世界観、その他設定

グロワートは、南区のとあるちいさな借家に両親と住んでいました。

グロワートの父親は南区で結婚詐欺師をしていました。しかし、詐欺相手から手に入れた莫大なお金はほとんどが道楽に消え、グロワートと母親に渡る生活費は雀の泪。家にも月に一度お金を渡すために帰ってくるだけで、貧窮(ひんきゅう)は増すばかりです。家庭を顧みない父親はふたりを苦しめましたが、まだちいさかったグロワートを食べさせていくには些細な額でもお金が必要だったため、母親は涙を飲み必死に働きました。

そんなある日のことでした。父親が突然詐欺相手の女性と、お金がはいっていた通帳を持って蒸発してしまったのです。

しかし収入の大部分が絶たれてしまった母親はそれでもグロワートを必死に育てました。でも、疲労は気持ちだけでどうにかできるものではありませんでした。母親はとうとう病に倒れ、勤めていた先で働くことができなくなり職を失いました。

入院するお金も通院するお金もなかったグロワート達。母親は、病に苦しみながらも尚薄い布団の中で内職をして、得たお金はすべてグロワートのために費やしました。当然体調は良くなるはずもなく、悪化の一途を辿っていきました。



その頃から、まだ幼く生活能力のないグロワートの元へ、頻繁に叔父が訪ねてくるようになりました。僅かな睡眠時間でも重要な彼女を何度も起こし、叔父はグロワートを養子にしたいと言ってくるのです。そしてとうとう母親は衰弱し、グロワートを残したまま、亡くなってしまいました。

結局、引き取り手のなかったグロワートは、叔父の思惑通り、北区へと養子として引き取られることになりました。

叔父は実の息子を病で早くに亡くし、グロワートの叔母である奥さんも事故で亡くしていたため、天涯孤独の身でした。
養子として迎えられ新たな生活をはじめて数ヶ月、叔父はまるでほんとうの息子のようにグロワートを可愛がりました。必要なものも、そうでないものもたくさん買い与え、痩せてみすぼらしかったグロワートの体は見る影もなく、年相応の、いえ、それ以上に美しく端正な少年の姿へと変わっていきました。

そして叔父の元へやってきて数年。その悲劇は、いつもよりすこし冷え込んだ冬のある夜に起こりました。


深く眠りに落ちたグロワートの、整理された部屋に、ひとりの人間が息を潜め足を踏み入れたのです。

その影は音を殺しながら寝息を立てるグロワートのそばまで歩み寄ると、突然布団を剥ぎ取り、グロワートに"さるぐつわ"を噛ませ、まだ頭が覚醒しないため抵抗できない細い手足へときつく縄をかけました。

ぼんやり霞んだ視界のその目と鼻の先にあったのは、下品に昂揚した、そう、まるで発情したケモノのような叔父の顔でした。
叔父は必死に抵抗するグロワートを更に自らの手でおさえつけ、殴り、薬を打ち、何度も犯しました。
そして叔父が自分の体から薄汚いソレを抜き、後始末もせず拘束すら外さないまま部屋から姿を消して数時間。カーテンから漏れる陽射しが強いものに変わってようやく、今が昼なのだとグロワートは気がついたのでした。



機は熟したとばかりに本性を現した叔父。叔父は、ちいさな子供や、特に少年に対して性的興奮を感じる性的倒錯者でした。まだ幼かった実の息子を犯し、それを知った妻を手に掛け、犯し続けるうち衰弱して死んでしまった息子を病と偽り火に焼(く)べて、当人はつくられた悲劇の渦中ですら虎視眈々と次のターゲットを探し続けていたのです。

それからグロワートは、何度も叔父の気のむくままに犯され、最低限の食事のみを与えられ生かされました。体は薬物でボロボロになり、今が朝なのか夜なのか夏なのか冬なのかすらわからなくなりました。なにもかもが遠い、まるでブラウン管越しに見る終わりのないドラマのようにすら思えました。



そんなある日のことです。いつものように薬を打たれ、腰を打ち付けられるたびに昏睡と覚醒の間をいったりきたりしながら、グロワートは終わりを待ちました。自分のものではない体液にまみれ、ようやく叔父のモノが体内から抜かれると、虚脱感に全身が包まれました。すると叔父が、グロワートの腕と足を結んでいた縄を唐突に解いたのです。
替え時だと思ったのか薬を打ったから大丈夫だと思ったのか、定かではないですが、それでもその一瞬がグロワートと叔父の人生を大きく変えたことだけは確かでした。

グロワートの体から一気に虚脱感が消え、ただ体の赴くままに、壁に掛けてあった一本のライフル銃を手にとって、喚き散らす叔父の顔面に向け引き金を引きました。何度も。何度も。何度も。弾がなくなって、引き金を引く感覚が軽くなっても、グロワートは叔父の顔から銃口をそらしませんでした。
グロワートが抵抗したり逃げようとした時に使おうとしていたであろうそのライフルが、グロワートの命を救ったのです。



さあ、どれくらい経ったのでしょう。
さっきまでカーテンの隙間から部屋を照らしていたオレンジ色の夕日は既になく、あるのは細く、刺すような鋭い月明かりだけ。
傷と白濁と汗と血にまみれ、肩で息をし続けるグロワート。目の前には凄惨(せいさん)な、ひとりの人間の頭のない死体。真っ赤な肉片の散らばる広い広い部屋。

ふっと体からちからが抜け、その場にへたりこみます。グロワートは泣きながら震えました。喚きながら頭を掻きむしりました。狂ったように、いえ、もう狂ってしまったのかもしれません。

気がついた時には、ままならない体のまま知らない場所でうずくまっていました。汚れた体とは正反対の、シミひとつないいやに綺麗な服。傷だらけの腕に抱いた弾のないからっぽのライフル。
でも誰ひとりとしてそんなグロワートを気にとめませんでした。誰も互いが見えていないような、はじめから自分なんてここに存在していないような、不思議な気分でした。

これからどうする?どうやって生きていく?そんな些細な不安すら考えられないくらい疲れきった頭と体。いっそのこと誰か自分を殺してくれ。自分を知る人間も、気に留める人間も、叔父のように歪んだ理由で自分を必要とする人間も、誰もいない。
この街で自分は要らないモノの最下層にあって、あの家から逃げてきたくせに、生きることに取り縋る理由もない。

その時でした。

「なぁお前大丈夫か?」

声をかけてきたのは、赤色と薄く桃色がかった白の髪をしたひとりの青年でした。青年はこちらのことを心配するような物言いで、じっと鋭い視線を向けます。

「お前よそから来た奴だろ。服は綺麗なのに顔は傷だらけだし、おおよそどっかから逃げてきたって感じか」

グロワートの返事も待たずに、青年は話し続けます。

「ここは南区。わかる?そもそもお前しゃべれんのか?」

目の前でしゃがみ込み、言葉をかけつづける青年をウツロな目で見ながら、グロワートは考えました。

今更叔父の元へ戻っても、宛てもなく裏街を逃げ続けてもいずれは警団に捕まってしまう。住所のわかる親戚も、頼れるツテもない。もうこれ以上何も考えたくなかった。目の前の男に着いて行った先で、叔父にされてきたように犯されその末に殺されたとしても、死ねるならそれでいい。

青年の名前は『ライダウン』と言いました。グロワートはライダウンに促されるがままに腕を引かれ、南区の霞かかった空気に埋もれていきます。しかし、グロワートが連れられた先は、ガラの悪い男がはびこる汚い路地裏ではなく、ワインレッドの髪をした背の高い男の住むちいさなアパートでした。赤い髪の男の後ろでは、白くてフワフワした髪の痩せた少年がグロワートをじっと睨みあげています。

人の良さそうなフニャフニャした笑顔で、わけがわからないまま屋内へと招かれると、お風呂にいれられ、怪我の手当をされ、服をもらい、温かい食事を食べさせられました。痩せた白い髪の少年はその間もずっと、赤い髪の男の側でグロワートを睨みつづけていました。

食事に毒でもはいっていたのか?しかしいつまで経っても体調は悪くなるどころか、少しずつ良くなっていっているような気さえします。それともある程度元気にしてから、人買いにでも売り付けるのか?けれどライダウンからも赤い髪の男からも、そんな人間と繋がりがあるような雰囲気など微塵も感じません。むしろ赤い髪の男は、理由さえ聞かないものの、グロワートの傷や精神状態を見ては人一倍心配してきます。

その日の夜は、ライダウンと共に赤い髪の男…もとい、『有為(うい)』の懇意により、家に泊めてもらうことになりました。
ちいさな寝息がひとつだけ響く月の明かりが漏れる狭い部屋でグロワートは、有為とライダウンが幼なじみだということ、白い髪の少年『ケレン』は4年前に有為が道で拾った子供だということ、有為はとにかくグロワートのちからになりたいということなど、たくさんの話を聞かされました。

ライダウンは、道端でグロワートを見かけた時、グロワートとケレンがあまりによく似ていたため放っておけなかったと言いました。

「南区じゃそういうのって普通だから、理由は聞かねえけど、とりあえずお前は好きなだけここにいりゃいいよ」。「そうだよ。俺も全然大丈夫だし、ケレンもそろそろ俺達以外のヒトと接する時期だしさ。居てくれると助かるなぁ」。

しかし、グロワートはまだ、その言葉を信じることができませんでした。会って一日しか経っていないのに、ここまで優しくしてくれる理由がわからなかったのです。
血の繋がりもないのに、無償で?死にたくて着いて行ったはずが、今は逆に生かされようとしている。グロワートは怖くなりました。このまま生かされても、その先どうしていけばいいのかがわからなかったから。意味もなく生きて、結果自分はどうなりたいのかがわからなかったから。
幼い頃は、母親がいたから生きてこれた。叔父の慰み物になった時は、そうされるための道具として存在していたから、先も終わりも考えることがなかった。

でも今は?見返りを求められない優しさや親切は、今のグロワートにとってはただの苦痛でしかありませんでした。『生きる手伝いをしてあげるから、その先は自分で決めて、私たちの親切に見合う人生を歩んでね』と、そう言われているような気持ちになりました。

その夜、グロワートは適当に相槌を打って布団に潜りました。明日この家を出たら、ひとりで死のう。
自分だけの命って、こんなに重く苦しいものだったんだ。グロワートは思いました。こんなに重いもの、抱えて生きていけない。自分のためだけに生きるなんて、今の俺にはとうてい無理だ。無理だったんだ。



朝、有為に朝食をご馳走になり、ライダウンと家を出ました。ひとりでさっさと消えてしまうつもりが、逆に無理矢理連れ出されてしまったのです。ライダウンは南区から橋を渡り、西区までグロワートを連れて行くと、意気揚々と語りはじめました。

「俺、いつかこの区で一番の男になってやるんだ」

「金も、名声も、地位も名誉も全部手に入れて、裏街の歴史に名前を残してやるんだ。今はオングルっていう女がボスだけどな」

笑顔でそう話すライダウンの顔はきらきら輝いていました。しかし今のグロワートにとって、他人の夢ほど眩しく遠いものはありません。ズタズタにされた体、昨日も今日も、マトモに会話すらできない、感情の起伏が欠如してしまった頭。執着せず諦めることをすぐに選んでしまう弱い心。なにもかもがライダウンとは真逆で、グロワートを覆っている暗い影が、彼に近づくたびに濃くなっていくような気さえしました。

「そういえば今朝ラジオで聞いたんだけどさ、北区で身内殺しの殺人事件があったみたいだぜ」

グロワートの体が硬直します。

「北区でもたまーに聞くけど、珍しいよな。まだ犯人も捕まってないみたいだし。…おい、どうした?」

さっきまで黙って後を着いてきていたグロワートが突然立ち止まったので、ライダウンは不思議に思い、振り向きながら声をかけます。そして、今まで一度もクチを開かなかったグロワートが、ちいさな声ではじめてしゃべりはじめました。

「俺」

「ん?」

「俺が、殺した」

どうしてそんなことを言ってしまったのかは本人にもわかりませんでした。軽蔑してほしかった?同情してほしかった?自分がやったことを、やられてきたことを知ってほしかった?自分はほんとうに死にたいのか。引き止めてもらいたいだけじゃないのか。会って一日しか経っていない人間でも、自分を必要としてくれていると、死んだら悲しんで泣いてくれるんじゃないかと、思っているんじゃないのか。

認めたくない浅ましい願望に息が詰まりました。それでもグロワートのクチからは、言葉が滝のように溢れて止まりませんでした。

「俺が殺したんだ。叔父だった。俺と母さんは禄でもない父親に捨てられて、…母さんが、病気になっても生かして育ててくれたこの体を!あいつは自分の欲のためだけに、何年も好き勝手犯しなぶり続けた!!今しかないと思ったんだ!気づいたらあいつは目の前でぐちゃぐちゃになってて、もう、わけわかんなくなって…っ、」

「そうしたら、あんたが現れてっ…死にたいのに優しくするし…っ…俺は死にたいんだ!!殺してくれるなら誰だってよかった!なのにっ、なんで…!!どうすればいいんだよ!守ってくれもしないくせに優しくするな!無責任に生かそうとするな!!誰でもお前みたいに簡単に生きる理由を見つけられると思うな!!!」

肩で息をしながらグロワートは泣きます。血走った目でライダウンを睨みます。
しかし、ライダウンはグロワートの言葉を聞いた後、あろうことかゲラゲラと大笑いしはじめたのです。

「お前、最っ高だなぁ!」

そしてひとしきり笑うと、呆気にとられたままのグロワートの手を引いて、路地裏に潜りました。歩いた先に居たのは、グロワートがはじめに想像していたものよりまだガラの悪い男達。2~3人ほどですが、そこが彼らのたまり場なのでしょう、皆口々に会話を交わしては笑いあっています。
ライダウンはそこまでグロワートを連れていくと、自分達に気がついた男のひとりに大声をかけました。

「おい!汚ねぇ場所で溜まってんなよゴミ!ゴミならゴミらしくテメェがケツ乗っけてるごみ箱ン中でチチクリあってろ!」

「あ?ンだとテメェ!」

グロワートはわけがわかりませんでした。男達はかなり怒っているようで、指をバキバキ鳴らしながらこちらに近づいてきます。当のライダウンは澄ました顔で口笛を吹いたと思うと、なんとグロワートの背を思い切り押し、来た道を全速力で引き返したのです。
大切に抱えていたライフルはいつの間にかライダウンに奪われ、残ったのは身ひとつのグロワートのみ。そして、状況を理解するよりはやく、グロワートは男の拳により汚れた地面へと吹き飛ばされたのでした。



どれくらい経ったでしょう。
男達の怒りが収まるまで全身を殴られ、蹴られ続けたグロワートの体はボロボロでした。目は腫れ、鼻血が服をズボンまで真っ赤に染めています。ピクリとも動かない腕をだらりとさせたまま、地面に寝転ぶグロワートの目の前に、見慣れたスニーカーとライフルの銃床が映りました。ライダウンが戻ってきたのです。

グロワートの隣に腰掛けながら、ライダウンは声をかけます。

「わかったか?人間っていうのは、そんな簡単に死ねないってこと」

ライフルをグロワートの腕の下に置くと、携帯電話を開きどこかに電話をかけました。救急セット、とか、替えの服、とか言っているので、おそらく有為のところにかけているのでしょう。そしてパタンと携帯を閉じて、再びクチ開きます。

「お前がどんだけ死にたかろうが、あいつらはお前を殺せなかったし、お前だって痛いだけで死ねなかった。そりゃあ相手によっちゃ、うまい具合に殺してくれる奴も居るだろうが、大抵は宝鑰(ほうやく)や娼館に売られて生殺しの一生だぜ?叔父さんとやらにされたように、死ねもせず、ヒトとして生きれもせず」

ぼやけた頭の中に、こだまするよう響くライダウンの声。

「でもお前、運がよかったな」

ライダウンがグロワートの髪を掴み、痛み動かせない頭を無理に持ち上げ目線を合わせます。グロワートは戦慄しました。ライダウンの目はケモノのように鋭く、釣り上がった口は獰猛に牙を剥いているようでした。

「俺がお前を殺してやるよ」

パッとグロワートの髪を離し、ライダウンは立ち上がりました。そして勢いをつけ、息も絶え絶えのグロワートの横顔目掛けて靴の先で頬を蹴りあげたのです。
脳が揺れ、意識が一瞬で無くなりましたが、全身の痛みですぐに目が覚めました。再び鼻血をだくだく流し、グロワートはウツロな目でライダウンを見上げました。ライダウンは笑っていました。

「俺さ、お前のことスゲー気にいったんだよ。こんな、生きたいとか死にたいとかでグダグダ言っててさ、終いには守ってくれもしないくせにって、はは…お前みたいな意味わかんねーヤツはじめて見たわ」

ライダウンはしゃがむと、おもむろにグロワートの鼻を摘みました。

「知ってるか?こうやって上むくとすぐに鼻血止まるらしいぜ」

ライダウンの手が鼻から頭へと移動し、飼い主がペットにするように、兄が弟にするように、父親が子供にするように、くしゃくしゃと髪を強く撫でます。

「なぁ、知ってるか?俺がどんだけ本気でこの場所のボスになりたいと思ってるか」

「今のでお前死んだことにしてさ、これからはずっと俺のためだけに生きろよ。お前のために生きるお前はもういない。次にもう一度俺がお前を殺すまで、俺を生かすためになにがなんでも生き続けろ」

開かない目を目一杯開き、グロワートはライダウンを見つめます。今まで一度も感じたことのない気持ちが体中を駆け抜けていきます。

「俺の人生を、生きて見続けろよ。俺の未来をお前が守れよ」

「要らない命ならさ、無様に生き返ったお前の命を、お前の母親が守ってくれた体を、俺にくれよ」

「縋らせてやる。だからついて来い。今日からお前は俺の相棒だ」



グロワートは涙を流しながら、母親のことを想いました。
あんなに、自分の命がなくなってもグロワートを生かそうとしてくれた母親の、命より大切にし続けてくれた母親の、遺したこの体を、命を、意味のないものにしようとした自分を恥じました。
そして、そんなグロワートを望みとは違う形で殺し、行き場のないこんな汚れた体でも、弱い心でも、思うよりしぶといこの命すらも必要だと言ってくれたことに、新たな命を、人生を吹き込んでくれたライダウンに感謝しました。

なにかのために、心の底から「生きていたい」とこんなに思ったことがあったでしょうか。ライダウンの歩む人生の先を隣で見続けたいと、その人生の中に深く関わり続けていきたいと、グロワートはライダウンに髪を撫でられ赤ん坊のように声をあげ泣きながら、強く強く強く強く思ったのでした。

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