キンランドンス
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私が働くピッツェリアは庶民的な小さい店で、来る客のほとんどが常連だ。接客業を仕事にしているにも拘らず、初対面の人が苦手な私には働きやすい環境だった。初対面が苦手というのも元々の性格だけでなく、私は日本出身であったから。イタリアで住み始めて短いわけではないが、私にはまだまだアウェイな地。もちろん全員が同じ性格ではないが、やはり国によって特色はある。正直日本人の性格の方が私には合っていた。
数か月前に来た彼も初めての客で、もちろん私は緊張した。だが、彼に苦手意識を持ったのはそれだけが理由ではないような気がする。
ちりんとドアが開く合図がした。
習慣づいた私はその音にドアの方を見やる。どうやら来店客のようだ。席を提供しなければならない。来店客に近寄ろうとした私は、その歩みをほんの暫し止めた。
凛としたその人は初めて見る客だった。端正な顔立ちに群青色の瞳が鋭く宿り、おろしたてのようなスーツは鳩尾過ぎまで大胆に開けられている。一本の乱れもなくきっちり結われているブロンドは光に当たって煌いていた。この店に相応しくない、いや、この店が彼に相応しくない。そう思わせるような出で立ちだった。
私はこれまで店に来た客をすべて覚えているわけではない。よくよく聞くと実は二度目の来店だった、なんてこともある。そんな私でもわかる。その人は確実に“初めて”であった。
彼を席に通し、二言三言交わして調理場へ向かう。窯を覗き込んでいた店主に注文を伝えた後、調理場から店内をさっと見渡す。今のところ店内に用務はなさそうだ。先に皿を拭いてしまおう。積まれた皿に手をかけた私の傍にすっと誰かが寄った。気配に横を向くと、店主の奥さんが子供のような笑みで私を見ている。
「どうしたんですか」
私の言葉に奥さんは内緒話をするみたいに身を寄せて、ひそひそと話し出す。
「今の人。かっこいいね」
今の人、というのはあのブロンドの男性だろう。
私は皿を拭く手を止めずにちらりと彼を見て答えた。
「…あぁ…そうですね」
あまり気持ちのこもっていない返答に奥さんの笑みは消え、きょとんとした顔になる。
「名無しちゃんの好みじゃあない?」
「かっこいいとは思いますけど…好みかと言われると…」
確かに彼は人目を引くような整った顔だ。しかし好みというわけではない。かっこいいかどうかとタイプかどうかは違う。むしろその整った顔や装いが私は好みじゃないかもしれない。
好みなら素朴な人です、と言おうとしたが奥さんはもう傍を離れ、ピッツァの仕上げをしている店主に話しかけていた。相変わらず自由な人だ。店主に配膳を頼まれた私は皿を拭く手を止めて、ピッツァを載せたトレイを手に調理場を出た。
「また来てくださったんですね、プロシュートさん」
「オメーに会いにな名無し。食事はついでだ」
彼の第一声に私は苦笑いで誤魔化す。
あの日来たブロンドの彼はプロシュート、というらしい。あれからよく店に来るようになった彼はもはや常連となっていた。それこそ名前も知るほどに。だが常連となった今も私は彼が苦手だった。むしろ会話をするようになり、前にも増して苦手かもしれない。その理由の一つが今の言葉だ。
彼は口説くような甘い言葉をさらっと口にする。イタリアでは普通の事ではあるのだが、私はそれが苦手だった。この店の他の常連は顔見知りや夫婦、親族といった客同士で繋がりがある人がほとんどだ。口説き文句を言う人はいない。店のそんなところも気に入っていた。短く息を吐いて頭を切り替え、いつものように席へ通して注文を受ける。その注文を通すために調理場へ向かおうとすると、プロシュートに待てと引き留められた。
「はい…なんでしょうか」
「名無し、オメーは肉料理と魚料理ならどっちが好きなんだ?」
「…ええっと、そうですね……どっちも好きですが、今は肉の気分…ですかね」
彼と他愛のない会話もするようになった私は、突然の質問に戸惑いつつも答える。
「今は、か。……それなら19時だな。19時に待ち合わせだ」
プロシュートが「ここで」と人差し指でテーブルをとんとん、と叩く。…しちじにまちあわせ?呆気にとられた私は、理解するのに少し時間がかかった。今私は食事に誘われたのだろうか。いや、もはや誘いですらなかった。決定された言葉に私は焦った。
「ッあの、今夜は」
私は断りを入れようとした口を止める。彼と真っ直ぐ目が合ったからだ。彼への苦手意識。この目も理由のひとつだった。刃物を向けられたように息が詰まる、突き刺すような群青色の瞳。綺麗な薔薇には棘があるというが、触らなければ怪我はしない。しかし彼の瞳はこちらが触れなくとも射貫いてくる。抗うことを許さないその瞳がすごく苦手だった。
「今夜は、なんだ?」
「あ…その、なんでもないです……注文、伝えてきます」
「19時だ。遅れんじゃあねーぜ」
「ッはい」
念押すように言い足された台詞に思わず返事してしまう。ひとまずこの場を濁して、調理場で打開策を練ろうと思っていたのに。その瞳から逃げるように調理場へ向かい、店主に注文を伝える私の口の中はカラカラだった。
どうしよう。断れなかった。何故彼が急に私を誘ったのかはもはやどうでもよかった。今からでも断る術はないものかと思案するが、焦りと不安で上手く頭が回らない。そうこうしている間に彼は退店してしまった。直接断る以外に手段がない。どうにも出来なくなった私は、強引に取り決められた予定に絶望した。
翌日、私は自宅で一輪の花をぼんやり眺めていた。プロシュートから昨日貰ったものだ。結局、断れなかった私は食事へ行った。今日だけ、今日だけ乗り切ろうと重い足を動かして。
「今日の記念に」
ともらったこの花も食事をしたリストランテも、そして彼も。すべてが初体験で素敵な夢のような時間だった。そう、本当に素敵で、私は一瞬たりとも気が抜けなかった。
服装は浮かないものをと選んだがプロシュートと並べば見劣り、店内にいた他の客も私が普段関わらないような派手やかな人々だった。私は場違いでしかなかった。せめて恥だけは掻かせないようにしよう。それで精一杯だった。ずっと重圧がかかり、食事の味も会話の内容も何もかもがうろ覚えだ。きりきりとした胃の痛みは今朝目覚めるまで続いていた。本当に夢だったらよかったのに。改めて身に沁みた。
やっぱり私は彼が、彼のいる世界が苦手だ。
そこで電話が鳴り、私の意識は現実に引き戻された。そうだ、もう乗り切ったのだ。昨夜の事を考えるのはやめよう。自分の言動をあまり覚えていないがきっと良くはなかった。彼も誘ったことを後悔しているのではないだろうか。昨夜の余韻を振り切るように勢いよく立ち上がって、電話をとる。
聞こえてきたのは私が最後に会った人の声だった。…どうして電話を?番号、教えたっけ…。先程やめたばかりだというのに、また昨夜の事を思い返す。私が覚えていないだけなのだろうか。
「名無し、……名無し」
プロシュートの呼ぶ声にハッとする。
しまった、考え込んでいて話を聞いていなかった。
「…ッはい!」
「大丈夫かオメー」
「あ…はい、」
「それで、今日の気分は?」
「…え?」
「オメーが決めねえならオレが決めるぜ……昨日は肉だったから今日は魚にするか」
まただ。私の意見なんて聞いていない、意思を抑圧する決定された物言い。断らなきゃ、抵抗しなきゃ、また呑まれてしまう。私はもう彼に会いたくなかった。あの瞳の前に晒されないこの状況はすこし好都合だった。大丈夫、これなら言える。腹を括り、閉じかけている喉を無理やりこじ開ける。
「…ッあの、ごめんなさい…行けません」
「何の予定だ」
「予定とかじゃなくてッ…その…もうお誘いには応じられな、」
「なあ名無しよォ」
「ッ…!」
ぞくりとした。言葉を遮った低い声。それは先程までとは違う、別人のようなドスの効いた声色だった。突然の変貌ぶりに私の理解は追いつかない。違う人と話しているとしか思えない変わりように、体は急激に体温を下げ始める。
「予定もなしに応じられねえって…それって理由があるよな?
ええ?オレが納得できるような理由がよ」
彼の言葉は支配欲に塗れていて、まるで脅しのようだった。怖い。その二文字が脳に浮かび、やがて全身に広がる。断るなんてそんなものじゃない。本能が逃げろと命令する。押し潰されそうな恐怖に全身から冷汗が流れだす。
「っ…あ、合わないんです…住む世界が、違う、というか…」
「…おいおい、まさかそれが理由とは言わねーよなァ?そんなんで納得させられるとテメー…本気で思ってんのか?」
「…あ、……っ」
聞いたことのないプロシュートの声に喉がいっそう絞まる。黙っちゃ駄目だ。嘘でも出まかせでもいい。一度口が閉じればもう二度と開けないだろう。何か言わなきゃいけないのに、四方八方から群青色の瞳が貫いて舌すら動かない。
「どーするよ名無し…他に理由があんなら聞いてやるぜ」
「……い、きます」
ようやく動いた口はそう喋った。
「名無しちゃんがらっと変わったわね!あ、もちろんいい意味よ?」
「…ありがとうございます」
それから彼の執着は日に日に強くなっていく。プロシュートが与える服を着て、プロシュートが与えるものを使う。それに比例するように、私は変わったとよく言われるようなった。それもそうだ。がらりと変わってしまうほどに彼と私は違う。だから尚更わからなかった。何故こんなにも執着するのか。もはや私自身など何処にもいない。ただの着せ替え人形だった。
そして2ヶ月たったある日、私はとうとう店を辞めた。辞めることは前から考えていたが、働きやすい環境を手放せずにいた。だがもうそんな事には構っていられない。彼の誘いを断れない私は、辞めるしか方法がなかった。もうとにかく彼から離れることができればそれで良い。
辞めてからしばらくの間、家には電話が鳴り響いていた。相手が誰かも確認できず、ひたすら止むのを待つ。初めは出掛けることもしなかったが、物は買わなきゃ手に入らない。私は店の周辺を避けるように生活をした。
いつしか電話もならなくなり、以前のように戻りつつある頃。
静かな夜更けにドアベルが響いた。その音に私の心臓は跳ねる。私の家を訪ねる人などほぼいない。それもこんな時間に。珍しい事に少し緊張しながら、音を立てずに扉に近づいた。息を潜めてドアスコープを覗くと、年配の男性が立っている。
…誰だろう。数少ない知り合いにこんな人はいない。隣と間違っていないだろうか。知らない人だったが、こんな夜に年配の方を外に放置することは良心が痛む。私はそっと鍵をまわし、少し扉を開けた。
「あ、あの…何かご用でしょうか…」
私と顔を合わせても男性は何も言わない。
顔を見て違うと気付いてもらえると助かったのに。
「…えっと、間違ってないでしょうか…隣のお宅、とか」
「いいや、このお宅で間違っちゃあいないようだ」
「…え、」
男性の手が伸び、ドアノブにかけていた私の手首を掴む。
「ッ!!」
私は何かを言うより先に異変を感じた。全身を襲う急激な倦怠感。体内の水分が枯渇し、節々が痛み出す。振り切ろうにも上手く力が入らず、私は急変していく自分の身体をただ見つめることしか出来ない。そんな中、男性の声が鼓膜に届く。
「名無し…オメーは住む世界が違うって言ったよなァ……ああ、そうだ。オレらは住む世界がちげえ」
「あ…あぁ、」
ようやく出た声は掠れている。自分の声じゃないようだ。
男性の声も徐々にくぐもっていく。
「パッショーネ。名前ぐらいは知ってんだろ?オメーがいたあの店も世話になってるはずだ」
搾り取られていく生気。そんな私とは正反対に、彼はまるで吸い取った生気を注がれているかのようにみるみる潤っていく。彼が何者なのか理解する頃には、私の手はドアノブから滑り落ちるほどに握力が弱くなっていた。
「ギャングの世界では手荒な方法でも許される。法律なんざ罷り通っちゃいねえ……。住む世界が違うっつーならよォ……オレの世界のやり方でオメーを手に入れるまでだ」
ガクガクとした足の震え。恐怖を感じたときとは違う、筋肉が弱ったようなそれに、やがて立っていられなくなる。もう殆ど彼の手が支えているようなものだった。手離されてしまえば、私は膝から崩れ落ちるだろう。どうして私にここまで執着するのか。考えようにも脳は鈍り、聞こうにも声は出ない。
「逃げた理由は後でたっぷり聞いてやる…納得させられる理由を考えとけよ」
霞む視界の中、群青色の瞳が私を貫いていた。
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