続 檜と
自主練習をしたその日の夜。修兵の顔を見た黄里は明らかに不機嫌な顔をした。作業していた手をとめ、音もたてずに工具を置く。
約束もないのに来るのはルール違反じゃないのか。
満月がこうこうと光る、雲ひとつない夜だ。彼女の家の玄関に入らず庭先へと回った彼が見たのは、縁側の障子を開け放し蚊帳をはった部屋で座卓に向かっている黄里だった。
具合悪そうだったから気になって来てみた。
もう大丈夫だ。さらにあごを短く振って帰れ、と無言でうながす。
それを無視して彼は縁側に腰かけた。そこから見えるのは、幾重に重なる竹の影と、月から優しい光が落とされて薄ぼんやりと照らされるあたり一面の笹の葉だった。以前彼が想像したとおりの、儚げで美しい景色だ。
なあ、お前はこれくらいのことでのぼせ上がったりしないだろ。たまの気まぐれで心配しても構わないじゃないか。
黄里は再び左手に工具を握る。手元に目線を落としたまま短く言った。そういうのいらない。
顔見ないで言うんだな。いつもしつこいくらいに人の顔見て喋るのに。
だから何。やはり黄里の視線は上がらない。
修兵は気づかれないように小さく笑った。
人の体調には口出ししたのになあ。呟きながら腕に止まった蚊をしとめる。
前の話を持ってきて何なんだ。今日の修兵いちいちうっとうしいな。そう言いながら諦めがついたようだった。今手が離せない、自分で入れ。
黄里は自身の右腕の義肢をいじっているところだった。机上においた肘当で右腕を固定し、左手側には数十種類の工具や医療器具のようなものがきれいに並んでいた。彼女はそれらの道具を迷うことなく適宜選びとり、前腕の内側の切開部にさしこみ中を覗いている。
修兵は彼女と向かい合うように座卓の反対側に腰を下ろした。見てていいかと尋ねると、どうぞ、とだけ返事がある。
黄里が自ら言及してきたことはないが、右腕が義肢なのは修兵もうすうす分かっていたことだった。彼女と出会ってから唯一泊まったあの日、襖の向こうに見えていたものがきっかけだった。それ以降も別段隠す気もない様子で開け閉めされる襖の奥に技術系の友人の部屋と似たようなものを見て、確信はないがもしかして、と思うくらいには見当をつけていた。
修兵もそっと切開部を覗きこむ。座学で得た知識とは少し様子が違っていた。救護理論の授業で使った義肢の内部は、義骨が見えるばかりで、その中に神経をつなぐ管が通っているということだった。彼女のものは義骨の外側にも爪の大きさ程度の小さな部品がいくつか取り付けられ、そこからも管が何本か這っていた。
護梃十三隊に属する死神のうち約一割は、戦闘で身体の欠損をかかえ代替品で補っている。死神の世界では義肢はそう珍しいものではない、というのが修兵の今持ち合わせている知識のすべてだった。
刀は右で持ってたから、利き手ではないほうで器具を扱っているのか。ぎこちなさを全く見せない手の動きに修兵は感心していた。先端が針のような器具で内部をつつきながら場所を少しずつずらしている。何かを探しているような動きに見えた。
そしてその眼差しは真剣そのものだった。修兵には目もくれず作業に集中する彼女を、彼はただ黙って見つめていた。金属製の器具を静かに扱うその指は細くて、白くて、繊細な動きをしていた。
同じ動作を繰り返していた黄里の手が止まった。器具を持ち替えてその場所を何やらぐりぐりと掻き回している。当然血が飛び散ることはないが、義肢内部を満たす組織液がぐちゃぐちゃと音をたてる。修兵は腹の中で胃が縮みあがるのを感じた。黄里の顔が痛みに歪まないのがせめてもの救いだと思った瞬間、彼女から小さくうめき声が漏れた。彼もつられて出そうになった声をなんとか喉の奥で押し殺す羽目になった。
今日はここまでだな。
その言葉にほっとする修兵をよそに、黄里は切開部にゼリーのようなものを注入し、器用に縫いあわせていった。その後も手際よく道具を片していく。使用済みの器具を盆に載せ出ていったかと思うと、一時水音がして再び部屋に戻ってきた。その彼女が修兵を見てにやりとする。
顔真っ青だぞ。
そう言われて初めて彼は額の汗にも気がついた。手のひらでぬぐう。
思ったより腹にくるな。
これからいくつも修羅場をくぐろうかって人間がなにびびってんの。
はは、そうか修羅場か、確かに。
修兵は自分自身に情けなさを感じながら、一方で、修羅場という言葉につられて険をおびた彼女の姿を思い出す。平の一隊員として安穏とした日々をこなすのでは無くお前もそういう場所が合ってるんじゃないか、そんな言葉も浮かんだがうまく声にはできなかった。ただ簡単にこう言った。
今日楽しかったな。
滅菌庫へ器具を収めていた黄里の手が一瞬止まった。すべて入れ終えて彼に向き直る。
楽しかった。ありがとう修兵。
彼女の微笑みに今度は修兵が動きをとめる番になった。無関心な言葉が返ってくるか、もしくはうっとおしいと言われるかと構えていたのに、そんな顔をして礼を言われるとは予想してなかったのだった。
なんで礼なんか。
私の気まぐれに付き合ってくれただろう。
少しの間をおいてから思い至るものがあって、修兵からも笑みがこぼれた。
俺をぶちのめす件ね。
部屋に上げてくれたのも、お返しに彼の気まぐれに付き合ったのかもしれなかった。
あの子なかなかよかったな。いろんな意味で雛森が修兵の目をひいたのは確かだった。
手は出すなよ。
何だ先約あるのか。
彼女は布巾で卓上を拭きながら、少し遠い目をしていつになく優しげな表情になった。
雛森に懐いていると言った阿散井の言葉以上に、大切に思っているのが見てとれた。やることやったら湯を浴びて帰るだけの気ままな関係とはいえ、付き合いが長くなってくると見えてくるものもあるのだった。死神になる気もさしてないような彼女が学院の人間にまっすぐに関心を寄せているのはやはり意外でもある。
あんたじゃあ分が悪すぎる。
黄里、お前ならどうだ。
遊んでやってるだろ。
俺だけにしとかないか、って話。
だめだ。
即答だった。真っ直ぐにこちらを見すえていたので本心だろう。
だめ、か。即刻拒否されてできた小さな傷が痛む。そこに紛れてしまった同じく小さな違和感があったのだが、それに修兵が気づいたのはもっと後のことだった。
なんだ、残念だな。俺にしては長く続いてるから、もうこの先もお前がいいなと思ってたのに。今度はするりと本音が出てきたのだった。
どうせ長くもっても卒業までの遊びなんだ、うっとおしいこと言うな。彼女が布巾をたたみ直しながら言った。
お前が俺との半年先のことを考えてたなんて。
修兵の大仰な口ぶりに、口には出さないが黄里の顔が見るからにうっとおしい、と言っていた。予想通りの反応が返ってきて彼は可笑しくなった。
修兵は、憧れのあの人みたいになるんだろ。黄里は暗に遊んでる場合じゃないと言った。
分かってるさ。そもそも新人死神にそんな暇は与えられないってことも。お前の方こそ、死神になる気になったのか。
どうだろうな。
言葉は以前と同じだったが、今の彼女には憂いや迷い苦しさ、そういったものが透けて見えた。言葉を変えるならば、それはとても人間くさくて親しみを感じることだった。常に泰然自若と余裕な彼女が、今日一日でこんなにも多くの表情をさらけ出したのだ。
変わってみればいいじゃないか。目の前のことに集中する、それだけでいい。一緒に死神やらないか。最後のほうは自然と言葉に熱が帯びた。
さっきからそれは何なんだ。わざとか。
お互い深入りしないのが暗黙のルールで、これまでのようにどちらか飽きたらおしまい、それだけの関係のはずだった。深入りしない、はまらない、その安心から長く保ってきたというのに。長過ぎたのがまずかったか、どこでこうなったか。怪訝な顔をする彼女の気持ちも分からなくはなかった。
黄里がどこまで俺のうっとおしい気まぐれに付き合ってくれるのかと。修兵は嘘とも本当ともつかない言葉を吐きながら、思わず肩をすくめた。
人を試すようなことをするなよ。前にも言ったろ。
だいたい、お前が先に変わったんだぞ、あの時本気になるから。俺も気まぐれおこしてみたくなるってもんだ。
なんの話だ。
今日、俺と阿散井の二本目。
黄里の頬にさあっと赤がさした。一瞬彼を睨みつけたと思うと、右腕を押さえて目を伏せた。
あんたが勘のいいおしゃべりな男だってのはもう分かったよ。
修兵を再び睨む彼女の目もまた赤く、潤んでいた。
女のそういう目を幾度となく見てきた修兵でも思わず息をのんだのは、怒りに歪んだ顔を彼女が初めて見せたせいだった。座卓の向こうに座る彼女がひと回り大きく見えるのは勘違いではないように見える。
やりすぎたなと思ったのも束の間、彼女の威圧を肌に感じながら彼は心のうちに沸き起こる高揚感に気づいてしまった。黄里の心を揺さぶるのは自分だけでいい。
悪かった、深入りされたくないお前の気持ち無視した。
だから、もういい。喋るな。
修兵は卓上に乗りあげた黄里に襟元をぐいとつかまれる。唇で口を塞がれていた。いつもより乱暴な口づけに彼も応える。こういうのも悪くない。
そのまま彼女を抱き寄せて膝に乗せる。その間もお互い唇を離さないので、だんだん息が苦しくなってくる。
機嫌なおせ、霊圧のせいで余計に苦しい。
無理だ。誰のせいでいらいらさせられてると思ってる。
その言葉で、密かに心が踊った。
お前が俺なんかにいらいらするのか。
黄里の細い指が彼の頬にそっと添えられた。修兵は間近にせまった彼女の顔から何かをとらえたくて必死に見つめる。赤い顔した彼女が眉間にしわを寄せていて、まだ腹を立てているのは見てとれる。耳まで赤く染まった柔肌は昼間の自主練習のときと同じだ。体調が気になって首元に手を伸ばした時だった。
額に、鈍い痛みが広がった。
頭冷やしてくる。
黄里がすっくと立ち上がり縁側から部屋を出ていった。
修兵はまだ痛みの引かない額に手を当てて見送るしかなかった。
人に馴れ始めた野生の獣に、距離を誤って噛みつかれた、そんなところだろうか。言葉足らずで、身体のぶつかり合いばかり。人としては幼すぎて話にならない。
あえて長めに息を吐き体の空気を入れ替えた。すこし醒めた頭で考えたことは、潮時が来たのかもしれない、ということだった。
あれだけ俺を意識しておいて拒絶するのは、何か心に決めたものがあるのだろう。先ほどの高揚感が心の底でまだくすぶってはいたが、簡単に無視できる程度だ。深入りする理由はもう、無くなった。
帰るか。
縁側で膝を抱えた彼女を見つけ、修兵は一言問うた。
大丈夫か。
大丈夫だ。
黄里は顔を庭先に向けたまま、目線だけ寄こした。彼女もまた、内に抱えた激しさがすでに治まっているようだ。耳先はいまだに赤みが残るが、彼女の頬は月に照らされ白く光っている。いつも見ていた無機質な横顔だった。
お互い熱しにくく冷めやすいものだ。そんなことを思いながら短く別れを告げ、彼女の家を後にした。
次は胸とか尻とか、もみごたえのある女にしよう。
修兵の影が伸びる夜道は明るい。頭上の月を追うように家々の垣根のすき間を進んでいるときだった。
枝や葉が揺れる音がどこからか聞こえてきた。風もないのにどうしたことかと足を止めた途端、迫りくる音と衝撃を受けた。不意をつかれてよろめくくらいには重い。それは彼の中で覚えがあるものだった。
何かあったか。この距離まで届くとは。虚に出くわしたんじゃないといいが。
小さな懸念がつい先程の冴えざえした気持ちをかき消す。すぐさま踵を返し黄里の家へむかって駆け出した。
しまった。空腹に促されるまま一口めを咥えた瞬間、修兵は箸を止めた。再びすすり込んだ中華麺をなんとか飲みこむと、食堂で隣に座る友人に問うた。
なあおい。木佐貫教官の課題いつまでだ。
明後日までだぞ。お前にしちゃ珍しいな。
入隊内定もらってるやつは余裕でいいよなあ、前の席からとんできた言葉に反論する。分かってるだろ。逆に手え抜けねんだぞ、怖えよ。
送り出す教官たちも指導の質を問われるので、内定をもらったからには尚の事甘やかしてなどくれない。卒業まで半年を切ったこの時期となればなおさらだ。
残りの麺をかきこむ修兵の横で、友人は笑う。
席官狙いだもんな。俺たち同期の期待の星だ、がんばってくれよ。
お前らものんびり食ってていいのか。次、鬼道模擬だぞ。
昼飯時くらい忘れさせてくれよ。恨み声も聞こえるが、特進同期で固まったテーブルの空気は総じて明るい。6年を通じて生き残ったもの同士、レベルの違いこそあれ、みなこれからの山場にむけて前向きだ。
私は調整うまくいってるからこのままだな。俺はさあ、術囲があと一尺足りないんだよな、コツとかあんの。一番かんたんなのは、こう。え、なに指伸ばすだけ。型が崩れるから教官によったら嫌われるけどね。あとはケチらず始めからちゃんと霊圧飛ばしなよ。何それ、もっと早くお前に聞いときゃよかった。知ってるものかと。うそぶきやがって。
笑い声があがった。食べる速度を速めながらみな模擬試験前の足掻きを段取りし始めていた。
死神とは高尚な職である。原則辞めることはできない。これが学院の難しい入学試験と退学を含む在学中の厳しい実力選定の理由になっている。
そして死神とは命を懸ける職である。上位隊員に危険な任務が任されるのもその精神からだ。平隊員も当然命を落とすこともある。ちなみに戦闘に立つ機会の少ない隊が軽んじられるのもその訳だ。
強くあらねば生き残れない。そして強いものほど強くあらねばならない。塀の外側の過酷な環境から逃れてきたもの、高い志を持ってきたもの、血筋のみが理由のもの、皆様々だったが、学院の中だけではあるものの、力があると認められた者たちだ。職務を果たし、今をそしてこれからを生き残るため、必死にやってきた。
一人ではこの場に残れていなかった。修兵はしみじみと思う。彼でさえどうにもならないほどに困難を抱えることはあった。それを乗り越えて来られたのは同期のおかげだ。それは他の者にとっても同じことだった。この学年の特進が特にまとまっていると言われるのは、首位を走り続けている修兵の気質に少なからずよるところでもあった。
書庫に行ってくるわ。居心地の良い空気の中椅子から腰を浮かせたその時に、彼を呼ぶ声がした。
いたいた。
修兵の背後に寮で同室の安東が立っていた。
お前のおひいさん目え覚ましたぞ。
それだけ言ってそそくさと立ち去ろうとする。
修兵は、静かにけれども騒然としている周囲を横目に、あえて彼の腕を取ってひきとめ何度めかの訂正をする。
俺のじゃない。預かりものだ。
安東の心ここにあらずといった表情ですでに見当はついている。新しいことを思いついたのだろう。この状態だと他のことは目に入らなくなる。思うだけ無駄なのは分かっていても、ほんの少しの配慮が欲しい修兵だった。
早く実験室行きたいんだけど。
安東は掴んできた腕を引き剥がし、修兵の言葉など耳に入らない様子で食堂から出ていった。優秀な技術科五年生の彼は、一週間は自室に帰ってこないだろう。
書庫に寄るつもりが変更を余儀なくされた。あまり気の進まない用事に大事な時間を取られることになって、彼の明るい気持ちに水が差されることになった。
昨夜、黄里の家に戻った修兵が目にしたのは、庭で倒れている彼女と、そのそばに立つ死覇装の男。半倒壊の家と、折れて絡まりあう竹。月夜の薄暗がりのもとで竹がしなって軋む音がさざめいていた。視線を巡らせてみれば竹林は丸くえぐれた空間をつくっていた。
死神であるらしい男の存在に一瞬ひるんだ修兵は、思いなおして黄里にかけ寄った。かがんで意識のない彼女を抱きかかえると同時に、男から三歩間をとった。
腕の中から息の音がしてひとまず安心した。黄里の浴衣は右袖が引きちぎれ、右肩つけ根の義肢接続部が露わになっていたからだった。倒れていたところをみても、大きな出血はなさそうだし、顔に小さな切り傷がたくさんあるもののどれも浅いものばかりだった。
なんだ心配してくれるやつがいたのか。丁度いい任せていいか。
口を開いた男が、警戒心あらわな修兵にすんすん近づいてきた。手には風呂敷の包みをもっており、抱えられた黄里の腹の上に載せた。
今度こそ帰ってくるなと言っといてくれ。彼はそう言いながら修兵の返事を待つ様子もなく、修兵がさっき来た道を行こうとした。
待ってくれ、任すって。修兵が慌てて引き留めたそのときになって、初めてお互いの視線が交わった。
男は修兵を見すえたまま、何かに気づいたようにああ、と声を漏らして頬をかいた。懐から紙を出してなにやら書きつけはじめた。
大丈夫なのか。修兵はすぐに終わる様子がないのを見てたずねた。
大丈夫じゃないな。いちから見直しやんなきゃならねえ。材料をどこまで揃えられるか。答えるともなくぶつくさ言いながら、ついに男はしゃがみこみ背中を丸くして手を動かしている。
そうじゃなくて、黄里。少しいらいらして再度問うた。修兵はこのずれたやり取りに覚えがあった、安東だ。肝心なのはそっちなのか、と肩透かしを喰らうことが度々あるのだ。
二、三日で目が覚める。目覚めはわるくなかったはずだ。男は視線を紙に落としたまま答え、今度は、手の動きを止めることもないまますっかり黙り込んでしまった。
結局、このままニ、三日目覚めない状態が大丈夫なものなのか、確信は得られなかった。
そのうち腕がしびれてきたので、修兵もその場に黄里を抱えたまま腰を地面につけた。彼女の腹のうえの風呂敷の包みは脇によける。
腕の中の彼女は、顔につけた小さな切り傷を除けば、ただ静かに眠っているようにみえた。彼女の首筋に触れれば、脈が打ち肌は生温かい。ほおに手をそえれば、同じように生温かい息が手にかかった。抱き合うときとはまた違った、ずしんとくる重みを全身で受け止めながら、身体を預かるとはこういうものなのかと考えていた。
そしてあの額に角がある死神は院生の俺に黄里の身元まで預けようというのか。無理だ。人の話をさして聞く気もないようなあの死神に対してきちんと断りを入れられるのか。同室の安東にさえ、今まで自分の意見が通ったためしがないというのに。一抹の不安を紛らわすかのように、修兵は黄里の短く真っ黒な髪を撫でながら息を吐いた。
出来たぞ。入れとくからな。不意に、死神の彼は修兵の目の前にしゃがみこんで、折りたたまれた紙を風呂敷に差し込んだのたった。
あの。いきなり任されても、無理です。目の前にある相手の顔を見据えてきっぱり言った。
一生面倒見ろってことじゃない。目を覚ますまでだ、野ざらしってわけにはいかねえだろ。
修兵渾身の断りの言葉に、相手は一寸の表情も変えずに言い返してきた。先程からの捨て猫を押しつけてくるような言い方に、はなから自分でなにかする気が全くないのが見て取れた。内心苦々しく思いながら、それでも修兵は反論した。
黄里の身を、初対面のやつに預けるくらいの裁量があるんですよね。それなりの関係があるなら、ご自分で世話したらどうですか。俺こう見えて卒業向けて今忙しいんですよね。
おれはおそらく保護者、という立ち位置にあるんだろうが、こいつを連れて帰れはしないし、戻ったところで居場所はない。言い含めるように、死神はゆっくりと言葉を放った。
そもそも、と男は言葉を続けたところで口をつぐみ、立ち上がった。
そのよく回る頭と口でうまいことやってくれ。二、三日の辛抱だ。あとはあいつが自分でやるさ。
さらっと言って修兵の言葉を待たずに歩きだし、修兵が口を開いたところで何の応答もせず、今度こそ立ち去ったのだった。
ああ面倒くせえ。あのとき戻んなきゃよかったな。修兵は寮に向かうなか、昨夜のことを思い返したところで、はずれを引かされた気分になっただけだった。
そうして寮の自室に近づくにつれて騒がしくなってきた。周囲の視線に嫌な予感しかしない。
廊下や階段で見知った顔が声をかけてくる。そうか、とだけ返して無視して進んだが、無視したところで面倒くささは増すばかりだ。彼が自室の前にたどり着いた頃にはもう、うんざりを通り越してくたびれていた。自分の行いを、本当に馬鹿なことをした、と後悔したのは今までになかったかもしれない。
お前の部屋から女出てきたって、ほんとか。
連れこむだけじゃなくて泊まらせたんか。
修兵は戸に手をかけたまま、散々聞き飽きた問いに初めて答える。
怪我人を急遽預かることになった。今から医務室つれてく。しれっと聞き耳を立てている周囲にも言い聞かせながら見渡したところで、戸にかけた手をおろした。
怪我人のおでましだ。
浴衣姿の黄里は、衆目を引いていることに何の意も介さない様子で、支えを失った右袖を左手でつまんでひらひらとさせていた。通常とちがう身体の均衡をとるために、いくらかおぼつかない足どりだったのが一層、片腕のない状態を強調していた。
医務室行くぞ、用意しろ。隣に並んだ彼女の顔色が悪くないのを確認して安心すると同時に腹立たしさもぶり返す。
はいはい。
そういう返事はやめろ。言い訳がましく聞こえるだろ。声を落として抗議したものの、黄里はいつもの涼しい顔をしている。
手洗いくらい行かせてくれ。偉そうにして、気に入らないな。
偉そうなのはお前だ。修兵は思わず眉を吊り上げた。
半分崩れた家からきれいな着物をひっぱり出し、義肢の破片で擦り切れた衣と着替えさせ、真夜中にここまで運んで寝床をゆずってやったのは俺だ。顔だってきれいに拭いてやったぞ。息があるか気になって時々確認していたから、今日大事な鬼道模擬があるってのに寝不足だ。心配してやったんだぞ。心配、してやった、だと、いや俺はそんなやつだったか。ああ、くそ。修兵は一瞬のうちに吹きでた不満をのどの奥で押しとどめた。
一先ず入れ。
自室の戸を閉める音が思いの外大きくなった。