ラナンキュラス
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わたしには片手がない。左手の手首から先がすっかりない。
生まれつきではなく、1年ほど前に事故で失った。
軽い食亊を終えた朝、出かけるための準備を始める。羽織ったシャツのボタンを留めようと右手を動かすわたしの前に、アバッキオがすっと立った。…まただ。差し出された彼の両手に、わたしは少しだけ眉を下げた。
「ね…いいよ…それくらい出来るよ。っていうかさすがに出来なきゃ」
「オレがやった方が早い…日が暮れるぜ」
シャツのボタン留め。片手だけになってもう1年以上も経っている。確かに両手でするよりは時間がかかるけど、人に頼らずとも出来る。それに無理なことは無理だと言うし、一人じゃできないことは手を貸してほしいと頼む。だけどアバッキオはいつまで経っても手助けしてくれる。やらなきゃ上達もしないのにな。そんなことを思いながらもアバッキオにボタンを手に取られてしまい、振り払うのも悪いと大人しく留めてもらう。
自然と近くなる距離に、最初はドキドキしたなあ。今も変わらずドキドキするけど、それとは違う気持ちの方が大きかった。わたしは目線を下ろし、器用にボタンを留めていく指先を眺める。
これくらい出来るのにな…。
アバッキオがここまで面倒を見てくれるのは、きっと責任を感じているから。左手を失った事故、というのはスタンド使いと相対したときのこと。一瞬だった。痛みを感じる間もないほどにスパッと私の手首は飛んだ。もちろん痛みはすぐに強烈に襲ってきたんだけど。
手首があればブチャラティのジッパーで繋ぐことが出来たかもしれないけど、勢いよく跳ね飛ばされた手首はどうしても見つけ出せなかった。しかしこの損傷は完全にわたしの不注意で、アバッキオはただ一緒に戦っていただけだ。むしろ助けてくれていて、私が足手まといだったようにすら思う。だから彼がここまでする必要はまったくないのに。
思えば、アバッキオと恋人関係になったのもあの任務の後だ。深く考えずに二つ返事で了承したわたしは、あの時確実に舞い上がっていた。彼の気持ちを疑ってはいない。責任を感じていたとしても、わざわざ恋人になる必要はないから。しかしそのタイミングで恋人になって、こんなにまで世話をかけてもらって…彼の厚意を素直に受け入れられなくなっていた。
ほら、今日も。適当な席についたわたしの隣の椅子をアバッキオは引く。こんなふうに隣り合って座るときは、手伝う事があろうとなかろうと必ず左側に座ってくれる。とても自然に違和感なく行動しているが、毎回の事だとさすがに気付く。さりげない左手への配慮にありがたさよりも申し訳なさが募ってしまう。
わたしは手を失ってから、両手が隠れてしまうほどの長袖を着るようになった。もうずっと半袖を着ていない。手首がないことはもう慣れたし、恥ずかしくも惨めでもない。人目を感じることはあるけど、そんなの全くと言っていいほど気にしていない。だけどこの腕がアバッキオの目に入るたび、彼に責任を感じさせてしまっているのではないかと思うと晒しておけなかった。
「治してみますか?」
そうわたしに言ったのはある日チームに入ってきた新人、ジョルノ・ジョバァーナだった。彼も他の皆と同じ、スタンド保有者だ。その能力は物体、全くの無機物からでも生命を生み出すことが出来るというもの。さらには体の一部分を生み出し、移植することでこの欠損を治療できるという。わたしの左腕を見たジョルノは、痛みはありますが…と治療を提案してくれた。
「ッ、うん!お願い…!」
まさかそんな能力があるなんて。手が戻ってくるなら痛みなんてどうってことない。わたしは頭が取れそうなほどに首を縦に振った。それを見たジョルノはテーブルに置いてあった花瓶を手に取り、「使っても構いませんか?」と小首を傾げる。片手に収まるサイズの数本挿しの花瓶。ブチャラティが町の人に花を貰った時に挿していたものだ。また首を縦に振ると、ジョルノはわたしの左腕を手に取り花瓶と共に手をかざした。
一際強い激しい痛みが襲った後、ジョルノが翳していた手をどけると花瓶は消え、そこには手首があった。目を見開き、わたしはゆっくり腕を上げて手をしげしげと眺める。どこからどう見ても本物の手にしか見えない。血の通った人間の手だ。つなぎ目のようなものもない。失っていたこと自体がなかったかのようだった。
先程のような強い痛みはないがズキズキとした鈍い痛みは続いていて、わたしは恐る恐る指を動かしてみる。久しぶりで動かし方に少しつまずいたけど、すぐにその感覚は戻ってくる。ぎこちなく、遠慮がちに動く手。わたしのモノじゃないのにわたしの意思で動いている。創り出したばかりだからか反応は少し悪いが、確実にわたしの言うことを聞いている。胸が高鳴った。手だ。わたしの手だ。一生無いままだと思っていたわたしの手。
「動く……すごい…!すごいよジョルノ!!…ありがとうッ!」
興奮気味にお礼を言うと、いえ、とジョルノは爽やかに微笑む。ほんと素晴らしい能力だ。彼には感謝してもしきれない。今度、なにかお返ししなくっちゃ。にぎにぎと指を曲げ伸ばしたり、右手でペタペタと触ったりしながら考える。良かった。手が戻ったこともだけど、これでアバッキオの手を煩わせないで済むと思うと嬉しかった。
手が戻って数日、アバッキオとは特に何も変わらず過ごしている。手はあるのだからもちろん手助けはしてもらってない。気負わずに恋人でいられるようになったんだ。
ある日、ナランチャと一緒にお届け物をしなくちゃならなかった。本当はブチャラティが町の人に頼まれたことだけど彼は別件が重なってしまい、代わりにわたし達が行くことになった。しかしわたしは今、ひとり来た道を戻っている。
「…そんでさぁ~」
「ナランチャ…封筒は?持ってる?」
彼の話を遮ってまで質問したのは、彼が手ぶらだったから。バッグを持っているわけでもないし、ポッケかどこかあるのかと彼の服を見回した。ナランチャは立ち止まって身体中をまさぐると、顔を青ざめさせて縋るようにこっちを見る。
「名無し……ねえ…ねえよ……封筒がねえんだよ!!あぁ…どっかに落としちゃったのかなぁ~~?!」
「落ち着いて…出るときは持ってたんだよね?」
思い出すように視線を宙に浮かせ、首を捻るナランチャ。そして思い出したのかハッとする。その表情で忘れてきたのだと察したわたしは、取りに戻ることにした。
「…分かった。ここで待ってて…取りに行ってくるから」
「ごめんなぁ名無し…」
しゅん、と肩を落とすナランチャに気にしないでと微笑んで踵を返す。ナランチャが悪いわけじゃない。わたしだって出るときにしっかり確認をしなかった。急ぎの用じゃないのが救いだ。
足早にアジトに戻り、広間の戸を開けようとしたそのとき声が聞こえた。
…わたしの事だ。その声はミスタとアバッキオのもので、丁度聞こえた会話の内容はわたしとの交際のことだった。またミスタは余計なことを…呆れながらもわたしは聞き耳を立ててしまう。盗み聞きなんて趣味悪い。けど、アバッキオを知りたかった。どうしてわたしと付き合ったの?なんて聞けないし、聞いたところで本音を吐き出すような人じゃない。彼が何を言うのか聞きたくて、つい動きを止めてしまった。そして、後悔した。
「その方が同棲しても変じゃあねーだろ…」
聞きなれた声はそう言った。
責任を感じていてもわざわざ恋人になる必要はないと思っていた。だからアバッキオの気持ちは本物だと。けど…そっか、そんな理由があったんだ。確かに恋人でもない人の家に押し入って、一緒に住むわけにはいかないもんね。でも偽りの関係を作ってまで面倒見られたくないよ。そんな嫌気と同時に、彼をそうさせるまでの重圧な罪悪感を与えていたのかと痛む。
「で、どーすんの。ジョルノが治しちまったんだろ?」
「……潮時かもな」
そりゃそうだ。両手がしっかりあるわたしはもう、不自由なんかじゃない。手助けもいらない。この理由を聞いても、アバッキオを非難するつもりはなかった。彼は責任感が人一倍強い。下手するとわたしよりこの手のことを気にしていた。すべては罪悪感からの善意で、苦肉の策だったのだろう。わたしはこの無い左手で、もう1年も彼を縛り付けていたんだ。今はむしろこっちの方が罪悪感に埋もれそう。
あー、用事の途中で良かった。そうじゃなきゃ泣き喚いたかもしれない。泣きべそかく前の子供みたいな顔をしていたナランチャを思い出す。早く戻ろう。目当ての封筒は有難いことに玄関先に置いてあり、広間へは行かなくて済んだ。わたしは封筒を引っ掴むと、駆け足でナランチャの元へ向かった。
いつ別れを切り出されるのだろうとわずかな不安を抱えて1週間が経った。わたし達は変わらず恋人を続けている。でも終わりなんだろうな、そんな予兆はある。最近アバッキオが借家情報を見ていた。わたしの所に同棲する前に、自分の部屋は解約してきたのだろう。そりゃ左手が戻ってくるなんて思わないよね。いま別れて気まずく過ごすのも嫌だし、部屋が見つかるまではこのままがいい。
夜、お風呂も終わり、わたしはダイニングテーブルでパソコンを使っていた。ボーっと画面を見つめるわたしの背後からアバッキオが手を伸ばし、わたしの左腕を取った。わたしはされるがまま、左腕を上げた状態になる。変わらず平然と画面を見つめるふりをしていたけど、何をするのかと内心気が気じゃなかった。
「…完全におまえの手だな」
しばらくして聴こえたアバッキオの言葉に、ちいさく心が痛む。確認したかったのかな。本物なのか、ちゃんと動くのか、もう手助けは要らないのか。
大丈夫。覚悟を決められるだけの期間は十分与えられた。わたしは静かに唾をのみ、キーボードの上に戻された“完全なわたしの手”に視線を落とした。
「…え、」
戻された左手。そのひとつの指にリングがはめられていた。きっとわたしの今の顔はものすごく間抜けだったと思う。咄嗟にアバッキオのほうを振り返ろうとして、大きな手に遮られた。
「こっち向くな」
「なんで、」
「いいから…見んじゃあねえ」
いつもなら構わず振り返っている。けど今は何が何だか分からなくて、とりあえず言う通りに振り返ろうとするのをやめた。わたしは首を軽く後ろに向けた状態のまま、別れないの…?と小さく聞く。
「…なんでそうなる……別れてーのか」
「だ、って…その、聞いちゃって」
先ほどより少し落ちたアバッキオの声のトーンは、本当に分からないといったようで、わたしも困惑する。どういうわけか分からず、あの時のミスタとの会話を聞いてしまったと素直に話した。
「この手のために付き合ったんでしょう?……同棲しても、変に思われないから…」
「オレはそう言ったし、確かにおまえと付き合った理由のひとつだ……だけどそれだけのために好きでもねえ奴と四六時中いるわけねえだろ」
「でも、潮時って、」
「タイミングって意味だ…別れるタイミングってことじゃあねえぜ」
勘違い…というか言葉の意味の捉え違いってこと?でも、部屋を探していたのは事実だ。わたしはソファに無造作に置かれた借家の情報誌を指さし、あれは?と聞いた。
「二人でこの部屋じゃあ狭いだろ……もっと広いところを探してる。おまえが慣れてる場所のほうがいいと思ってここに居ただけだ」
「…ッ、……」
「…まだなんかあんのか」
上手く呑み込めないわたしの顔が何か言いたそうに見えたのか、アバッキオはそう聞いてきた。だけどまだ呑み込めてもいないのに言いたい事なんて咄嗟に思いつかなくて、わたしは左腕を少し上げて、見せるように右手で指さす。そして手があることなんて見れば分かることを、確かめるように、念押すように言った。
「手、あるよ……ほら」
「ああ…よかったな」
よかったな。アバッキオは表情を変えずに手を一瞥して言う。その言い方は手が戻ったことになんてまるで興味がなさそうで、彼を知らない人が聞いたら冷たい人だと思うんだろう。でもこの左手があってもなくても彼は変わらないんだと、その単調な態度がわたしの胸をいっぱいにした。
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