仮面武闘会distortion
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「っぇぅ!!…げほ!げほげほ!!!げえぇ!!か、は、……うぐぅ…」
お手洗いに籠もって早数十分。
嘔吐が止まらない。もうとっくに胃の中身はおよそ全て吐き戻していた。
今は代わりに胃液とか胆汁とか、たぶんそういったものを吐瀉している。散ってしまった汚物の中に、わずかにだが血液すら混ざっているのがわかった。
「ご機嫌麗しゅう、リオン殿」
発作がようやく落ち着き始めたのを見計らったホメロスさまがわざとらしく美しい言葉を使い、ハンサムが勝手につけた恥ずかしいリングネームを呼ぶ。もちろん嫌味以外の何物でもない。
何か言い返さなければならなかったのだけど、先の試合と嘔吐による体力の浪費のせいで、それすらままならなかった。
「苦しいか?あれ以来オレの憑依先はプラチナソードからお前自身となった。身体が馴れず、そうなるのも無理はない」
ぜいぜいと浅い呼吸を必死で整える。身体の内容物をこれでもかと混ぜ合わせた、すえた変な味がする口の中が気持ち悪い。今すぐ口を濯ぎたいが、まだ動けず…そして顰めた顔を、元に戻せないままだった。
「前には、戻せないの」
「それは契約解除ということか」
「そう。力を得られたのは嬉しいけど、こうしんどくちゃ…。もちろんホメロスさま、あなたを助けるという約束は必ず果たすよ」
ふむと腕を組んだ彼は数秒逡巡するが、はじめから結論ありきではあったようだ。
ダメだ、といともあっさりと言う。
「お前の力がオレには必要だ、とは言ってもその未だ未熟な魔力であるのならば意味がない。なれど【その時】はいつ訪れるかわからない。故にオレが一刻も早く、無理矢理にでも成熟させる。その好機がまさにこの契約だったのだ。それをみすみす逃してやれるほど、オレは甘くはない」
立板に流す水のごとく饒舌にホメロスさまは己の手の内を明かす。そしてにやりと腹黒い笑みを浮かべた。
「…ゴリアテの命の代償はいささか高かったようだな?」
反論に窮する。あの選択を私は今および生命を終える瞬間に至るまで、後悔しようとは大袈裟でなく思わない。
確かに現在の体調としては最悪でしかないのだが、あれはまぎれもなく最善の選択でもあったと今でも胸を張って言える。
だってゴリアテさんが一命を取り留めた。
私にとってはそれだけが 正解なのだ。
……しかしそれでも、代償は重かった。
いつかブラックドラゴンと相対した時のことを思い返す。あの命を削って唱えまくった強烈なメラミ。当時ですら死にそうなくらい疲れたけれど、今のように血反吐を吐くほどではなかった。私の体はホメロス様の望みのために、間違いなく悪い方向に向かっている。
「虫がいいことを言いました」
「わかっているではないか。反省ができた褒美に、身体になるべく負担のかからぬ様、考えるくらいはしてやろう」
本気でやる気があるのかないのか。定かにする気は少なくともなさそうなホメロスさまは、戯けて肩を竦める。そんなある種友人にでも飛ばすような気安い態度を取られ、呆ける。なんだかんだでこういう冗談が飛ばしあえてしまえるほどホメロスさまと親しい関係となってしまった事実が、なんとなく嫌だった。
あーあ、とため息を吐く。
「これがつわりとかならなぁ」
もちろんゴリアテさんとの子どもだ。そうであればまだ、いやむしろとても幸せに違いないのに。多少回復した体力でブラシを用意し、汚してしまった床を掃除しながら、そんな夢想をする。
短い愚痴に、受け付けないものを敏感に感じ取ったらしいホメロスさまがとてもイヤな顔をしていた。
「…これだけは言っておくが」
「はい」
「オレとて別に好きでお前に憑いているわけではない。こんなことはさっさと終いにしたいさ」
ともすれば素直じゃない愛情表現のようにも聞こえる言葉は、しかし紛れもなくホメロスさまの本音だ。この方は私を悪く言う時にだけは絶対に嘘を吐かない。
それは今も変わらないんだと思うと、なんだかほっとしてしまう。そうですねと返す自分の声音に、やけにそういうニュアンスが含まれていることに気づいた。
「私も……早くゴリアテさんを安心させたいです」
そしてたった一人の、愛してやまないひとの名前を口にする。ホメロスさまとこんな関係になってしまって随分と彼を不安がらせているのだ。先日の裁判に立ち合った際、表面上は納得している言動を取っていたせいで、見た目には決して出さない。当然のように言動も明るくて優しくて、本当にいつも通りだけれど、それでも時々寂しそうな顔をする。
それに私も気づかないわけがないのだが、心配しないでなどと言って、何の説得力があるだろうか。まんげつ草を生で齧るのより苦い感覚。あるいは今苦しいのは、ゴリアテさんに対して誠実な振る舞いができていない己に対する罰なのかも知れない。
「お前の思想は心底気持ち悪いが、オレとて人間だ。気持ちは汲んでやりたいところだが」
「…心にもないことを言うね」
床を磨いたブラシと、拭きあげた雑巾。たったこれだけをようやっと片づけ、気だるい身体を引きずるように起こす。もう一つ大きなため息を吐く。
「次の対戦相手はハンフリーだそうだな」
頷く。仮面武闘会最強の男。バトルマスターとして、その圧倒的な攻撃力の時点でチャンピオンの名を冠するに相応しいが、それ以上に気迫が違う。彼は、彼自身が育った孤児院の運営費を稼ぐため――子どもたちを守るためという明確な使命のために戦っているそうだ。背負っているものがあるという意味では、かつての勇者様たちに通じるものがあるかも知れない。だからこそあれほどまでに強いのだと思っている。
「一回戦の女どもは魔法主体で相手にならず。二回戦の馬鹿どもは反則で退場。クク、ようやくまともな相手に当たる時がきたか」
「勝てるかな」
「今のお前ならば問題なかろう。少々苦戦するかも知れぬが」
かつて私を逮捕した時から考えられないほど、ホメロスさまは優しく励ました。
「あの頼りなさげなパートナーはともかく、オレが鍛えてやっているではないか。このようなところで負けさせはしないさ」
私にとってパートナーとして大切なのはゴリアテさんだけだ。一途なのが自分のいいところなのだと思っていた。
なのになぜだろう。ホメロスさまの甘言を、気持ち悪いと思いきれなくなっている。
そんな自分が気持ち悪くて、また吐き気が込み上げてきた。
お手洗いに籠もって早数十分。
嘔吐が止まらない。もうとっくに胃の中身はおよそ全て吐き戻していた。
今は代わりに胃液とか胆汁とか、たぶんそういったものを吐瀉している。散ってしまった汚物の中に、わずかにだが血液すら混ざっているのがわかった。
「ご機嫌麗しゅう、リオン殿」
発作がようやく落ち着き始めたのを見計らったホメロスさまがわざとらしく美しい言葉を使い、ハンサムが勝手につけた恥ずかしいリングネームを呼ぶ。もちろん嫌味以外の何物でもない。
何か言い返さなければならなかったのだけど、先の試合と嘔吐による体力の浪費のせいで、それすらままならなかった。
「苦しいか?あれ以来オレの憑依先はプラチナソードからお前自身となった。身体が馴れず、そうなるのも無理はない」
ぜいぜいと浅い呼吸を必死で整える。身体の内容物をこれでもかと混ぜ合わせた、すえた変な味がする口の中が気持ち悪い。今すぐ口を濯ぎたいが、まだ動けず…そして顰めた顔を、元に戻せないままだった。
「前には、戻せないの」
「それは契約解除ということか」
「そう。力を得られたのは嬉しいけど、こうしんどくちゃ…。もちろんホメロスさま、あなたを助けるという約束は必ず果たすよ」
ふむと腕を組んだ彼は数秒逡巡するが、はじめから結論ありきではあったようだ。
ダメだ、といともあっさりと言う。
「お前の力がオレには必要だ、とは言ってもその未だ未熟な魔力であるのならば意味がない。なれど【その時】はいつ訪れるかわからない。故にオレが一刻も早く、無理矢理にでも成熟させる。その好機がまさにこの契約だったのだ。それをみすみす逃してやれるほど、オレは甘くはない」
立板に流す水のごとく饒舌にホメロスさまは己の手の内を明かす。そしてにやりと腹黒い笑みを浮かべた。
「…ゴリアテの命の代償はいささか高かったようだな?」
反論に窮する。あの選択を私は今および生命を終える瞬間に至るまで、後悔しようとは大袈裟でなく思わない。
確かに現在の体調としては最悪でしかないのだが、あれはまぎれもなく最善の選択でもあったと今でも胸を張って言える。
だってゴリアテさんが一命を取り留めた。
私にとってはそれだけが 正解なのだ。
……しかしそれでも、代償は重かった。
いつかブラックドラゴンと相対した時のことを思い返す。あの命を削って唱えまくった強烈なメラミ。当時ですら死にそうなくらい疲れたけれど、今のように血反吐を吐くほどではなかった。私の体はホメロス様の望みのために、間違いなく悪い方向に向かっている。
「虫がいいことを言いました」
「わかっているではないか。反省ができた褒美に、身体になるべく負担のかからぬ様、考えるくらいはしてやろう」
本気でやる気があるのかないのか。定かにする気は少なくともなさそうなホメロスさまは、戯けて肩を竦める。そんなある種友人にでも飛ばすような気安い態度を取られ、呆ける。なんだかんだでこういう冗談が飛ばしあえてしまえるほどホメロスさまと親しい関係となってしまった事実が、なんとなく嫌だった。
あーあ、とため息を吐く。
「これがつわりとかならなぁ」
もちろんゴリアテさんとの子どもだ。そうであればまだ、いやむしろとても幸せに違いないのに。多少回復した体力でブラシを用意し、汚してしまった床を掃除しながら、そんな夢想をする。
短い愚痴に、受け付けないものを敏感に感じ取ったらしいホメロスさまがとてもイヤな顔をしていた。
「…これだけは言っておくが」
「はい」
「オレとて別に好きでお前に憑いているわけではない。こんなことはさっさと終いにしたいさ」
ともすれば素直じゃない愛情表現のようにも聞こえる言葉は、しかし紛れもなくホメロスさまの本音だ。この方は私を悪く言う時にだけは絶対に嘘を吐かない。
それは今も変わらないんだと思うと、なんだかほっとしてしまう。そうですねと返す自分の声音に、やけにそういうニュアンスが含まれていることに気づいた。
「私も……早くゴリアテさんを安心させたいです」
そしてたった一人の、愛してやまないひとの名前を口にする。ホメロスさまとこんな関係になってしまって随分と彼を不安がらせているのだ。先日の裁判に立ち合った際、表面上は納得している言動を取っていたせいで、見た目には決して出さない。当然のように言動も明るくて優しくて、本当にいつも通りだけれど、それでも時々寂しそうな顔をする。
それに私も気づかないわけがないのだが、心配しないでなどと言って、何の説得力があるだろうか。まんげつ草を生で齧るのより苦い感覚。あるいは今苦しいのは、ゴリアテさんに対して誠実な振る舞いができていない己に対する罰なのかも知れない。
「お前の思想は心底気持ち悪いが、オレとて人間だ。気持ちは汲んでやりたいところだが」
「…心にもないことを言うね」
床を磨いたブラシと、拭きあげた雑巾。たったこれだけをようやっと片づけ、気だるい身体を引きずるように起こす。もう一つ大きなため息を吐く。
「次の対戦相手はハンフリーだそうだな」
頷く。仮面武闘会最強の男。バトルマスターとして、その圧倒的な攻撃力の時点でチャンピオンの名を冠するに相応しいが、それ以上に気迫が違う。彼は、彼自身が育った孤児院の運営費を稼ぐため――子どもたちを守るためという明確な使命のために戦っているそうだ。背負っているものがあるという意味では、かつての勇者様たちに通じるものがあるかも知れない。だからこそあれほどまでに強いのだと思っている。
「一回戦の女どもは魔法主体で相手にならず。二回戦の馬鹿どもは反則で退場。クク、ようやくまともな相手に当たる時がきたか」
「勝てるかな」
「今のお前ならば問題なかろう。少々苦戦するかも知れぬが」
かつて私を逮捕した時から考えられないほど、ホメロスさまは優しく励ました。
「あの頼りなさげなパートナーはともかく、オレが鍛えてやっているではないか。このようなところで負けさせはしないさ」
私にとってパートナーとして大切なのはゴリアテさんだけだ。一途なのが自分のいいところなのだと思っていた。
なのになぜだろう。ホメロスさまの甘言を、気持ち悪いと思いきれなくなっている。
そんな自分が気持ち悪くて、また吐き気が込み上げてきた。
