1章
あなたの名前
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目をつけていたナースと昨日知らされたその旦那であるイケメンなドクターに見送られ、俺は今日涙ながらに退院した。
『いい天気だ…』
久しぶりの外の空気。
ナースに心の中で別れを告げ晴れ渡る空を仰いだ。
と、前を歩いていた男が足を止め振り返ってくる。
「車はこちらですよ。」
『…はい』
返事を返すと俺の荷物を手にキンブリーは先を進んだ。
◇
『少佐っ!ここまでで本当に!大丈夫ですから!!』
「構いません。どきなさい。」
『いいえあとは1人で!!』
「…上官命令です。どきなさい。」
冷たい目で睨まれ怯むと承諾を得たと勘違いした勘違い野郎ことキンブリーが、にこりと笑みを浮かべ俺の横を通り過ぎ玄関へと歩いて行く。
本当なら、今日はロイとヒューズが迎えに来てくれる筈だったのに。
「立派な家ですね」
『まぁクライスラー家ですから』
しげしげと家を見上げるキンブリーの隣で鍵を開け中に招く。
あまり気乗りしないが『どうぞ』と奥に通すと散らかりきった部屋が視界に広がった。
『なっ…!!?』
「…随分と生活感のある部屋ですね」
『ちが、違います!違いますよ!そんな遠回しに汚いって言わないでください!』
慌てて近くに転がる本や服、酒瓶を拾ってカゴに押し込む。
何故かオットマンの上には卓上の照明が置かれているし、泥棒でも入ったのかと思う程の散らかり具合だ。
カゴと両手にいっぱい本達を抱え、三回往復したがまだ綺麗とはお世辞にも言えない程の状態。
『…あのバカ共…勘弁してくれ…』
久しぶりの労働がこれかと軽く上がった息を整える。
ロイとヒューズに着替えを頼んだ時点である程度予測してはいたがここまでとは。
以前から何度もこの家で飲んで泊まっていた2人。
勝手知ったる何とやら。
恐らく泊まっていたのだと転がる錬金術の本を見て思った。
『…えーと…コーヒー淹れますね』
「構いませんよ。疲れたでしょう。」
『そういう訳には…とりあえず待っててください』
見れる程度には片付いた部屋を見渡し、(そんな繊細でもないだろうし大丈夫だろうが)埃でキンブリーがやられないよう窓を開けてキッチンに向かう。
途中窓を開けながら移動したが、2つ開けた所で肩が痛くなって止めた。
本当に、我が家は無駄に広い。
こんな所に1人で暮らすなんていつか気が狂いそうだ。
_『少佐ー。コーヒーお持ちしま…ん!?』
コーヒー片手に一応急いで戻るがキンブリーの姿が見当たらない。
どこだと見渡すと部屋の隅にある椅子の前で何か見ていた。
よく見ずとも、それは見慣れた一着の黒いコート。
『それは置いといてもらえませんか?』
心臓がどくどくと音を立てる。
手の震えがバレないようコーヒーをテーブルに置くとキンブリーの元へ行き手を差し出した。
「…大切な物なようですね」
『はい。』
何を考えているのか、薄く笑みを浮かべるキンブリーはコートを渡そうとしない。
置いていた俺が悪いし、イライラするのはお門違いというやつではあるが早くそれから手を放してもらいたかった。
するとそれが伝わったのか急にコートを胸に押し付けてくる。
「こんな所に置いていては皺になりますよ」
『…ですね。片付けてきます。』
「えぇ。」
もう一度キンブリーを部屋に残し、今度は寝室へ向かう。
入院する2、3日前にソファの背もたれに掛けていたこのコート。
その後入院してから何も知らないヒューズ達が床に落とした様で、深い皺がついていた。
『まぁ、しょーがねぇか…』
はあ、と一つ幸せを逃がした。
このコートは、両親の葬儀があった日に名も知らぬ軍人が貸してくれた物だった。
何年も借りたままになっており、持ち主もそんな事忘れているかも知れない。
だけど、あの時の事を俺は忘れられない。
『どこにいんでしょーね、アンタは』
目を瞑っていくら記憶を辿っても、持ち主の顔が思い出せない。
というより、あの時の記憶は全てが曖昧なのだ。
話した会話の内容だってほとんど記憶にない。
だがこのコートをかけられた時、冷え切った身体に久しぶりの人の温もりが染みて涙が止まらなかった。
あんなに泣いたのは両親の死後初めての事だった。
だから、忘れない。
あの温もりも。優しい香りも。
『…ん?』
ふと考える。
最近、あの香りを嗅いだ気がする。
『…どこだっけ…』
記憶を辿るが全く思い出せない。
別に思い出して会っても何がある訳ではないが。
あの時俺は救われた。そのお礼がどうしても言いたかった。
『…うわ、やべっ!!』
しまった、と固まる。
キンブリーを待たせているのを忘れていた。
急がないと、とコートをハンガーに掛け階下へ駆けた。