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じゃあな。ホルマジオはそう言って出ていく。
名無しは一人、淀んだ空間に残され、淀んだ余韻に浸かる。適当に借りたホテルの一室。身一つの彼女は、乱れたシーツの上でぼんやり天井を見ていた。
情事後の甘い雰囲気も何もなく、彼はさっさと出て行ってしまう。冷たくも取れるその態度は、恋人にとっては寂しいものだろう。しかし2人の関係は恋人と呼ばれるものではなく、彼のその態度はむしろ、名無しにとってありがたいものだった。
2人は肉体だけの関係、所謂セフレと呼ばれる関係だ。出会いは数か月前。名無しは珍しくバーで飲み、呂律も回らなくなる程酔っていた。そしてたまたま居合わせたホルマジオとそのままホテルに流れ込む。何処かで聞くような、よくあるシチュエーションだった。少し違うのは翌日、目覚めた名無しは現状を理解すると、とてつもない後悔に襲われたことだ。
というのも彼女には恋人がいる。もちろん、ホルマジオではない。それにも関わらず、他の男性と…。酔っていたとはいえ、あの人を裏切ってしまった。
穢れたような気がする身体を隠すために、服へ手を伸ばす。ベッドでぐしゃぐしゃになった下着や、放り投げられたであろう床に散る上着をかき集めた。動揺からくる震えと焦りで、ただの着替えにいつもより時間がかかる。もたつきながらも済ませると、数回の深呼吸をする。一応の深呼吸にも鼓動は未だ整わないが、無視してベッドを振り返った。いつのまに起きていたのか、昨夜の彼が頬杖をついてこちらを見ている。
「ッ……あの…私、」
「なあ」
名無しが口を開いたのを見て、被せるようにしてホルマジオが遮る。
「オメー男いんだろ?……ありゃ恋人ってところかァ~~……?」
責めるでも咎めるでもない言い方だ。イタズラめいた表情でホルマジオは名無しに問いかける。恋人の名前でも呼んでしまったのだろうか。昨夜のことなどうろ覚えの名無しには、それくらいしか憶測が及ばない。それなら、と名無しは小さく頷いた。
「…その、だから…なかったことに、してくれる?」
「おいおい忘れろってんのかよ…あんなに楽しんだのに」
ホルマジオはため息交じりの台詞に、眉尻を下げてわざとらしく残念がる。ただじゃ帰れない。そう悟った名無しは分かりやすく表情を強張らせた。
「別にバラそうってんじゃあねーぜ?……ただ、その代わり…」
それはあくまで交換条件だった。秘密にしたい彼女と定期的な合瀬を求める彼。しかしそれは、選択肢のない名無しにとって脅し以外の何物でもない。
「そんなに怯えんなよ…またオレとこうして会ってくれりゃあいい」
な?と目の奥を光らせる彼に、否定することも頷くことも出来なかった。
それから数か月、秘密裏に会っては身体を重ねた。何度も繰り返していくうちに名無しの罪悪感は薄れていき、抜け出さなければという焦りもなくなった。しかしこの関係を望んでいるわけでもなく、早くホルマジオが飽きてくれたら、そう思っていた。
ホルマジオは決して乱雑なセックスはせず、なんなら行為だけでみれば恋人と遜色ない。ただ、終われば彼はさっさと出ていく。それは名無しにとって重要なことだった。
優しくされてしまえば、それこそ恋人と変わりない。あくまで身体だけの関係だと割り切れていなければ。朝まで一緒に居たのは、この関係が始まったあの日が最初で最後だった。
しかし、人に言えないような関係はずっと続いていくわけでもなく。名無しはついに恋人と籍を入れることになった。きっかけは先月から続く身体のへ違和感に、名無しが病院を受診したこと。
担当した医者の口からは祝いの言葉が発された。続いて「ご懐妊です」と。いつかは、と思ってはいたが結婚もまだである彼女は、正直なところ望んでいなかった。だが授かった命を簡単に無下にすることも出来ず、彼女は恋人に打ち明ける。思いのほか彼は喜んでくれ、それならと籍を入れることになった。
「もう、会えない」
取り決めた日に、取り決めたホテルの一室に来た名無しは、ホルマジオの姿が目に入るや否やそう告げた。行為が始まってしまっては意味がない。雰囲気さえも出す間を与えず、はっきり告げた。ホルマジオは少しまいったように溜息を軽く吐いたが、その顔からは特に大きな感情の変化は見られない。
「なんだよ…バレちまったのかァ~~…?」
「…結婚するの」
「そりゃ良かったじゃあねーか!プロポーズの言葉は?」
ホルマジオの問いかけに名無しは口を噤む。こんな風に結婚するつもりじゃなかった。ホルマジオとの関係に終止符を打てる機会は逃したくないが、こんな未来を思い描いていたわけじゃない。
ホルマジオは口を噤んだ名無しを眺めて、口端をつり上げた。初めて会った時から感じていた。彼は察しがいい。だから次の言葉にも彼女は驚かなかった。
「ガキが出来たんだろ?……で?誰のだよ」
「……彼のに決まってるでしょ」
「へえ…?」
「ッ…!とにかくもう、会えないからッ!」
何かを見透かしてくるような目をかわすようにして、ホルマジオの横を通り抜ける。引き留められることもなく、名無しはホテルの一室を後にした。
それから2週間たったころ。数日前から名無しの恋人が行方不明となっていた。あまりにも急すぎる結婚へ責任感に押しつぶされてしまったのだろうか。そんな人じゃないと分かっていながら、お腹の子と残された名無しは大きく不安を抱えた。
このまま帰ってこなかったら。そんな彼女の杞憂は杞憂に終わらず、突然の訃報だった。見つかった恋人は既に、帰らぬ人となっていた。しかし、死体という死体は見つかっておらず、唯一発見された左足首が遺族に残された。
夜の街をふらふらと歩く。きっと他の人からは酔った女だと思われているのだろう。まばらな街灯は名無しの泣き崩れた顔を曝すことはなく、ぼんやりと辺りを照らす。陽が落ちてかなり時間が経った街は、冷やしてはいけない身体の温度を下げる。
浴びるほど飲んで、忘れてしまいたい。心身ともに疲弊した彼女の思考は危険なものとなっていく。気付けばバーカウンターで一人、酒の入ったグラスを手にしていた。ふくらみもないお腹は、まだ胎動なんて感じられない。それでも小さな命がここにあるのかと思うと手が震えた。
自棄になる感情を理性が牽制し、グラスを持ったまま止まる。この感情に身を任せてしまったら、自分が人じゃなくなるような気がした。一心にグラスを見つめる名無しの背後から伸びた腕が、その手からグラスを奪った。
「妊婦が飲むもんじゃあねえぜ」
奪われたグラスを追って振り向くと、ホルマジオがグラスを傾け、その中身を一気に流し込んだ。空になったグラスをカウンターに置いたその瞬間、彼から香る匂いが名無しの嘔気を誘う。
「ッ…ぅ、」
顔を顰めて手の甲を口元にやる彼女に、ホルマジオはその原因にすぐに気づいて気まずそうな顔をする。妊婦でなくとも嗅ぎたくはないような香り。匂いに敏感になった名無しにとっては、仄かであっても気分が悪くなるには十分だった。
「あー…悪いな。ちょっと野暮用でよォ…」
とりあえずここは出ようぜ、と言ってホルマジオは名無しの腕を肩に回し、彼女を支えるようにして立ち上がらせた。
ホルマジオに支えられながら、手近なホテルに立ち入る。始まりもこんな風に不可抗力だったっけ。気持ち悪さに酔わせられた頭はどんよりと思考する。
一人掛けのソファに名無しを降ろしたホルマジオは、服を脱ぎながらシャワールームへと向かっていく。その背を目で追い、姿が見えなくなると、名無しはソファにぐったりと身を任せて目を閉じた。
僅かな肌寒さに目を開けた名無しは、寝起きにしてはハッキリした意識だった。寝ていたのかどうかも分からなかったが、あれから1時間も経ってはいないようだ。気持ち悪さはなく、いくらか気分も良い。
「気分はどうだ?」
軋む音に振り返ると、起きたことに気付いたホルマジオがベッドから降り、こちらへ歩み寄っていた。すぐそばを通り抜け、向かいに腰を下ろした彼からはあの匂いもしない。大丈夫、と頷いたのを見て、ホルマジオはしかしよォ…と続けた。
「夜中に一人でうろついて挙句手には酒…妊婦のやることじゃあねえな。だが問題はそこじゃあねえ……止めるやつがいなかったのか、ってのが重要だ」
自分がしたことへの後ろめたさとぶり返す絶望に、名無しはホルマジオから目を逸らし、ソファの上で膝を抱えて身を縮める。口を閉ざしたまま黙りこくる様子に、ホルマジオがふっと薄笑いを浮かべた。
「ああ、言わなくてもいいぜ……オレにはぜーんぶ分かってる。オメーを止めてくれるはずの男が死んじまったんだろ…左の足首だったかァ~…?」
「…え、…なんで」
「なんだよ…意外か?オレだってニュースは見る」
心外だなとホルマジオはわざとらしい悲哀感を出すが、口角は依然緩く上げられたままだ。名無しにはメディアに触れる余裕などなかったが、左足首だけが残されるという奇怪な事件はきっとニュースになっている。
しかしその被害者が彼女の恋人だと知っているのは、家族や友人くらいだろう。恋人はホルマジオとは全く接点がなく、名無しが恋人について話したこともない。それはもう、「察しがいい」なんて言葉じゃ片付けられないものだった。
「顔色が悪いぜ名無し」
「……ホルマジオッ、」
「まあ、身篭ってちゃあしょうがねーか…」
ホルマジオはゆっくり立ち上がり、名無しのところまでゆっくり歩む。近付くその度に何か、先程とは違う気分の悪さが迫る気がした。ずっとあった違和感が、望んでいないのに解かされていくような。
「まさか出来ちまうなんてなあ?ご丁寧にコレまで飲んでたってのによォ~~…」
名無しの前まで来たホルマジオは身を屈めながら、ポケットから徐に拳を取り出す。軽く擡げられたその手は、見せつけるように彼女の顔の前で開かれ、重力に従って何かが落ちる。
ばらばらと床に散らばる小さくて丸い粒。可笑しなことだった。結婚して2人の時間を過ごしてから、子供はゆっくり考えたいね。恋人ともそう話していたから。だからこうして対策していたのに。
「あぁ…安心しろよ。オメーが飲んでたのはただの栄養剤だ……必要だろ?ガキにもオメーにも」
名無しの中に、感じられないはずの胎動がどくどくと自分の鼓動と重なる。ふと腹部に優しく置かれるホルマジオの手。何度も触られた、見知った手が下腹部を覆う。
その手は力なく触れているだけのはずなのに、その下の子宮が掴まれているかのように痛む。今この瞬間も成長を続ける次の枷を想像して、ホルマジオは愉快そうな笑みを浮かべた。
「誰のガキだとしてもオレは構わねえ………なあ名無し。ようやく2人で日の下を歩けるなァ?」
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