このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

佐々木 令の個人ファイル

「美味しいかい?」
屈託のない黒い瞳で見つめられる。私はたよりなく「ハイ」と答えるしかなかった。頭に困惑を残していたが、この林檎が美味しいのも事実だったから。しかし二口目はつけずに質問を口に出した。
「…あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか…?」
黒髪の修道士は以前ご機嫌な態度で
「それは私の正体を知りたいという意味で?それとも本当に名前を知りたいというだけ?」
などと返してみせた。こちらの意図を透かすような語気にすこし怯んだが「前者です」と私は素直に答えた。「よろしい、ならばついておいで」男はそう言うと薔薇の垣根の迷路を進み始めた。私は一口齧った林檎を持ったまま後を追った。
修道服の背中を追う。レンガ造りの小道を囲む背の高い垣根。男はいつから持っていたか知れぬカンテラで足元を照らしながら歩いていた。カンテラの灯りに羽虫が集り、男はそれを見ては楽しそうに「ふふ、虫も人も明るいのが好きかね」とひとりごちている。奇妙な人だ。そして奇妙な夢を見ている。これは夢なのに妙に実体感があるのは何故だろう。思考は上手く巡らないまま修道士を追う。いつしか両脇の視界を塞いでいた薔薇の垣根は消え、月明かりが一つ大きく揺れている湖のほとりに出た。パシャ、と水面に何かが跳ねる音がした。魚がいるのだろうか。
「ほら、水辺でぼっとしてたら危ないよ。さあ、そこにボートがあるね。ゆっくり乗って」
簡素な木製の船着場。私は相変わらずやり場のない林檎を持ったまま、促されるままにボートへ降りる。修道士服の男も軽い動きでボートに乗り込み、慣れた手つきでオールを操作し始める。薔薇の迷路、百合の花、束で咲くラベンダーやローズマリーのあった庭が視界から遠のき始める。水面を滑るようにボートは湖の真ん中を目指している。森の真ん中の湖であるようだ。ぐるりと見渡すと四方は高い木に囲まれていた。それとなく湖を覗く。水は恐ろしく透明で、水底が透けて見えた。丸い石、小さな銀の魚、所々白い花が揺れていた。楽園のような風景だ、とほんの少しのときめきを覚えた。
「ここが何処かも気になるだろう?」
男は私にそう言った。私は小さく頷いた。ここは夢の中である、現実ではない、そう分かりきっていても気になったのだ。
「ーーさて、場所はここで十分。では話をしようか。私について、ここについて。何から語ろう?」
男は優しい声で問う。私にとってみればそれらの情報に優先順位はなく、全てのことを早急に詳らかにしたかった。でも。まずは。
「あなたについて、お聞きしたいのですが」
緊張で強張った私の声が、静寂の中で異質なもののように感じた。
2/6ページ
スキ