國立少年 ―ナショナルキッド―
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
太陽が高くなってきた時刻。
身体をそわそわさせながらペンを動かしていたナランチャは、書き終えると同時にペンを放り、外へ飛び出す。
そこへ席を外していたフーゴが戻り、飛び出していった事に気付くと、その背に声を投げた。
「ナランチャどこへ行くんです!あなた勉強は終わったんですか!」
「やったやった!テーブルに置いてるから見といてくれよ!」
ナランチャは走りながら振り返り、大きな声で返す。終わったのなら構わないか…何を言っても止まらないだろうし。フーゴは、もう遠い彼にまで聞こえそうなくらいの溜息をついた。
一切止まることなく走り、5分もせずに約束のカフェへ到着する。その勢いのまま強くドアを引くと、ベルがガラガラと大きく鳴る。その音に店内の客の注目を集めたが、ナランチャは気にせず、テラスの席へまっすぐ駆け寄った。
彼女はいつもここだ。
「名無しお待たせ!」
その声に顔を上げた彼女は、ナランチャを見て嬉しそうに笑う。それがうつったようにナランチャも笑う。向かいへ促す彼女に従い、席に着く。店員にオレンジジュースを頼んで名無しに向き直ると、「こんにちは」「元気?」など親しい間柄ではあまりしない、当たり障りのない会話を始める。
「今日は何時に起きた?」
「きょうは、8じに…おきたよ」
「そっか!えーと…今日は何をする予定?」
「きょうは…ほんをかいに、いく」
ナランチャは口をはっきり動かして、普段の言葉遣いではなく、出来るだけ癖のない言葉で話す。名無しはナランチャを見つめ、彼の声に耳を集中させる。そしてひとつひとつ丁寧に単語を口にして、返事をする。
この本場では聞けない、ゆっくりとしたやわらかい発音は新鮮で、ナランチャの耳に心地よく届く。不安げに眉尻を下げる彼女に「伝わっている」と頷くと、安心したように微笑んだ。
ナランチャは名無しにイタリア語を教えていた。事の発端はナランチャが彼女を助けたところからだ。ひったくられた荷物を彼が取り返したのだ。
実を言うとナランチャは助けようと思ったわけではなく、たまたまひったくり犯とぶつかってしまった。その拍子に犯人が荷物を手放し、それを渡しただけなのだが、彼女は瞳を潤ませて感謝した。偶然の出来事だったが、感謝されて悪い気はしない。感謝し続ける名無しにナランチャは得意げに胸を張る。
それから街で見かけると声をかけるようになるのだが、ひとつ問題があった。彼女はイタリア語が話せなかった。挨拶程度の単語を知っている程度で、イタリアへ来てまだ日が浅いのだろう。確かに外見もアジア人らしく、聞けば日本から来たのだという。ナランチャも初めは観光客かと思っていたのだが、どうやらイタリアに住んでいるようだ。
「オレが教えてやるよ!」
それじゃあ生活できないだろ、とナランチャはイタリア語を教えることを提案した。簡単な単語に手振りを加えてそのことを伝えると、名無しは取れそうなほど何度も大きく首を振った。
こうして時間の合う日にイタリア語を教えるようになったのだ。いろいろな話を出来るわけでもなく、彼女がどうしてイタリアへ来たのか、普段何をして過ごしているのかすら分からない。ナランチャは何気ない会話で彼女を知り、自分の中で少しづつ形作られていくのが楽しかった。
絵本を広げてナランチャが一文、声に出して読む。彼女は目で文字を追い、続けて同じ文を読む。どう見ても幼くはない2人が、幼稚園にあるような絵本を広げて音読しているのは少しシュールな光景だ。
「『それからは馬を大切にして、いつまでも仲良く暮らしました。』はい!」
「それからは…うまをたいせつにして、いつまでもなかよく、くらしました」
「『アトリの鐘は、馬にとっても『正しさの鐘』だったのです』はい!」
「あとりのかねは、うまにとっても、ただしさのかねだったのです」
ナランチャのよく通る声は聞き取りやすく、名無しも真似しやすかった。それでも日本語にはない発音に躓いてしまう。そんな時は何度もゆっくりと発音を繰り返すのだが、彼女はその動きを見ようと真剣に口元を見つめる。それがナランチャは恥ずかしく、慣れなかった。
「よし!おーわりっ。名無し!外行こうぜ」
ぱたんと絵本を閉じて立ち上がったナランチャに、名無しは慌てて頷き、立ち上がる。本で勉強したあとは街を散策するのが定番だ。内容は半分も伝わっていないだろうが、街案内もできる。
それに街でもイタリア語を学べた。何か気になるものがあると、名無しは腰に巻いているオレンジの布の端をきゅっと掴み、軽く引くのだ。ナランチャの顔を覗くように首を傾け、目が合うと「あれは?」と指さす。ナランチャが答えると、確かめるように繰り返す。その様子はいじらしく、それを見たいがために街へ連れ出しているのが正直なところだ。
「あれは美容室。アバッキオは腕が良くないって言ってたけど、オレには違いが分かんねぇんだよなァー」
ナランチャが街のいたるところを指さして紹介する。このときには普段の話し方に戻ってしまい、言葉の速度も上がる。きっと名無しには聞き取れていないのだが、彼女は何も言わずにこにこと聞いている。
「あっちの店にはでっけえ犬がいるんだぜ!たまに触りに行くんだけどよ、大人しくてイイ奴なんだ。…あれ、は……」
あちこちに目線を移すナランチャの視界に、よく知るものが映る。先に見えるのは同じチームのジョルノだ。言葉が止まってしまい、名無しが不思議そうにこちらを見る。ナランチャは彼女の腕を取った。
「名無し、こっち!」
驚く彼女の腕を引き、そのまま建物と建物の間まで連れて行く。人ひとり分の幅ほどしかない隙間に名無しを押し込むと、ナランチャは隠すように通りに背を向けて目の前に立った。
咄嗟の行動だった。
ジョルノが目に入った時、見つかりたくないと思ったのだ。
日本語もイタリア語も話せるジョルノが教えたら、きっと今よりスムーズに覚えられる。そうしたら名無しといろんな会話ができる。元々生活ができるようにと始めたのだ。早く覚えられる方がいい。頭では分かっていながらも、いやな気持ちがもやもやと心を覆う。
名無しの事をもっと知りたい。
けど、知るのはオレだけでいい。
「…ナランチャ……?」
小さな呼び声にハッとする。ナランチャは狭いそこで、無意識に名無しを胸に抱きしめていた。見つかりたくないと思えば強くぎゅっと締めてしまったようだ。距離に気付いた途端、顔に熱が集まる。
「ッごめん名無し!大丈夫か?!」
慌てて腕を緩めると、名無しは俯き加減に大丈夫と頷いた。ほんの一瞬だが、頬がほんのり色づいているように見えた。壁に迫られたそこは影になっていて、少しひんやりする。それは熱くなった頬に冷えて気持ち良かった。
しかしナランチャが隠れたのも虚しく、あっさり出会ってしまう。ジョルノと街を回っていたとき、名無しの方から声をかけてきたのだ。その手には本があり、ナランチャから借りたものを返そうとしているようだった。
「Ciao.ナランチャのお知合いですか?」
彼女は驚いたように一瞬、目を見開いた。話しかけられると思っていなかったのか視線が泳ぎ、口をぱくぱくさせ、動揺や焦りが如実に表れている。
「ッ……はい」
「…イタリア語は苦手?」
その様子や間の空いた返答に違和感を持ったジョルノは、その外見からもしかしたらと尋ねた。ナランチャは見つかってしまったことを不満にしつつも、一言で気付くジョルノにさすがだと感心してしまう。
「……はい。さいきん、イタリアにきました」
「どちらからです?」
「にほん、です」
ナランチャが聞き取れたのはそこまでだった。
ジョルノが分からない言葉を発したのだ。名無しの吃驚した顔と、すらすらと会話が進む様子から日本語だと思った。分からない言語で話し始めた2人に、ナランチャは疎外感に包まれる。何を話してるんだろう…いいなぁジョルノは名無しの言いたいことを知れて。
名無しはナランチャの前では黙っていることが多く、元々言葉数が少ないのかと思っていた。だがジョルノと話す彼女を見る限り、そんなことは無さそうだった。
オレにはあんなに話してくれないのに。
いつかのもやもやが再び心を覆う。あの時より厚く、重く。
「なー名無し…ジョルノに教えてもらった方がいんじゃねーの」
ナランチャは不貞腐れたように言う。思ってもない事を言ったわけではない。むしろその方がいいと分かっていながらも嫌で隠していたこと。呟くような台詞は名無しに全て伝わっていない。だが、拾えた単語とその落ちた声色から何を悟ったのか、名無しは不安そうな瞳を向ける。
「どうしてです?」
ぴたりと会話をやめたジョルノが代わりに聞いた。ナランチャはうーんと唸りながら理由を話す。
「だってよォ~…イタリア語は出来ても日本語は分かんねーんだ…どっちも出来るジョルノが教えた方がはえーんじゃねえかなァーって……それに教え方もさァ…」
バサッという音に言葉が止まり、そちらへ目を向けると名無しが抱えていた本が足元に落ちている。彼女はあたふたと目を泳がせてジョルノと二~三言交わすと、ナランチャに向き直った。
「これからもおしえて…ほしい」
名無しはゆっくり噛みしめるように言うと、ダメ?と困ったような顔になって見つめる。ナランチャがうだうだ言っている間にジョルノが彼女に説明したようだ。彼女の願いは今にも飛び上がりそうなほど嬉しいが、ジョルノが教えた方がいいのは本当だしな…と慎重になる。
「でも…オレでいいのかよ…?」
「いいんですよ。そう言ってるんですから…それに、ボクに任されても困ります。ナランチャ、あなたが言い出したんでしょう?」
ジョルノは慎重になるナランチャをあっさり切り返し、足元の本を拾って彼に渡す。ナランチャが本を受け取ると、先に戻ってますよと踵を返していった。
…そうだ。オレが教えるって言ったんだ……それなのに。
自分の無責任さに気付き、途端に申し訳ない気持ちになる。ナランチャは、眉を下げて行く末を見守っていた名無しの手を取ってやさしく握った。
「ごめんな。オレが言い出したのに…ジョルノに教えてもらった方がいいって言って…」
名無しは口をきゅっと結んでナランチャを一心に見つめる。ジョルノと話していた時とは違う、ナランチャが知っている名無しだ。落ち着かせたはずの嬉しさがぶり返し、暗い心が一気に晴れ、口が動き出す。
「オレ、名無しのこと知りたいんだ。最初は生活できればって、おせっかいだった。けど、今は名無しを知りたい……それだと名無しのためじゃなくって、オレのためになっちゃうけど…」
頷かず、瞬きも少なく見つめる名無しに、ナランチャは気付いた。
あぁそっか、名無しは話さないんじゃない。耳を傾けていたんだ。
声を、オレの声を聞こうとしている。
「…名無し、話そーぜ!フーゴに聞いたんだ。どうやったら違う言葉を話せるようになるのかって。そしたら、覚えることも大事だけど、口に出すことが一番大事だって。だから、たくさん話そう」
この言葉のどれが彼女に伝わっているのだろう。彼女はまっすぐ見つめるから分からない。けど今は伝わらなくたっていい。いつか全部伝わるまで何度も言うから。
たくさん教えるから、いつかオレにも教えてくれ。
君の事を、君の言葉で。
1/1ページ