佐々木 令の個人ファイル
真夜中、そしてここは庭だ。咲き誇る紫陽花の鮮やかな誂え、精悍なトリカブト、妖艶な蕾のベラドンナ、おしゃまな水仙、曼珠沙華。ああ、ここまで毒花ばかり。もちろん薔薇も百合もヒャクニチソウも林檎の花も嘘のように咲き誇っている。薄氷の危うさと冷たさを内包した月明かりは足元の青い芝生を照らす。生き生きとしたそれの艶が見える。一歩進む、しゃくっと音を立てて艶は一瞬沈み込む。
私は夢を見ている。ここは夢の庭だ。いつか狂気と殺戮の悪夢を見た時、必死に走って逃げ込んだ場所。喰らい合う殺人者たちにすっかり恐れをなした私が情けなく泣きながら無我夢中で駆け、目の涙が尽き足も動かなくなったとき、目の前に広がっていた庭。涙を拭うような優しい風と共に波の音が聞こえたのは、この庭は湖のほとりに誂えられたものだったからだ。
迷い込んだ庭の広さに怯えながらも、殺人と残酷の映像から逃れることができた安堵に包まれていた。一歩一歩、いつか本で見たイギリスのマナーハウスの庭みたいな、イングリッシュガーデンというのかしら、そんな上品な雰囲気の庭に踏み入る。夢を夢と知っているから、いざとなったら醒めれば良いから、手入れの整然と行き届いた誰かの領域に踏み入ることができる。私の足音が、風が草木を囀らせる音の間の一瞬のしじま、風が止んだ静謐の瞬間を破る。薔薇の垣根の迷路を進む。しばらく行くと噴水を見つけた。私は噴水の淵に腰掛け、体を捩って水面に顔が写り込むようにする。鏡写しの私は汗と涙でぐしゃぐしゃの、疲れ果てた姿をしていた。悪夢からの失踪、たどり着いた誰かの為の楽園の中で見た自分。あまりに醜いものだった。噴水は動き、水が噴出され、鏡になっていた水面は揺れもう私を映さない。ここは無人のイングリッシュ・ガーデンで、誰かの為の夢の庭。ここでは私は無関係を極めた只の侵入者、「自分のための悪夢」からの逃亡者。逃げてはいけないものから逃げた。ああ、このツケはいつ何倍になって帰ってこようものか!!!こんなことならこの夢から醒めたら一生寝たくない。悪夢は恐ろしいものだ。私を内側から蝕む毒。苦くて痛くてつらいもの。逃げられないもの。私は噴水の淵にかけていた腰を上げて、歩くことによって絶望から一時の逃避を図ろうとした、つぎの瞬間だった。
「お食べ、夢の迷子の子」
林檎を差し出された。優しいテノールと共に、黒い修道士服の黒髪の男に。
私の感情は混線し始める。ここには私しかいないと思っていたが違った。おそらく彼はこの庭、この夢の主だ。私は今この人の世界にいる。ああ、私の領域侵犯が明るみになった、うしろめたい、逃げ出したい。そして何故か林檎を差し出された。食えと言われて。これ以上の混乱を避けるにはとりあえず一番片付けやすいものから片付けよう。私はおそるおそる黒髪の修道士の手から林檎を受け取り、ひとまず問題を一つ終わらせた。修道士は満足げに笑った。まだ林檎に口はつけていない。
「ふふふ、その林檎は例年のものに増して甘くてね?私だけでは勿体無くて。誰かに食してもらえるのが嬉しいなあ。どうぞお食べ」
ああ!この人はヤバイぞ、マイペースにも程がある!このままでは私の中で混乱を極めている全てが決着つかずのままだ!林檎を口にする前にやるべきことをしなければ!
私は意を決して口を開く。極めて申し訳なさそうな態度を忘れずに、大袈裟に。
「あの、林檎、ありがたいのですが…その、その前に、私の不法侵入を咎めないのですか?貴方はこの庭の主人でしょう、いわば土地の所有者です。私にもいくつか事情はありましたが貴方の庭に無断で踏み入ったことは事実です。ですのでその……」
ごめんなさい、林檎はお返しします、そして私はここを去ります。そう言おうとした。すると修道士服の男は、
「悪夢から逃げたくて必死に走ってここにたどり着いたのだろうね。よしよし怖かったろ。私は何も怒っていないとも。さ、お食べ。それとも林檎は苦手かい?」
などと飄々と林檎をゴリ押してみせた。こちらの全てが見透かされているようで少し恐ろしくなった。しかし怒っていない、なら、すこし安心した。私はさっから今か今かと楽しそうに私を見てくる修道士の男への気遣いの手前、ではいただいます、と小さく付け加えてから林檎に歯を立てた。しゃり、と小気味良い音とともに甘酸っぱさが乾いていた口内に広がった。
私は夢を見ている。ここは夢の庭だ。いつか狂気と殺戮の悪夢を見た時、必死に走って逃げ込んだ場所。喰らい合う殺人者たちにすっかり恐れをなした私が情けなく泣きながら無我夢中で駆け、目の涙が尽き足も動かなくなったとき、目の前に広がっていた庭。涙を拭うような優しい風と共に波の音が聞こえたのは、この庭は湖のほとりに誂えられたものだったからだ。
迷い込んだ庭の広さに怯えながらも、殺人と残酷の映像から逃れることができた安堵に包まれていた。一歩一歩、いつか本で見たイギリスのマナーハウスの庭みたいな、イングリッシュガーデンというのかしら、そんな上品な雰囲気の庭に踏み入る。夢を夢と知っているから、いざとなったら醒めれば良いから、手入れの整然と行き届いた誰かの領域に踏み入ることができる。私の足音が、風が草木を囀らせる音の間の一瞬のしじま、風が止んだ静謐の瞬間を破る。薔薇の垣根の迷路を進む。しばらく行くと噴水を見つけた。私は噴水の淵に腰掛け、体を捩って水面に顔が写り込むようにする。鏡写しの私は汗と涙でぐしゃぐしゃの、疲れ果てた姿をしていた。悪夢からの失踪、たどり着いた誰かの為の楽園の中で見た自分。あまりに醜いものだった。噴水は動き、水が噴出され、鏡になっていた水面は揺れもう私を映さない。ここは無人のイングリッシュ・ガーデンで、誰かの為の夢の庭。ここでは私は無関係を極めた只の侵入者、「自分のための悪夢」からの逃亡者。逃げてはいけないものから逃げた。ああ、このツケはいつ何倍になって帰ってこようものか!!!こんなことならこの夢から醒めたら一生寝たくない。悪夢は恐ろしいものだ。私を内側から蝕む毒。苦くて痛くてつらいもの。逃げられないもの。私は噴水の淵にかけていた腰を上げて、歩くことによって絶望から一時の逃避を図ろうとした、つぎの瞬間だった。
「お食べ、夢の迷子の子」
林檎を差し出された。優しいテノールと共に、黒い修道士服の黒髪の男に。
私の感情は混線し始める。ここには私しかいないと思っていたが違った。おそらく彼はこの庭、この夢の主だ。私は今この人の世界にいる。ああ、私の領域侵犯が明るみになった、うしろめたい、逃げ出したい。そして何故か林檎を差し出された。食えと言われて。これ以上の混乱を避けるにはとりあえず一番片付けやすいものから片付けよう。私はおそるおそる黒髪の修道士の手から林檎を受け取り、ひとまず問題を一つ終わらせた。修道士は満足げに笑った。まだ林檎に口はつけていない。
「ふふふ、その林檎は例年のものに増して甘くてね?私だけでは勿体無くて。誰かに食してもらえるのが嬉しいなあ。どうぞお食べ」
ああ!この人はヤバイぞ、マイペースにも程がある!このままでは私の中で混乱を極めている全てが決着つかずのままだ!林檎を口にする前にやるべきことをしなければ!
私は意を決して口を開く。極めて申し訳なさそうな態度を忘れずに、大袈裟に。
「あの、林檎、ありがたいのですが…その、その前に、私の不法侵入を咎めないのですか?貴方はこの庭の主人でしょう、いわば土地の所有者です。私にもいくつか事情はありましたが貴方の庭に無断で踏み入ったことは事実です。ですのでその……」
ごめんなさい、林檎はお返しします、そして私はここを去ります。そう言おうとした。すると修道士服の男は、
「悪夢から逃げたくて必死に走ってここにたどり着いたのだろうね。よしよし怖かったろ。私は何も怒っていないとも。さ、お食べ。それとも林檎は苦手かい?」
などと飄々と林檎をゴリ押してみせた。こちらの全てが見透かされているようで少し恐ろしくなった。しかし怒っていない、なら、すこし安心した。私はさっから今か今かと楽しそうに私を見てくる修道士の男への気遣いの手前、ではいただいます、と小さく付け加えてから林檎に歯を立てた。しゃり、と小気味良い音とともに甘酸っぱさが乾いていた口内に広がった。
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