小話

◎ミズラート/百鬼
◎ミズラート視点
◎軽い血表現注意



旦那様は酷く恐ろしいお方だ。
ただ単に感情を激しく表へ出して他人を罵るワケではなく、ゆるくつりあげた口端の奥、薄く開かれた目の中で、私みたいなクズを値踏みし取捨択一を繰り返す。
自分にとって必要ない物ならその場で切り捨て、たびたび私に死体の片づけをさせた。命の無い、がらくただけの重みを両腕に感じる時、私はいつも思う。

『これがもし自分だったら』。

この行為の繰り返しの末旦那様に選ばれた人間は、輝かしい舞台に縋る権利を得る。選ばれた彼らにはたったひとつの望み、『生』への渇望しかない。旦那様にはソレを与えてやれる力があった。だから死に追い立てられた人間は必ずここへやってくるのだ。

かけら程しかない生に取り縋るみじめな人間の上で恍惚の表情をうかべる旦那様は、そこいらの女より幾らも色っぽく、私が出会ってきたどんな男より獰猛で自分に忠実だった。
あの笑顔をみているだけで全身が硬直し、呼吸すら忘れてしまいそうになる。長い睫毛の奥で煌々(こうこう)とかがやきを放つ赤い瞳には、何かとんでもない魔力か、果ては呪いさえかけられそうな淀みがたしかにあった。






0.32の離脱







そんな旦那様と私は、浜千鳥のすぐ横に建つ瓦屋根の小さな一軒家に住んでいる。旦那様に突然身を買われ与えられた、5畳もないちいさな物置が私の部屋。私物など一文無しだった自分には当然なく、汚れきった着物が数枚、たたんで物置のカドに置かれているだけだ。

そんな肩身のせまい私の一日は、旦那様の朝餉(あさげ)をつくることから始まる。旦那様は和食も洋食もどちらもいけるが、なんとなくパンよりお米やおみそ汁の方が雰囲気的にも合っている気がするので、この家に来てからずっと、朝は和食しか作っていない。
やがて屋敷中に味噌のいい香りがただよってくると、まるで好物を嗅ぎつけた子供のように「今日はなんだ」と寝所(しんしょ)から起き上がってくる。寝癖も直さないまま目をこすり、ゆったり欠伸をする旦那様は、普段とは違い随分幼く見えた。

今日は、浜千鳥の常連でもある老練なおじい様が、「妻から」とおすそ分けしてくださった合わせ味噌で作ったおみそ汁。具はお豆腐と細切りにした玉ねぎ、そしてワカメ。


顔を洗いに洗面所へと旦那様が姿を消したので、いまのうちにお椀へ鍋の中のおみそ汁を入れてしまおうと、時間が経ち沈澱してしまった味噌の濃い部分におたまをさしいれた。するとそこから、まるで海底の柔らかい砂底に足を下ろしたような、茶色い砂煙が一瞬で立ち上り、煙幕みたく鍋全体をつつみこんだ。


午前9時、旦那様が店をあけるために家を出るので、先日たんす屋で新調した橡(つるばみ)の羽織りに、薄縹(うすはなだ)の綺麗な着物を用意した。帯は樺色と黒の市松模様。その新品の着物達は、旦那様によく似合っていて本当に素敵だった。

旦那様が家を出てすぐに、私は掃除を始める。しかし出入りを禁止されている部屋が無数にあるので、掃除にあまり時間はとられない。そして朝餉につかった食器を台所で洗っているときだった。

「ミズラート!」

店の方から私の名を呼ぶ声がした。私はすぐに水道の水を止めて割烹着を脱ぎ、店へ急ぐ。

「お呼びでしょうかァ」

店の入口とは対面にある裏口から中に入り、部屋へと続く扉ののれんからひょこりと顔をだす。
店には既に、暇を持て余した『見物客』達が、おのおの花札を楽しんでいる姿がみられた。
この店に来る人間の大半は、旦那様と同じ温い賭博に飽きた、極論でいう『勝ち組』達だった。若い時分に稼いだありあまる金をどう使うかより、自分よりも下の人間と激烈な勝負を繰り返す方が楽しい。
まぁ、大抵の『見物客達』はどこかのお偉いさんや重要な役職についた、ただ単に金の使い道を考えあぐねているだけの悪趣味な奴らばかりなので、その辺のクズとたいして変わりは無い。ひたすら保身を優先し、旦那様とクズとの駆け引きを見て酒を楽しむだけだ。

旦那様は見物客達の事も酷く見下していたが、「何事にも傍観者は必要だ」とも言っていた。臆病な金持ち達は娯楽で金を生む。生活費は金持ち達に工面させているそうだ。ほんとうに旦那様は、自分の為に他人を使う事がお上手だわ。


「しばらくここに座ってろ」

旦那様が自分の右後ろの床をキセルで叩いた。

「お着物、着替えた方がよろしいんじゃ…」

「いい。適当に胸元でもはだけさせときゃ、馬鹿なら食いつく」

そうですかと呟き、思い切って素肌を晒す。見物客達の視線が一気に集中して、安いバーのストリッパーにでもなったような気分だった。

旦那様は無表情で開かない戸を見つめている。くちもとから薄く紫煙を吐き、あくびを噛み殺す事なく2度繰り返した。
私はというと冷たい木床に素足を広げているせいか、どんどん床に体温を奪われ、さっきからふるえが止まらない。

「だだだ旦那様ぁ」

「あ?」

「寒くて死にそうですゥ」

「死ぬなら別の部屋で死んでくれ。片づけが面倒だ」

「そんな薄情なァ…」

そんな事をしていると

ガラリ、

突然戸が開かれた。
建てつけが悪い為に、薄いガラスがガチャガチャとやかましい。

店内に入ってきた男は、一度私の姿を視線にとめると、物珍しそうに見物客達や内装を見回し、ぞうりを脱いでずかずかこちらに歩みやってきた。
若いのかそうじゃないのかイマイチ判断のつかない男の顔は、いたる所に深い皺が寄り、フケにまみれたボサボサの髪は女の様に背中の肩甲骨のあたりまで伸びきっている。薄く茶色い布切れ(着物だろう)を一枚だけ羽織り、浅黒い頬や鼻、冷風にさらされた指先や膝はあかぎれ、真っ赤になっていた。

私でもわかる。いや、私だからわかる。
この男は駄目だ。
彼はいますぐここから全力で逃げるべきだ。ここには彼の求める『生』などない。

しかし男は迫真の演技で旦那様の足元に縋った。視線はもちろん、ちらちらと私の胸元。
旦那様はキセルを口にはさんだまま男を見ている。

「あんたが浜千鳥の百鬼か!?」

「ああ」

「お願いだ、勝負してくれ!エルセクレートって知ってるだろう?あそこの狐みたいなディーラーに全財産むしり取られちまって…」

「狐……あぁ」

狐みたいなディーラー。ピンときた。私も一度勝負してボロ負けしたことがある。たしかリボンなんとかいう名前だった気が。
妙に攻撃的で、心理戦を必要とする勝負に、まるで予想のつかない手ばかりだしてくるので、どうにも反撃できなかった記憶がある。
男は尚も続けた。

「あんたに勝てば、人生やり直せるだけの金がもらえるって聞いてきたんだ!」

「……………」

「なあ、勝負してくれ!俺はこんな底辺はいずり回ってるような男じゃない…次は絶対勝てるはずなんだよ!」

旦那様はキセルを私に渡し、紫煙を吐く。そして男に赤い目を向け、すぅと細めた。自身の左に置かれていた刀をそっとつかむ。旦那様が立ち上がったのにつられ、男も立ち上がった。背は旦那様より少し高いくらいか。
首をかしげて旦那様が口をひらく。

「そうか、次は勝てるのか」

「…あ、ああ!!だから勝負を…」

「面白く無ェ」

ポツリと呟き、男の主張を断絶する様、旦那様は目にも止まらぬ早さで鞘から刀身を抜いた。
瞬きを一度。気づけば目の中には、驚いた表情の男と、男から吹き出る血飛沫を浴びながら笑う旦那様が立っていた。
ああ、新しい着物だったのに!

「なにが次は勝てるだ。ゴミ虫の癖に希望なんか持ってんじゃねえよ」

「…な……ぁ…あ゛」

「俺と勝負がしたいなら生きる事しか考えるな。死ぬ事を恐れろ。未来を語るのはそれからだ」

そう言って旦那様はフッと息を吐き、もう一度男を斬った。痛みに歪んだ男の顔、自身の血液の上でのたうちまわる様は、陸地に打ち上げられた魚のようだ。
旦那様は苦しむ男に顔を近づける。そしてすぐ隣で片膝をつき、更に握った右手の刀を男の腹へ深く突き立てた。

男にしか見えない旦那様の顔。
きっと笑っているんだろうな。

「クズにすらなりきれなかったお前は俺みたいな男に殺されて幸せだな。ほら、見物客に挨拶しろよ。"お楽しみいただけましたか?"って」

「あ、あ゛ぁがあ゛あ゛あ゛」

「クズでもないお前は、こういうやりかたでしか他人を楽しませる事ができない。まっとうしろ。浜千鳥は冷やかし御免なんだよ」

「う゛、!………!!…………」

うなり声を上げて、ビクン!と男の体が痙攣した。しかし、そのあといくら旦那様が刀を動かしても男は一切反応しなくなった。
パックリ開いた腹から、血や脂でずるずるになった刀身を抜く。

「…死んだか。おいミズラート、片づけとけ」

「はァい……」

これから死体の片づけか…めんどうくさい作業を想像してため息がでた。そして血のべったりついた羽織りを脱ぎ、タオルで肌を拭いている旦那様の横を過ぎて、大柄だが痩せて骨張った男を奥にある解体部屋へ連れて行こうとしたときだった。


ガラガラガラ!!

店にいる全員の視線が、開いた戸に再び注がれる。

若い、男だった。

旦那様と同じ、ギラギラした瞳が、落ち窪んだ目元で鈍く光っている。やつれ、汚れ、怪我した体。
彼は息も絶え絶え中に入ってきた。
床に横たえたままの死体に目もくれず、ピチャピチャ血だまりを踏み鳴らし旦那様の前まで来ると、一言。

「勝負を……してくれ…」

血を拭き終わった旦那様は、彼の顔を下から見上げ口角を上げた。

「ようこそ、浜千鳥へ」
























(0.32の離脱)

生と死はいつだって紙一重で、
誰ひとり予想もしない冷たさと
不快な速さを保ったまま、
順番が来るまで僕らを楽しませる。


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