日と雛とルと
色素の薄い顔と烏色の髪に見覚えがあった。お前、昔俺が技局につれてやったガキだろう。
日番谷が見上げた先の顔は、白哉が去って汗もすっかり引いていた。見下された視線でうなずいたのだと分かった。
息災で何より。あれっきり話も聞かなかったから気にはなってたんだ。だが喧嘩売るなら相手を選べよ。喧嘩っ早いのは変わらないのか。
言葉が返ってくることは期待していないので自分のペースで話しかける。劇的に変化を遂げた身長差にはあえて言及しない。
特別課外の打ち合わせで久方ぶりに来たが、ここの桜は変わらず見事だな。視界の奥に見える老樹は花の盛りをわずかに越え終を見すえてくだる勢いの最中だった。
喋りすぎたかと少し迷って無難な話題を選んだが、黄里はすました顔をしている。さきほどのあれは何だったんだのかさっぱり分からない。怒気をあらわにした白哉と彼を兄と呼ぶ女、日番谷が見たのはそれだけだ。
ややこしいもの抱え込んでんだろうなあ。以前と同じことを思い、新たにおぼえることもあった。
上流貴族様ってのも面倒くさい生き物だよなあ。壁の外から来たものにはよく分からない何か、それに絡まったまま、何事もないかのようにすまして塀のなかを闊歩する。こちらに来て滑稽にさえ覚えることも少なからずあった。
こいつもどこで習ったか一丁前にそんな顔をする。いや、それも前からだったか。
俺はもっと素直な女がいい、そんな正直さから余計な言葉が口をついた。
面倒くせえ女はもてねえぞ。俺も帰る、じゃあな。
余計なお世話だ。ちびっこのくせに。
おい。
振り返るとひょろりとした背中がゆったりと遠ざかっていた。そうか朽木に話しかけていたな、喋れるようになってたか。今後どこかで知らずすれ違うことぐらいしかないだろうが、たくましくなったものだと、わずかばかり安堵した。
おい。なんでここにいる。
めずらしく雛森と帰省が重なったと思ったら、実家でかの女も寛いでいた。というのは数ヶ月後のことだった。
壁のなかに入って一ヶ月が過ぎようとしていた。
雛森桃は教本を抱えたまま講義室でうつむいていた。自分が本当になにも知らぬまま長く流魂街で生活していたことを思い、うかない表情だった。
昼休みまえの講義で生徒たちは皆そそくさと席を立っている。少し離れた席から吉良がきづかう気配がしたが、雛森は優しい彼に応える気分ではなかった。
おうい吉良、飯いくぞ。
阿散井の低い声が教室に響いて、心優しい級友のとまどいながらその場を離れるようすが空気の揺れで伝わってきた。
しまいには雛森一人がのこったようだった。
どうしたの黄里めずらしいね。
頭上で黄里がわずかに息をもらす音がした。向かいに座り込んだ彼女のばつのわるそうな顔をみて、雛森はすこし笑った。入学初日たまたま席が隣というきっかけで会話をするようになっていた。
結構ね、分かるんだから。黄里の霊圧。
うん。
それっきり何も言わない。言葉が多くないのはいつものことだ。長い手足をなげだして座り、ただのんびりしている。
無言のすき間に吸い込まれるように雛森がぽつともらした。
虚のはじまりを知っていた?
うん。
いまの授業ではじめて知ったの。そういって一つ溜息をついた。
不幸にも虚になってしまう人もいるんだね。
そう。
虚になってしまってからの罪を浄化するのが、わたしたちの仕事になるんだよね。
そうだ。
沸き上がった感情をどうにかしたくて、ちいさな子供のようにひとつひとつ黄里に確かめた。
でも虚に喰われた人は帰らないの。
とても大事だった家族を思った。
そうだよ。
でも。すべての虚を地獄におくるとなってたら、それはそれで、悩んでしまうのよ。
うん。
わたしどうしたいか分からなくなった。
思いもかけず言葉の尻がちいさく、震えた。
わたしにも、人を助けられる力があると分かって嬉しかった。力の使い方をちゃんと勉強して、大丈夫だよ、て安心させてあげられるようになりたかった。ここで頑張ったらそうできると思った。けど、そんな簡単な世界じゃなかった。
うん。
黄里はまっすぐに雛森をみて、うんとだけ相槌を繰り返した。雛森の抱えた教本はぽつぽつと染みをつくっている。
どうしてみんなは、きにならないの。あたしはだめ。いいクラスにいれてもらって頑張っても、こういうのにいちいち不安になっていてやっていけるのかな。
以前にも、魂葬された魂が行き着く流魂街には雛森が想像もつかないくらいひどく荒んだ街があると知って、塞いだこともあった。死神の道理では助けるはずがさらに人を苦しめることなっていないか。たどり着いたら他の地区には移せないという。こういうものなのだろうか。そんなものなのだろうか。
ごめん、雛森。死神はすべてを救えない。この世界のシステムにも不条理はある。
雛森にも分かっていたことだ。現世とはちがうこの世界に理想を求めたかった。だから、だれかに事実をはっきりと断言してもらいたかったのだと、いまさらながらに自覚した。
そうだよね。でもどうして黄里があやまるの。
ふたたび明るさが戻りつつある雛森に、彼女は肩をすくめた。
たまには偉そうにしたいから。
もうなにそれ。
雛森。
名を呼ばれて見上げると、黄里の額がこつんと雛森の額にあてられた。
私はそんな雛森に死神をやってほしい。
離れて行く黄里の顔にむかって雛森は笑顔で礼をいう。
ありがと。
じゃあわたしは黄里にもっと講義をうけてほしいな。いっしょに勉強しようよ。
やだ。
稀にみるさわやかな笑顔を披露して黄里は講義室を出ていく。
見送ってから視線を戻すと、雛森の机には藤が一枝おいてあった。
この人苦手だ。義兄に似ている。
初めて面と向かいあってルキアはすぐさまそう思った。
学院内に広がる雑木林の入り口に当たるところ、食堂での昼食を早々にあきらめた彼女が弁当を広げることにした場所だ。暖かさを増しつつある春の日差しが気持ちの良い場所でもあった。膝に載せられていたはずの弁当は足元で無残に散っていた。
大丈夫か。
まっすぐに向けられた視線を外せないまま、小さくうなずく。学院の制服、上級生だろうか。一目で長いとわかる手足をたたんで正面にひざまずいた女の淡い虹彩が光を透かす。
よかった。
表情の読めない顔で言われても落ち着かない。言葉と表情と感情のうち言葉だけ向けられても何の安心にもならない。あの家で何を考えているか分からない義兄と家人に囲まれた居心地の悪さを思い出す。何が良かったのだろうか。朽木の人間だから、後々面倒にならなくて良かったのか。ひねくれ具合が板に付いているのは自分でも分かっていた。
助けて欲しくなかったのか。
そんなことは。否定しようとしてでもそれも嘘のような気がして黙ってしまう。
その間も相手はただじっと瞳をそらさずにいる。そういうところもまた、義兄に似て居心地が悪いのだ。うつむいてその視線から逃れた。
ふう、と相手に溜め息をつかれて体が強ばる。ビクビクするなまた嫌な顔をされる。地面を映す視界の端で女が立ち上がるのが見えた。
ごめん。責めてるわけじゃない。
声色が変わって思わず顔を上げる。思いのほか見上げることになった視線の先、打って変わって反省の色が見えていた。
助かってよかったんだ。傷つけずにすんでよかった。
大柄な彼女は目線を外さぬままゆっくりと小さな子供に言い含めるように繰り返す。
守れてよかった。
そう言って彼女の淡い色の瞳から一筋涙がこぼれた。
一方でルキアは困惑するばかりだ。よく知らない人に助けられて感謝こそすれ、涙を流し安堵されても正直気持ち悪い。
ルキアの内心を知ってか知らずか、彼女が不意に視線を外した。流れた涙を拭うことなく二人の後方に広がる雑木林に目をやっている。
これからはあまり一人でうろつかないほうがいい。そう言い残して彼女は林の向こうに姿を消した。
もう一人になってしまってるが。何だったんだ。ルキアは足元に散った弁当の残骸を拾い始める。食べ損なってしまった。すでに予鈴の迫る時間になっていた。いやでも、と箸を拾いながら思い直す。
私を襲ってきたのは獣だったか。一瞬見えた白い面、まさか虚か。ルキアの知っているそれとは違ってずいぶんと小さかった。まあいいや、どちらにしても確信するだけのものがない。何が起きたかわからないくらいに先程の彼女の行動が速かったのだ。この人苦手だなどと筋違いのことを考えてしまうくらいに。
やっぱりこの人苦手だ。
翌日、弁当を抱えたルキアの横には昨日の彼女がいた。
一人を避けるようにいわれたが、こうしてまた昨日と同じように一人になれる場所を探して昼食をとっていた。助けてもらった義理はあるのでいささか居心地が悪い。場所を変えたのに見つけてくる辺りに若干の気持ち悪さもあった。
食堂はもっと苦手だ。一人で座るのはまだいいとして、朽木の看板をかかげた自分に対する視線には耐えられなかった。
真顔で見つめられるのが嫌で声をかけることはしない。横目でこっそり確認すれば、三歩隣で横たわりただ空を眺めているようだった。彼女の意に反したルキアを咎める風もない。
なんなんだろうこの人得体がしれない。うじうじと悩む種が増えてしまい、この日の昼食は溜息と一緒に食べることになった。
結局その日から、一人で昼食を食べるルキアのもとに彼女が毎日現れるようになった。回数をこなすようになると不思議なもので、得体がしれないままでも存在に慣れてくる。姿をあらわすのが遅れるだけでどうかしたのかと思うくらいには。
食べないのか。
無言に飽きてルキアの方から声をかけることもあった。食べものを勧めても相手は必ず首を振る。食事はいつ済ましてるんだろうか。ほとんどの場合昼休み中ルキアの横でぼんやりしているか昼寝をしてるかだった。
変化に気づいたのはちょうどその頃のことだった。
朽木さん一緒に行かない。
実技指導の前で教室に残っていたのはルキアともう一人だけだった。
え。私とか。
話しかけられると思ってなかったので、無意味な返答をしてしまった。
同級生はくすりと笑い、朽木さんが嫌でなければとうながした。
縁がないと諦めていた割に、廊下を歩きながら会話をきちんと進められることにルキア自身が驚いていた。
最近雰囲気変わったね。話しかけやすくなったよ。何かあったの。
そう問われて初めて、ちらほらと声をかけられることが増えたのに気づいた。
何が変わった。見当もつかない。特進クラスに入れずとも朽木の看板を掲げている以上手は抜けない。気をはって講義を受け鍛錬を積み課題をこなす。合間に一人で食事して一息つくだけだ。いや。ひとりじゃなかった。毎日粘着気味に現れるあの院生。
たったそれだけのこと。少し悩んで、ルキアは、分からない、と返した。他の人より環境に慣れるまでに時間がかかるだけだ、とも。
歩きながらまだ少し考えていた。いつもそばにいる誰か。それは安心を与えてくれるものだと思い至る。あの家にも人はたくさんいるが、家族ではない。そつのない最低限のお世話と決して踏み込まない会話。仕事としてよく躾けられているということなのだろう。それに比べるとただ無為な時間を繰り返していただけというのに。有り難いような、否定したいような複雑な心持になった。
おいお前。どこ行ってたんだ。
聞きなれた図太い声が廊下に響いてルキアはどきりとした。ここからは見えないが廊下の角を曲がった先に恋次がいる。誰かと話しているのが聞こえてきた。
ああもう、黄里。草やら葉っぱやらつけて。
角から恋次らとともにあの院生があらわれた。同学年なのは意外だったが特進クラスなのには得心いった。身のこなしが違うのはすでに間近で見ている。
図体ばかりでかくてただのガキだな。
浅打はどうしたの。
昼寝してたら忘れてきた。
ああもう。
あほだな。阿散井恋次が笑っていた。かたわらにいた二人の級友も呆れるやらおかしいやらの表情で、黄里と呼ばれていた彼女と仲がいいのは見てとれた。
廊下ですれ違うのにもう恋次と目が合うこともない。入学当初は立ち位置の違いに戸惑い、お互い姿を探しては気まずくなり目をそらすこともあった。環境に慣れてきたのだ、私も変わらなければ。
実習場に着く。ともに歩いてきた同級生と先に着いていた集団に混じっていった。
また翌日の昼時、いつものように寝転んでいる黄里のかたわらでルキアは弁当をつついていた。場所はいつもルキアの気分で決めている。どこだろうと黄里が見つけてくるのを分かっているので、人目につかない居心地の良い場所を選んできた。この日は陽射しの強いよく晴れた日だったので、学舎裏にある林の木陰に二人はいた。
ただいつもと違うのは珍しく黄里が話しかけてきたことだ。片肘ついて頭を起こしてくる。
それ、もう使えるか。
少し遅れて視線をたぐり浅打のことだと気づいて言葉を返す。どうだろう、実習はまあまあできていると思う。
特進だとどんなことやってるんだ。
同じだよ基本の繰り返し。
会話が続いているのに新鮮な驚きを感じつつ、真顔で人の目をまっすぐに見てくる彼女との会話は慣れないとも感じた。
そんな黄里の視線がふいに外される。林を見つめる横顔に、前にもこんなことがあったような。
構えておけ。
彼女が立ち上がるのを見送っていると、もう一声降ってきた。弁当かたしておけ。
そう言われて初めてルキアは不穏な空気を察した。慌てて手元を整えていると、背後で枝葉が揺れる音がして身を固くする。
またあんたか。
ルキアが突然の男の声に驚いていると、黄里の知り合いようだった。まあでも丁度よかったか、と浅打を手渡している。昼寝仲間か。
彼女と話しているのは見慣れない院生だった。黒髪と目つきの鋭い端正な顔は人目をひくだろうが、上級生だろうか。黄里に一言問うていた。
何か見たか。
いや。まだ見てない。
まだ、か。少し考えるそぶりをして黄里と向き合う。確信があるんだな、俺も同じだ。
その時だった。
ルキアはなんだ猿が出てきた、と柄から手を離しかけた。
構えとけ。
男から指示が飛ぶ。
現れたのが虚であることは誰の目にも明らかだった。
一、二、三体。かなり小さい上に、感じる霊圧から弱い部類に入ることはルキアでも確認できた。それでも抜いた斬魄刀の震えを押さえることができない。
視界にいた二体が消えた。残った一体がルキアとにらみ合う形になった。嫌な汗が噴き出す。来るな来るな来るな。
弱えぶん、速いな。あんた回り込め。挟み撃ちだ。
がしゃん、と刀が落ちる音がした。
しまった挟まれるぞ。
ルキアの背後から気味の悪い唸り声が聞こえきたと同時に、目の前で構えていた一体も駆け寄ってくる。小さな獣ぐらいの体の虚が小さく口を開ける。すぐさま顎が大きく外れて真っ赤な口内が目の前にせまってきた。
頭、食いちぎられる。思わず目を閉じたが、なんの衝撃もないことに気づいて薄目をあけた。
虚が消えかかっている。虚に向けられた黄里の細長い指も見えて、また助けられたのだと分かった。
ありがとう、助けてくれて。
整わない息を継ぎながら礼を言った。ルキアの心からの言葉だった。
どういたしまして。少し息を切らせた黄里から真顔で返事がくる。
一体、ちゃんと抑えてくれてたから助かった。上手に威嚇してた。
壁の中にきて初めて褒められたことにルキアは思わず嬉しくなった。朽木の人間ならできて当たり前、の世界しかないと思っていたからだ。
おいあんた。戦闘中に斬魄刀投げ捨てるやつがあるか。
上級生が黄里の浅打を拾ってやってきた。端正な顔ははじめと変わらず涼しげだったが、多少苛ついている。
その上あんな劇弱相手に息乱して何やってんだよ。
そこまで言って彼は黄里の顔をまじまじと見つめ、そういや一年だったか、とつぶやいた。
そこの小さいあんたも初めてでよく耐えたな。
ルキアにも声をかけ、刀を黄里の手に握らせる。死神になるなら大事なもんだろ、ちゃんと腰にさしとけ。
動きにくくなるからいらない。この右腕があればいい。
息も落ち着いた黄里はやはり真顔のまま、勝手な言い分を述べる。
結構な自信家だな。
にやりと笑う上級生をみて、ルキアは察するものがあった。黄里気に入られたな。
それならもうちょっと鍛えとけ。いくら動きが良くても持久力無けりゃあ意味がない。
教官には俺が先に報告いれておくから、そう言って黒髪の上級生は立ち去っていった。
その日の夜にはもう話が行ったのだろう、帰宅したルキアを義兄が待っていた。用件がわかっていてもわずかに胃が痛むのは気のせいではなかった。
学院からの話では虚と戦闘になったと。間違いないか。
義兄の自室で向き合って座るとすぐに質問が飛んだ。
戦ったかと聞かれれば、突っ立っていただけの話なので頷きにくい。私の場合は遭遇したというのが正しいかと。
あと二人いたのだったな。怪我は。
ありません。
そうか。よかった。
真顔でそう言われる。やはり黄里と似て感情を伺わせない声色だった。
あれ、でも。
黄里との日々があるせいか、思ったほど嫌味に聞こえなかった。むしろ。
少しは心配だったのか。わずかにでもそう感じたことにルキアは驚いたのだった。