小話
◎アマービレ/ディーン/デルーカ/ロジェッタ
◎アマービレ視点
一番必要なモノ?
そんなの決まってるだろ。
「俺を殺す覚悟だ。」
異質なあんたによく似た糞餓鬼をブチ殺した昨日が還ってきません
「俺は、このカジノ街をいつか必ず手に入れる」
十代もいつの間に過ぎた相応を知らない俺の脳みそは、経験を重ねるにつれ、少しずつ確実に輪郭をあらわしはじめた"夢"とも"野望"とも似つかないセリフを、タバコの煙りとよく吐いた。
街の隅に追い込まれるよう建っているのは、それはそれはみすぼらしくちいさなビル。元は暴力団の運営する違法な金融会社だったらしいが、先日警察に家宅捜索され、見事暴力団は解体。
空き家になり、ちょうど活動拠点を探していた俺の元へその物件がみずから舞い込んできたというわけだ。
「汚いな…」
一歩入り口から中へ踏み込む。床には白い埃がつもり足跡がクッキリとできる。舞い上がった埃を直接吸わないよう袖で口元を覆ってみたが、あまり意味はなかったようで、たびたび俺は立ち止まりゴホゴホと咳込んだ。
中にはいってすぐ目の前に広がるホールは、学校の教室よりわずかばかり広いくらいで、壁は剥き出しのコンクリート。地下へと続くらしいちいさな扉は真っ二つにこわされ、天井には割れた照明器具がいくつもぶらさがったままだった。
木片や割れたガラスを踏みしめながら、ホールの左にある部屋へと足を運ぶ。そこはホールの1/4ほどの広さで、壁も扉もほかに比べ分厚い。
「いかにも"ワルイコトシテマシタ"って感じだな」
暮れかけた夏の暑い日ざしが、部屋にひとつだけあるちいさな窓から黒いスーツの裾を焼いた。
右のポケットにいれておいた新品のタバコを無造作に取り出し、残った地下へと続く扉に向け視線を移す。
ぽっかりとあいた扉の先。ホールやこの部屋と同じく照明器具はこわれ、夏なのにどこか肌寒そうな雰囲気を醸し出していた。
「いわくつきか?とんだサービス物件つかまされたもんだ」
俺は白々しくそう呟きながらタバコに火をつけ終えると、徐々に明度の落ちてきたホールへ背を向け、ゆっくりと歩きだす。
地下へと足を踏み入れる。階段が5段ほどあったが、存在の意義を思わず問いただしたくなるほど低い。前へ向き直る。先は見えない。
窓も排水溝もないじっとり冷えたコンクリートの箱。10歩と少し歩いた先、右側には『OWNER ROOM(オーナールーム)』と書かれた、外とは違いしっかりした木の扉がひとつ。対になるよう『STAFF ROOM(スタッフルーム)』とプラ板がうちつけられたスチール製の白い扉と、『TOILET(トイレ)』と書かれたグレーの扉。
トイレのそばには手洗い場もあったが、蛇口はめちゃくちゃに破壊され床一面水浸しだった。
「こりゃ修理代がかかるなあ」
横目でそれ等を眺めながら、靴の先で右の扉をゆっくりおしあける。
「ふうん…」
中は存外綺麗だった。部屋のすこし奥に、埃はかぶっていたが拭けば命を吹き返すであろう重厚な机。床にもシックな赤い絨毯。窓はなかったが、換気扇やシーリングファン(天井でくるくる回る扇風機のような物だ)、空調もしっかりしているらしい。
「早速明日にでも業者を呼んで綺麗にさせるか」
俺は満足気に笑い、もう吸えないタバコを足で踏みつけ、早速絨毯を汚した。
ワイワイ
ガヤガヤ
せまいせまいホールに、寿司詰め状態の客。ルーレット、バカラ、ポーカーにブラックジャック。
ホールの奥にあるちいさな扉の向こうでは、アングラカジノでしか実現しえないレートで以(もっ)て、今夜を楽しむVIP達。
顔なじみの富豪が店にやって来るたび、地下の事務所からホールへ足を運んで愛想を振り撒く。
「こんばんは、オーナー」
「××様の奥様ではないですか!お久しぶりですね、その後はいかがお過ごしですか」
「ここで勝ったお金で第3都市へ1ヶ月ほど旅行に行っていたの。これお土産よ」
「ありがとうございます」
「貴方のカジノハウス、お金持ちの中では大人気なんですってね。第3都市の友人も鼻息荒くして"ここに来ない富豪は本当の富豪じゃない!"なんて言っていたわよ」
「ああ、光栄です。ぜひそのご友人ともいらしてください。私達が全力をかけ最高の夜をご提供させていただきます。さあ外は夜でも暑かったことでしょう。すぐにお飲み物をご用意させていただきますので、そちらで休憩でも…」
「ほんと貴方って素敵ね。じゃあシャンペンをいただけるかしら」
「かしこまりました」
経営は順調だった。
順調すぎるほどに順調だった。
富豪達がステータスとしてこのカジノへ足を運び、金を落とす。カジノ街の隅で一夜にして莫大な金が飛び交い続ける。
だが、
「まだだ………」
地下の冷たいコンクリートに額を押しつけ、呪文のように俺はつぶやく。
「まだ天井は先にある…富豪だけじゃ足りない…もっと、狂った奴ら、」
「オーナーってあんた?」
不意打ちだった。
数少ないスタッフさえ地下へはいるためには無線で連絡させるこの店。ましてや一般人なんて。
しかし俺はカッとなった脳みそを瞬時に冷静にさせる。客が迷い込んだだけだろう。なら普通に対応すればいいだけのハナシだ。
「お客様、こちらはスタッフ以外立ち入り禁止ですので、」
営業スマイル。平常心。
何度も頭でそう呟き振り向く。
そこには萌黄色に近い緑の髪の男と、青みがかった灰色の髪の女が立っていた。
女の方はきちんとしているが、男の方はスーツを適当に着崩し、明らかにうちの店のドレスコードに違反している。こいつは客じゃない。
「お客様、当店のドレスコードはご存知でしょうか?」
「ドレスコードォ?アンタ目が悪いのか?ネクタイもスーツもしてきてるだろうが」
男が口角をあげ首を傾げる。
「ですがきちんと身なりを調えていただかなければ、店内の景観が乱れてしまいます」
「……だってよデルーカ」
「貴方そうやって注意されるの何度目なの?いい加減事前に規定くらい調べておきなさいな」
「裏カジノに規定もクソもあるか。笑わせんじゃねえ。おいアンタ」
「……はい」
"デルーカ"という名前に聞き覚えがあったが、思い出す前に男が話しかけてきたので、一旦思案を中断する。
「俺とゲームしようぜ」
「……………は?」
思いもよらぬセリフにマヌケな声がでたが、それすら気づかないくらい俺は驚いていた。男は俺の反応を見て満足げにポケットからタバコを取り出し、ゆったりした動作で火をつける。
「上にあるゲーム、アンタが好きな物を選んでくれていい。」
「ちょっと待て、なんで俺がお前と勝負しなくちゃいけないんだ」
「お客様に向かって"お前"か。いいねいいねぇ、裏カジノらしくなってきたんじゃねえの」
「は?」
「ディーン落ち着いて」
「………ディーン、…デルーカ?」
既視感。デジャヴュ。
『ディーン』『デルーカ』
ふたつの名前が頭の中でぐるぐる渦巻く。
「何?アンタ俺達の名前知ってんの?」
背ばかり高く少し痩せすぎであろう男の、鋭くひかる赤い瞳。黄緑の髪は左目が隠れアシンメトリー。無表情の女はビリヤード用のキューケースを肩にかけ、長い髪を背になびかせていた。
「…まあ、知らないでいてくれたほうが退屈しねェんだけど…で、勝負してくれんの?」
「俺は客とは勝負しないんだ。」
モヤモヤした気持ちを抱えたまま俺はそうつぶやく。俯く俺の耳に突然、心底おかしいというような引き攣った笑い声が聞こえた。顔を上げると、ディーンという男が目尻に涙をためながら笑っている。
「ハハ…なんだよアンタ、カジノやってて客と勝負ができない?とんだ臆病者もいたもんだな」
「…………俺は経営者だ。もうギャンブラーじゃない。いつまでもガキみたいに金に糸目つけず勝負なんてできない」
「ガキね…」
ぽつりそうつぶやくと、男が俺の方に歩みよってきて顔を思いきり近づけた。至近距離で見る赤い目は思考が読めない。
「でも、さっきひとりでブツブツ言ってた時のアンタの顔、完全にギャンブラーの顔だったぜ?それも、とびきりの。」
「………!」
「アンタは今、自分のすべてを賭け大博打をしてる。違うか?」
イライラした。知ったふうな口をきくなと、目の前の男の顔を殴りたくなった。足元できつく握られたこぶしにちからがはいる。
「多分アンタには、なにか叶えたい野望みたいなモンがあるんだろうが…今のまんまじゃ到底ムリ」
ピクリ。肩が震える。
「こんなお上品な富豪ばかりが集まったカジノなんかじゃ、金も地位も名声も"そこそこ"で、しょせん一流止まり」
「ディーン」
「悪いデルーカ。俺は今日この店のオーナーと勝負しに来たんだ。退屈なら先に帰ってくれていい」
「…じゃあ私はいつものお店でしばらくビリヤードでもしているわ。ごゆっくり」
デルーカと呼ばれた女が、ヒールの音を響かせながら優雅にホールへと消えた。後に残されたのは俺と男のみ。女の姿が見えなくなると男は不敵な笑みを浮かべ、ようやく俺から距離をとった。
「女はせっかちでいけねぇよなあ」
「………お前は」
「ん?」
「…お前はこの街を、カジノ街を手に入れたいと本気で望む奴を………馬鹿だと思うか?」
どうしてこんな見ず知らずの男に本音をさらしてしまったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、
「博打は馬鹿なヤツほど強いって、知らねぇの?」
そうやって子供みたいに笑う緑の男に、久しぶりに賭けてみたくなった。それだけは確かで。
その後部屋を貸し切り、男とポーカーをした。久しぶりに触るカード、熱い勝負。体内の血が沸騰して全身を焼く。部屋ごと揺さぶられるような錯覚に陥り頭がくらくらした。何度も足元を掬われては体勢を立て直す。気を抜けば後ろ首をかかれる恐怖。
だが負けた。
男はイカサマ師だったのだ。
少し前にカジノ街中を騒がせていた、ディーン&デルーカのディーン。負けても納得だ。
体の熱を冷ますため、とうに閉店した店の外に出て夜風に吹かれる。夏の夜のカジノ街は生温い風で充たされ、無性に新鮮な空気を貪りたくなった。
隣で座ったまま同じく夜風に髪をなびかせるディーンは、地下で出会ってからタバコを2箱も消化し、俺に追加をねだった。俺のぶんのタバコを数本分け与えてやる。
「なあアンタ…」
「アマービレでいい」
「…じゃあアマービレ、お前この街を手に入れたいって本気で思ってるんだよな」
「なんだよ。勝負し終えてから馬鹿にする予定だったのか?これだからイカサマ師は…」
「違ぇよ。本気なら…紹介したい奴がいるんだけど」
「紹介したい奴?」
ディーンは早くも2本目のタバコに火をつけようとしていた。
「ああ。俺にイカサマを教えてくれたイカサマ師でギャンブラー」
「俺に店捨ててイカサマ師にでもなれっていうのか」
「お前人のハナシは最後まできけよ。そいつ、裏の方ではかなり名前の知れたギャンブラーで、そういう経営者にも繋がりもってるみたいなんだよな」
「……………」
「まあ独学もいいことだけど、たまには偵察がてら同業者にハナシ聞いてみるのも…な?」
「………とりあえず連絡先だけ聞いておこう。気が向いたら連絡してみるさ」
俺はそう言ってメモ帳を取り出し、ディーンの口から発された11桁の数字を乱雑に書き写した。そうして陽が昇りはじめた頃ようやくディーンと別れ、俺も太陽から逃げるように暗い店内へと滑りこんだ。
それから一週間と五日。
ディーンに教えてもらった数字の書かれた紙切れは、依然スーツの右ポケットにつっこまれたタバコの空箱の中で沈黙をつらぬいていた。
冷静に考えれば考えるほど正常な判断からどんどん遠ざかっていくような感覚。
いつもと同じように事務所でVIPルームの予約リストを几帳面に整理し、顔なじみの客に挨拶をするためホールへとおもむく。規定通りのドレスコードに身を包んだ富豪達へ、終わることのない口上と世辞の応酬…
経営は相変わらず順調だった。
売り上げは評判とともに増え続け、ブランドとしての店の価値も格段に高まった。そして気づけば俺のカジノは、富豪のたまり場になっていた。
「富豪のたまり場…か」
そして一週間と六日目の夜。
俺は事務所の椅子に腰をおろし、紙切れと受話器を手に持ってようやくその"イカサマ師兼ギャンブラー"に電話をかけたのだ。
『どこかで道を違(たが)わなければならないことなんて、最初からわかっていたはずじゃないか』
『どこかで一度狂わなければ、俺より狂った街の頂点になんて立てるはずがないじゃないか』
プルルル プルルル
掠れた耳障りな電子音。ギリ、握りしめられた受話器から嫌な音がする。
ガチャリ、
息が止まる。
「はいもしもし」
受話器から聞こえたのは、柔らかい男の声だった。声色は明るかったが、ディーン同様感情が全く掴めずどこかふわふわしている。
「ディーンという男に、貴方の電話番号を教えていただいたんだが…」
「…ああ。ディーン君の友人か!話は聞いているよ、はじめまして」
ディーン"くん"。あまりにもあの男には似合わない単語が突然でてきて、思わず吹き出しそうになった。男は俺がディーンの知り合いだとわかると一気に声の調子をあげる。
「僕なんかじゃ力不足かもしれないけれど、教えられるだけ教えさせてもらうから、よろしく頼むよ」
「…こちらこそ」
「明日の早朝は空いてる?」
「早朝?」
「カジノ街の人間に夜アポイントメントを取るなんて野暮だからね。さすがに6時までには閉店してるでしょう」
「ええ。そうですね」
「じゃあ明日の6時に、ラストエンペラーで」
「……は?」
"ラストエンペラー"
その単語が急に耳にはいり思わず聞き返してしまう。
ラストエンペラーはカジノ街の頂点として遥か昔から店を構え、名を馳せてきた巨大カジノ。『カジノ街の夜はラストエンペラーのためにある』という言葉すら、大袈裟ではない。どうしてそんな場所に…?
「あれ、ディーン君から聞いてなかったのかな」
「なにをです」
どうも俺は混乱しているらしい。ディーンは想像以上に適当な男だったみたいだ。考えて舌打ち。かすかに息を吸う音が聞こえて、体中の筋肉に力がはいる。
「一応僕、ラストエンペラーのオーナーなんだけど」
受話器を、落としそうになった。電話先の男の言葉が頭の中をぐるぐるまわる。ラストエンペラーのオーナー?そんな男がこんなどこにでもあるようなカジノのオーナーの俺に教える事なんてあるのか。
「あなた…が…」
「うん。じゃあ明日、遅れないようにね」
ガチャリ
硬質な音の後、終話を告げる不快なメロディ。
俺はしばらく立ち尽くしたまま。気づけば時計はあと3周ほどで、6を指そうとしていた。
カジノ街の夏は暑い。
室外機から吹き出る温風に、生ごみと吐瀉物の臭い。少し湿った空気は味でもあるかのような粘ついた質量で俺の全身をねぶった。
街の中心部に近い大通り。大通りの手前にある『Hat』というカジノは、街で2番目の集客数を誇る。そしてHatの向かい、そこに巨大カジノ『ラストエンペラー』はあった。威風堂々とした面構えに自然と息を呑む。
「やあ、きみがアマービレ君?」
しばらくぼーっと店を眺めていると、背後から突然声をかけられた。驚き振り向く。
そこには背の高い、小綺麗な男が立っていた。俺の名前を呼んだその声は、昨日受話器越しに聞いた男のソレとまったく同じだった。
俺がゆっくりうなずくと、男は少し皺のよった目尻をくしゃりとひっぱり、優しげな笑顔を見せる。いかにも人がよさそうだ。だが、ギャンブルの世界では人のよさそうな奴ほど賢くて危険。気を抜いてはいけない。
「はじめまして、ラストエンペラーのオーナーのアルカデルトです」
「はじめまして」
友好的に手を伸ばす男に応えるよう、こちらも手を伸ばし軽く挨拶をすませる。手を離すや男は俺の全身をじろじろ眺め、うーんと唸った。
「なんですか」
「アマービレ君は凄く几帳面そうだね。プライドが高くて、失敗をなにより嫌う。僕に電話をかけてくるまでもさぞかし時間がかかった事だろう」
大人しそうな雰囲気のくせ、ずけずけした物言いをするこの男に、不信感と苛立ちが募る。俺は暇じゃないんだ。さっさと経営術なりなんなり教えて帰してくれ。
ラストエンペラーへ向かう男の後ろを、少し距離をおいてついてゆく。音もなく開いた数ある扉のうちのひとつ。中へはいり早速俺を迎えた豪華絢爛な調度品は、照明に照らされずとも本来の輝きをこちらへ見せつけてくるかのようにピカピカと光っている。
いくつもあるゲーム台やルーレットは几帳面に並べられ、今夜の出番を今か今かと待ち構えているようにも見えた。
その横を通り、何個か扉を抜け、最終的に事務所らしき部屋へ通される。やはりここも、俺の事務所とは違いかなり広い。中央にしつらえられたモスグリーンのソファへ座るよう促され、俺は遠慮がちに腰をおろした。
「コーヒーがいい?それとも優雅に紅茶かな」
「コーヒーでいい…です」
「敬語じゃなくてもいいよ。堅苦しいのは嫌いでね」
あはは、そう笑いながら男は部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーからカップへ、どす黒い中身を移した。
そうしてようやく机を挟むよう向かい合わせに男が座り、俺の目の前の机へカップを、自分のぶんは手にもったままシュガーポットから角砂糖を4つつまんで投げ入れる。
「さて、アマービレ君はこの街を手に入れたいんだったよね」
「…そのためにはあんたを潰さなきゃならないんだろう?」
「潰す…?」
「集客数も知名度も売り上げも地位も、すべてあんたから奪わなくちゃ、俺はこの街の頂点に立てない」
胸の内を吐露する。
「アマービレ君」
「なんだ」
「カジノ街でオーナーとして生き残るには、なにが一番必要だと思う?」
唐突な質問。そんなの簡単だ。
「強欲さ」
ずず…カップの中身を汚らしく啜りながら、男は笑う。
「おしいね。確かに生き残るには強欲さも必要だろう。でも違う。的外れだ」
「じゃあなにが一番必要なんだ」
不快な気持ちを隠さず問いただした。ハッキリしない人間は嫌いなんだ。そんな俺の心中を知ってか知らずか、男は優雅な動作でコーヒーを啜り続ける。
「人を殺す覚悟だ」
唐突に発されたその言葉。柔らかい声色と違い、男の目は背筋が凍るほど真剣だった。
殺す?俺が?誰を?
「ちょっと待て。あんたは街のトップに立つため俺に人殺しをしろっていうのか」
「物分かりがいいねぇ。アマービレ君は見た目通り頭がきれる」
「…わかってない。もっとわかりやすく説明しろ。俺は人殺しの方法を教わるためにあんたに会いに来たんじゃない」
机に上半身を乗り上げ問いただす俺の顔を、変わらず感情の読めない目で男は見る。
「じゃあもっとわかりやすく言おう。街のトップになるには邪魔な人間を邪魔にならないよう消す必要がある」
「…どうして」
「だって邪魔だろ?街のトップになるには足を引っ張ったり道を阻む者に容赦はしちゃダメなんだ。情けや気の緩み、勝手な信頼はアマービレ君の野望の足枷になる。一掃するには一番手っ取り早い方法だと思うんだけど」
「もし!…もし、警察にバレたらどうするんだ!街のトップどころか二度と街の土すら踏めなくなるだろ…」
男はため息をついた。
「そんな"もしも"ばかりでよく街のトップになりたいなんて言えるもんだね。驚いたよ」
「慎重にいくことだって大事だ!」
「ギャンブルに慎重もクソもない。どこかで覚悟を決め、道をはずれる必要がある。ギャンブルに必要なのは"覚悟"だ」
俺のコーヒーはすでに冷めきって、溶け残った砂糖のクズが黒い海でぷかぷか泳いでいる。
「止める覚悟、進む覚悟。この街で生き残るには、いずれにせよ覚悟を決めるしかない」
「………覚悟、」
「つまるところアマービレ君は、負けてすべて失うのが怖いんだね。何年もかけ手に入れた地位や名声、それがたった一度の賭けで駄目になる。むしろマイナスへ急降下。人間としては当たり前の感情だ」
男の言葉ひとつひとつが、硬直した俺の全身に突き刺さり熱を呼ぶ。
「でもいつかは人間を捨てなくちゃ。アマービレ君が踏み入ろうとしている世界はその甘えが命取りなんだよ。保身も甘えもなにもかも捨てて、全身で走り抜けなくちゃいけない。目を逸らしても負け。勝負の途中で逃げるなんて言語道断」
「……………」
「他人の命がきみの進む道になる。きみは今日、自分の人生を、命を賭けるんだ。まあ……その覚悟があるならの話だけどね」
それから1時間が経った。
恥ずかしい話俺は1時間放心していただけで、しらぬ間にそれだけ時間が経っていたと言った方が正しい気がする。
その間男は事務所の大きな机で電話をしていた。親しげな声で言葉を交わす相手がいるとはいいことだ。別段羨ましくもなんともないが。
俺は男が息をついたタイミングを見計らいソファからゆっくり立ち上がり、机の前まで歩いた。俺に気づいた男が軽く電話の相手へ言葉を発して電話を切り、出会った時に見せた同じ笑顔でもって首をかしげる。
「やあ、気分はどうかな」
「………最悪だ」
「あはは…で?どうする?」
男の目が瞬時に変わる。
もうなにも思わない。
俺は、
「俺は必ずこの街のトップになる。欲しいものは相手を殺してでも手に入れてみせる」
その言葉が魔法の呪文だったかのように、長い間胸の奥でわだかまっていた何かが一瞬で消えうせた。体が軽い。全身が熱い。
「そう。それがギャンブラーの、きみのあるべき目だ」
男が心底嬉しそうに、口角をあげる。
4月にはいってまもない、初夏のある朝の日の事だった。
男から教わるモノすべて、なにもかもが俺にとっては未知の世界だった。まさか自分が人殺しをする事になるなんて。誰が生きていくなかで、自身がそんな道に反れるなどと思うだろうか。
男の講義は2週間に渡り行われ、その中でも殺したあとの遺体の処理は4日間念入りに教わった。男はこの2週間、一貫して世間話をするよう享受に講じていたため、最終日には人殺しの方法を教わっているんだという罪悪感や後ろめたさはほとんど消え去っていた。
そうして最終日、男と別れた後、男に言われた言葉を粘着質な空気と共にぽつりと食む。
「今俺はゲーム台に立ったばかり。一度の負けは死。勝ち続ける事だけを考えろ。自分以外は敵。信じられるのは俺だけだ」
それから二年が経った。初めて人を殺してからも二年が経った。
あれから俺は、大なり小なり頭上を阻む者なら躊躇なくその命を奪い、隠蔽や口止めを繰り返しながら玉座への階段を駆け上がり続けた。
到達地点である巨大カジノ『ラストエンペラー』は、相変わらずあの男のちからで以て街の頂点に鎮座している。
あとわずかだ。
もう少し、もう少しで手が届く。
気づけば俺の店は、街で二番目にちからを持っていた『Hat』を越え、"ラストエンペラーすら殺せるのではないか"と揶揄まじりに噂されるようにまでなっていた。
だが、その噂はアッサリ現実のものとなる。
ラストエンペラーが唐突に店を畳んだのだ。
なんの前触れもなく街から姿を消した"王者"。ギャンブラー達はただひたすら肩を落とし嘆き悲しんだ。
そして、それから1週間後。
茫然自失の俺の店に、突然"男"がやってきた。俺は目を落としていた書類を机へたたきつけ、男に詰め寄る。
「あんたっ…!」
「やあアマービレ君。街で一番になったのに、浮かない顔だね」
「当たり前だ!あんたをきちんと潰してからじゃないと後味が悪すぎる…」
「はは、やっぱりきみは相変わらず真面目なんだ」
男は二年の月日のうち、どこか老け込んでいた。目尻に寄った皺は、笑うと以前にも増してしわくちゃになる。
「ところでアマービレ君」
そう思い出したように男はつぶやくと、おもむろにおおきなショルダーバッグから紙束を取り出した。それとちいさな…これは、
「……印鑑?」
あたり、男はまたくしゃりと笑ってそれを俺に差し出す。わけがわからない。これはなんなんだ。
「…一体」
「ラストエンペラーの遺品、とでも言った方が格好がつくかな。土地を売った金といままでの売上金が全額はいってる」
「どうしてそんなものを俺に」
「お祝いだよ。」
「……お祝い?」
ますます意味がわからなかった。どうしてこの男が、後釜にわざわざお祝いを渡す必要がある。
眉間に皺をよせる俺の顔を見て、男は印鑑と紙束片手に身振り手振りで、そしてどこか嬉しげに語り始めた。
「きみはディーン君と同じくらい素晴らしいギャンブラーだった。それにきみはこのギャンブルに人生を賭けていたんだろ?こんなはした金じゃ到底割に合わないけど、きみにはこれを受け取る権利と価値がある。僕にはそう見える」
押しつけられるソレ。
俺の両腕にソレが収まった事を確認した男は満足げに頷き、くるりと軽くターン。来た時と同じように何気ない足取りで帰路につこうとした。
俺はただ両腕の紙束を眺める。
腹の底でわけのわからない塊が突然膨張し始めて息がつまった。心拍が、呼吸が乱れて、部屋中がぐるぐる回る。
そして扉が閉まりかけ、
「おい!!」
テーブルに紙束を無造作に投げ捨て、俺は男を追いかけた。扉を勢いよくひらくと、なにもかもわかっていたかのような顔で男が笑っていた。
ああ、これだからイカサマ師は嫌いなんだ。
「なにかな」
「………あんたを」
「うん」
「本当は、いつかあんたを殺さなきゃならないのが怖かった」
「…うん」
「あれだけ覚悟を決めたはずなのに、あんたに近づけば近づくほど覚悟が揺らいだ」
男は黙って俺の顔を見る。
「だから…ラストエンペラーがなくなった時、どこか心の奥で安心してる自分が居て、無茶苦茶腹が立った。」
「……………」
「街のトップに立ったのに、なにか違うんだ。決定的に足りない。胸の中がポッカリあいて、なにもする気が起きなくて…」
「……つまり、アマービレ君は」
「あんたを殺さなくちゃ。俺は本当の意味でこの街のトップに立てない。」
情けない話、涙がでそうだった。特に両親とも仲が良かったわけでもなく、都会の荒波に揉まれ、誰かに優しくしてもらった記憶もない。
この男はそんな俺の中で、いつのまにか体をぶちやぶりそうなほど、大きな存在になっていたのだ。
男はただひたすら優しげに笑う。
額には震える黒い銃口。
店には誰もいない。まだ朝の6時だ。
「泣いてるじゃないか」
「……あんた、怖くないのか」
「うーん…なんていうか、人を殺しすぎて、死に対する感覚がマヒしてるのかも。はは、」
「…俺もいつか、そうなるのかな」
「さあどうだろう。アマービレ君は臆病者だから」
安全装置は外した。俺がこの引き金を引けば、男の額に一瞬で風穴があき、死んでしまうのに。どうしてそんな悠長に会話ができるんだ。
「まあどっちみち死ぬつもりだったし。ところでアマービレ君」
「、なんだ」
「ひとつだけ、最後に受け取ってもらいたかったプレゼントが残ってるんだけど」
「?」
含みをもたせるような口ぶり。これから打ち明ける秘密を暴露したくて仕方がない、相手の反応が気になってどうしようもない幼い子供みたいな。
「ラストエンペラーを……俺の人生を、もらってくれないだろうか」
その唐突な提案に思わず銃を降ろしてしまう。
「あんたの店…?」
「そう。あの店は俺の大切なひとのそのまた大切なひとが遺していった店なんだ。だから、俺の代でついやしたくない。わがままな願いかもしれないけど…」
そう語る男の目は、今まで見たことがないくらい幸せそうだった。俺は深呼吸を繰り返す。そうしてまた、男の額に向け銃を構える。
もう手は震えていない。
「わかった。今日からこの店はラストエンペラーだ。俺があんたの代わりに……いや、あんたのぶんも、この店と生きるよ」
「…ありがとう」
カア、カア
カラスが鳴いた。
俺は死ぬまで、目の前のこの顔を忘れない。
生まれ変わった『ラストエンペラー』に、ギャンブラー達はこぞって押しかけた。街の端、健全な店に擬態した俺のカジノ。アングラとして、あの男が経営していた頃より金の出入りが激しくなったソコは、いつのまにかギャンブラーの聖地として、そして墓碑として街に鎮座した。
トップに立ってからも、何度か人は殺した。俺を玉座から引きずり落とそうとする経営者などこの街にはごまんといる。
そんな荒んだ生活があまりに長く続きすぎ、俺は心身共にボロボロになっていった。男の遺したモノの重さは想像の遥か彼方。気を抜けば店ごと自滅する寸前。導火線は24時間燻っている。
「なあディーン…」
あれから店の常連としてプライベートでもつるむようになったイカサマ師のディーン。相談とも言えない弱音を吐く場所はもうここにしかない。
「俺は間違っていないだろうか」
「…間違って?なにを?」
「あの男の期待に応えられているのだろうか…これからもおなじように、人を殺し続けても大丈夫なんだろうか」
カラン。と、甘いカルバドスが鳴る。ディーンはタバコを口にくわえたまま煙を吐く。
「俺とお前じゃ持ってるカードが違う。捨てるも生かすもお前次第さ」
ニヒルに歪められた口端。
あの男と重なって目頭が熱くなった。『きのせいだ』言い聞かせるように俺はグラスをあおる。
鼻を通る林檎の香りがグラスの中の氷を溶かすように、俺の胸の中の冷たい塊も、ゆっくりと暖まる感覚がした。
「アマービレお兄ちゃん」
「なんだ?」
25歳になった俺は、相変わらずこの店と仲良くやっている。『カジノ街の王者』。そう呼ばれるようになってから俺を玉座から引きずり落とそうとする人間も減って、今では人を手に掛ける事はほとんどない。
歳の離れた俺の従兄弟であるアイレンの幼なじみであり、俺の妹のような存在でもあるロジェッタは、カジノ街でカジノの経営者を目指しているらしい。
空いた時間を見つけては俺の元へ経営のいろはを習いに来る彼女は、純粋でどこまでも真っ白だった。
事務所にしつらえてあるソファへ腰を降ろし、質問を続ける彼女。
ふとロジェが、どこか不安そうなそれでいて幼い好奇心に駆られ我慢できないというような、そんな目を見せた。昔の自分と重なり笑いそうになる。
「あのね、」
「ああ」
「カジノ街でオーナーとして生き残るために一番必要なものって…なに?」
ロジェのすぐ後ろで、あの男が笑っている。
ああわかっているさ。俺はもう、昔のような臆病者じゃない。
「俺を殺す覚悟だ」
(異質なあんたによく似た糞餓鬼をブチ殺した昨日が還ってきません)
そう、臆病者は死んだよ。
俺はもう後ろをふり向かない。
◎アマービレ視点
一番必要なモノ?
そんなの決まってるだろ。
「俺を殺す覚悟だ。」
異質なあんたによく似た糞餓鬼をブチ殺した昨日が還ってきません
「俺は、このカジノ街をいつか必ず手に入れる」
十代もいつの間に過ぎた相応を知らない俺の脳みそは、経験を重ねるにつれ、少しずつ確実に輪郭をあらわしはじめた"夢"とも"野望"とも似つかないセリフを、タバコの煙りとよく吐いた。
街の隅に追い込まれるよう建っているのは、それはそれはみすぼらしくちいさなビル。元は暴力団の運営する違法な金融会社だったらしいが、先日警察に家宅捜索され、見事暴力団は解体。
空き家になり、ちょうど活動拠点を探していた俺の元へその物件がみずから舞い込んできたというわけだ。
「汚いな…」
一歩入り口から中へ踏み込む。床には白い埃がつもり足跡がクッキリとできる。舞い上がった埃を直接吸わないよう袖で口元を覆ってみたが、あまり意味はなかったようで、たびたび俺は立ち止まりゴホゴホと咳込んだ。
中にはいってすぐ目の前に広がるホールは、学校の教室よりわずかばかり広いくらいで、壁は剥き出しのコンクリート。地下へと続くらしいちいさな扉は真っ二つにこわされ、天井には割れた照明器具がいくつもぶらさがったままだった。
木片や割れたガラスを踏みしめながら、ホールの左にある部屋へと足を運ぶ。そこはホールの1/4ほどの広さで、壁も扉もほかに比べ分厚い。
「いかにも"ワルイコトシテマシタ"って感じだな」
暮れかけた夏の暑い日ざしが、部屋にひとつだけあるちいさな窓から黒いスーツの裾を焼いた。
右のポケットにいれておいた新品のタバコを無造作に取り出し、残った地下へと続く扉に向け視線を移す。
ぽっかりとあいた扉の先。ホールやこの部屋と同じく照明器具はこわれ、夏なのにどこか肌寒そうな雰囲気を醸し出していた。
「いわくつきか?とんだサービス物件つかまされたもんだ」
俺は白々しくそう呟きながらタバコに火をつけ終えると、徐々に明度の落ちてきたホールへ背を向け、ゆっくりと歩きだす。
地下へと足を踏み入れる。階段が5段ほどあったが、存在の意義を思わず問いただしたくなるほど低い。前へ向き直る。先は見えない。
窓も排水溝もないじっとり冷えたコンクリートの箱。10歩と少し歩いた先、右側には『OWNER ROOM(オーナールーム)』と書かれた、外とは違いしっかりした木の扉がひとつ。対になるよう『STAFF ROOM(スタッフルーム)』とプラ板がうちつけられたスチール製の白い扉と、『TOILET(トイレ)』と書かれたグレーの扉。
トイレのそばには手洗い場もあったが、蛇口はめちゃくちゃに破壊され床一面水浸しだった。
「こりゃ修理代がかかるなあ」
横目でそれ等を眺めながら、靴の先で右の扉をゆっくりおしあける。
「ふうん…」
中は存外綺麗だった。部屋のすこし奥に、埃はかぶっていたが拭けば命を吹き返すであろう重厚な机。床にもシックな赤い絨毯。窓はなかったが、換気扇やシーリングファン(天井でくるくる回る扇風機のような物だ)、空調もしっかりしているらしい。
「早速明日にでも業者を呼んで綺麗にさせるか」
俺は満足気に笑い、もう吸えないタバコを足で踏みつけ、早速絨毯を汚した。
ワイワイ
ガヤガヤ
せまいせまいホールに、寿司詰め状態の客。ルーレット、バカラ、ポーカーにブラックジャック。
ホールの奥にあるちいさな扉の向こうでは、アングラカジノでしか実現しえないレートで以(もっ)て、今夜を楽しむVIP達。
顔なじみの富豪が店にやって来るたび、地下の事務所からホールへ足を運んで愛想を振り撒く。
「こんばんは、オーナー」
「××様の奥様ではないですか!お久しぶりですね、その後はいかがお過ごしですか」
「ここで勝ったお金で第3都市へ1ヶ月ほど旅行に行っていたの。これお土産よ」
「ありがとうございます」
「貴方のカジノハウス、お金持ちの中では大人気なんですってね。第3都市の友人も鼻息荒くして"ここに来ない富豪は本当の富豪じゃない!"なんて言っていたわよ」
「ああ、光栄です。ぜひそのご友人ともいらしてください。私達が全力をかけ最高の夜をご提供させていただきます。さあ外は夜でも暑かったことでしょう。すぐにお飲み物をご用意させていただきますので、そちらで休憩でも…」
「ほんと貴方って素敵ね。じゃあシャンペンをいただけるかしら」
「かしこまりました」
経営は順調だった。
順調すぎるほどに順調だった。
富豪達がステータスとしてこのカジノへ足を運び、金を落とす。カジノ街の隅で一夜にして莫大な金が飛び交い続ける。
だが、
「まだだ………」
地下の冷たいコンクリートに額を押しつけ、呪文のように俺はつぶやく。
「まだ天井は先にある…富豪だけじゃ足りない…もっと、狂った奴ら、」
「オーナーってあんた?」
不意打ちだった。
数少ないスタッフさえ地下へはいるためには無線で連絡させるこの店。ましてや一般人なんて。
しかし俺はカッとなった脳みそを瞬時に冷静にさせる。客が迷い込んだだけだろう。なら普通に対応すればいいだけのハナシだ。
「お客様、こちらはスタッフ以外立ち入り禁止ですので、」
営業スマイル。平常心。
何度も頭でそう呟き振り向く。
そこには萌黄色に近い緑の髪の男と、青みがかった灰色の髪の女が立っていた。
女の方はきちんとしているが、男の方はスーツを適当に着崩し、明らかにうちの店のドレスコードに違反している。こいつは客じゃない。
「お客様、当店のドレスコードはご存知でしょうか?」
「ドレスコードォ?アンタ目が悪いのか?ネクタイもスーツもしてきてるだろうが」
男が口角をあげ首を傾げる。
「ですがきちんと身なりを調えていただかなければ、店内の景観が乱れてしまいます」
「……だってよデルーカ」
「貴方そうやって注意されるの何度目なの?いい加減事前に規定くらい調べておきなさいな」
「裏カジノに規定もクソもあるか。笑わせんじゃねえ。おいアンタ」
「……はい」
"デルーカ"という名前に聞き覚えがあったが、思い出す前に男が話しかけてきたので、一旦思案を中断する。
「俺とゲームしようぜ」
「……………は?」
思いもよらぬセリフにマヌケな声がでたが、それすら気づかないくらい俺は驚いていた。男は俺の反応を見て満足げにポケットからタバコを取り出し、ゆったりした動作で火をつける。
「上にあるゲーム、アンタが好きな物を選んでくれていい。」
「ちょっと待て、なんで俺がお前と勝負しなくちゃいけないんだ」
「お客様に向かって"お前"か。いいねいいねぇ、裏カジノらしくなってきたんじゃねえの」
「は?」
「ディーン落ち着いて」
「………ディーン、…デルーカ?」
既視感。デジャヴュ。
『ディーン』『デルーカ』
ふたつの名前が頭の中でぐるぐる渦巻く。
「何?アンタ俺達の名前知ってんの?」
背ばかり高く少し痩せすぎであろう男の、鋭くひかる赤い瞳。黄緑の髪は左目が隠れアシンメトリー。無表情の女はビリヤード用のキューケースを肩にかけ、長い髪を背になびかせていた。
「…まあ、知らないでいてくれたほうが退屈しねェんだけど…で、勝負してくれんの?」
「俺は客とは勝負しないんだ。」
モヤモヤした気持ちを抱えたまま俺はそうつぶやく。俯く俺の耳に突然、心底おかしいというような引き攣った笑い声が聞こえた。顔を上げると、ディーンという男が目尻に涙をためながら笑っている。
「ハハ…なんだよアンタ、カジノやってて客と勝負ができない?とんだ臆病者もいたもんだな」
「…………俺は経営者だ。もうギャンブラーじゃない。いつまでもガキみたいに金に糸目つけず勝負なんてできない」
「ガキね…」
ぽつりそうつぶやくと、男が俺の方に歩みよってきて顔を思いきり近づけた。至近距離で見る赤い目は思考が読めない。
「でも、さっきひとりでブツブツ言ってた時のアンタの顔、完全にギャンブラーの顔だったぜ?それも、とびきりの。」
「………!」
「アンタは今、自分のすべてを賭け大博打をしてる。違うか?」
イライラした。知ったふうな口をきくなと、目の前の男の顔を殴りたくなった。足元できつく握られたこぶしにちからがはいる。
「多分アンタには、なにか叶えたい野望みたいなモンがあるんだろうが…今のまんまじゃ到底ムリ」
ピクリ。肩が震える。
「こんなお上品な富豪ばかりが集まったカジノなんかじゃ、金も地位も名声も"そこそこ"で、しょせん一流止まり」
「ディーン」
「悪いデルーカ。俺は今日この店のオーナーと勝負しに来たんだ。退屈なら先に帰ってくれていい」
「…じゃあ私はいつものお店でしばらくビリヤードでもしているわ。ごゆっくり」
デルーカと呼ばれた女が、ヒールの音を響かせながら優雅にホールへと消えた。後に残されたのは俺と男のみ。女の姿が見えなくなると男は不敵な笑みを浮かべ、ようやく俺から距離をとった。
「女はせっかちでいけねぇよなあ」
「………お前は」
「ん?」
「…お前はこの街を、カジノ街を手に入れたいと本気で望む奴を………馬鹿だと思うか?」
どうしてこんな見ず知らずの男に本音をさらしてしまったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、
「博打は馬鹿なヤツほど強いって、知らねぇの?」
そうやって子供みたいに笑う緑の男に、久しぶりに賭けてみたくなった。それだけは確かで。
その後部屋を貸し切り、男とポーカーをした。久しぶりに触るカード、熱い勝負。体内の血が沸騰して全身を焼く。部屋ごと揺さぶられるような錯覚に陥り頭がくらくらした。何度も足元を掬われては体勢を立て直す。気を抜けば後ろ首をかかれる恐怖。
だが負けた。
男はイカサマ師だったのだ。
少し前にカジノ街中を騒がせていた、ディーン&デルーカのディーン。負けても納得だ。
体の熱を冷ますため、とうに閉店した店の外に出て夜風に吹かれる。夏の夜のカジノ街は生温い風で充たされ、無性に新鮮な空気を貪りたくなった。
隣で座ったまま同じく夜風に髪をなびかせるディーンは、地下で出会ってからタバコを2箱も消化し、俺に追加をねだった。俺のぶんのタバコを数本分け与えてやる。
「なあアンタ…」
「アマービレでいい」
「…じゃあアマービレ、お前この街を手に入れたいって本気で思ってるんだよな」
「なんだよ。勝負し終えてから馬鹿にする予定だったのか?これだからイカサマ師は…」
「違ぇよ。本気なら…紹介したい奴がいるんだけど」
「紹介したい奴?」
ディーンは早くも2本目のタバコに火をつけようとしていた。
「ああ。俺にイカサマを教えてくれたイカサマ師でギャンブラー」
「俺に店捨ててイカサマ師にでもなれっていうのか」
「お前人のハナシは最後まできけよ。そいつ、裏の方ではかなり名前の知れたギャンブラーで、そういう経営者にも繋がりもってるみたいなんだよな」
「……………」
「まあ独学もいいことだけど、たまには偵察がてら同業者にハナシ聞いてみるのも…な?」
「………とりあえず連絡先だけ聞いておこう。気が向いたら連絡してみるさ」
俺はそう言ってメモ帳を取り出し、ディーンの口から発された11桁の数字を乱雑に書き写した。そうして陽が昇りはじめた頃ようやくディーンと別れ、俺も太陽から逃げるように暗い店内へと滑りこんだ。
それから一週間と五日。
ディーンに教えてもらった数字の書かれた紙切れは、依然スーツの右ポケットにつっこまれたタバコの空箱の中で沈黙をつらぬいていた。
冷静に考えれば考えるほど正常な判断からどんどん遠ざかっていくような感覚。
いつもと同じように事務所でVIPルームの予約リストを几帳面に整理し、顔なじみの客に挨拶をするためホールへとおもむく。規定通りのドレスコードに身を包んだ富豪達へ、終わることのない口上と世辞の応酬…
経営は相変わらず順調だった。
売り上げは評判とともに増え続け、ブランドとしての店の価値も格段に高まった。そして気づけば俺のカジノは、富豪のたまり場になっていた。
「富豪のたまり場…か」
そして一週間と六日目の夜。
俺は事務所の椅子に腰をおろし、紙切れと受話器を手に持ってようやくその"イカサマ師兼ギャンブラー"に電話をかけたのだ。
『どこかで道を違(たが)わなければならないことなんて、最初からわかっていたはずじゃないか』
『どこかで一度狂わなければ、俺より狂った街の頂点になんて立てるはずがないじゃないか』
プルルル プルルル
掠れた耳障りな電子音。ギリ、握りしめられた受話器から嫌な音がする。
ガチャリ、
息が止まる。
「はいもしもし」
受話器から聞こえたのは、柔らかい男の声だった。声色は明るかったが、ディーン同様感情が全く掴めずどこかふわふわしている。
「ディーンという男に、貴方の電話番号を教えていただいたんだが…」
「…ああ。ディーン君の友人か!話は聞いているよ、はじめまして」
ディーン"くん"。あまりにもあの男には似合わない単語が突然でてきて、思わず吹き出しそうになった。男は俺がディーンの知り合いだとわかると一気に声の調子をあげる。
「僕なんかじゃ力不足かもしれないけれど、教えられるだけ教えさせてもらうから、よろしく頼むよ」
「…こちらこそ」
「明日の早朝は空いてる?」
「早朝?」
「カジノ街の人間に夜アポイントメントを取るなんて野暮だからね。さすがに6時までには閉店してるでしょう」
「ええ。そうですね」
「じゃあ明日の6時に、ラストエンペラーで」
「……は?」
"ラストエンペラー"
その単語が急に耳にはいり思わず聞き返してしまう。
ラストエンペラーはカジノ街の頂点として遥か昔から店を構え、名を馳せてきた巨大カジノ。『カジノ街の夜はラストエンペラーのためにある』という言葉すら、大袈裟ではない。どうしてそんな場所に…?
「あれ、ディーン君から聞いてなかったのかな」
「なにをです」
どうも俺は混乱しているらしい。ディーンは想像以上に適当な男だったみたいだ。考えて舌打ち。かすかに息を吸う音が聞こえて、体中の筋肉に力がはいる。
「一応僕、ラストエンペラーのオーナーなんだけど」
受話器を、落としそうになった。電話先の男の言葉が頭の中をぐるぐるまわる。ラストエンペラーのオーナー?そんな男がこんなどこにでもあるようなカジノのオーナーの俺に教える事なんてあるのか。
「あなた…が…」
「うん。じゃあ明日、遅れないようにね」
ガチャリ
硬質な音の後、終話を告げる不快なメロディ。
俺はしばらく立ち尽くしたまま。気づけば時計はあと3周ほどで、6を指そうとしていた。
カジノ街の夏は暑い。
室外機から吹き出る温風に、生ごみと吐瀉物の臭い。少し湿った空気は味でもあるかのような粘ついた質量で俺の全身をねぶった。
街の中心部に近い大通り。大通りの手前にある『Hat』というカジノは、街で2番目の集客数を誇る。そしてHatの向かい、そこに巨大カジノ『ラストエンペラー』はあった。威風堂々とした面構えに自然と息を呑む。
「やあ、きみがアマービレ君?」
しばらくぼーっと店を眺めていると、背後から突然声をかけられた。驚き振り向く。
そこには背の高い、小綺麗な男が立っていた。俺の名前を呼んだその声は、昨日受話器越しに聞いた男のソレとまったく同じだった。
俺がゆっくりうなずくと、男は少し皺のよった目尻をくしゃりとひっぱり、優しげな笑顔を見せる。いかにも人がよさそうだ。だが、ギャンブルの世界では人のよさそうな奴ほど賢くて危険。気を抜いてはいけない。
「はじめまして、ラストエンペラーのオーナーのアルカデルトです」
「はじめまして」
友好的に手を伸ばす男に応えるよう、こちらも手を伸ばし軽く挨拶をすませる。手を離すや男は俺の全身をじろじろ眺め、うーんと唸った。
「なんですか」
「アマービレ君は凄く几帳面そうだね。プライドが高くて、失敗をなにより嫌う。僕に電話をかけてくるまでもさぞかし時間がかかった事だろう」
大人しそうな雰囲気のくせ、ずけずけした物言いをするこの男に、不信感と苛立ちが募る。俺は暇じゃないんだ。さっさと経営術なりなんなり教えて帰してくれ。
ラストエンペラーへ向かう男の後ろを、少し距離をおいてついてゆく。音もなく開いた数ある扉のうちのひとつ。中へはいり早速俺を迎えた豪華絢爛な調度品は、照明に照らされずとも本来の輝きをこちらへ見せつけてくるかのようにピカピカと光っている。
いくつもあるゲーム台やルーレットは几帳面に並べられ、今夜の出番を今か今かと待ち構えているようにも見えた。
その横を通り、何個か扉を抜け、最終的に事務所らしき部屋へ通される。やはりここも、俺の事務所とは違いかなり広い。中央にしつらえられたモスグリーンのソファへ座るよう促され、俺は遠慮がちに腰をおろした。
「コーヒーがいい?それとも優雅に紅茶かな」
「コーヒーでいい…です」
「敬語じゃなくてもいいよ。堅苦しいのは嫌いでね」
あはは、そう笑いながら男は部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーからカップへ、どす黒い中身を移した。
そうしてようやく机を挟むよう向かい合わせに男が座り、俺の目の前の机へカップを、自分のぶんは手にもったままシュガーポットから角砂糖を4つつまんで投げ入れる。
「さて、アマービレ君はこの街を手に入れたいんだったよね」
「…そのためにはあんたを潰さなきゃならないんだろう?」
「潰す…?」
「集客数も知名度も売り上げも地位も、すべてあんたから奪わなくちゃ、俺はこの街の頂点に立てない」
胸の内を吐露する。
「アマービレ君」
「なんだ」
「カジノ街でオーナーとして生き残るには、なにが一番必要だと思う?」
唐突な質問。そんなの簡単だ。
「強欲さ」
ずず…カップの中身を汚らしく啜りながら、男は笑う。
「おしいね。確かに生き残るには強欲さも必要だろう。でも違う。的外れだ」
「じゃあなにが一番必要なんだ」
不快な気持ちを隠さず問いただした。ハッキリしない人間は嫌いなんだ。そんな俺の心中を知ってか知らずか、男は優雅な動作でコーヒーを啜り続ける。
「人を殺す覚悟だ」
唐突に発されたその言葉。柔らかい声色と違い、男の目は背筋が凍るほど真剣だった。
殺す?俺が?誰を?
「ちょっと待て。あんたは街のトップに立つため俺に人殺しをしろっていうのか」
「物分かりがいいねぇ。アマービレ君は見た目通り頭がきれる」
「…わかってない。もっとわかりやすく説明しろ。俺は人殺しの方法を教わるためにあんたに会いに来たんじゃない」
机に上半身を乗り上げ問いただす俺の顔を、変わらず感情の読めない目で男は見る。
「じゃあもっとわかりやすく言おう。街のトップになるには邪魔な人間を邪魔にならないよう消す必要がある」
「…どうして」
「だって邪魔だろ?街のトップになるには足を引っ張ったり道を阻む者に容赦はしちゃダメなんだ。情けや気の緩み、勝手な信頼はアマービレ君の野望の足枷になる。一掃するには一番手っ取り早い方法だと思うんだけど」
「もし!…もし、警察にバレたらどうするんだ!街のトップどころか二度と街の土すら踏めなくなるだろ…」
男はため息をついた。
「そんな"もしも"ばかりでよく街のトップになりたいなんて言えるもんだね。驚いたよ」
「慎重にいくことだって大事だ!」
「ギャンブルに慎重もクソもない。どこかで覚悟を決め、道をはずれる必要がある。ギャンブルに必要なのは"覚悟"だ」
俺のコーヒーはすでに冷めきって、溶け残った砂糖のクズが黒い海でぷかぷか泳いでいる。
「止める覚悟、進む覚悟。この街で生き残るには、いずれにせよ覚悟を決めるしかない」
「………覚悟、」
「つまるところアマービレ君は、負けてすべて失うのが怖いんだね。何年もかけ手に入れた地位や名声、それがたった一度の賭けで駄目になる。むしろマイナスへ急降下。人間としては当たり前の感情だ」
男の言葉ひとつひとつが、硬直した俺の全身に突き刺さり熱を呼ぶ。
「でもいつかは人間を捨てなくちゃ。アマービレ君が踏み入ろうとしている世界はその甘えが命取りなんだよ。保身も甘えもなにもかも捨てて、全身で走り抜けなくちゃいけない。目を逸らしても負け。勝負の途中で逃げるなんて言語道断」
「……………」
「他人の命がきみの進む道になる。きみは今日、自分の人生を、命を賭けるんだ。まあ……その覚悟があるならの話だけどね」
それから1時間が経った。
恥ずかしい話俺は1時間放心していただけで、しらぬ間にそれだけ時間が経っていたと言った方が正しい気がする。
その間男は事務所の大きな机で電話をしていた。親しげな声で言葉を交わす相手がいるとはいいことだ。別段羨ましくもなんともないが。
俺は男が息をついたタイミングを見計らいソファからゆっくり立ち上がり、机の前まで歩いた。俺に気づいた男が軽く電話の相手へ言葉を発して電話を切り、出会った時に見せた同じ笑顔でもって首をかしげる。
「やあ、気分はどうかな」
「………最悪だ」
「あはは…で?どうする?」
男の目が瞬時に変わる。
もうなにも思わない。
俺は、
「俺は必ずこの街のトップになる。欲しいものは相手を殺してでも手に入れてみせる」
その言葉が魔法の呪文だったかのように、長い間胸の奥でわだかまっていた何かが一瞬で消えうせた。体が軽い。全身が熱い。
「そう。それがギャンブラーの、きみのあるべき目だ」
男が心底嬉しそうに、口角をあげる。
4月にはいってまもない、初夏のある朝の日の事だった。
男から教わるモノすべて、なにもかもが俺にとっては未知の世界だった。まさか自分が人殺しをする事になるなんて。誰が生きていくなかで、自身がそんな道に反れるなどと思うだろうか。
男の講義は2週間に渡り行われ、その中でも殺したあとの遺体の処理は4日間念入りに教わった。男はこの2週間、一貫して世間話をするよう享受に講じていたため、最終日には人殺しの方法を教わっているんだという罪悪感や後ろめたさはほとんど消え去っていた。
そうして最終日、男と別れた後、男に言われた言葉を粘着質な空気と共にぽつりと食む。
「今俺はゲーム台に立ったばかり。一度の負けは死。勝ち続ける事だけを考えろ。自分以外は敵。信じられるのは俺だけだ」
それから二年が経った。初めて人を殺してからも二年が経った。
あれから俺は、大なり小なり頭上を阻む者なら躊躇なくその命を奪い、隠蔽や口止めを繰り返しながら玉座への階段を駆け上がり続けた。
到達地点である巨大カジノ『ラストエンペラー』は、相変わらずあの男のちからで以て街の頂点に鎮座している。
あとわずかだ。
もう少し、もう少しで手が届く。
気づけば俺の店は、街で二番目にちからを持っていた『Hat』を越え、"ラストエンペラーすら殺せるのではないか"と揶揄まじりに噂されるようにまでなっていた。
だが、その噂はアッサリ現実のものとなる。
ラストエンペラーが唐突に店を畳んだのだ。
なんの前触れもなく街から姿を消した"王者"。ギャンブラー達はただひたすら肩を落とし嘆き悲しんだ。
そして、それから1週間後。
茫然自失の俺の店に、突然"男"がやってきた。俺は目を落としていた書類を机へたたきつけ、男に詰め寄る。
「あんたっ…!」
「やあアマービレ君。街で一番になったのに、浮かない顔だね」
「当たり前だ!あんたをきちんと潰してからじゃないと後味が悪すぎる…」
「はは、やっぱりきみは相変わらず真面目なんだ」
男は二年の月日のうち、どこか老け込んでいた。目尻に寄った皺は、笑うと以前にも増してしわくちゃになる。
「ところでアマービレ君」
そう思い出したように男はつぶやくと、おもむろにおおきなショルダーバッグから紙束を取り出した。それとちいさな…これは、
「……印鑑?」
あたり、男はまたくしゃりと笑ってそれを俺に差し出す。わけがわからない。これはなんなんだ。
「…一体」
「ラストエンペラーの遺品、とでも言った方が格好がつくかな。土地を売った金といままでの売上金が全額はいってる」
「どうしてそんなものを俺に」
「お祝いだよ。」
「……お祝い?」
ますます意味がわからなかった。どうしてこの男が、後釜にわざわざお祝いを渡す必要がある。
眉間に皺をよせる俺の顔を見て、男は印鑑と紙束片手に身振り手振りで、そしてどこか嬉しげに語り始めた。
「きみはディーン君と同じくらい素晴らしいギャンブラーだった。それにきみはこのギャンブルに人生を賭けていたんだろ?こんなはした金じゃ到底割に合わないけど、きみにはこれを受け取る権利と価値がある。僕にはそう見える」
押しつけられるソレ。
俺の両腕にソレが収まった事を確認した男は満足げに頷き、くるりと軽くターン。来た時と同じように何気ない足取りで帰路につこうとした。
俺はただ両腕の紙束を眺める。
腹の底でわけのわからない塊が突然膨張し始めて息がつまった。心拍が、呼吸が乱れて、部屋中がぐるぐる回る。
そして扉が閉まりかけ、
「おい!!」
テーブルに紙束を無造作に投げ捨て、俺は男を追いかけた。扉を勢いよくひらくと、なにもかもわかっていたかのような顔で男が笑っていた。
ああ、これだからイカサマ師は嫌いなんだ。
「なにかな」
「………あんたを」
「うん」
「本当は、いつかあんたを殺さなきゃならないのが怖かった」
「…うん」
「あれだけ覚悟を決めたはずなのに、あんたに近づけば近づくほど覚悟が揺らいだ」
男は黙って俺の顔を見る。
「だから…ラストエンペラーがなくなった時、どこか心の奥で安心してる自分が居て、無茶苦茶腹が立った。」
「……………」
「街のトップに立ったのに、なにか違うんだ。決定的に足りない。胸の中がポッカリあいて、なにもする気が起きなくて…」
「……つまり、アマービレ君は」
「あんたを殺さなくちゃ。俺は本当の意味でこの街のトップに立てない。」
情けない話、涙がでそうだった。特に両親とも仲が良かったわけでもなく、都会の荒波に揉まれ、誰かに優しくしてもらった記憶もない。
この男はそんな俺の中で、いつのまにか体をぶちやぶりそうなほど、大きな存在になっていたのだ。
男はただひたすら優しげに笑う。
額には震える黒い銃口。
店には誰もいない。まだ朝の6時だ。
「泣いてるじゃないか」
「……あんた、怖くないのか」
「うーん…なんていうか、人を殺しすぎて、死に対する感覚がマヒしてるのかも。はは、」
「…俺もいつか、そうなるのかな」
「さあどうだろう。アマービレ君は臆病者だから」
安全装置は外した。俺がこの引き金を引けば、男の額に一瞬で風穴があき、死んでしまうのに。どうしてそんな悠長に会話ができるんだ。
「まあどっちみち死ぬつもりだったし。ところでアマービレ君」
「、なんだ」
「ひとつだけ、最後に受け取ってもらいたかったプレゼントが残ってるんだけど」
「?」
含みをもたせるような口ぶり。これから打ち明ける秘密を暴露したくて仕方がない、相手の反応が気になってどうしようもない幼い子供みたいな。
「ラストエンペラーを……俺の人生を、もらってくれないだろうか」
その唐突な提案に思わず銃を降ろしてしまう。
「あんたの店…?」
「そう。あの店は俺の大切なひとのそのまた大切なひとが遺していった店なんだ。だから、俺の代でついやしたくない。わがままな願いかもしれないけど…」
そう語る男の目は、今まで見たことがないくらい幸せそうだった。俺は深呼吸を繰り返す。そうしてまた、男の額に向け銃を構える。
もう手は震えていない。
「わかった。今日からこの店はラストエンペラーだ。俺があんたの代わりに……いや、あんたのぶんも、この店と生きるよ」
「…ありがとう」
カア、カア
カラスが鳴いた。
俺は死ぬまで、目の前のこの顔を忘れない。
生まれ変わった『ラストエンペラー』に、ギャンブラー達はこぞって押しかけた。街の端、健全な店に擬態した俺のカジノ。アングラとして、あの男が経営していた頃より金の出入りが激しくなったソコは、いつのまにかギャンブラーの聖地として、そして墓碑として街に鎮座した。
トップに立ってからも、何度か人は殺した。俺を玉座から引きずり落とそうとする経営者などこの街にはごまんといる。
そんな荒んだ生活があまりに長く続きすぎ、俺は心身共にボロボロになっていった。男の遺したモノの重さは想像の遥か彼方。気を抜けば店ごと自滅する寸前。導火線は24時間燻っている。
「なあディーン…」
あれから店の常連としてプライベートでもつるむようになったイカサマ師のディーン。相談とも言えない弱音を吐く場所はもうここにしかない。
「俺は間違っていないだろうか」
「…間違って?なにを?」
「あの男の期待に応えられているのだろうか…これからもおなじように、人を殺し続けても大丈夫なんだろうか」
カラン。と、甘いカルバドスが鳴る。ディーンはタバコを口にくわえたまま煙を吐く。
「俺とお前じゃ持ってるカードが違う。捨てるも生かすもお前次第さ」
ニヒルに歪められた口端。
あの男と重なって目頭が熱くなった。『きのせいだ』言い聞かせるように俺はグラスをあおる。
鼻を通る林檎の香りがグラスの中の氷を溶かすように、俺の胸の中の冷たい塊も、ゆっくりと暖まる感覚がした。
「アマービレお兄ちゃん」
「なんだ?」
25歳になった俺は、相変わらずこの店と仲良くやっている。『カジノ街の王者』。そう呼ばれるようになってから俺を玉座から引きずり落とそうとする人間も減って、今では人を手に掛ける事はほとんどない。
歳の離れた俺の従兄弟であるアイレンの幼なじみであり、俺の妹のような存在でもあるロジェッタは、カジノ街でカジノの経営者を目指しているらしい。
空いた時間を見つけては俺の元へ経営のいろはを習いに来る彼女は、純粋でどこまでも真っ白だった。
事務所にしつらえてあるソファへ腰を降ろし、質問を続ける彼女。
ふとロジェが、どこか不安そうなそれでいて幼い好奇心に駆られ我慢できないというような、そんな目を見せた。昔の自分と重なり笑いそうになる。
「あのね、」
「ああ」
「カジノ街でオーナーとして生き残るために一番必要なものって…なに?」
ロジェのすぐ後ろで、あの男が笑っている。
ああわかっているさ。俺はもう、昔のような臆病者じゃない。
「俺を殺す覚悟だ」
(異質なあんたによく似た糞餓鬼をブチ殺した昨日が還ってきません)
そう、臆病者は死んだよ。
俺はもう後ろをふり向かない。