流転の眸
名前変換
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「す、すすすみませんッ!」
謝罪を口にした私は、勢いよく上身を倒して、深く深く礼をする。もっと距離が近ければ、開けた胸に頭突きしてしまっていただろう。
…あれ、うちの制服ってそんな派手だったかな。
改造されたであろう制服のインパクトで今、一体自分が何をしているのか忘れそうになる。忘れてしまう前にまた勢いよく身を上げた私は、彼に背を向けて走り出した。
会いたかったんです。
その端正な顔をあまり崩さず、爽やかな笑みで彼はそう言った。でも私は彼のことは知らなくて、パニックになってつい謝って逃げてきてしまった。
このイタリアの学校では日本人の私は異色で、話しかけられること自体珍しく、つい慌ててしまうのも無理はない。仲間外れだとか、そんなことをされているわけではないが、残念ながら未だに友人は出来ていない。だから、黒い瞳に黒い髪を持たない彼のことなんて知らない。
…はずだけど、もしかしたら私が忘れているのかもとイタリアへ来てからのことを思い返すが、やはり思い当たる節はない。金色の髪は街でいくらか見たが関りは全くないし、ましてや彼のような目立つ人を忘れるわけがない。
一体何のことだったの…そこまで考えてハッと気づく。
なるほど、これがイタリアーノか…!
実際には初対面でも、会いたかったと言うことによって知り合いかもしれないと思わせる。実際私は彼のことを考えていた。初めて体験したイタリアーノという人種に、お門違いかもしれないが、私は少しばかり感心していた。
小テストが迫ったある日、私は図書室の奥、小さな自主スペースにいた。予定も特になかった私は転入してから一週間くらい校内を歩き回って、このお一人様スぺースを見つけた。書棚に隠れているそこは、誰も来ないお気に入りの場所だ。きっと知らずに卒業する人も多いんじゃないだろうか。初めて見つけたときは埃っぽかったが、軽く掃除して何度も利用していたら空気の通りも良くなった。
騒がしい学生生活と隔離された空間は、秘密基地のようで落ち着く。穏やかな午後の空気も相まって、テストが迫っていなければお昼寝にしていたところだ。
心地よい空気の中、ペンを走らせる私の視界の端に自然界には無いような色が映る。人目を引くその色にもれなく私も視線を奪われた。
「お久しぶりです」
彼はまたしても爽やかな笑みでそう言った。私が驚いたのは、決して彼が来たからではなく、ここに人が来たことだ。きっと誰であっても驚いていた。私がここを利用してから初めての来訪者だ。といってもここは私のスペースではないのだけれど。
「あ…この間の……あの時はごめんなさい…その、動揺、しちゃって…」
「いえ、気にしてませんよ」
本当に何とも思ってなさそうな装いで、手近にあった腰掛を引き寄せて私の前に座った。その様子に私は安堵する。失礼だったかな、本場の人ならもっとうまく対応するんだろうなと少し気にかかっていた。
「名無しはいつもここに?」
「え…あ、うん…」
どうにか頷く私はどうして名前を知っているのかと放心しかけたが、ふと教科書の署名が目に入り、これかと合点がいく。
よく見てるなあなんて思いながら、そういえば私も知らなかったなと名前を聞いた。すると彼は、一瞬きょとんとした…ように見えたかと思うと、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。
「……ジョルノ・ジョバァーナです。ジョルノでいいですよ」
「あ…ジョルノくん…」
私は頭の中で名前を復唱する。ジョルノ・ジョバァーナ、その名前を私は知っている。いつも囲まれているからその姿を見たことはなかったが、名前だけは聞いたことがある。
彼が噂の…。失礼ながら、彼の容姿を見つめた私はひとりでに納得した。なるほど、女生徒たちが黄色い声を上げる理由が分かる。
「…しないんです?自習」
ペンが止まったままの私にジョルノくんが小首を傾げた。つい、見過ぎてしまった。ぼんやりしていた私は意識を取り戻すと、バタバタと片付けを始めた。
教科書を閉じて、ペンをしまってと慌しく動く手の上に、ジョルノくんの手がそっと触れた。私の手は小さく強張りを持って止まり、目は驚きを持って彼を見つめる。
「なにか用事でも?」
「や…その……ジョルノくん、使うんでしょう…?」
「いえ。そのつもりでは無かったのですが……そうですね、一緒にしましょう」
綺麗に微笑む彼の提案によって、私のペンは間を置かずにケースから顔を出すこととなる。断る理由もない私は、それから少し居心地悪く勉強をした。
ぼくもたまに来ていいですか。解散間際、彼はそう聞いてきたがここは私だけの場所じゃない。判断を下せない私はただただ首を縦に振った。
翌日、いつものように授業を受けていると、ねえと目の前に手が差し出された。その手の先に視線を滑らせると、隣の席の女の子と目が合う。
「ちょっと教科書見せてくれない?忘れちゃって」
「あ…はい」
「ありがと。……ねえ、これ何?」
教科書を一旦受け取った彼女は、訝しげな表情で再び此方を向く。どれだろうと彼女の指さす先を見ると、それは教科書に書かれた私の名前だった。彼女に名前だと伝えると、ふーんと興味はなさそうにして教科書を開いた。
見ない文字が物珍しかったのかな。
そんな事を考えていると、記憶の中に違和感を覚える。
あれ、そういえばジョルノくんは、なんでこれ読めたんだろ…。私はパッと見て分かるから、という理由で見慣れた日本語で名前を書いている。だから彼女も聞いてきたはず。
あの時、どこかに名前を記入した用紙があったのかも。
特段考え込むこともなく、私は授業に戻った。
「名無しは恋人がいるんですか?」
突然の質問だった。
私はジョルノくんと週に1度程、図書室の奥のスペースに自然と集まるようになった。彼は容姿や品性が良いだけでなく、知性も優れていた。不得意な教科も特になく、私が苦手な部分を分かりやすく教えてくれる。何もお返しできないのが申し訳ないが、とてもありがたい。この間の小テストの点数なんて過去最高だ。
そうして今日も小さな机を囲んでいるのだが、彼は何の前触れもなく尋ねた。恋愛話なんて珍しい…ジョルノくんも興味を持つんだ、なんて思いながら首を横に振る。
「ううん…いないけど…」
「じゃあ…気になる人、もしくは好きな人は?」
続けて聞かれたことに、私は小さく声が漏れたきり止まる。
ジョルノくんは、みんな一目惚れするんじゃないかというくらい整っている。しかしそれだけが持て囃される理由じゃないことは、この短い間でも分かる。気遣いもでき、聡明さも持ち合わせた彼は落ち度などない。
しかし、そんな誰もが惹かれるような彼を好きにならないのは、私にはずっとずっと想っている人がいるからだ。好きな人はと聞かれた私は、その子のことを思い出して急に体がぽかぽかしてきてしまう。
「そ、そういうジョルノくんはどうなの?」
「いますよ」
誤魔化すように話をジョルノくんに返す私と違い、彼は一切顔色を変えることなくあっさり答えた。あまりにも自然過ぎて、思わず流してしまいそうになる程に。
そっか、いるんだ。だからあんなに囲まれても相手にしないのかな。きっと告白もお誘いもたくさんされているのに、浮ついた話なんて全く聞かない。私は妙に納得した。それと同時に、私にだけ教えてくれたのかなと勝手に自惚れる。もし他の誰かに伝えていたとしたら、たちまち噂は広がり、彼と関りのなかった私も耳にすることはあったはずだ。
これは、初めて友人と言える人が出来たのでは…。密かに喜びをかみしめる私に、ジョルノくんの追求が始まった。
「どんな人なんです?名無しの好きな人というのは」
「っ…えっと…」
「ここの学校の方ですか?」
「ううん……幼馴染というか、小さい頃よく遊んでた子なんだけど…その、もうずっと会えてなくて…」
「どんなところが好きなんです?」
「…あの、私の話は良いから…ジョルノくんの話聞かせてよ」
私だけ洗いざらい聞かれて言葉にするのは恥ずかしくて、ジョルノくんはと返した。だけどジョルノくんは自分のことについては教えてくれず、ひたすら私が口を割ることとなった。
いつものように2人で集まった今日。私は一人、黙々と自習をしていた。ジョルノくんはというと、始めて十分程ですぐ戻りますと言って、寮に教材を取りにいってしまった。
キリの良いところまで書き終えると一度ペンを置く。背伸びをして、閉め切っていた窓でも開けようと立ち上がった。初めて開けようとしたときは硬く閉まっていて、10分近く格闘してたっけ。今となってはそんな名残もなくスムーズに開けることが出来る。
外は思っていたよりも風が強くて、窓という隔たりをなくしたたくさんの空気が、室内に押し込んできた。
ぺらぺらとページのめくれる音。
あ、と思って振り返った時には遅かった。
机に広げていた二人分の本が、風に吹かれて閉じてしまっていた。さらにペンも転がっていて、今にも落ちそうだ。
落ちる前に、と机の淵からはみ出るペンに手を伸ばしたが、掴めなかった。私に背を見せる彼の教科書に、見慣れた文字でずっと想い重ねていた名前が記されていたから。
「あれ…ない」
私は自分のロッカーを漁っていた。授業で使うノートが見つからないのだ。ロッカーの中身をすべて出してみても見当たらない。せっかくジョルノくんに教えてもらったのに…。
そこでふと、ある場所を思いつく。彼の教科書の背表紙を見たあの日、私は動揺し、慌てていた。忘れてきた可能性は十分にある。見に行かなきゃ、でも…。
あれから二週間ほど経っていて、これまで通りなら週に1回、つまり2回はあの場所に集まっているはずだった。しかし私は一度も足を運んでいない。彼とどんな顔で会えばいいのか分からなくて、どうしても行けなかった。
私は壁にかかっている時計を見上げる。時間はまだある。ジョルノくんと集まるのはいつも放課後だ。だから今なら誰にも会わずに探せる。よし、と意気込んで駆け足で図書室へ向かった。
駆け込んだ奥のスペース、パッと見た机の上は何もない。しゃがみこんで机や椅子の下、書棚の隙間まで覗く。
影になっていてよく見えないと身体を動かそうとしたとき、私は名前を呼びかけられる。その声に急いで立ち上がり、振り返ればジョルノくんが小首をかしげていた。
「どうしたんです?…何か、探し物でも?」
「っジョルノくん……えっと、ノート探してて…」
「ノート……ああ、これですか?」
そう言って彼が掲げたのは紛れもなく私のノートだった。よかった、ジョルノくんが気付いて持っててくれたんだ。ありがとうと手を差し出したが、彼はノートを持った手を体の後ろで組んでしまった。
「その前に…少しだけでいいので話しませんか?聞きたいと言ってましたよね……ぼくの好きな人の話」
私の表情は強張り、目線は思わず彼から外れた。そんなの、私が今一番聞きたくない話だ。聞きたくない、というか覚悟を決めてからじゃなきゃ耐えられない。こんな唐突に聞けない。どよめく私の可否を聞き入れることなく、彼は話し始める。
「あなたと同じで、ぼくとその子も幼馴染なんです。ぼくは元々日本にいて、イタリアへ行くことになってからは会えてないんですが…」
「ぁ、あの…ジョルノくん、」
「家が近くて、よく遊んだんです」
「ね…ジョ、ジョルノ、くん……今度でいいから、」
「ああ、その子の家に泊ったこともありましたね」
「も、もももうい、いいから…」
お願い、言わないで。今まで彼に話したことを思い出して、自分でも分かるほどに顔が熱くなる。
「今でも覚えてるんです。一緒にお風呂に入ったこと」
「ジョルノくん、止まってッ」
そんなの私だって覚えてる。
あの子は首元に特徴があって、私は、それを、
「ぼく、首元に星型の痣があるんです。その子はその痣をキレイと褒めてくれて……今度、名無しにもお見せしましょうか」
「ジョ、…ッ…は、はるのくんっ…!」
ようやく止まってくれたジョルノくんは、ノートを机に置いて私に歩み寄る。窓が昼間の太陽をたっぷり取り込んで、室内を明るく照らす。窓際に立つ私の前に来た彼の髪は、その光を浴びてきらきらと輝く。目を奪うようなそのブロンドに、私は見とれることが出来なかった。あの子と同じ、透き通るような翡翠の瞳に惹きつけられてしまったから。
「…そう呼ばれるの、イタリアに来てからは初めてだ」
彼は垂れ下がる私の手を取る。下を覗き込んだ時に床についた手のひらは、塵や埃が付いている。手を汚してしまうと引っ込めようとするのも、彼は許さないと握った。
「名無し、もっと呼んでください。呼ぶことが出来るのも、呼んでいいのも、あなただけです」
忙しなく視線を動かして、つながる手と彼の顔とを交互に見る私に「ところで」と彼は続ける。
「あなたがずっと好きだという、その子の名前…ぼくに教えてくれませんか?」
そう言って、はるのくんは柔らかくふんわりと笑った。
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