その子は?」

「アルカリに襲われた村の生き残りだ」

「ふうん。そっか。なるほど」

私と同じくらい背の低い奈津さんは、くりくりした大きな目を動かしこちらを見る。私は例えようのないその居心地の悪さに目を泳がせる。そこに追い撃ちをかけるかのごとく、レグルスさんが口を開いた。

「規模はちいさいが、新しい世界を創ることになった。別世界の魔女のちからを借りに行ってくる」

『別世界』?『魔女』?私の頭の中にあった常識のラインは許容範囲をとっくに越えている。オーバーフローだ。なにがなんだかサッパリだ。頭痛までしてきた。ような気がする。

「レグルス様!」

思考を断絶するように、突然後ろから、女の人の大きな声がした。驚いて振り向くと、その辺の男性よりいくらも端正な顔立ちをした、短く白い髪の女の人が目をキッと吊り上げこちらへ走ってくるではないか。女の人はレグルスさんの前までやってくると、思い切り息を吸った。

「レグルス様!またどこかへ行かれるんですか?!あなたがいない間いろいろと大変なことがあって困ってたんですよ?!ああ、それにこの子供…興味本位で人間を拾ってこないでくださいとあれ程…」

女の人はくどくどと目の前に立つレグルスさんへ説教をたれる。いつものことなのだろうか、誰ひとりとしてそれを咎めたり止めたりしようとする者はいなかった。

「すぐに帰ってくる」

「前回もそう言って一ヶ月以上帰ってきませんでした!」

「俺とお前じゃ時間の感覚が違う」

「そういう問題じゃありません!!!」

ひときわ大きな声をあげ、女の人はハッとしたように俯いた。肩が少しだけ震えている。

「心配なんです…あなたが。死ななくたって、私は…」

消え入りそうな声量。石造りの床に、一粒二粒、水の染みができる。ああ、レグルスさんてこんなにも愛されている人だったんだ。

「泣くな。ツンベルギア。留守の間塔はお前に任せた。俺が帰ってくるまでしっかり守っていろ」

「…っ…はい!」

私がはじめてレグルスさんに会ってから今も、なにも変わっていない冷たい物言い。けれど確かに伝わってくる、ツンベルギアと呼ばれた彼女への強い信頼。私にはもうないソレがすごく遠いものに感じられて、胸が締めつけられる。

そしてツンベルギアさんは、一連の流れを黙ったまま見つめていた私を睨みつけるように首を動かし、低音で警告した。その声にこめられているのは、敵意と殺意と猜疑心(さいぎしん)のみ。

「子供。もしレグルス様になにかしてみろ。次元の果てまで追いかけて、必ず地獄以上のものを見せてやるからな」

メドゥーサに見つめられたかのように全身が硬直した。きっとツンベルギアさんもレグルスさんと同じ魔法使いなんだ。私は彼女の機嫌を逆なでしないよう、ごくりと唾を飲み込んで、何度も何度も頷いた。




そしてレグルスさんについて、ようやく右の扉の前へと歩を進める。レグルスさんの説明によると、左の扉は『諡(おくりな)の扉』と言い『都市世界』という場所へ繋がっているらしい。右の扉は『鵠(くぐい)の扉』と言い『別世界』という場所へ繋がっているらしい。

鵠の扉を背もたれにして、ウツロな目をしたオレンジの髪の男の子がこちらへとゆっくり顔を上げる。正面から見るとわかるが、頬はこけて、唇にはいくつも噛み痕があった。両手には自分を抱きしめるような状態で厳重に錠がされていて、足もその場から動けないように重しできっちり固定されている。私はあまりのことに息をのんだ。

「こんな…酷い……」

自然と口から滑り出た言葉。それを聞いて、いままで黙ってレグルスさんの肩に乗っていたアナナスさんが、馬鹿にするような口調で私に言葉を吐きかける。

「酷い?コイツが?コイツがどんな男かも知らないくせに、あなたは他人を責めるの?私からみたらあなたのほうがよっぽど酷いと思うわ」

かあっと、頬が熱くなるのを感じた。確かに彼女のいうとおりかもしれない。私は自分の、あまりに深く物事を考えずに発言してしまう癖を改めて恥じた。でも、やっぱり事情を知らない私からすれば、彼の状態はあまりに痛々しくて、黙ってはいられないものだった。

「おい夜取(やとり)、そこをどけ」

レグルスさんが足元に座る夜取という男の子に無遠慮に声をかけた。夜取さんは半開きの口からヨダレを垂らして私を見上げる。ドキリ。血走った目はウツロで不透明。けれど、全て見透かしているような、全て見透かされているような、彼は私をしきりにそんな気持ちにさせた。

「そのこ、だあれ?」

間延びした声。突然目を見開いたと思えば、夜取さんはちいさく首を傾げてこちらへ近づいてくる。ジャラジャラと鎖のぶつかる音が嫌で、眉間にシワをよせながら私は何歩か後ずさる。後ずさって気がつく。私どうして後ずさったの?それを見逃さず、アナナスさんは嬉しそうにキィキィがなる。

「ねぇ、あなたやっぱりコイツが怖いんでしょう?酷いわねぇ。さっきまで同情してたくせに。だから私偽善者って嫌い。反吐がでちゃう!」

やめて。違う。違うの

「きみ、俺のこと怖いの?」

「ち…違っ……」

心臓がドキドキした。私いまなにを言おうとしたの?違うって。なにが?

『ギゼンシャ』

アナナスさんの発したその言葉だけが頭をずっと駆け巡る。なんて不快で嫌な言葉。心のどこかではわかっているのに理解したくない、そんな言葉。私はただうつむいて、きつくこぶしをにぎる。

「でもさあ」

ハッとして、目の前にある顔へ視線を移した。感情の読み取りにくい眼鏡の奥。

「偽善者は俺みたいな人間に優しいから、俺は君のこと好きだよ」

笑いながら発言されたソレに、一瞬で私の心は軽くなったが、同時に、頭の奥を金づちで殴られたような衝撃もはしった。

「でも、優しいだけじゃ人間って全部ダメになっちゃうじゃない」

ムッとしたアナナスさんが夜取さんに噛みつく。どうやら彼女はレグルスさん以外の人間が嫌いみたいだ。はじめから穏やかに会話する気もなさそうで、さきほどからやたら私や夜取さんにつっかかってくる。

「人形に感情についてとやかく言われたくないよ」

「なにそれ。だから嫌いなのよ、感情的になる人間って。早く死んじゃえばいいのに」

「レグルス様に言ってよそんなこと」

そして夜取さんはようやく扉の前から体をどかせた。3メートルはあろう巨大な扉。ぽかりと空いたフロアの中心。どこにも繋がっていない、意味のない扉。レグルスさんはその扉のノブを握り、躊躇なく回した。

「いってらっしゃいませ、レグルス様」

ツンベルギアさんが声をかける。振り向きも応答もしないレグルスさん。きっとふたりの間では、きちんと意味のある、大切なやりとりなんだろう。



「行くぞ」

「…はい」

夜取さんのおかげでずいぶん楽にはなったが、まだ心のすみのほうで先程の出来事が足を引っ張っている。この先の不安もそうだが、考えても仕方ないと、あっさり割り切れる性格ならよかったのだけれど、生憎私はそこまでよく出来た子供じゃない。

扉を抜けることで変わってしまう全て。生きたいと願ったのは自分。選択したのも自分。きっとこれから先辛いことばかりで、どうしようもない絶望にうちひしがれるかもしれない。それを全部、たったひとりで背負っていかなくちゃだめなんだ。

魔女に魔法をかけられ陸にあがった人魚姫のように、私の足はひたすら重くて痛い。しかし私はまばゆくひかる扉の先へと、覚悟を決めてつま先を伸ばした。




「ここは」

抜けた先に広がっていたのは、鬱蒼としげる森林だった。濃すぎる緑の匂いが鼻を通り、肺へ溜まっていく。チュイチュイと、聞いたこともないような声の鳥が、頭をかすめて森の先へと消える。

「別世界にある、迷いの森という場所だ」

「迷いの森…」

「レグルス君!いらっしゃい!」

また、突然おおきな声が降り懸かった。
そして驚いた。レグルスさんのすぐ側の空間に亀裂がはいり、ぱくんと開いたと思えば、そこから短い金の髪をした男の子が現れたではないか。レグルスさんと比べて背はあまり高くないものの、とても高価そうな、白いふわふわの毛がついた深紅のマントを着ているためか、ずいぶん落ち着いた印象を感じる。

「中間世界の中に新しい世界を造ろうと思う。お前もちからを貸してくれ」

「面白そうだね。わかった!じゃあ魔女のところに行こうか」

お互い確認がとれたのか、金髪の男の子は、先程自分がでてきた裂け目のような場所へ再びはいっていく。

「ふたりもおいでよ!ここから魔女のところへ歩いていくのはさすがに大変でしょ?」




彼の名前は『ショパン』と言った。この別世界を創った、言うなれば神様である。

ショパンさんにいざなわれ、裂け目の中を歩く。裂け目の中にはたくさんの目があって、それが各々ギョロギョロと動いて気持ち悪い。床にある目をふんづけないよう、私は一生懸命ふたりの後をついていった。そして数十秒もしないうち、ショパンさんが「ついたよ!」と元気に声をあげた。

「とりあえず最初は、協力してくれやすそうな方で」

やっぱり魔女はどこでも怖い存在なのだろうか。畏怖を体現するような、影響力のある立場なのだろうか。私はそんなことを考えながら、レグルスさんとショパンさんに続き裂け目から出る。

目の前には、迷いの森とよく似た、深く暗い緑。不気味に響き渡る、葉のこすれあう音。そしてその中に建つ、ちいさな木の家。これが魔女の家?

「こっちが『雷の魔女』と呼ばれる女の家だ。行くぞ」

「あ、はい」

レグルスさんは躊躇なく家の前まで歩いて行くと、ノックもせず扉を開いた。

「志閃(しせん)、居るか」

ずかずかと室内にはいるふたり。私もおそるおそる後を追いかける。

志閃と呼ばれた魔女の家は、とても汚く薄暗かった。床に散らばる紙や、ガラスの破片。天井には得体の知れないなにかの干物がいくつもぶら下がっていて、ツンとした臭いを放っている。くすんだ木製の机の上には、ぶ厚い本が山積みになっていて、いまにも崩れそうだ。

「志閃―…」

「ちょっと何勝手に人の家漁ってんの?!殺すよ!」

甲高い幼い声。けどその口から出る言葉は刺々しく汚い。レグルスさんがふりむくのと同時かそれより早く、驚いた私は後ろを向いた。

「ん…?その子供、普通の人間…てことは、私になにか用事?」

レグルスさんが『雷の魔女』と呼んだ志閃という女性は、黒の魔女ウンナナクールほど威圧的ではなく、白の魔女バーガンディチェリーより聡明でうららかそうでもなかった。どちらかと言えばさきほど聞いた声と同じ、幼い見た目で、背も私と同じか少し高いくらいだった。黒ばかりでまとめられた洋服のせいで、赤に近いオレンジの髪が浮き上がるように目立つ。

「用事がなきゃレグルス君なんて来るわけないじゃない」

「ショパンまで!一体何事よ、これは」

「中間世界の中に新しい世界を創ろうと思うんだが、協力してもらおうと思ってな」

「新しい世界?…ふうん」

志閃さんは、浬の塔で出会った奈津さんと同じように、値踏みするようじろじろ私を見る。そうして納得したのか腕を組み、部屋の中央にしつらえられたボロボロのソファーへ腰をおろした。

「いいよ。協力してあげる」

「ありがとうございますっ!!」

私は思わず頭をさげる。しかし志閃さんはそんな私を見て、ふんと一度鼻で笑った。

「でもタダじゃ願いは叶えられない。世の中そんなうまい話、転がってるはずないでしょ。わかる?」

「…あの、ごめんなさい…お金、ぜんぶ火事でなくなっちゃって…その…」

「お金なんてつまらないもの欲しくない」

「…え?」

「まだ話してなかったな」

隣にいたレグルスさんが、志閃さんの声を遮るように口をひらく。

「新しい大陸を創り、お前をそこの創造主にする代わりに、対価としてお前に永遠の命を与えることが、魔女や俺のちからを使う条件だ」

「…永遠の、命?」

それは、どれだけ酷い怪我を負おうが大病を患おうが、一瞬で治癒し、人間は必ずしも逃れることのできない『老い』さえ跳ね退けてしまう『不老不死』のちから。私はそのちからの恐ろしさも素晴らしさもまだ知らない。でも不老不死を選択すれば、夢にまでみた楽園をこの手で形創ることができる。

「正確には転生のちからだが。ある程度寿命がくれば新たな依代に転生することができる。そうだな…500年。…500年生きて、俺達を楽しませてくれるなら、楽園を創る手伝いをしてやろう」

「500…年」

まだ十数年しか生きていない私にとって、それはあまりに恐ろしい数字だった。既に不老不死であろう彼らには決してわからない恐怖。でも、もう迷わないと決めた。私は進みつづけるのだ。

「わかりました。お願いします」

「ニニちゃんは勇気あるねえ!」

「いえ……」

「500年ね…まあ、ほんのちょっとだけど暇つぶしにはなるか。で?あいつはどうするわけ?癪だけど、大陸ひとつ創るにも、私達のちからだけじゃ後一歩及ばないと思うよ?」

「まあたしかにー埋畄(うめる)ちゃんは倫理的だから」

また新しい名前。きっともうひとりの魔女だ。ショパンさんと志閃さんが渋るだけあって、相当手ごわい魔女なのだろう。不安がつのる。

「とりあえず交渉してくる。終わり次第ショパンに迎えに行かせるから待っていろ」

「はいはい」

「行くぞ」

「はい」

さきほどと同じように、ショパンさんのつくった裂け目を通じて風のように別世界を歩いた。そうしてしばらく、埋畄さんの住んでいた場所よりかなり明るい小高い丘の上で、ショパンさんが立ち止まる。

「ついたよ」

「ありがとうございます」

ふたりに続いて裂け目から出た。短く切り揃えられた芝生。レンガでできたちいさな家の周りにはたくさんの草花が生え、ニワトリが2羽歩いていた。煙突から白い煙が細くたなびいている。留守ではない。扉の前でレグルスさんが立ち止まり、無遠慮にノブを回した。がちゃり。

「埋畄、いるか」

開けられた隙間から、紅茶のいい香りがした。胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。唇を強く噛んで涙をこらえる。

「あら、レグルスさんったら相変わらずノックもしないのね」

埋畄さんは志閃さんと違い、少女らしさは残るものの、大人っぽい優しい声色をしていた。立ち入った部屋の中はきちんと整頓され、全体的に木でできた家具が多くオレンジで暖かい雰囲気。
そして声の主である埋畄さんは、明るいオレンジ中心の服と、ウェーブがかった髪をアップにしたところどころ黒のいりまじる髪型で、若々しく快活なイメージを彷彿とさせる人物だった。

さきほどまで怪訝そうだった表情は、私を見つけるとふわり柔らかそうなものに変わる。

「彼女ずいぶん疲れているみたい。さあ、一休みしなさい。紅茶をいれてあげましょう」

「え…と、」

急いでいるのではないかと、レグルスさんのほうをふりむく。が、レグルスさんは表情を一切変えることなく「少し休めばいい」とつぶやいた。


私がちいさな椅子に座っておいしい紅茶を飲んでいる間、レグルスさんとショパンさんは彼女に事情を話し、協力を求めた。しかし埋畄さんは難しい顔になってなかなか首を縦にふらなかった。

「道徳に反するわ。そんなことしたってなんの解決にもならない。あなたはアルカリに襲われて彼女のように生き残った人間を見つけるたび、こうして新しい大陸を創るつもり?」

「俺はただ娯楽が欲しいだけだ。飽きれば同じように大陸をつくるかもしれないし、煩わしければこんなに手間隙かけてお前たちにちからは借りない」

「だから生まれつきちからのある人って苦手なのよね…。融通がきかないったらないわ。まずその自分本意な考え方から理解できない」

「お前こそ反駁(はんばく)ばかりだな。少しちからを使えばこの女を助けることができるというのに、倫理だモラルだとほざいてなかなか使おうとしない。他人の願いを叶えるために手にしたちからをどうして今この女のために使えないんだ」

「倫理的じゃないって言ってるでしょ?私は彼女の未来まできちんと考えてるの。今まで普通に生きてきたちいさな女の子が、突然500年もひとりで生き続けなきゃならない苦しみがあなたにわかるの?」

「お前ら魔女のちからは、倫理の及ばない願いを叶える唯一のものだろうが。それに決めたのも選んだのもこの女だ。お前は勝手に解釈し、この女にとって『こうあるべきだ』と別の幸福を押しつけ、『望む幸福』を否定するのか」

埋畄さんが押し黙る。私にはよくわからない話しだった。でも、埋畄さんがほんとうに私のことを心配してくれているのだけはひしひしと伝わってきた。彼女はなんて優しい魔女なんだろう。
屈託も歪みもない、まっすぐな優しさ。清廉なそれにまた涙が溢れそうになる。だめだ、なんだかとても涙腺が弱くなってしまったみたい。涙がこぼれないように、私は残りの紅茶を勢いよく胃におさめた。

「…ねえ、ニニさん」

「はい」

突然声をかけられ驚く。心拍が早くなり、少しふるえる手で紅茶のカップを机に戻して、埋畄さんのほうへと体の向きを変えた。埋畄さんの目は真剣で、心配だという気持ちがひしひし伝わってくる。

「ほんとうにあなたはこれでいいの?あなたが選択し進む道の先には、あなた自身の幸福なんてないかもしれないのよ?」

その問い掛けは、自分の中で何度も何度も繰り返した。『自分の幸せより他人の幸せをとる』。それはあまりに傲慢で愚かで馬鹿げた選択だった。「それでも」私はおずおずと、しかしまっすぐ埋畄さんの目を見て声を出す。

「それでも私は進みます。お父さんもお母さんも、みんないなくなって、私にはもうなにも残ってない。もちろん自分の幸せだって。だったら、せめて他人の幸せに縋っていたいんです。私にはもう残ってない幸せを、せめてそっと、遠い場所で眺めていたいんです」

ぐっと、涙をこらえる。

「だから、私じゃなくていい、他人の幸せを少しでも生み出せるような、素敵な世界を創りたいなって、」

「………わかりました」

とうとう俯いてしまった私の頭を何度か撫でて、埋畄さんが立ち上がりレグルスさんとショパンさんに向き直った。

「彼女の願いの強さに負けました。炎の魔女である埋畄。あなた達にちからを貸しましょう」




そうして、埋畄さんレグルスさんショパンさん志閃さんの4人が、はじめ私達がこちらの世界へと移動してきた時にやってきた迷いの森に集まり、私を中心に円を描いて、各々複雑な呪文を唱えはじめた。

ぐぐぐと景色が歪みはじめる。徐々に森に風が吹き、私の体にも変化がおきる。肌がピリピリ痛む。重力が何倍になったのかという程、体が重い。熱い。痛い痛い痛い。怖い。

刹那、閃光。白い雷電と火炎が渦巻き私を飲み込んだ。意識はそこで途切れている。




「おい、起きろ」

「…ん」

何度か全身を揺すられるたび、徐々に頭が覚醒していく。ぼやけた視界。

「レグルスさん…?」

「いつまで寝ている。仕事だ」

「ここは」

「お前が元居た世界だ」

目の前に広がるのはなつかしい風景。ああ戻ってきたんだ。すべてが夢だったような、ぼんやりした気持ちのまま私はゆっくり立ち上がる。

「これからお前は長い時間をかけ、新しい大陸へと共に移住を望む人間を集めなければならない」

現実的な言葉に多少目が覚めた。そうか、私これからひとつの大陸をおさめなくちゃならないんだ。改めて自覚すれば、足元からすうっと寒気が襲ってくる。

「幸いこの世界に絶望する人間は数多く存在している。中間世界を見限り、お前について新たな世界を創りたいと望む者はたくさん現れるだろう」

「でも…どうやって…」

「幾つかそういった者の集まる村や街のリストをつくっておいた。お前はこれからその場所を周り、新しい世界へ来るよう説得するんだ」

「そんな…こんな小娘の世迷い事なんて、誰も耳をかたむけてくれるはずないじゃないですか!」

「なら、新しい世界を実際に見せてやればいい。お前が許可すれば、許可された人間はどこからでも新しい世界へと行き来することができる。物資などはしばらく中間世界のものを持ってきて使えばいい。あとはお前の采配次第だ」

あまりに唐突すぎる物言いに茫然とした。不安しかない。とにかく不安。不安不安。大丈夫なのか。私ひとりで。いや、きっと大丈夫なはず。だってもうやるしかない。

「退屈させるなよ」

レグルスさんは私の目を見て、少しだけ笑ったように思えた。




それから500年。新しい世界は『裏街』と名付けられ立派に発展した。
私はレグルスさんに言われた通り、様々な村や街を周り説得を続けた。最初はいぶかしげに私の話を聞いていた人達も、実際に裏街を見せると、誰もが大手を振って喜び移住を望んだ。法律や政治的なきめごとは、各村や街の村長や市長、あるいはそれなりの権力や人望のある人物を選抜して固めていった。ゆっくりだったが、裏街でも徐々にたくさんの野菜がとれるようになり、下水もつくられ衛生面でも安心して生活できるようになった。

数百年で街は5つに分裂し、それぞれ独自に発展を遂げて更に文明は発達した。私はいつのまにか『創造主』として人民に崇拝される存在になった。創造主は神と同義だとして、私よりいくらも頭のいい政治家が私を政治の舞台から引きずり落とした。

その間に私は何度も転生を繰り返し、自分が死ねない代わりに、他人の命で生死のなんたるかを学び続けた。私を崇拝する人民は『転生支持者』と名付けられ、反対に私を憎み忌み嫌う人民は『転生不支持者』と呼ばれるようになった。

私は私の思うすばらしい楽園を創りたかった。ただそれだけだったのに。どうだろう。戦争などはないものの、区間同士の差別や衝突は増え、南区に至っては無法地帯と化している。政治主権は実質大臣達が握り、私なんてもうただのお飾りでしかない。

約束の500年は過ぎた。もうこれ以上人民の命を奪い、反感や悲しみを生み出してまで転生を続けたくないと、死ぬことを願ったが、誰ひとりとしてそれを許してくれる者はいなかった。自ら命を絶っても、気づけばまた新たな命を礎に私は意地汚く生きている。地獄だった。


最近部屋でぼうっとする日が増えてきた。日がな一日窓の外を眺めているのだ。幼い頃夢見た世界と、この街はあまりに掛け離れている。どうして。

「どうだ?お前の創りあげた世界は居心地がいいか?」

突然背後から聞き覚えのある声がして、私はゆっくりふりむいた。昔のような衝撃はない。そこにはあの日となんら変わらないレグルスさんの姿。彼はスチールのキャビネットに腰をおろしてこちらを見ている。

「…………」

「昔居たあの世界で、あのまま死んでいたら幸せだったか?」

答えない。答えたくない。今の私を否定したくない。

「もう500年だ。あとはお前の好きに生きればいい。いや…死ねばいいの間違いか」

「わたくしは……」

ゆっくり口をひらく。でも言葉がでてこない。しばらく私の言葉を待っていたが、いっこうにしゃべらないので、代わりにレグルスさんが冷たい口調で舌を回した。

「お前はこの世界でも絶望しているんだな」

ガツンと頭を殴られたような気がした。涙がとまらない。床に、ドレスに、汚い汚いシミがつく。絞り出すように、声をあげる。

「わたくしは、間違っていたのですか…?」

「国民の前で同じことを問うてみればいい。中途半端な不老者の苦しみは、俺にも国民にも理解できない」

「…………」

「ただお前は、もう充分この世界のために生きたと思うがな」

ばさばさ。窓の外で鳥が飛んでいる。雨が降りそうだ。レグルスさんは遠い目で外を見た。それは私とは違う、生きている人間の目だった。


























(蛾黙の綾)

「生きすぎも困りものさ」
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