Agape
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※最初に・宗教的な内容があります・実在する宗教や信仰とは関係ありません・フィクションです
彼女は熱心な信仰者だった。信仰を持った発端は特別なことでも何でもない。その宗教を信仰する家庭の生まれだった、ただそれだけだった。名無しの静かな日々に小さな波が起きたのは、毎晩欠かさず行っていた祈りを忘れてしまった翌日だった。
花屋へきた彼女の足は店先で怯んだ。店内には先客がおり、店の主人と会話をしている。先客は几帳面に結われた髪に対し、スーツは少し気崩しており、そのアンバランスさがどことなく艶やかな男だった。
彼女は迷った。そのわずかな時間が、店主に気付く暇を与えた。
「やあ名無し。今日は何の花を探しに来たのかな」
「あぁ、えっと…食卓に置いている花がしおれてしまって…」
「それは大変だ。豊かな生活に花は欠かせないからね…旬の花なんてどうかな」
目じりに皺を寄せてにこにこと答える主人に頷き、笑みを返した名無しは店内に所狭しと並べられた花へ目を向けた。
「季節の花はそっちに置いてるよ。…あぁ、確か奥にもまだ出していないものがあったかな」
先客との会話はもういいのか、彼を残して主人は店の奥へ引っ込んでいった。その背を見送った後、先程から感じている視線に交わらないように花々へと目を戻す。気付いているはずがないと半分願うように思うも、彼はゆったりとした足取りで名無しへ近づいた。
「感動の再会だってのに、随分よそよそしいじゃあねえか…」
「…覚えてたんだ」
忘れられてるかと思って、と笑ってみせる彼女を男はじっと見る。見透かされているような強いまなざしに、名無しは居ても立っても居られなくなり花へ視線を落とす。数年前まで恋人だった男の目を、どうしても見ることが出来なかった。
「いつオレのところに帰るかと待ってたんだ…忘れるわけねーだろ」
「ッ…プロシュート、それはもう話したでしょ」
「オレは納得してねえ。…あれは」
プロシュートが更に近づこうと歩み出したとき、奥から両手いっぱいに花を抱えてよたよたと店主が出てくる。大量の花々に視界を奪われ、前が見えていないようだ。プロシュートの横を通り過ぎ、危なっかしいそれに駆け寄って手を貸せば、甘く爽やかな花の香りが名無しの鼻に広がる。
「おお、ありがとね…良い香りだろう?私の気に入っている花のひとつでもあるんだ」
我が子を自慢するかのように顔を緩ませる店主に「この花にする」と言えば嬉しそうに数本、包み始める。店主はその手を動かしながら名無しの後方へ声をかけた。
「おまえさんもどうだい?」
「いや、次でいい…また話しにくる」
そうかい、と手元を見ながら答えた店主は気付いていなかったが、彼の瞳はまっすぐ彼女を捉えていた。
とある宗教に「牛や豚を食べてはいけない」という決まりがあるように、名無しが信仰する宗教にも戒律がある。その中のひとつに「婚前の性交渉をしてはならない」という決まりがあった。プロシュートは守る気などさらさらなかったが、急ぐ気もなかった。それは彼女が拒否するなら無理やりすることはないという、彼の愛する人への態度だった。
名無しはまだ結婚も考えていないような仲であるプロシュートのことを、両親にわざわざ紹介はしなかった。だが日常的な会話の中で、恋人が居ることやデートの話をすることはある。
可愛い一人娘。「彼と結婚を考えるようになったら、その時は必ず紹介するから」という言葉を信じていなかったわけではない。ただ、心配だった。知りたかっただけだった。娘が楽しそうに話すその男がどんな人間なのか。
その結果、プロシュートの素性を知った両親は、反対した。ただひたすら「同じ信仰者にしなさい。彼とは別れなさい」と説き伏せ、名無しが理由を問うても両親は教えなかった。彼のことを幸せそうに話していた娘に言えなかった。彼がギャングだなんて。
理由も分からず反対され、納得できなかった彼女は隠れて交際を続けていた。そして秘密裏に会っていたことを知られた日、不慮の事故で両親は他界した。
「…やっぱり父と母の言う通りだと思うの」
両親の言いつけを聞こうとしなかったから、神の教えに背こうとしたから、父と母は…。私のせいだ。私への罰だ。自分のせいであると思いこんだ彼女は一方的に別れを告げた。無論プロシュートは納得しなかったが、彼女は逃げるように去り、それから信仰により一層熱心になった。ありもしない自分の罪を滅ぼすように。
「どうした?」
ソファに沈み、ため息をついた名無しに、婚約者の男がやさしく問いかける。ううん、と首を振って微笑み返しながらぼんやり思い返す。
先日、数年ぶりに花屋で再会し「また話しにくる」そう言っていたプロシュートと今日、話してきた。現在、同じ信仰を持つ婚約者がいること、プロシュートとはもう会わない旨を伝えてきたのだ。黙ってこちらを見据える彼の目を最後まで見ることができず、一方的に話をして逃げるように帰ってきたのだった。気を張っていた状態から解放されて、ついため息が出ただけだった。
「…なあ、名無し」
呼び声に男の方を向けば、するりと手が伸びてきてゆっくり唇が重なる。戸惑い気味にそれを受け入れていると、距離が近くなり、男の手が太ももに触れる。それに危機を感じた名無しは身を離し、両手で制した。
「ちょっ、と…待って。まだダメでしょう…」
「大丈夫だって…俺たち結婚するだろ…な?」
前から何となく感じていた。婚約者が欲望の目を向けていることを。名無しはずっとやんわり流すように拒否していた。それは婚前の性交渉をしてはならないという教えを、守りたかったからではない。怖かったのだ。それまで男を知らない彼女は、一線を超えることに怯えていた。それでもようやく手に入れた平穏を壊したくなかった名無しは、気付かないふりをしていた。
しかし教えによって抑圧された男の欲望は止まることを知らず、目の色を変えて彼女を押し倒す。人が変わったかのような男に、名無しは恐怖した。
「名無し…好きだ…すき…」
「っ、お願い、やめて」
うわ言のように繰り返す男の荒がった生暖かい息が肌をくすぐり、全身が粟立つ。目に涙をためて抵抗するが、力の差にどうすることも出来ない。名無しの嫌がる声も届かないほど、今、男は欲望に支配されていた。
ああ、このまま私は身を暴かれるんだ。…どうせ彼とは結婚する身。いつかは行われる行為。今やったって同じなはず。彼を受け入れなければ、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど視界が滲んでゆく。
ごめんね、プロシュート。最初に心にそっと出てきた謝罪はプロシュートに向けたものだった。彼女の脳裏には身体を優しく包んで額にキスを落とし、一緒に眠ってくれた思い出が浮かぶ。「無理するな」と彼女の拒否を受け入れてくれたのはいつだってプロシュートだった。その優しさが今、目の前の婚約者を受け入れることによって無下になってしまう気がした。
次に両親へ、最後に神に謝った彼女は身体の力を抜く。
ギシリ、と鈍い音がしたその時、身体に乗っていた重みが消えた。
「男はブチ犯すことしか考えてねえと教えちゃくれねえのか?…オメーの言う、神ってのは」
どうしてここにいるのか、なんてどうでも良かった。
強く瞑った目をおそるおそる開けば目に入る見知った人物に、名無しの瞳から涙がこぼれた。
「ップ、ロ、シュート…ッ」
プロシュートは床に転がる男を一瞥したあと、名無しの傍へ膝をつき、彼女の頬を両手で包んだ。そして頬を流れる涙を拭いながら大きくため息をつき、呆れた声で言い聞かせるように言う。
「なぁ名無しよォ…いつになったら理解するんだ。え?神はおまえを一度でも救ったか?」
「ッ、」
最初に別れを告げる時から背けてきた彼の目。数年ぶりに真っ直ぐ見たその目はあの時から一切変わらない、射抜くような瞳だった。彼は今まで一度も彼女が信じる教えにも神にも口を出さないでいた。全てを受け入れ、全てを愛してくれた。そんな彼が、初めて神に言及した。
強く鋭い瞳に当てられ、名無しの中にある神という存在が揺らぐ。たった今、自分を救ったのは神でも同じ信者でもない、目の前の彼だったから。それでも今まで信じてきたものがすぐに崩れることはなく、彼の問いに否定も肯定も出来なかった。
プロシュートは、涙と嗚咽をこぼして答えない名無しにため息をついて「出るか」と言った。その委ねるような問いかけに頷き、名無しは彼の両腕に身を任せる。横抱きにした彼女をできるだけ揺らさないよう、普段よりゆったりとした歩調でどこかへ向かいだすプロシュート。その優しい振動と自分より少し高い体温を感じて目を閉じた。
「神より愛してやる」
そんな言葉を聞きながら。
彼女は熱心な信仰者だった。信仰を持った発端は特別なことでも何でもない。その宗教を信仰する家庭の生まれだった、ただそれだけだった。名無しの静かな日々に小さな波が起きたのは、毎晩欠かさず行っていた祈りを忘れてしまった翌日だった。
花屋へきた彼女の足は店先で怯んだ。店内には先客がおり、店の主人と会話をしている。先客は几帳面に結われた髪に対し、スーツは少し気崩しており、そのアンバランスさがどことなく艶やかな男だった。
彼女は迷った。そのわずかな時間が、店主に気付く暇を与えた。
「やあ名無し。今日は何の花を探しに来たのかな」
「あぁ、えっと…食卓に置いている花がしおれてしまって…」
「それは大変だ。豊かな生活に花は欠かせないからね…旬の花なんてどうかな」
目じりに皺を寄せてにこにこと答える主人に頷き、笑みを返した名無しは店内に所狭しと並べられた花へ目を向けた。
「季節の花はそっちに置いてるよ。…あぁ、確か奥にもまだ出していないものがあったかな」
先客との会話はもういいのか、彼を残して主人は店の奥へ引っ込んでいった。その背を見送った後、先程から感じている視線に交わらないように花々へと目を戻す。気付いているはずがないと半分願うように思うも、彼はゆったりとした足取りで名無しへ近づいた。
「感動の再会だってのに、随分よそよそしいじゃあねえか…」
「…覚えてたんだ」
忘れられてるかと思って、と笑ってみせる彼女を男はじっと見る。見透かされているような強いまなざしに、名無しは居ても立っても居られなくなり花へ視線を落とす。数年前まで恋人だった男の目を、どうしても見ることが出来なかった。
「いつオレのところに帰るかと待ってたんだ…忘れるわけねーだろ」
「ッ…プロシュート、それはもう話したでしょ」
「オレは納得してねえ。…あれは」
プロシュートが更に近づこうと歩み出したとき、奥から両手いっぱいに花を抱えてよたよたと店主が出てくる。大量の花々に視界を奪われ、前が見えていないようだ。プロシュートの横を通り過ぎ、危なっかしいそれに駆け寄って手を貸せば、甘く爽やかな花の香りが名無しの鼻に広がる。
「おお、ありがとね…良い香りだろう?私の気に入っている花のひとつでもあるんだ」
我が子を自慢するかのように顔を緩ませる店主に「この花にする」と言えば嬉しそうに数本、包み始める。店主はその手を動かしながら名無しの後方へ声をかけた。
「おまえさんもどうだい?」
「いや、次でいい…また話しにくる」
そうかい、と手元を見ながら答えた店主は気付いていなかったが、彼の瞳はまっすぐ彼女を捉えていた。
とある宗教に「牛や豚を食べてはいけない」という決まりがあるように、名無しが信仰する宗教にも戒律がある。その中のひとつに「婚前の性交渉をしてはならない」という決まりがあった。プロシュートは守る気などさらさらなかったが、急ぐ気もなかった。それは彼女が拒否するなら無理やりすることはないという、彼の愛する人への態度だった。
名無しはまだ結婚も考えていないような仲であるプロシュートのことを、両親にわざわざ紹介はしなかった。だが日常的な会話の中で、恋人が居ることやデートの話をすることはある。
可愛い一人娘。「彼と結婚を考えるようになったら、その時は必ず紹介するから」という言葉を信じていなかったわけではない。ただ、心配だった。知りたかっただけだった。娘が楽しそうに話すその男がどんな人間なのか。
その結果、プロシュートの素性を知った両親は、反対した。ただひたすら「同じ信仰者にしなさい。彼とは別れなさい」と説き伏せ、名無しが理由を問うても両親は教えなかった。彼のことを幸せそうに話していた娘に言えなかった。彼がギャングだなんて。
理由も分からず反対され、納得できなかった彼女は隠れて交際を続けていた。そして秘密裏に会っていたことを知られた日、不慮の事故で両親は他界した。
「…やっぱり父と母の言う通りだと思うの」
両親の言いつけを聞こうとしなかったから、神の教えに背こうとしたから、父と母は…。私のせいだ。私への罰だ。自分のせいであると思いこんだ彼女は一方的に別れを告げた。無論プロシュートは納得しなかったが、彼女は逃げるように去り、それから信仰により一層熱心になった。ありもしない自分の罪を滅ぼすように。
「どうした?」
ソファに沈み、ため息をついた名無しに、婚約者の男がやさしく問いかける。ううん、と首を振って微笑み返しながらぼんやり思い返す。
先日、数年ぶりに花屋で再会し「また話しにくる」そう言っていたプロシュートと今日、話してきた。現在、同じ信仰を持つ婚約者がいること、プロシュートとはもう会わない旨を伝えてきたのだ。黙ってこちらを見据える彼の目を最後まで見ることができず、一方的に話をして逃げるように帰ってきたのだった。気を張っていた状態から解放されて、ついため息が出ただけだった。
「…なあ、名無し」
呼び声に男の方を向けば、するりと手が伸びてきてゆっくり唇が重なる。戸惑い気味にそれを受け入れていると、距離が近くなり、男の手が太ももに触れる。それに危機を感じた名無しは身を離し、両手で制した。
「ちょっ、と…待って。まだダメでしょう…」
「大丈夫だって…俺たち結婚するだろ…な?」
前から何となく感じていた。婚約者が欲望の目を向けていることを。名無しはずっとやんわり流すように拒否していた。それは婚前の性交渉をしてはならないという教えを、守りたかったからではない。怖かったのだ。それまで男を知らない彼女は、一線を超えることに怯えていた。それでもようやく手に入れた平穏を壊したくなかった名無しは、気付かないふりをしていた。
しかし教えによって抑圧された男の欲望は止まることを知らず、目の色を変えて彼女を押し倒す。人が変わったかのような男に、名無しは恐怖した。
「名無し…好きだ…すき…」
「っ、お願い、やめて」
うわ言のように繰り返す男の荒がった生暖かい息が肌をくすぐり、全身が粟立つ。目に涙をためて抵抗するが、力の差にどうすることも出来ない。名無しの嫌がる声も届かないほど、今、男は欲望に支配されていた。
ああ、このまま私は身を暴かれるんだ。…どうせ彼とは結婚する身。いつかは行われる行為。今やったって同じなはず。彼を受け入れなければ、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど視界が滲んでゆく。
ごめんね、プロシュート。最初に心にそっと出てきた謝罪はプロシュートに向けたものだった。彼女の脳裏には身体を優しく包んで額にキスを落とし、一緒に眠ってくれた思い出が浮かぶ。「無理するな」と彼女の拒否を受け入れてくれたのはいつだってプロシュートだった。その優しさが今、目の前の婚約者を受け入れることによって無下になってしまう気がした。
次に両親へ、最後に神に謝った彼女は身体の力を抜く。
ギシリ、と鈍い音がしたその時、身体に乗っていた重みが消えた。
「男はブチ犯すことしか考えてねえと教えちゃくれねえのか?…オメーの言う、神ってのは」
どうしてここにいるのか、なんてどうでも良かった。
強く瞑った目をおそるおそる開けば目に入る見知った人物に、名無しの瞳から涙がこぼれた。
「ップ、ロ、シュート…ッ」
プロシュートは床に転がる男を一瞥したあと、名無しの傍へ膝をつき、彼女の頬を両手で包んだ。そして頬を流れる涙を拭いながら大きくため息をつき、呆れた声で言い聞かせるように言う。
「なぁ名無しよォ…いつになったら理解するんだ。え?神はおまえを一度でも救ったか?」
「ッ、」
最初に別れを告げる時から背けてきた彼の目。数年ぶりに真っ直ぐ見たその目はあの時から一切変わらない、射抜くような瞳だった。彼は今まで一度も彼女が信じる教えにも神にも口を出さないでいた。全てを受け入れ、全てを愛してくれた。そんな彼が、初めて神に言及した。
強く鋭い瞳に当てられ、名無しの中にある神という存在が揺らぐ。たった今、自分を救ったのは神でも同じ信者でもない、目の前の彼だったから。それでも今まで信じてきたものがすぐに崩れることはなく、彼の問いに否定も肯定も出来なかった。
プロシュートは、涙と嗚咽をこぼして答えない名無しにため息をついて「出るか」と言った。その委ねるような問いかけに頷き、名無しは彼の両腕に身を任せる。横抱きにした彼女をできるだけ揺らさないよう、普段よりゆったりとした歩調でどこかへ向かいだすプロシュート。その優しい振動と自分より少し高い体温を感じて目を閉じた。
「神より愛してやる」
そんな言葉を聞きながら。
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