獣たちの宴
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キアリーは解毒の呪文。
ゴリアテさんを蝕む毒の種類は結局わからず終いだったけれど、たった一つの詠唱できれいさっぱり除くことができた。
ベホマは完全回復の呪文。
いかに丈夫だろうと内臓にひどい損傷のあるゴリアテさんが、この呪文なしで生還することはできなかったと思う。
矢を抜いたときは返しのせいで彼を傷つけてしまったが、今はもう傷跡すら残していない。私が治すからには、意地でも残すわけがない。
お陰で本来の必要分より魔力を浪費したが、相手がゴリアテさんであることを差し引いても全く気にならない、私にとってはその程度の微細な量。対価としてはむしろ激安だ。
もちろん眠りの呪文ことラリホーで深く意識を預かった上で行った治療なので、多分必要以上に苦しめてなんかいない……と思う。
こうしてゴリアテさんが死ぬという最悪のシナリオは避けることに成功した。いずれもホメロスさまなしでは唱え得なかった専門外の魔法ばかりだ。
すうすうと今は穏やかな寝息を立てる愛しい人を救うためにその彼を裏切ったのだと思うと、なんともいたたまれない気持ちになった。
私はもはやゴリアテさんを愛していると言って良いのかもわからなくなってきて、彼が目覚めるのも待たず半ば逃げるように偽物のファーリス王子の待つ『鏡の間』へ単身向かう。
当然カミュくんやマヤちゃんには罠だと止められた。しかし元々呼び出されたのは私一人だ、
一人で行くのが筋なんだと強弁して逆に二人をその場に押し留める。
実際、ゴリアテさんをここまでボロボロにした あの男には私が一矢報いないと気がすまなかった。
感情的な単独行動だと責められても致し方ないことまで承知しているが、それを押し通すことができるだけの力は身につけていた。あまり見られたくない、不吉なものであることもまた間違いないけれど。
『できるさ、今のお前ならば』
剣の幽霊とはもはや呼ばない。
剣の悪魔が囁く。近頃のこの男はなんだか妙に優しい。
私の知っているこの人ならば、ゴリアテさんを見殺しにさせるに決まっている。
それを笑って見届けることができるような、性格がある種破綻した男だ。
それがわかっているからこそ思う。妙にらしくない。
いっそ茶化したいが、とはいえ少なくとも今は味方。
意味もなくわざわざ険悪になる必要はないとして、静かに頷くに留める。
『これまでのことはお互い水に流そうじゃないか。故にお前のゴリアテは助けた。これはその証明だ』
足を止める。
およそ石造りのダンジョンに似つかわしくない優男風の美青年が、開けた場所に静かに立っている。
ここがその男の言うところの『鏡の間』だろう。周囲の壁には、カミュくんやマヤちゃんがいつか言っていた古代文字とそっくりな記号がびっしりと刻まれている。
石と一口に言っても、どうやら文字を刻むのが容易なくらい柔らかい材質らしい。経年によって勝手に崩れ、あらゆるところに塵として黄色く積もっていた。
開けた空間にも関わらず、埃っぽく呼吸がややし辛いとすら感じるのは、きっと目に見えないそれらの一部が常に舞っているのが原因だ。
そして部下もつけず一人そこに立つ男の背後には、立派だが何も祀られていない祭壇のようなものがある。そこにも壁と似たような文字がやはり刻まれていた。
それらが読めるわけではもちろんないが、言霊に微かに残った魔力から感じるのは――魔力を封じる類のものだった。
「次は早速、オレの目的のために働いてもらいたい所だが――やはりアレは邪魔だな。エルザ。今のお前にとっては前菜にもならぬが、まずは存分にやるがいい」
ホメロスさまの声はそれで一旦途切れる。目の前の憎い憎い男。偽者のファーリス王子は、にっこりと無害で人好きのする笑みを浮かべる。
「やあ、エルザ。本当に一人で来てくれるなんて思わなかったよ!
それほどまでにあの『ゴリアテさん』が大事なのかい?いいさ、約束だ。彼のことはもちろん助けよう。…だがその代わり」
みなまで言うなとドルモーアでファーリスをぶち抜く。不意打ちのために、詠唱はすでに半ば終えていたというのもあるが、あらくれパンダ戦で使った時とは詠唱の早さが段違いなことにひそかに驚く。
大型の獣の体格ならばこうまでうまくいかないだろうが。ヒトの身体は闇のエネルギーで容易く吹き飛ぶ。
「これが私の答えだ、ケダモノ」
ドルモーアはホメロスさまの攻撃的な魔力が乗って威力を増す。素の威力だけでいえば、同じ呪文を使うロウさんのものと大差がないように思う。
【メガンテ】の時のようなはったりではなく、今度は本物のドルモーアを受け、しかしファーリス王子は倒れない。
端正な顔を怒りに歪め剣を抜くその動作は荒くても、乱れているわけではない。
そして猛然と走り出すその挙動は単調でこそあるが、その代わりいなすことすらできないほどのとんでもないバカ力だ。
避けるしかない。
けれどそれはバフ呪文を唱えられない状況であればの話。
恐れず、前に出る。相手と同じように剣を抜く。以前の御前試合とは違い、ルール無用。相手が王子様だからという忖度の必要も当然ない。駆けながら呪文の詠唱。
お馴染みの口上を滑らかに諳んじる。バイキルトで腕力を増強。瞬間、勢い良く振り下ろされる剣も、これならば受け止められるだろう。
「なんだと…!」
がきんと金属が打ち付けられる音。片手剣のケンカ。初手は引き分け。二合目だろうと三合目だろうと、譲らない。
御前試合の際はこの頃にはすでに打ち負けていたが、今度は一歩も引かない私の様子にファーリスはいよいよ不審がる。一度後ろに退いた王子様を私は追わない。
「どういう…ことだ!?あの時とは、まるで強さが違うじゃないか!」
などとのたまうわけである。笑い出したい気分だった。
「……まさかあの時は手を抜いていたっていうのかい?」
「仕事でしょ?そんな無責任なことはしない」
脳みそが筋肉で完成した上司を思う。
サマディーが生んだ文武両道の寵児、ファーリス王子。彼と試合を組んだと伝えられた時にも、あの方にもついに接待という概念が生まれたのだと感動したものだった。
不本意ながら「魔法戦士ホメロスの再来」と持て囃され、話題性が抜群ではあった私だ。そんな人物がやって来るとなれば、サマディーはさぞかしお祭り騒ぎだったことだろう。
グレイグ様にも、演出という概念が生まれたのだ。
……しかしなぜか今になって急に確信した。絶対それはない。
話題性(ホメロスさまの能力を一応知る身としては実際分不相応だと思う)とか彼にとっては実際どうでもよくて、お互いの実力などを考慮した上で選んだ、ごく機械的な判断の賜でしかなかったのだろう。
それでもデルカダールを出立する際に一つだけ禁じられたことがある。
【全力でやって負けるのは構わないが、魔法は使うな】
デルカダールの戦力として、手の内をあまり見せるなということが恐らく言いたかったのだろうが……確かにそれは今意味を成したようだ。
「私の魔力にあてられてホイホイ寄って来ただろうに、私が魔法が得意って思わなかったの?」
驚くことに、本当に想像すらしていなかったらしい。挑発に一気に余裕を失ったファーリスが、真っ赤な顔でボウガンを構える。
撃ちだされたそれを見てから叩き落とすなんて芸当ができるのは、それこそゴリアテさんクラスの達人だけだ。
「ほざけ!」
ゴリアテさんを撃った相手がこいつかどうかは、悔しいけれど未だにわからない。けれど、今のこれは私にはよくない。
とにかくよくない。
「お前が!」
ホメロスさまの力によって命中精度をあげたメラミが、発射より先にファーリス王子の持つボウガンを撃ち落とす。
すかさず、突進。
「お前のせいでゴリアテさんとケンカする羽目になったんだっ!!!!!」
一瞬のうち、剣が炎に包まれる。
「ぐあ!」
袈裟がけにファーリス王子を斬る。
肉を斬る手応えと、肉が焦げる異臭。そしてやや遅れて鮮血が弾ける。
人をこんな風に斬るのは始めてだ。もう随分と遠い記憶になりつつあるが、かつてゴリアテさんを斬ろうとした時でもここまでは感じなかった殺意を、有りありと自覚する。
「ぐ、ぅう…。エルザ…、エルザっ!!」
会心の一撃の手応えはあった。それで深々と切り裂いたはずだけれど、ファーリス王子は生きていた。というか、大量の出血をしながらもまだまだ元気だった。
先のドルモーアも殺すつもりで撃っていた。それにも関わらず現状に至っている時点で、この男は少なくとも人間ではないと半ば確信していたのだが。
「…ふふ。キミの『ゴリアテさん』への愛情の深さはわかったよ…。生半可な気持ちではどうやらキミの愛を奪えないようだ」
ここにきてファーリス王子は笑い出す。
苦痛を圧しているのだろう、脂汗を大量に流しながらも、いかにも人畜無害な表情がなんとも不気味だった。
「聞いてくれるかい、エルザ」
傷口を押さえていた血塗れの手をおろす。
ぼたぼたと多量の血痕を作るのさえ構わず、ファーリス王子は一度上半身を脱力。それからゆっくりと身を起こす。
「キミが何を思っているにせよ、ボクの方はこれで本気でね」
そう言った次の瞬間、――目の錯覚だろうか。いや、違う。
「…ウソでしょ?」
震える唇が、目の前のできごとが、信じられないと否定を紡ぐ。それをおかしそうに見る彼が、今度はなんとも妖艶に否定した。
「ウソじゃないわ。アタシ、形から入るの得意なの」
赤と白のストライプを基調とした前衛的な衣装。美しい顔立ちに、意外とごつい体つき。
シルビアンヘアーと命名された前髪を後ろに撫でつけた個性的な髪型に至るまで、すべてが紛れもなく彼の姿をしていた。
「…ゴリアテさん!」
だめな私を庇って、凶弾に倒れた彼が、突如目の前に現れた。
その事実に手が震え、思わず剣を落とす。
「ごめんなさい、私…!」
滂沱として涙が溢れてくる。私のせいで、身も心も傷つけてしまった大好きな人。
そんな彼が、在りし日の屈託のない笑顔を向けてくれる。
「いいのよ、アナタも辛かったものね」
一歩、二歩と彼が近づく。優雅なその一つ一つの所作が愛しい。おいあれは偽者だと誰かが喚くが、たぶん気のせいだ。
ふわりと背中に手を回される。優しく抱き締められるその感触も完全にゴリアテさんのものだ。
「エルザ。これからはずっと一緒よ。もう、離さない」
甘ったるい声も言葉も、とてもとても心の底からほしかったもの。…ねだれば多分本物もくれてたんだろうけど、できなかったんだよなぁ。なんてことを思い始めると、すっと熱も引いていく。
「エルザ…?」
「やっすい演技。にわかがゴリアテさんを語るな」
口を開く。
大きく、大きく。
武器を落としたんだもの、しょうがないよね。
なんて申し訳程度の言い訳を頭の中でして、ゴリアテさんの偽者野郎の肩口に思い切り噛み付く。
あがる悲鳴がゴリアテさんの声と瓜ふたつではあったことに更にイラつきを覚える。身を捩って逃げるが、それでも食らいつき続けた。
肉を食い千切るまで離さないつもりですらあった。
「け、獣か、キミは…」
それでもなんとかゴリアテさんという人の形をした魔物は逃げおおせる。噛みつきなんていかにも下品な攻撃、およそ初めてのことだったから、ちょっとでも対処を打たれたらそれでお終いだ。
「そうかもね。…おかげで騙されずに済んだ。お前の臭いはひどいから」
落とした剣を回収し、再び構える。
その際ひたすらにドン引きしているホメロスさまの意思が痛いほど伝わってきたが、無視することにした。
「私が私の妻を……あれ夫かな?まあどっちでもいいや。間違えるわけがない!!」
「言ったそばからもの凄く曖昧なんだけど!?」
わかってないな。どっちでも「イイ」んだってば。理解できないなんてかわいそう。
素っ頓狂な声を上げるゴリアテさんの姿をした魔物に、僅かに憐れみの感情を覚える。
だけど、ふと声と口調はファーリスに近いことに気づく。
さすがにダメージが蓄積してきたのか、キャラを保てなくなっているのかも知れない。
ならばここぞとばかり、更に前に出る。
「そろそろ年貢の納め時かな」
くそ、と魔物は呻く。ゴリアテさんそっくりの容姿のそこかしこから、砂塵のようなモヤが現れる。それはすぐさま増えて、魔物の身体を覆った。
やがてモヤは薄くなり、そこから人――ではなく、ずんぐりむっくりの巨体が現れる。それは巨大な舌が特徴的な、獣のような魔物だった。
「それが正体だったの?」
剣で斬っても魔法を撃っても中々致命傷に至らないのは、茶色い毛皮があまりに分厚いからだろう。
その丸太のように太い腕を見れば、あのバカ力にも納得がいく。そしてひどいにおいに関しては言わずもがな。
「ああ…そうだ」
ファーリス王子のものとも、ゴリアテさんのものともまったく違う太い声。本来のこの魔物のものだろう。感情の起伏を抑えるような語り口で、続けた。
「ボクは【デザートゴースト】。…はるか昔、この辺りで暴れ回った挙げ句、ラーの鏡に封印されたしがない悪魔だ。
先日の地震で少々魔法が弛み、それでめでたく脱出は叶ったんだよ。早速とばかり出た行動はあの時と同じと言えば、察しはつくかな?」
人間に化けて成り代わることを指しているのだろう。特にうたがいもせずに頷く。
「とはいえボクははぐれ者でね。当時はたった独りで、一国を傾かせたものだった。…あの時は姫に化けたんだったか」
過去を懐かしむように独白する。
「目的はあったの」
「ないさ。わかるだろう?ボクたち魔物はそういう風にできている。もっともボクに関して言えば、王族に化ければいい暮らしができるだろうという計算もあったが」
デザートゴーストはそう言ってにやにやと笑いながら続ける。
「それにしても復活してみて驚いた。邪神様が勇者に倒されたとまで聞いたよ。
それほどまでに変わった世の中、ひっそり暮らそうとも多少は思ったが、あたりの魔物たちに担がれてしまってはね。これこそ魔物の本意、これがボクの顛末さ」
得意げに胸を逸らす。
人を騙し、傷つけ、乗っ取り、奪い、そして殺す。それをこいつは誇らしく思っている。
まさに魔物だ。
決して相容れぬ種族を前に、身震いをする。
恐怖もあったが、怒りが強い。
やはりこいつは、倒さなければならない。元よりそのつもりだが。
「…待ってくれ。もう少し話を聞いてくれないか」
「もういいよ、充分だっ」
再び剣を抜き、縮地の要領で接近。
刃を振り上げる。
「変われると思ったんだ!」
その時の悲鳴のような一声に、思わず手が止まった。すでに私に散々に斬られ、血塗れのデザートゴーストの目から涙が溢れている。
魔物が泣くのは初めて見たかもしれない。
同情というより物珍しさが勝りつつある私に、更に熱弁を振るう。
「キミという美しいひとに出会って、ボクは反省したんだ。ボクはこれまでなんてひどいことをしてしまったんだろうって…それで…」
「ごめん!」
半ば叫ぶように遮る。剣を再び振り上げ、そして当初の思惑通り振り下ろす。やはり毛皮のお陰で大した傷には至らなかったデザートゴーストが、今度は本当の恐怖に震えた声でなんでと呟く。
「デザートゴースト。お前の話が嘘か本当かは興味ない。……だって私は、お前を心から恨んで、…憎んでる。正義の味方じゃないから、この気持ちに今更蓋なんかできない!」
私は多分、いや間違いなくゴリアテさんとは違う人種だ。自分の好きな人以外の誰かのために無償の愛を振りまけるほどできた人間ではない。
更に言えば反省さえすれば、今敵対する相手を許せるほど器は大きくない。
ゆえに私はデザートゴーストを許さない。
許せないものは許せないのだ。
ゴリアテさんを蝕む毒の種類は結局わからず終いだったけれど、たった一つの詠唱できれいさっぱり除くことができた。
ベホマは完全回復の呪文。
いかに丈夫だろうと内臓にひどい損傷のあるゴリアテさんが、この呪文なしで生還することはできなかったと思う。
矢を抜いたときは返しのせいで彼を傷つけてしまったが、今はもう傷跡すら残していない。私が治すからには、意地でも残すわけがない。
お陰で本来の必要分より魔力を浪費したが、相手がゴリアテさんであることを差し引いても全く気にならない、私にとってはその程度の微細な量。対価としてはむしろ激安だ。
もちろん眠りの呪文ことラリホーで深く意識を預かった上で行った治療なので、多分必要以上に苦しめてなんかいない……と思う。
こうしてゴリアテさんが死ぬという最悪のシナリオは避けることに成功した。いずれもホメロスさまなしでは唱え得なかった専門外の魔法ばかりだ。
すうすうと今は穏やかな寝息を立てる愛しい人を救うためにその彼を裏切ったのだと思うと、なんともいたたまれない気持ちになった。
私はもはやゴリアテさんを愛していると言って良いのかもわからなくなってきて、彼が目覚めるのも待たず半ば逃げるように偽物のファーリス王子の待つ『鏡の間』へ単身向かう。
当然カミュくんやマヤちゃんには罠だと止められた。しかし元々呼び出されたのは私一人だ、
一人で行くのが筋なんだと強弁して逆に二人をその場に押し留める。
実際、ゴリアテさんをここまでボロボロにした あの男には私が一矢報いないと気がすまなかった。
感情的な単独行動だと責められても致し方ないことまで承知しているが、それを押し通すことができるだけの力は身につけていた。あまり見られたくない、不吉なものであることもまた間違いないけれど。
『できるさ、今のお前ならば』
剣の幽霊とはもはや呼ばない。
剣の悪魔が囁く。近頃のこの男はなんだか妙に優しい。
私の知っているこの人ならば、ゴリアテさんを見殺しにさせるに決まっている。
それを笑って見届けることができるような、性格がある種破綻した男だ。
それがわかっているからこそ思う。妙にらしくない。
いっそ茶化したいが、とはいえ少なくとも今は味方。
意味もなくわざわざ険悪になる必要はないとして、静かに頷くに留める。
『これまでのことはお互い水に流そうじゃないか。故にお前のゴリアテは助けた。これはその証明だ』
足を止める。
およそ石造りのダンジョンに似つかわしくない優男風の美青年が、開けた場所に静かに立っている。
ここがその男の言うところの『鏡の間』だろう。周囲の壁には、カミュくんやマヤちゃんがいつか言っていた古代文字とそっくりな記号がびっしりと刻まれている。
石と一口に言っても、どうやら文字を刻むのが容易なくらい柔らかい材質らしい。経年によって勝手に崩れ、あらゆるところに塵として黄色く積もっていた。
開けた空間にも関わらず、埃っぽく呼吸がややし辛いとすら感じるのは、きっと目に見えないそれらの一部が常に舞っているのが原因だ。
そして部下もつけず一人そこに立つ男の背後には、立派だが何も祀られていない祭壇のようなものがある。そこにも壁と似たような文字がやはり刻まれていた。
それらが読めるわけではもちろんないが、言霊に微かに残った魔力から感じるのは――魔力を封じる類のものだった。
「次は早速、オレの目的のために働いてもらいたい所だが――やはりアレは邪魔だな。エルザ。今のお前にとっては前菜にもならぬが、まずは存分にやるがいい」
ホメロスさまの声はそれで一旦途切れる。目の前の憎い憎い男。偽者のファーリス王子は、にっこりと無害で人好きのする笑みを浮かべる。
「やあ、エルザ。本当に一人で来てくれるなんて思わなかったよ!
それほどまでにあの『ゴリアテさん』が大事なのかい?いいさ、約束だ。彼のことはもちろん助けよう。…だがその代わり」
みなまで言うなとドルモーアでファーリスをぶち抜く。不意打ちのために、詠唱はすでに半ば終えていたというのもあるが、あらくれパンダ戦で使った時とは詠唱の早さが段違いなことにひそかに驚く。
大型の獣の体格ならばこうまでうまくいかないだろうが。ヒトの身体は闇のエネルギーで容易く吹き飛ぶ。
「これが私の答えだ、ケダモノ」
ドルモーアはホメロスさまの攻撃的な魔力が乗って威力を増す。素の威力だけでいえば、同じ呪文を使うロウさんのものと大差がないように思う。
【メガンテ】の時のようなはったりではなく、今度は本物のドルモーアを受け、しかしファーリス王子は倒れない。
端正な顔を怒りに歪め剣を抜くその動作は荒くても、乱れているわけではない。
そして猛然と走り出すその挙動は単調でこそあるが、その代わりいなすことすらできないほどのとんでもないバカ力だ。
避けるしかない。
けれどそれはバフ呪文を唱えられない状況であればの話。
恐れず、前に出る。相手と同じように剣を抜く。以前の御前試合とは違い、ルール無用。相手が王子様だからという忖度の必要も当然ない。駆けながら呪文の詠唱。
お馴染みの口上を滑らかに諳んじる。バイキルトで腕力を増強。瞬間、勢い良く振り下ろされる剣も、これならば受け止められるだろう。
「なんだと…!」
がきんと金属が打ち付けられる音。片手剣のケンカ。初手は引き分け。二合目だろうと三合目だろうと、譲らない。
御前試合の際はこの頃にはすでに打ち負けていたが、今度は一歩も引かない私の様子にファーリスはいよいよ不審がる。一度後ろに退いた王子様を私は追わない。
「どういう…ことだ!?あの時とは、まるで強さが違うじゃないか!」
などとのたまうわけである。笑い出したい気分だった。
「……まさかあの時は手を抜いていたっていうのかい?」
「仕事でしょ?そんな無責任なことはしない」
脳みそが筋肉で完成した上司を思う。
サマディーが生んだ文武両道の寵児、ファーリス王子。彼と試合を組んだと伝えられた時にも、あの方にもついに接待という概念が生まれたのだと感動したものだった。
不本意ながら「魔法戦士ホメロスの再来」と持て囃され、話題性が抜群ではあった私だ。そんな人物がやって来るとなれば、サマディーはさぞかしお祭り騒ぎだったことだろう。
グレイグ様にも、演出という概念が生まれたのだ。
……しかしなぜか今になって急に確信した。絶対それはない。
話題性(ホメロスさまの能力を一応知る身としては実際分不相応だと思う)とか彼にとっては実際どうでもよくて、お互いの実力などを考慮した上で選んだ、ごく機械的な判断の賜でしかなかったのだろう。
それでもデルカダールを出立する際に一つだけ禁じられたことがある。
【全力でやって負けるのは構わないが、魔法は使うな】
デルカダールの戦力として、手の内をあまり見せるなということが恐らく言いたかったのだろうが……確かにそれは今意味を成したようだ。
「私の魔力にあてられてホイホイ寄って来ただろうに、私が魔法が得意って思わなかったの?」
驚くことに、本当に想像すらしていなかったらしい。挑発に一気に余裕を失ったファーリスが、真っ赤な顔でボウガンを構える。
撃ちだされたそれを見てから叩き落とすなんて芸当ができるのは、それこそゴリアテさんクラスの達人だけだ。
「ほざけ!」
ゴリアテさんを撃った相手がこいつかどうかは、悔しいけれど未だにわからない。けれど、今のこれは私にはよくない。
とにかくよくない。
「お前が!」
ホメロスさまの力によって命中精度をあげたメラミが、発射より先にファーリス王子の持つボウガンを撃ち落とす。
すかさず、突進。
「お前のせいでゴリアテさんとケンカする羽目になったんだっ!!!!!」
一瞬のうち、剣が炎に包まれる。
「ぐあ!」
袈裟がけにファーリス王子を斬る。
肉を斬る手応えと、肉が焦げる異臭。そしてやや遅れて鮮血が弾ける。
人をこんな風に斬るのは始めてだ。もう随分と遠い記憶になりつつあるが、かつてゴリアテさんを斬ろうとした時でもここまでは感じなかった殺意を、有りありと自覚する。
「ぐ、ぅう…。エルザ…、エルザっ!!」
会心の一撃の手応えはあった。それで深々と切り裂いたはずだけれど、ファーリス王子は生きていた。というか、大量の出血をしながらもまだまだ元気だった。
先のドルモーアも殺すつもりで撃っていた。それにも関わらず現状に至っている時点で、この男は少なくとも人間ではないと半ば確信していたのだが。
「…ふふ。キミの『ゴリアテさん』への愛情の深さはわかったよ…。生半可な気持ちではどうやらキミの愛を奪えないようだ」
ここにきてファーリス王子は笑い出す。
苦痛を圧しているのだろう、脂汗を大量に流しながらも、いかにも人畜無害な表情がなんとも不気味だった。
「聞いてくれるかい、エルザ」
傷口を押さえていた血塗れの手をおろす。
ぼたぼたと多量の血痕を作るのさえ構わず、ファーリス王子は一度上半身を脱力。それからゆっくりと身を起こす。
「キミが何を思っているにせよ、ボクの方はこれで本気でね」
そう言った次の瞬間、――目の錯覚だろうか。いや、違う。
「…ウソでしょ?」
震える唇が、目の前のできごとが、信じられないと否定を紡ぐ。それをおかしそうに見る彼が、今度はなんとも妖艶に否定した。
「ウソじゃないわ。アタシ、形から入るの得意なの」
赤と白のストライプを基調とした前衛的な衣装。美しい顔立ちに、意外とごつい体つき。
シルビアンヘアーと命名された前髪を後ろに撫でつけた個性的な髪型に至るまで、すべてが紛れもなく彼の姿をしていた。
「…ゴリアテさん!」
だめな私を庇って、凶弾に倒れた彼が、突如目の前に現れた。
その事実に手が震え、思わず剣を落とす。
「ごめんなさい、私…!」
滂沱として涙が溢れてくる。私のせいで、身も心も傷つけてしまった大好きな人。
そんな彼が、在りし日の屈託のない笑顔を向けてくれる。
「いいのよ、アナタも辛かったものね」
一歩、二歩と彼が近づく。優雅なその一つ一つの所作が愛しい。おいあれは偽者だと誰かが喚くが、たぶん気のせいだ。
ふわりと背中に手を回される。優しく抱き締められるその感触も完全にゴリアテさんのものだ。
「エルザ。これからはずっと一緒よ。もう、離さない」
甘ったるい声も言葉も、とてもとても心の底からほしかったもの。…ねだれば多分本物もくれてたんだろうけど、できなかったんだよなぁ。なんてことを思い始めると、すっと熱も引いていく。
「エルザ…?」
「やっすい演技。にわかがゴリアテさんを語るな」
口を開く。
大きく、大きく。
武器を落としたんだもの、しょうがないよね。
なんて申し訳程度の言い訳を頭の中でして、ゴリアテさんの偽者野郎の肩口に思い切り噛み付く。
あがる悲鳴がゴリアテさんの声と瓜ふたつではあったことに更にイラつきを覚える。身を捩って逃げるが、それでも食らいつき続けた。
肉を食い千切るまで離さないつもりですらあった。
「け、獣か、キミは…」
それでもなんとかゴリアテさんという人の形をした魔物は逃げおおせる。噛みつきなんていかにも下品な攻撃、およそ初めてのことだったから、ちょっとでも対処を打たれたらそれでお終いだ。
「そうかもね。…おかげで騙されずに済んだ。お前の臭いはひどいから」
落とした剣を回収し、再び構える。
その際ひたすらにドン引きしているホメロスさまの意思が痛いほど伝わってきたが、無視することにした。
「私が私の妻を……あれ夫かな?まあどっちでもいいや。間違えるわけがない!!」
「言ったそばからもの凄く曖昧なんだけど!?」
わかってないな。どっちでも「イイ」んだってば。理解できないなんてかわいそう。
素っ頓狂な声を上げるゴリアテさんの姿をした魔物に、僅かに憐れみの感情を覚える。
だけど、ふと声と口調はファーリスに近いことに気づく。
さすがにダメージが蓄積してきたのか、キャラを保てなくなっているのかも知れない。
ならばここぞとばかり、更に前に出る。
「そろそろ年貢の納め時かな」
くそ、と魔物は呻く。ゴリアテさんそっくりの容姿のそこかしこから、砂塵のようなモヤが現れる。それはすぐさま増えて、魔物の身体を覆った。
やがてモヤは薄くなり、そこから人――ではなく、ずんぐりむっくりの巨体が現れる。それは巨大な舌が特徴的な、獣のような魔物だった。
「それが正体だったの?」
剣で斬っても魔法を撃っても中々致命傷に至らないのは、茶色い毛皮があまりに分厚いからだろう。
その丸太のように太い腕を見れば、あのバカ力にも納得がいく。そしてひどいにおいに関しては言わずもがな。
「ああ…そうだ」
ファーリス王子のものとも、ゴリアテさんのものともまったく違う太い声。本来のこの魔物のものだろう。感情の起伏を抑えるような語り口で、続けた。
「ボクは【デザートゴースト】。…はるか昔、この辺りで暴れ回った挙げ句、ラーの鏡に封印されたしがない悪魔だ。
先日の地震で少々魔法が弛み、それでめでたく脱出は叶ったんだよ。早速とばかり出た行動はあの時と同じと言えば、察しはつくかな?」
人間に化けて成り代わることを指しているのだろう。特にうたがいもせずに頷く。
「とはいえボクははぐれ者でね。当時はたった独りで、一国を傾かせたものだった。…あの時は姫に化けたんだったか」
過去を懐かしむように独白する。
「目的はあったの」
「ないさ。わかるだろう?ボクたち魔物はそういう風にできている。もっともボクに関して言えば、王族に化ければいい暮らしができるだろうという計算もあったが」
デザートゴーストはそう言ってにやにやと笑いながら続ける。
「それにしても復活してみて驚いた。邪神様が勇者に倒されたとまで聞いたよ。
それほどまでに変わった世の中、ひっそり暮らそうとも多少は思ったが、あたりの魔物たちに担がれてしまってはね。これこそ魔物の本意、これがボクの顛末さ」
得意げに胸を逸らす。
人を騙し、傷つけ、乗っ取り、奪い、そして殺す。それをこいつは誇らしく思っている。
まさに魔物だ。
決して相容れぬ種族を前に、身震いをする。
恐怖もあったが、怒りが強い。
やはりこいつは、倒さなければならない。元よりそのつもりだが。
「…待ってくれ。もう少し話を聞いてくれないか」
「もういいよ、充分だっ」
再び剣を抜き、縮地の要領で接近。
刃を振り上げる。
「変われると思ったんだ!」
その時の悲鳴のような一声に、思わず手が止まった。すでに私に散々に斬られ、血塗れのデザートゴーストの目から涙が溢れている。
魔物が泣くのは初めて見たかもしれない。
同情というより物珍しさが勝りつつある私に、更に熱弁を振るう。
「キミという美しいひとに出会って、ボクは反省したんだ。ボクはこれまでなんてひどいことをしてしまったんだろうって…それで…」
「ごめん!」
半ば叫ぶように遮る。剣を再び振り上げ、そして当初の思惑通り振り下ろす。やはり毛皮のお陰で大した傷には至らなかったデザートゴーストが、今度は本当の恐怖に震えた声でなんでと呟く。
「デザートゴースト。お前の話が嘘か本当かは興味ない。……だって私は、お前を心から恨んで、…憎んでる。正義の味方じゃないから、この気持ちに今更蓋なんかできない!」
私は多分、いや間違いなくゴリアテさんとは違う人種だ。自分の好きな人以外の誰かのために無償の愛を振りまけるほどできた人間ではない。
更に言えば反省さえすれば、今敵対する相手を許せるほど器は大きくない。
ゆえに私はデザートゴーストを許さない。
許せないものは許せないのだ。